志布志城(内城)を訪ねて(志布志市田屋敷ほか)
志布志の田ノ浦山宮神社のダゴ祭りを見物した帰り道、5年前に国の史跡に昇格した「志布志城・内城」に上がってみた。
志布志小学校の場所が藩政時代の地頭屋敷、すなわち御仮屋が置かれていた所だが、その真裏の小高い丘の上が旧跡・志布志城である。
平山氏庭園や天水氏庭園のある市道を北へ行くとすぐに「志布志小学校通用口」という看板があるから右折する。かなり狭い道になり、20㍍ほどで通用口の駐車場に出る。学校が休みの土日なら、ここに車を置かせてもらうことになる。
シラスの小山が壁になった細い道を歩くこと50メートル。もう本丸への登り口だ。
白い標柱の所を右手に上がって行く。
狭い空堀の中を登って行く。
まずは左手の道をとる。しばらく行くと巨大な空堀となる。幅は5,6メートルはあろう。軽車両ならすれ違える広さだ。
内城の中には6か所の曲輪(くるわ=廓)があり、各曲輪の間はすべて空堀で仕切られており、見事な築城設計であることが分かる。
空堀や曲輪への細道のどれ一つとしてコンクリートなどで固められたり改変されていないということで、この内城は国の史跡として認定されることになったのである。
築城のはっきりした年代は不明だが、南北朝時代にすでに楡井氏の拠る城として文献に出てくるので、少なくとも春秋650年は経っていることになる。
大隅半島で国史跡となっている城址としてもう一つ、肝付氏の居城だった「高山本城」があるが、ここも同じ南北朝時代にさかのぼれる由緒を持ち、歴史の古さと重要拠点であったことでは甲乙を付けがたい。
本丸に到着。広さ一反(300坪)以上はありそうだ。その一角には「三宝荒神」が祭られていた。
本丸からいったん入り口まで下り、ほんの少し駐車場のほうに戻ると「矢倉場入り口」という標柱があるのでそこを登ると右手に広場があり、回り込んだ場所に墓塔がある。
新納時久の墓である。新納時久は島津氏第4代忠宗の四男で、建武の初め、日向国の新納院(現在の木城町)地頭職を補任され、姓を新納と改めている。
南北朝時代に抗争した畠山直顕と楡井頼仲のうち、楡井氏が勝利を収めてこの志布志城に入ったあと、今度は大隅の土豪たる根占氏などとの争いとなり、楡井氏は頼仲・頼重の兄弟ともに死亡し、志布志城は島津氏一族・新納時久の居城となった。
新納氏の領有は天文18年(1549)ころまで7代160年ほど続いたが、肝付氏16代兼続によって攻略された。しかし肝付氏の天下も25年ほどで終わり、再び島津氏の所領に帰した。その後、地頭を置いて居城させたが、慶長20年(元和元年=1615年)の一国一城令により廃城となった。
新納時久の墓のある矢倉場のすぐ下は志布志小学校で、その向こうに小雨に霞む志布志湾沿いの町の中心地が見える。天気が良ければ「志布志千軒」と言われ、交易船の輻輳した港町志布志への大動脈・太平洋が望まれたはずである。
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