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甥からの贈呈本『寺山修司研究・5』

2週間ほど前に、神奈川県小田原市で医師をやっている甥から本らしきものが送られてきた。

 何か書いたのかな、専門書でなければいいが、と思いながら封を開けたところ、意外な本が出てきた。001『寺山修司研究・5』(国際寺山修司研究学会編・文化書房博文社刊・2012.3.1発行)という本で、あの高名な演劇演出家を対象とした研究書である。

 演劇に関心を持たなかった自分でも、学生時代から寺山修司の劇団「天井桟敷」のことはよく目にし、耳にもしたし、寺山修司が青森県出身であることまでは知っていた。

 それにしてもこういう研究団体(学会)があるとは寡聞にして知らなかった。しかし今回、執筆投稿している甥が贈ってくれたので知ることになった。

 甥が書いているのはエッセイ風のもので、学生時代に寺山修司の演出した演劇を見たことで強く惹きつけられ、以後は折に見ては寺山作品を鑑賞し、さらには遠く出身地の青森まで記念館などを訪ねていることなどを前置きにしている。

 私など作品の良さなど本質的なことは分からないが、甥が文中に引用した寺山修司の詩「種子(たね)」を解釈した中で、こう書いているのには共感した。

―東日本大震災のニュース映像を目にするたびに、この詩にある「荒れはてた土地にでも」や「花の咲かない故郷の渚にでも」、「流れる水のなかにでも」という部分を思い出さずにはいられないのである。なぜなら、空襲後の焼け野原と大津波後の何も無くなってしまった風景が交錯してしまうからである。・・・・・(同書・59ページ)
 

 太平洋戦争時に米軍の人口密集地への無差別爆弾(焼夷弾)攻撃によって焼き払われた多くの日本の都市の無残な姿と、今度の大津波によって壊滅した三陸沿岸の町の姿が重なってしょうがなかったが、甥もそう感じたらしい。大いに共感する。

 日本は廃墟の中から立ち上がり、戦後復興どころかさらにその上を行く経済の繁栄を謳歌してきた。今度の大震災からの復興もつつがなく行われるに違いない。希望があるなら明日もあるに違いない。

 ちなみに、甥の引用した寺山修司の「種子(たね)」の全文を掲げる。

      種子(たね)

 きみは

 荒れはてた土地にでも

 種子をまくことができるか?

 きみは

 花の咲かない故郷の渚にでも

 種子をまくことができるか?

 きみは

 流れる水のなかにでも

 種子をまくことができるか?

 たとえ

 世界の終わりが明日だとしても

 種子をまくことができるか?

 恋人よ

 種子はわが愛

 

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ついに撮った!猫パンチ

今日は台風一過のような上天気。

 昼過ぎ、NHKののど自慢を見終えてくつろいでいると、窓の向こうのウメの小屋に近づくモモの姿が見えた。

 いつものように小屋の後ろの庭石に上がり、ウメをからかうように猫パンチを喰らわすかと思いきや、何とウメの側に来て鼻先を近づける。ウメも鼻先を近づける。と、・・・急に体をくねらせたかと思うと、でんぐり返しをしたではないか!003ええっ!ウメもびっくりして首をかしげた。

 ウメが恐る恐る近づいて鼻面を突きつける。004クンクン―とウメはモモの毛並みの中へ鼻を入れた。007すると、猫パンチ!!アッパーカットだ。ウメは素早くよけたが・・・。009後ずさりして、モモの出方を見守るウメ。

 モモはそのまま動こうとしない。どんなもんだ―と思っているのか。010同じ姿勢を続けるモモに業を煮やしたのか、今度はウメが!!―危ないぞ、モモ!

 このあと、どうなったかって?

 危うし、モモ!―と思って見ていたら、ウメはモモの手にハイタッチ。

 モモはそのあと、すぐ身を翻して立ち去ったのであった。

 ウメはやはりモモを姉さんと思って(刷り込まれて)いるようである。













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外来種の植物たち(庭で)

昨日から今日にかけて発達した低気圧に伴う前線が西から東へ足早に移動して行った。

 おかげで強風が吹き荒れ、大陸から初の黄砂を運んで来たらしい。

 庭の西側境界に3本咲いていた乙女椿も完全に花を落とし、グリーンの葉っぱだけになってしまった。002_2しかし地際を見ると、いつの間にか植えてもいない植物が生えているのに気づいた。005 ただ一本だけだが、これはユズリハだろう。ユズリハは正月の縁起物の植物で、代を譲る(親から子へ)という語呂合わせだが、照葉樹の一種で冬でも青々してすんなりとした葉の形はすがすがしい。茎の赤いのもめでたい徴なのかもしれない。004八つ手も2本生えている。003ヤブコウジに至っては数えきれないほど芽を出している。

 どれも乙女椿の蜜を吸いに来る鳥たちの落とした糞から発芽したものだろう。ユズリハとヤブコウジの種子は赤く、八つ手の実は黒いという違いはあるが、ヒヨドリやツグミなどがよく食べている実だからに違いない。

 ヤブコウジはこのままにしておくが、ユズリハと八つ手はどこか広い場所に移植しなければならないだろう。










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高原・小林・えびの歴史探訪

18日の日曜日、おおすみ歴史講座の歴史探訪を開催。行く先はこの一年で学んだ日向国諸縣郡内の高原郷・小林郷・飯野郷で、すべて旧薩摩藩に属し、現在の地名ではそれぞれ高原町・小林市・えびの市である。

 鹿屋の北田公園駐車場を7時に出発、途中、大隅町(曽於市)の「弥五郎伝説の里」で二組の夫婦と合流し、都合10名、3台の車に分乗して出かけた。

 最初に訪れたのは「今町一里塚址」(都城市今町)でこれは国道269号線の脇にあるので分かり易く、誰もがこれまでに通過するだけでじっくり見たことがないという史跡。国指定の一里塚址では九州でただ一つというレアものだ。001 昭和10年には指定されている。ここは鹿児島城下から33番目の一里塚で33里約132キロの地点ということになる。手前右上から張り出した枝は、一里塚には必ず植えられたという榎。

 江戸幕府が命じて諸国主要街道一里ごとに設置されたが、残っているものはほとんどない。肝心の幕府お膝元である東京でさえ今は2ヵ所しか残っていない。

 次は「薩摩迫(さつまざこ)」で、都城市庄内町にある都城島津氏初代・資忠が最初に入部して館を造った場所である。

 今町からは五十(いそ)町の自衛隊前を通過して北西に進む。二本の川を渡るが、二本目の横市川を渡るとすぐに庄内小学校で、ここを左手に回り込むと安永城址がある。見物の予定には入っていなかったが低い丘なので上ってみる。002_2 この頃、雨が本降りになりだしたが、足元はそう悪くない。

 ここは二代目の義久が都之城(現在の都城歴史資料館)を築いたあと、六代目の敏久が薩摩迫の館を廃し、ここに城を築いて庄内北郷の守りの要とした。

 次はいよいよ薩摩迫。安永城址からはひと丘越えた小田川沿いにある。近隣は谷間の集落だが、山は深くはない。005 つい一か月前の二月に標柱と案内看板が立てられたようだ。我々が探訪に来るのを知っていたのか? と喜ぶ。

 ところが上にあがってみたものの、何の標識もなく、ただ栗林と竹藪があるのみ。これにはがっかりした。看板倒れとはこのこと。だが、案内板と駐車場が整備されただけでも遠来者にはありがたい。

 次は御池へ。県道<御池・都城線>で、途中、去年の新燃岳大噴火では住民が避難したという夏尾町を通過し、15分ほどで御池の展望駐車場に到着。雨は小降りになっていたが、あいにく霧が深くてほとんど見えなかった。御池(直径1キロ)は4200年前の噴火でできたカルデラ湖。指宿の池田湖(直径4キロ)とほぼ同じ時代、同じ成因ということになる。

 時間があったので予定にはなかったが、池の北側の山腹にある「霧島東神社」(高原町)へ。かなりの登り勾配を10分。立派な社殿に到着。ここには性空上人の開いた「錫杖院(しゃくじょういん)」があり、天台密教の聖地でもあった。007 神仏習合的な立派な社務所玄関口で。(社務所横では護摩木を求める参詣者が多く、彼岸の法要に使うらしかった。)011 社殿の玲瓏は思いがけないものだった。境内にチリひとつなく、清浄なのが印象的な神社である。

 次は「狭野神社」(高原町)。祭神は神武天皇(幼名が狭野尊)ここはこれから巡る飯野城・加久藤城の戦国城主・島津義弘ゆかりの神社でもある。013 文禄・慶長の役の際に戦勝を祈願した神社で、凱旋後に種々の寄進があった。後ろに聳える杉(狭野杉)はその頃の植栽で、樹齢400年余り、高さは何と60mを超えているというから驚く。

 神社の西300mほどに「皇子原公園」があるが、そこは神武天皇こと狭野尊が皇子時代を過ごしたとされる。もし本当にここなら、<神武東征とは、去年の新燃岳噴火のような災害から逃れるために決行した移住>ということになろう。(ただし、旧高山町の肝属川畔の宮下にも皇子時代の伝承があり、こちらは船団での東征出航の真実味があるが・・・)

 高原町から小林市の小林城(三ツ山城)址へ。

 小林の中心を貫く国道221号線を本町で右折、1キロほど北上すると大手橋信号でここを右折し、道なりに行くと丘を目の前にまっすぐ通じる細い道がある。民家への通路のように見えてしまうが、そのまま50㍍ほど登ると駐車広場に出る。

 広場の手前に人ひとりが通れるくらいの細道が丘の上に通じている。途中、大手門跡への道を分け100㍍くらいで丘の上の平らな部分に出る。ここが本丸跡。瓢箪のような形をしていて、杉木立と唐竹の藪が広がっている。015 眺望はよく、ここが真幸院の要の城だったのも頷ける。歴史は非常に古く、1160年に真幸院の院司になった日下部重貞の築城という。その後、南北朝時代の1345年、肝付一族の北原氏が鹿屋市串良からここへ移封となり、真幸院を治めた。しかし、永禄年間(1560年代)に伊東氏に奪われ、10年後には島津氏が伊東氏を駆逐してここを領有した。

 北原氏は永禄7年(1564)に島津義弘の命で、ここから伊集院神殿村へ改易された。

 小林市内で昼食をとり、次の目的地えびのに向かう。

 まずは飯野城へ。

 えびの市街地に入り、飯野中学校入り口という信号を右折し、川内川を渡ったらすぐ左手の田んぼへの道を行く。右折して200㍍ほどで城の麓の駐車場に着く。

 飯野城は島津17代・義弘の居城であり、日向の雄・伊東氏と人吉の相良氏に対する威圧の拠点であった。016本丸跡に建つ記念碑と説明板。石碑には「亀城(きじょう)址」とある。

 物見櫓(やぐら)があったという高台は一本の中ぶりのクスが立ち、そこからの眺めが良い。020あいにくの天気でおそらくは向うに屏風のように見えるであろう霧島連山は望まれなかったが、えびの市街地は一望のもとだ。

 次に訪れる場所は「木崎原古戦場跡」(えびの市池島)だが、その前に「えびの・歴史民俗資料館」(無料)を見学した。

 館内のビデオ放映で木崎原合戦の状況を詳しく説明していたので、みんな食い入るように見つめていた。

 20分ほど見学したのち木崎原に向かう。文化センター入り口信号から国道をそのまま突っ切り、JR・吉都線線路踏切を渡ると左手に古戦場跡がある。印象的なのは巨大な根曲がり杉の一群だ。中には「六地蔵塔」が立っている。戦死者の供養のためだという。027 杉は200年は経つだろうか、すべて根元から曲がって立っており枝分かれもすさまじい。まっすぐすっくと立つ杉とは似ても似つかぬ異様な姿だ。戦死者の怨念だろうか・・・。028伊東軍と島津軍、合わせて900名程の戦死者が出たが、伊東方のは伊東一族の将校クラスの武士が120名討ち死にしている。広い戦域に打ち捨てられた遺体は夏にもかかわらず収容するのに死後4ヶ月もかかったというから酷い状況だったのだろう。化けて出たかったのかもしれない。

 最後は「加久藤城址」(えびの市小田)だ。

 文化センター信号から「えびのインター入り口」方面に走り、信号二つ目の松原交差点を過ぎると同時くらいに右手へ道があるから右折していく。(えびの外科医院の大きな看板あり)

 突き当たるから右折して丘を回り込むと坂道になり、じきに最奥部の人家下に着く。ここに車を置かせてもらい、左手を戻るように山道を上がって行く。やや平らになると畑地帯になり、「加久藤城跡」の標柱が立つ。031 本丸のすぐ下には説明看板が立つ。

 木崎原合戦の直前、実は小林城の伊東軍はこの加久藤城を攻略しようと夜陰に紛れて襲来した。しかし伊東軍に入り込んでいた隠密の策動により城への取り掛かり口を誤り、散々な目にあった。元亀3年(1572)の旧暦5月3日の夜のことである。

 加久藤城には義弘の正室と守兵がわずか50名しかいなかったというから、伊東軍の侵入をうけたらひとたまりもなかっただろう。ここは島津義弘の智謀が勝っていた。

 このあと動揺した伊東方はそこここで島津の伏兵などと戦いつつ次第に戦力を失い、木崎原では義弘との一騎打ちで伊東祐信が打ち取られ、小林城へ退却を始めた総大将・伊東祐安も戦死するなどして、息の根を止められたのである。日向の雄・伊東氏の崩壊を招いた最後の戦いであった。

 伊東氏の領主・伊東義祐はこのあと日向を離れ、四国伊予などを経て大阪まで行ったが帰りに山口で死んだと伝えられる。

 帰路はえびのインターから自動車道を加治木に出た。島津義弘の終焉の地が加治木だったからである。

 加治木では戦国期から江戸初期にかけて薩摩儒学の泰斗であった「南浦文之(なんぽぶんし)の墓」(国指定)のある安国寺(臨済宗)と義弘が築いた「加治木館(やかた)」(加治木町御仮屋町・現在は加治木高校)を駆け足で見て回った。

 鹿屋への帰着は19時過ぎ。車を提供し、運転までしてくれたF氏には感謝!!お疲れさま。

 

 

 

 








 






 

 














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猫パンチ撮影ならず

 モモは庭に散歩に行き、遊び飽きるとウメの小舎の上に乗って今度はウメとのスキンシップ(?)をはかろうとすることがある。退屈しのぎなのかもしれないが。

 その時の様子はいつも決まっている。

・・・ウメが気付き、小屋から出て尻尾を大きく振りながら屋根に前足をかけ、モモに鼻面を近づけようとする。

 するとモモは少し驚いたように後ろにのけぞる。そして気を取り直してから今度は猫パンチをウメの鼻面にお見舞いする。たいていの場合右手を使う。猫にも利き手があるのだろう。パンチはほとんどウメに避けられてしまうが、2度か3度はやっている。・・・

 今朝、居間の窓からそんな光景が見られたので急いでデジカメを取りに行き、ガラス越しにまず撮影したが、タイミングが合わず失敗。001 なんだもう行っちゃうの―とウメ。

 それでは、と急ぎ現場に駆けつける。

 屋根から降りて畑にいたモモを捕まえて、無理やり屋根にのせてみる。

 ウメがまた前足を屋根にかけると、モモも乗ってきた。しめしめ、うまく行きそうだ・・・。009 あららら・・・、ウメに一発パンチを食らわせ、モモはさっと身を翻しておさらばだった。余りの急襲にわけが分からず、のけぞるウメ。残念。

 これまでもう何度も窓越しに撮ろうとしても失敗続きだったので、今度こそは、だったのだがどうしても無理か・・・。

 じっと待ち続けるという根性はないので仕方ない。ビデオで撮るしかないかな。

 天気予報によると今日は20℃くらいまで気温が上がるらしい。

 スギ花粉は10日ほど前にピークを過ぎたようだが、一昨日、単車で出勤した際にマスクを二重にしていたにもかかわらず、職場に着くまでに10回くらいくしゃみが出た。それで昨日、今日と睡眠時の鼻づまりがぶり返してしまった。

 12月16日に受けた鼻粘膜へのレーザー治療の効果は、どうやら2か月半ほどで失われたようである。鼻の粘膜がすっかり元の状態に戻ってしまったのだろう。

 それでも例年に比べると、今年のシーズンは薬を飲んでいないのに鼻づまりが格段に減った。これまで5,6回で済んでいるのだ。次回は2月に入る直前に手術を受けてみよう。そうすればスギ花粉攻撃から完全に鼻を守ることができるだろう。来年が楽しみだ。




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初モンシロチョウとミツバチ(鹿屋市下堀町)

昨日の午後はスギ花粉が「非常に多い」の予報通り、外仕事をしていてくしゃみを何回もし、鼻水も出てきた。

 あと2週間もすればスギ花粉も下火になるのだが、なにしろスギは我が家が建っているようなシラス台地にも植林され、近隣の低い山々では頂上付近までスギ林であることも珍しくはない。

 こんな大隅で花粉症に悩まされるのは、外来種(外部からやって来た人間)しかいないようだ。現に職場には12名がいて自分以外はすべて大隅産、うち一人だけは鹿児島市からだが、誰ひとり花粉症を持っている者はいない。

 町を巡回していても高齢者ほどノーマスクが多い。若い主婦層で車を運転している者に意外とマスク着用が多く見受けられるが、あれは花粉症よりも子供の風邪やインフルエンザ対策なのかもしれない。

013 我が家の近くの下堀町の県道を車で走っていて、道辺に咲く菜の花を眺めているとモンシロチョウが目に入った。今年モンシロチョウを見るのは初めてだ。車を左端に寄せ、降りて近くまで行ってみる。014 よく見ると、モンシロチョウのすぐ近くにはミツバチがいて仲良く蜜を吸っている。

 ミツバチは他にも2,3匹飛び回っているが、彼らが飛び回るたびに足に着けた菜の花の花粉が飛び散るのか、花(花粉)の匂いがする。マスクをしているからくしゃみには繋がらないが、それでも匂うからには花粉より細かい香りの成分のせいか。

 いずれにしても、春が来たな―を実感する光景だった。

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ミツバツツジ、白モクレン(鹿屋市北田町、田崎町)

梅が終わり、並行して咲いていた椿も落花したが、この頃になってミツバツツジ・白モクレン・菜の花が盛りを迎えている。

 こちらで咲くミツバツツジは正確には「ハヤトミツバツツジ」と言うようであるが、樹木の態様に大きな違いがあるわけではない。葉に先立って見事な蓮華色の花をびっしりと咲かせる。001 鹿屋市中央公民館前のちょっとした庭園にかなり大きなミツバツツジがある。ここのは日当たりが良いせいか丸く枝を伸ばして上へはあまり伸びていない。それでも先端まで3㍍近い。003 光線を透かして見た花弁の色は、何とも言いようのない気品がある。002何かを記念して造成した庭園は「友愛の苑」と名付けられている。

 碑文を揮毫したのは15年ほど前まで市長だった蒲牟田喜之助という人物で、この人は元県庁職員。鹿屋の「高隈ダム(大隅湖)」の建設に奔走したあと、助役に採用され、のちに市長に担ぎ出された。鹿屋出身以外で市長になったのは多分この人だけだろう。それほど高隈ダムの造成は鹿屋(笠野原大地)の役に立った。

 ちなみに今の嶋田市長は鹿屋市出身だが、公務員を経験していない純民間出身者としてはおそらく初めての人だろう。その手腕が見どころである。

 さて帰り際に立ち寄った田崎親水公園。ここの駐車場には大きな白モクレンの木があり、ちょうど満開を迎えていた。004 高さは15メートルほど。一本だけだが、根元近くから枝分かれしていて大きく広がっている。005 下から天辺まで同じような花着きなので、木全体がイルミネーションのようだ。008 気品という点ではミツバツツジに負けていない。すがすがしい。

 それにしても先昨日(3月6日)のスギ花粉は猛烈だった。朝7時半頃、いつものように天気予報の中の「花粉情報」を見ていたら、何と、「極端に多い」という。

 花粉の飛散状態を表す言葉としては「少ない」から始まり、「やや多い」「多い」「非常に多い」「猛烈に多い」となり、最高は「猛烈に多い」かと思っていたのだが、「極端に多い」というレベルは初めてだった。

 別の言葉で言えば「メチャクチャに多い」ということだろうか。くわばら、くわばら。

 勤めを休み、一日引きこもったこと、言うまでもない。おかげで、くしゃみの連発や鼻水の噴水、さらには夜中の鼻づまりもほとんど無かった。レーザー治療の効果も大いにあるのだろう。アリガタや、アリガタや。

 「花」を語って、「鼻」で終わり。おそまつ!
















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橋下大阪市長の大阪都構想に期待する

連日マスコミを賑わしている橋下大阪市長(前・大阪府知事)の「大阪都構想」は、はじめ区と大阪市と大阪府の三重行政機構を廃止して無駄を省く(人件費・箱もの建設費など)ことに主眼があり、東京都のように区と都の二元にしてすっきりして東京都に対抗しようという点だけが主題だろうと思っていたが、

 <マグニチュード7クラスの首都圏直下型地震が、ここ3~4年のうちに起きる可能性が70パーセントに跳ね上がった>

 という報道があってからは、俄然、早くその構想が実現し、可及的速やかに大阪都が誕生して欲しいと思うようになった。

 直下型地震に襲われ、首都東京が壊滅的な状況になる前に首都機能の少なくとも30パーセントくらいは大阪に移しておくためである。

 そのためにはここ1,2年でどの機能をどれだけの規模で移せるかの検討を終え、遅くとも2年後くらいには実際に移転を開始しなければならないだろう。早ければ早いに越したことはない。英断が求められる。

 自分としてはまず第一に皇居すなわち天皇の御座所を平安京のもとの御所に帰ってもらえば一番弾みがつくのでは、と考える。大阪ではなく京都へだが、「京阪神」というように大阪・京都は神戸も含めて一体感があり、もし大阪が大阪都になった場合、新「首都圏」を形成するはずだからである。

 そもそも京都市民には、「天皇はんは明治になってから、東京に仮りに行かはっているだけや」という根強い意識があるそうだ。だれも反対はしないだろう。

 知人にこのことを話したら、「京都は共産党の強いところじゃないか。危ないぞ」というようなことを言われたが、今日、「天皇はたらふく飯を食っている。われわれ人民の敵だ」などと息巻く共産党員はいないだろう。それだけ天皇の日常はわれわれに眼に親しいものになっており、東日本大震災の際にテレビで訴えられた真摯なお姿や、被災者への両陛下揃っての慰問活動などは多くの国民へ安堵感を与えるに十分だった。

 「警備の問題」かれこれは大きいだろうが、先端技術によって高度に進んだ警備システムがあるわけだし、そう危惧することもないだろう。むしろ天皇の国事行為でも大きい部分を占める「諸外国の公人への接遇」では、天皇皇后両陛下の人間味と千二百年の都・京都の歴史の重みとが彼らを大いに感激させること請け合いである。

 「日本人は勤勉で礼儀正しく優しいが、そうか、こういう長い歴史の積み重ねがあってのことなのか!」

 そう思ってもらえれば、また日本に来たくなるか、帰国しても日本のことは悪く言わないし、見習おうとするだろう。

 昨日だったか、河村名古屋市長の「南京における通常の戦闘行為があったのは残念だったが、<南京大虐殺>なんて無かった。よく検討しようじゃないか」との南京市使節団への発言が飛び火し、中国本土では「けしからん」というようなことになっているらしいが、あれは前の国家主席江沢民という反日性の強い親分が、ナショナリズムの一環として国民に「日本降ろし」を喧伝するために仕組んだ「日本軍の大屠殺(大虐殺の中国的表現)30万確定計画」によるでっち上げに過ぎない(河村市長のお父さんは現実に戦時中の南京攻略に参加しており、そんな虐殺など見ていないと言ったそうだ。)

 こんなふうに自分(自国)の都合で他者(他国)を「誹謗・中傷・讒言」するのは中国三千年の歴史上珍しいことではないが、こんな輩でも、「千二百年の面影の残る京都で、現在まで少なくとも千三百年は連綿と一系で続いている天皇」から優しい言葉で労をねぎらわれ、感謝の気持ちを表されたら、驚きとともに感激し、「日本軍による南京大虐殺なんて日本を悪者にするさもしいプロパガンダでした。ごめんなさい」と少年(少女)のような素直な気持ちになるに違いない。(注・中国の王朝でもっとも長く続いたのはやや伝説的でもあるが周王朝の37代750年、次に殷王朝30代500年、そして清朝12代約300年、明王朝17代280年と続く)

 ・・・話を首都移転に戻すと、これには国会での立法が必要だから、次の衆議院選挙では橋下チルドレンの大量立候補、当選により、是非とも最大の懸案事項として真っ先に審議し、法律を制定して欲しいものだ。仮に橋下チルドレンが少数派であったとしても、与党は「大同団結」の高所に立ち、日本のためひいては世界のため、首都直下型大地震の被害を最小限に食い止めてもらいたい。

 自分の故郷は東京だからといって必要以上に「守れ、守れ」と言っているのではない。どちらかといえばもう東京は捨てて新たな首都を造って欲しいくらいに思っている。東京にはいい思い出はほとんどないし・・・。

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