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高原・小林・えびの歴史探訪

18日の日曜日、おおすみ歴史講座の歴史探訪を開催。行く先はこの一年で学んだ日向国諸縣郡内の高原郷・小林郷・飯野郷で、すべて旧薩摩藩に属し、現在の地名ではそれぞれ高原町・小林市・えびの市である。

 鹿屋の北田公園駐車場を7時に出発、途中、大隅町(曽於市)の「弥五郎伝説の里」で二組の夫婦と合流し、都合10名、3台の車に分乗して出かけた。

 最初に訪れたのは「今町一里塚址」(都城市今町)でこれは国道269号線の脇にあるので分かり易く、誰もがこれまでに通過するだけでじっくり見たことがないという史跡。国指定の一里塚址では九州でただ一つというレアものだ。001 昭和10年には指定されている。ここは鹿児島城下から33番目の一里塚で33里約132キロの地点ということになる。手前右上から張り出した枝は、一里塚には必ず植えられたという榎。

 江戸幕府が命じて諸国主要街道一里ごとに設置されたが、残っているものはほとんどない。肝心の幕府お膝元である東京でさえ今は2ヵ所しか残っていない。

 次は「薩摩迫(さつまざこ)」で、都城市庄内町にある都城島津氏初代・資忠が最初に入部して館を造った場所である。

 今町からは五十(いそ)町の自衛隊前を通過して北西に進む。二本の川を渡るが、二本目の横市川を渡るとすぐに庄内小学校で、ここを左手に回り込むと安永城址がある。見物の予定には入っていなかったが低い丘なので上ってみる。002_2 この頃、雨が本降りになりだしたが、足元はそう悪くない。

 ここは二代目の義久が都之城(現在の都城歴史資料館)を築いたあと、六代目の敏久が薩摩迫の館を廃し、ここに城を築いて庄内北郷の守りの要とした。

 次はいよいよ薩摩迫。安永城址からはひと丘越えた小田川沿いにある。近隣は谷間の集落だが、山は深くはない。005 つい一か月前の二月に標柱と案内看板が立てられたようだ。我々が探訪に来るのを知っていたのか? と喜ぶ。

 ところが上にあがってみたものの、何の標識もなく、ただ栗林と竹藪があるのみ。これにはがっかりした。看板倒れとはこのこと。だが、案内板と駐車場が整備されただけでも遠来者にはありがたい。

 次は御池へ。県道<御池・都城線>で、途中、去年の新燃岳大噴火では住民が避難したという夏尾町を通過し、15分ほどで御池の展望駐車場に到着。雨は小降りになっていたが、あいにく霧が深くてほとんど見えなかった。御池(直径1キロ)は4200年前の噴火でできたカルデラ湖。指宿の池田湖(直径4キロ)とほぼ同じ時代、同じ成因ということになる。

 時間があったので予定にはなかったが、池の北側の山腹にある「霧島東神社」(高原町)へ。かなりの登り勾配を10分。立派な社殿に到着。ここには性空上人の開いた「錫杖院(しゃくじょういん)」があり、天台密教の聖地でもあった。007 神仏習合的な立派な社務所玄関口で。(社務所横では護摩木を求める参詣者が多く、彼岸の法要に使うらしかった。)011 社殿の玲瓏は思いがけないものだった。境内にチリひとつなく、清浄なのが印象的な神社である。

 次は「狭野神社」(高原町)。祭神は神武天皇(幼名が狭野尊)ここはこれから巡る飯野城・加久藤城の戦国城主・島津義弘ゆかりの神社でもある。013 文禄・慶長の役の際に戦勝を祈願した神社で、凱旋後に種々の寄進があった。後ろに聳える杉(狭野杉)はその頃の植栽で、樹齢400年余り、高さは何と60mを超えているというから驚く。

 神社の西300mほどに「皇子原公園」があるが、そこは神武天皇こと狭野尊が皇子時代を過ごしたとされる。もし本当にここなら、<神武東征とは、去年の新燃岳噴火のような災害から逃れるために決行した移住>ということになろう。(ただし、旧高山町の肝属川畔の宮下にも皇子時代の伝承があり、こちらは船団での東征出航の真実味があるが・・・)

 高原町から小林市の小林城(三ツ山城)址へ。

 小林の中心を貫く国道221号線を本町で右折、1キロほど北上すると大手橋信号でここを右折し、道なりに行くと丘を目の前にまっすぐ通じる細い道がある。民家への通路のように見えてしまうが、そのまま50㍍ほど登ると駐車広場に出る。

 広場の手前に人ひとりが通れるくらいの細道が丘の上に通じている。途中、大手門跡への道を分け100㍍くらいで丘の上の平らな部分に出る。ここが本丸跡。瓢箪のような形をしていて、杉木立と唐竹の藪が広がっている。015 眺望はよく、ここが真幸院の要の城だったのも頷ける。歴史は非常に古く、1160年に真幸院の院司になった日下部重貞の築城という。その後、南北朝時代の1345年、肝付一族の北原氏が鹿屋市串良からここへ移封となり、真幸院を治めた。しかし、永禄年間(1560年代)に伊東氏に奪われ、10年後には島津氏が伊東氏を駆逐してここを領有した。

 北原氏は永禄7年(1564)に島津義弘の命で、ここから伊集院神殿村へ改易された。

 小林市内で昼食をとり、次の目的地えびのに向かう。

 まずは飯野城へ。

 えびの市街地に入り、飯野中学校入り口という信号を右折し、川内川を渡ったらすぐ左手の田んぼへの道を行く。右折して200㍍ほどで城の麓の駐車場に着く。

 飯野城は島津17代・義弘の居城であり、日向の雄・伊東氏と人吉の相良氏に対する威圧の拠点であった。016本丸跡に建つ記念碑と説明板。石碑には「亀城(きじょう)址」とある。

 物見櫓(やぐら)があったという高台は一本の中ぶりのクスが立ち、そこからの眺めが良い。020あいにくの天気でおそらくは向うに屏風のように見えるであろう霧島連山は望まれなかったが、えびの市街地は一望のもとだ。

 次に訪れる場所は「木崎原古戦場跡」(えびの市池島)だが、その前に「えびの・歴史民俗資料館」(無料)を見学した。

 館内のビデオ放映で木崎原合戦の状況を詳しく説明していたので、みんな食い入るように見つめていた。

 20分ほど見学したのち木崎原に向かう。文化センター入り口信号から国道をそのまま突っ切り、JR・吉都線線路踏切を渡ると左手に古戦場跡がある。印象的なのは巨大な根曲がり杉の一群だ。中には「六地蔵塔」が立っている。戦死者の供養のためだという。027 杉は200年は経つだろうか、すべて根元から曲がって立っており枝分かれもすさまじい。まっすぐすっくと立つ杉とは似ても似つかぬ異様な姿だ。戦死者の怨念だろうか・・・。028伊東軍と島津軍、合わせて900名程の戦死者が出たが、伊東方のは伊東一族の将校クラスの武士が120名討ち死にしている。広い戦域に打ち捨てられた遺体は夏にもかかわらず収容するのに死後4ヶ月もかかったというから酷い状況だったのだろう。化けて出たかったのかもしれない。

 最後は「加久藤城址」(えびの市小田)だ。

 文化センター信号から「えびのインター入り口」方面に走り、信号二つ目の松原交差点を過ぎると同時くらいに右手へ道があるから右折していく。(えびの外科医院の大きな看板あり)

 突き当たるから右折して丘を回り込むと坂道になり、じきに最奥部の人家下に着く。ここに車を置かせてもらい、左手を戻るように山道を上がって行く。やや平らになると畑地帯になり、「加久藤城跡」の標柱が立つ。031 本丸のすぐ下には説明看板が立つ。

 木崎原合戦の直前、実は小林城の伊東軍はこの加久藤城を攻略しようと夜陰に紛れて襲来した。しかし伊東軍に入り込んでいた隠密の策動により城への取り掛かり口を誤り、散々な目にあった。元亀3年(1572)の旧暦5月3日の夜のことである。

 加久藤城には義弘の正室と守兵がわずか50名しかいなかったというから、伊東軍の侵入をうけたらひとたまりもなかっただろう。ここは島津義弘の智謀が勝っていた。

 このあと動揺した伊東方はそこここで島津の伏兵などと戦いつつ次第に戦力を失い、木崎原では義弘との一騎打ちで伊東祐信が打ち取られ、小林城へ退却を始めた総大将・伊東祐安も戦死するなどして、息の根を止められたのである。日向の雄・伊東氏の崩壊を招いた最後の戦いであった。

 伊東氏の領主・伊東義祐はこのあと日向を離れ、四国伊予などを経て大阪まで行ったが帰りに山口で死んだと伝えられる。

 帰路はえびのインターから自動車道を加治木に出た。島津義弘の終焉の地が加治木だったからである。

 加治木では戦国期から江戸初期にかけて薩摩儒学の泰斗であった「南浦文之(なんぽぶんし)の墓」(国指定)のある安国寺(臨済宗)と義弘が築いた「加治木館(やかた)」(加治木町御仮屋町・現在は加治木高校)を駆け足で見て回った。

 鹿屋への帰着は19時過ぎ。車を提供し、運転までしてくれたF氏には感謝!!お疲れさま。

 

 

 

 








 






 

 














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