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かのやばら園2012春祭り(鹿屋市霧島ヶ丘公園)

今日は海上自衛隊鹿屋航空隊が主催する「エアーメモリアル2012」の開催日だったが、夕べから雨が明けても続き、おまけに北東の風がかなり強かったので航空ショーのほとんどが中止になった。

 昼からは少し天気も持ち直してきたので、ブルーインパルスのアクロバット飛行はあるかもしれないと、家から東へ2キロほどの霧島ヶ丘公園へ上がって眺めようと思ったが、やはり中止になったらしい。残念だが仕方あるまい。

 その足でかのやばら園に行ってみた。今年は寒さのため桜の開花も遅れたが、バラも例外ではなく3日前の27日に「2012年春のばら祭り」はオープンしたのだが、市のホームページで開花は三分程度、新しく整備された「イングリッシュローズガーデン」はほとんど咲いていないとのことだったので、連休の最後かその次の日曜日あたりに行ったほうがよいと思い、行くつもりはなかったのだが・・・・・、こうなればしょうがない。015 入り口まで来てみると、意外に入場者は多かった。航空ショーの見物客の流れだろうか。014 つるバラがお出迎えだ。012 なるほど三分咲きである。004 やはりプリンセスカノヤのコーナーに足が向く。ここは二分咲きというところだ。005 たしかに見ごたえのあるバラだ。010去年すさまじく枯れたバラであったが、その後イギリスから援助の手が差し伸べられ、新たにイングリッシュローズが数千本植えられた。011上から俯瞰してもほとんど花は見えない。009バラの女神像の近くまで行ってみると、ここは結構咲いていた。オールドローズが中心ということで、花模様は地味だが、確実に咲くだろう。

 整備をしていた職員に聞くと、花の周りにはすべてバーク堆肥(木の皮を発酵させたもの)を敷き詰めてあり、本園の鮮やかなバラが盛りを過ぎる頃に満開になるだろう、とのことであった。

 楽しみにして待つことにしよう。






















 

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ぶっ魂消(たまげ)たこと

ひょんなことからある少年をしばらく預かることになった。

 この少年は18歳で、生い立ちを聞くと「ぶっ魂消る」他ない。

 5歳の時に父親が自殺、13歳(中学1年)の時に母親も自殺した。

 兄弟は4人で、姉・兄・自分・妹である。

 中1の多感な時に母親がそういうことになって不登校など荒れたらしい。そりゃそうだろう。

 だが、幸いなことに両親の祖父母がまだ健在だったので、中学を卒業するまでは母方の祖父母のもとに預けられた。

 卒業後は父方の叔母が鹿児島市内にいたので引き取られ、そこから通信制高校に入学したらしいが、中学校の課程で躓いているのと変な仲間との付き合いでこちらも続かずにすぐ辞めてしまった。

 去年、叔母のもとを離れ、故郷に帰って来たが、折よくハローワークの「若者支援制度」に乗っかることができて月10万を支給されながら6ヵ月間パソコンの講座に通った。

 ちょうどその頃にこの少年と出会い、たまたま以前住んでいた町の小中学校のPTA活動で知り合った人物の子であることが分かった。

 この子とは初めて出会ったのだが、乗っていたミニバイクのナンバープレートを見たとき、以前住んでいたその町の名が書かれていたので、声をかけてみたのである。

 その町のどこに住んでいるのかを尋ねた時、少年の口から以前私が住んでいた地区の出身だと知り、もしかしたら懐かしい名前が聞けるかも知れないと耳を傾けると、何とあのPTA活動を共にした人物のせがれであることが判明したのであった。

 私が少年補導の嘱託をしていたのと、たまたま件のナンバープレートのミニバイクが彼の傍らに無かったら、「高校を出たくらいの少年がふたり、ベンチで休んでいるな」と視認しただけで通り過ぎてしまっただろう。

 その場で携帯の連絡先を教えてもらい、以後、巡回の途中に2度3度と出会いながら、若者支援制度の後はどうするのか気掛かりではあったが見守ることとし、去年の11月に「パソコンの認定試験で3級が取れた」と喜んで報告してくれたのを皮切りに、次第にこちらへ胸襟を開くようになった。喫茶店でよもやま話をしたとき、真っ先に聞いてきたのが父親の為人(ひととなり)であった。(自分の知っている限りの父親像を彼に話したが、目を輝かせていた。)

 若者支援制度が終わり、農園でバイトをしたり酒屋の配達などをしたりしていたが、どちらも長続きはせず、今年の2月の終わりころある仕事を紹介しようとして見事にすっぽかされたこともあった。

 だが、3月には借りているアパートの家賃も滞り、どうしたらよいかと相談を受けるようになった。折りも折り、彼の友人の勤め先へ応募したところ採用され、4月10日から働くことになったので、やや安堵したが、どっちにしても最初の給料はひと月先という。

 「収入のない1ヶ月が持ちこたえられない」と言うので預かることにした。

 ところでその仕事というのが茶工場の作業員なのだが、いま一番茶の時期、文字通り「猫に手も借りたい」シーズンで、連日、朝7時半から夜は10時過ぎまでの作業のようなのだ。夜は日をまたぐこともしばしばで、3日前などは帰って来たのが朝の4時半であった。

 この忙しさには「ぶっ魂消る」他ないが、それよりもブッタマゲルのは彼の根性だ。「続いても3,4日だろう」との危惧もなんのその、今日で15日、おそらく平均睡眠時間5時間で頑張っている。

 もう一つブッタマゲルのは、実は我が家から茶工場まで片道20キロ、往復40キロを通い続けているのである、何とミニバイクで!!!

 あと2週間ほどで1番茶の超繁忙期は終わるというが、どうか事故の無いよう、無事に完遂して欲しいものだ。002 荒波を乗り越えよ!少年!(鹿児島への垂水フェリーにて)

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『大隅55号』の発刊

大隅史談会の会誌『大隅』の55号が完成した。これを受けて4月22日(日)に監事を含めた役員7名が集まって役員会を開き、55号のお披露目と前年度の事業報告・決算と新年度の事業計画などが話し合われた。

 ここ3年、会誌の編集(メモリーへの印字)を大隅史談会事務局で行い、印刷所へ編集なったメモリーを持参して印刷・製本のみを依頼することにしたので、コストは大幅に軽減し、それに伴って毎年10万円くらいの余剰を見るようになった。

 会誌の発行以外に自由に使える資金が確保されたので、今年から事業として歴史家または考古学者などを招いて研修会や学習会を開催してはどうかと提案したところ、大方の賛同を得たので、今年秋には誰か講師を招いて大隅半島の歴史解明に前進したいと思う。

 人選と研修会のやり方はこれから煮詰めるとして、今年がその第一歩になり、新たに若い会員を獲得して行きたいものである。

 さて、以下に『大隅55号』の紹介をしたい。

 008 『大隅55号』

 平成24年4月発行

 発行者:大隅史談会

 

 【目次】

 1 古事記神話と南九州(1)                松下高明

 2 邪馬台国九州説の諸相(1)              松下高明

 3 象嵌装大刀と大隅隼人                 武田悦孝

 4 神功皇后の出自をめぐって               松下高明

 5 古日向について                      江口主計

 6 ハート文様の出現を植物文様から見る        隈元信一

 7 垂水市本城に復元された古石塔について 

         ― 本城石塔群との関係 ―        隈元信一

 8 平安末期から鎌倉時代の垂水の領主達       隈元信一

 9 道隆寺跡六地蔵原型復元                福谷 平

10 長能寺墓地今昔                     竹之井 敏

11 肝付氏歴代の墓地整備について           竹之井 敏

12 和泉式部・性空上人・内之浦              佐々木実然

13 伊能忠敬測量日記 ~大隅国内之浦郷岸良~  佐々木実然

14 舟木の記念碑建立について              佐々木実然

15 江口家起請文                       橋口 満

16 下甑島手打に「富ヶ尾・高山移住記念碑」が完成  橋口 満

17 「士踊り」について(其の二)               井原政純

18 水物語 ―高原の水道―                中島勇三

19 地名散歩(10)                       中島勇三

20 金剛寺住職 暉峻普瑞(テルオカ・フズイ)      閏野志郎

21 高須の「主(ぬし)とり ―御社あずかり」について  上原義史

22 国産ロケット生みの親・糸川教授と

              実験を支えた内之浦婦人会    橋本雅子

23 ある考察                          平石承一郎

24 お茶と情けは濃々と                    江口 ヨリ

25 南九州上代史に関する17の論点            松下高明

 以上が55号へ寄せられた論文の数々である。

 興味ある方は事務局あて郵便振替で代金を納入して下さい。

 

 【購入方法】

 下記あてに2290円をお振込み下さい。受納次第、すぐにお送りします。

 大隅55号 代金 2000円

        送料  290円      合計 2290円

 

 振込先  郵便振替 02000-2-11027(右詰め)

       〒893-0042

         鹿児島県鹿屋市池園町2245-5

            大隅史談会事務局

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北朝鮮の人工衛星(ミサイル)打ち上げの失敗

13日(金)の午前7時40分ごろ、北朝鮮は東倉里に配備していた自称「人工衛星」、実は弾道ミサイルを打ち上げたが、わずか1分後には「自爆」したそうだ。

 失敗とは言わず、「打ち上げは成功したが、地球周回軌道には載せられなかった。」と朝鮮中央放送のテレビアナウンサーは言っていた。「偉大なる同志キムジョンウン様のおかげで」と頭に冠しなかったのは手落ちだったのではないか。

 同じ日の午後には金王朝の三代目・キムジョンウンが国防委員会第一委員長に就任したというニュースが駆け巡ったが、「第一委員長」というからには「第二」「第三」という地位もあるわけで、朝鮮労働党の書記という地位でも「第一書記」だったから、父や祖父の総書記・国防委員長からすれば、見劣りがする。

 まだ若いし、実際の指導経験も少ないので、このような地位に甘んじたのか、あるいは反対勢力がくすぶっているのか。今回の「周回軌道には載せられなかった」という国民向けのテレビニュースは異例の早さで流されたが、失敗を即座に発表したのは異例中の異例である。

 このことは―

 「金王朝の三代目は北朝鮮の統治軌道に載ることができない。」

 ―という暗示ではなかろうか。

 紀元200年ごろの朝鮮半島の、場所も同じ「楽浪」(おおむね今日の北朝鮮領域)において公孫度が「楽浪公」「燕王」を名乗り、後漢末・秦・魏の時代に中国王朝から自立してその後「公孫康」「公孫淵」と三代続いたが、最後の三代目・公孫淵の時に魏の大将軍・司馬懿により討たれて滅んだ。

 歴史は繰り返すというからには、キムジョンウンがどうもその最後の役回りのようだ。

 朝鮮人民民主共和国が名実ともに、平和裏に「民主」で「共和」な国になって欲しいと願うものである。

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土曜の昼下がり、我が家の愛犬ウメが、腹を抱えて笑っているように見えたが、気のせいか。

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指宿のこらん湯(2)

4月8日に法事があり、指宿に出かけた。いつもながら法事の前日に家内の実家に到着すると、挨拶もそこそこに近くの温泉に行く。

 家内の実家からも、二月田駅からも歩いて5分ほどで有名な「殿様湯」がある。殿様湯は歴史的に貴重な温泉(銭湯)ではあるが、女湯・男湯にそれぞれ一つの湯船(というより湯壺)があるだけで、地元の人が入っていると、湯壺の温度はかなり高く、血圧の高い自分などはいつものんびり浸かっていられない。

 もちろん水道の蛇口は付いていて水を足すことはできるのだが、他の人たちが入っていれば、そうやたらに水を足してぬるくするわけには行かないのである。(エチケットと言ってもよい。)

 そこで「こらん湯」に足が向くようになった。「こらん湯」とは「河原の湯」のことで、鹿児島弁では「かわら」は「こら」になり、それに「の」を付けると「こらん」となる。だから「河原の湯」は「こらん湯」になる。016 この建物の「こらん湯」は誰でも250円也を払えば入れる銭湯だが、もう一軒ある隣りのは会員制の温泉で年間6000円也を払えば毎日でも入ることのできる温泉である。

 江戸の昔から河原に湯が湧くことは知られており、湯治場として利用されていたようで、明治以降になって近隣の農家などが共同で銭湯を開設した。家々に内湯など無い時代、これは大変ありがたい入浴施設だったはず。012 内部は10畳ほどの広さしかないが、手前には2メートル四方くらいの「湯壺」があり、向うの窓沿いにはひょろ長い「歩行湯」がある。この歩行湯は深さがヘソの上くらいまであり、立ったままで十分温まることができる。おまけに湯の温度は低く設定してあるので血圧に障りがないのがうれしい。013 温泉成分を見ると基本的には塩化泉で、やや塩辛い。しかし鉄分が少ないのでタオルが赤味を帯びることはない。飲用ができないのは残念だが、効能としてはオーソドックスな温泉である。

 温泉を出て指宿神社に向かって帰るのだが、神社の手前左手に聳える御神木(神の依りしろ)のムクノ木が晴れた空に美しく枝を清々しく広げていた。009010

昨年の「こらん湯入湯記」はこちら











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鹿屋城址公園の桜と展望(鹿屋市北田町)

このところ西風が強い。これが東に移動し、関東や東北・北陸などでは「春の嵐」を通り越して春の台風のような風が吹きまくったようだ。

 今年は「春一番」が春分の季節の前には吹かなかったが、今度の風は肌寒いのでむしろ「花冷え」を感じさせる風である。

 桜は一昨日、昨日とほぼ満開を迎えたが、折からの強い風の中、散り急ぎ始めている。

 鹿屋では串良の平和公園や吾平山陵あたりが桜の名所だが、そこここにある公園にはたいてい桜が数本から数十本植えられており、それぞれ見頃を迎えている。

 鹿屋の中心部にほど近い北田池公園を見下ろす丘の上に「鹿屋城址」があり、そこにも20本くらいの桜が植えられ、いま満開になっている。001 鹿屋城は別名「亀鶴城」とも呼ばれ、築城主は津野四郎兵衛で鎌倉時代初期の承久年間(1219~1222)と言われている。串良の鶴亀城(現在の串良小学校辺り)を築城したのも津野氏らしいので、串良院・鹿屋院にまたがって勢力をふるった一族のようである。009 一昨年は城址の台地部分と比高40㍍はある崖面とを仕切っていた竹藪や雑木が払われ、去年は展望所の改良が実施されたので、公園としての面目は一新した。

 展望所はコンクリート製の2階建てだが、2階に上がってみて驚いたのは、窓から見える本丸方面の眺めである。004大きく横長に切り取られた壁面一杯に満開の桜とクス若葉が、一枚の絵巻のように見えるではないか。腰までの高さの壁面にサイケデリックなデザインで原色が使われているのがちょっと気になるが、外の風景はそれ以上に心に響く。005展望所の先端から南を望む。右手下に「北田池公園」があるが、ホテルが邪魔していて見えない。公園の横を旧国道220号線が左右(東西方向)に通じている。右へ行けば海上自衛隊鹿屋航空基地前を通って垂水方面へ。また左へ行けば北田交差点から旧市役所前を過ぎて笠野原大地に上がり、寿町から笠野原を通過して鹿屋バイパス(現在の国道220号線)と合流して志布志方面へ。

 右手から奥の方に連なるのはこの城山台地の流れで、平成3年に造られた新市役所まで次第に低くなりながら肝属川と下谷川の合流地点に到る尾根筋である。新市役所辺りには「古城」(国司山)があったようである。006東を望むと、その中心には平成19年に開業した「リナシティかのや」がある。旧国道220号線はこの建物の右側をすり抜けて向うの台地に上がるが、もっと右手から登って行く道があり、その道は「曽田トンネル」という名のトンネルをくぐって台地へと上がって行く。

 そのトンネルの手前の町を「曽田町」というが、江戸時代には「曽田門(そだかど)」と名付けられ、薩摩藩独特の門割(かどわり)制度下でもあった肝属川沿いの由緒ある地名である。007東から北東方面に眼を転じて肝属川上流方向を眺めると、ブラウン色のビルの先で肝属川は曽田町からリナシティ辺り(古前城町)まであった広々とした川沿いの田地が急に狭められ、大きく右手へ迂回する。

 そこには「和田井堰公園」がある(打馬町・王子町)。湧水が豊富な所で、公園の東南には「鹿屋元城」があった。この打馬地区も曽田地区と同様に広い田がひろがっており、古代から人の住みやすい場所であった。

 南九州の「曽の国」の中心があったともいえる地域に他なるまい。今後、解明を進めていきたいと思っている。














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太平洋戦争開戦の真実

仄聞するところによれば、東京都教育委員会では24年度に高校生に配布する歴史資料(副読本)『江戸から東京へ』の中に、太平洋戦争つまり日本の対英米戦争が「日本側の自衛に基づく戦争であった」とするマッカーサー証言を取り上げたそうだ。

 遅きに失したと言うべきか、いや、国家間の摩擦はだいぶ時が経ってから真実が見えてくるのだから遅いということはない――と言うべきだろうか? 

 答えは簡単明瞭、「遅~い!!!」

 東京裁判が連合国側(ほぼアメリカと言ってよい)の都合のいいように進められ、25人のA級戦犯が仕立てられ、うち7名が絞首刑になった(1948年)が、マッカーサーがアメリカの議会内外交委員会の証人として呼ばれたのはそのわずか3年後の1951年であった。

 その席で連合国総司令官として日本と戦い、日本降伏後には足掛け6年のGHQ最高司令官として占領政策のトップに立っていた軍人が帰国後、「日本が戦いを挑んだのはやむにやまれぬ事情があった。自衛のためであった。」と証言したのである。

 <語るべき人をして語らしむ>とはまさにこのことを言うのであろう。歴史の証言者としてこれ以上の適任者はいるまい。

 日本はこれを是として大々的にマッカーサーに賛意を示せばよかったのに、全くのなしのつぶてだったそうである。奇怪千万だ。おそらくアメリカの圧力によって潰されたのだろう。残念なことであった。

 

 しかし今からでも遅くはない。歴史の真実がまたひとつ「日本が勝手に戦争した」史観への反証として取り上げられたのだから・・・。

 ただし、マッカーサーには言い足りないところがある。それは「白色テロ即ち植民地支配からのアジア解放のための戦争」という視点である。

 つい今しがた、ミャンマーでアウンサン・スーチー女史率いる政党が大幅に躍進したというニュースが報じられたが、この人の父親はアウンサン・マウン将軍で、戦時中に日本のアジア解放の一翼を担うべく活躍した人だったが、日本が敗れると「宗主国」であるイギリスに渡り、かの地で結婚して長女スーチーが生まれている。

 日本が敗れなければ、戦後65年も経ってようやく民主主義を受け入れるなどということはなく、もっと早く民主化が進んでいただろう。少なくとも今より30年は早く、民主主義が実現していたに違いない。
 

 次なる真実の回復はあの「南京大虐殺30万人」である。これも東京裁判で日本が不利になるように仕組んだのと同じ手口で中共政府が捏造しているのだ。真実はいつかは露われる。

 

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