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超おそい田植え(鹿屋市野里地区)

 午前中、通りかかった野里の田んぼ地帯。例年なら6月の初めころまでには終わっているはずの田植えがまだ行われていた。Cimg3663 ここは野里でも上手にある吉国集落の田んぼだ。もう残すところ1枚、一昨日あたりに代掻きがなされていたのだろう。

 ところが用水路沿いをもう少し上手に行くと、何と今まさに代掻き最中の田に出くわした。Cimg3661 昨日の豪雨で水はたっぷりある。聞いてみると「苗が余ったので、作らない予定だったが植えることにした」とのこと。集落の人がたくさん出ていたので個人で作るのではなく、何か行事用に確保するようである。(災害対策の備蓄米かもしれない)Cimg3662 この辺りの田植えは用水の関係で、下手地区は今年は6月20日まで、上手地区は21日以降、田に水が引けるという決まりになったそうで、下手地区よりは遅くなるようだ。だからこの一週間でバタバタと一斉に田植えを済ませてきたそうである。Cimg3664 下手地区のほうに向かっていくと、途中の用水路脇にあるのが「芝原の田の神」だ。

 手前の田の神は後背に刻まれた年号によると、享保のようである。保から下は磨滅してわからないが、西暦で言えば1720年頃ということになり、約300年前のものである。

 その向こうのは刻み年号など磨滅していて分からないが、赤みの帯びた凝灰岩製であり、年月とともに風化しやすい石を使っている割には、手前のより磨滅度が低いのでより新しい製作物だろう。

 次のは「上水道完成記念」碑で、昭和30年の石碑。四角い花崗岩製の碑は「戦災記念碑」で1980年代のもの。一番向うは耕地整理記念碑で大正2年のものである。田んぼの一角にこれだけ違った年代のものが一列に並んで立っているというのは珍しい。

 おまけに、この石造記念物群の向かい側、芝原集落への道の入り口には観音坐像が鎮座している。Cimg3668 この観音様は集落の幸福と安全を願って建立されたはずで、下の台座石の側面に奉造年月は文化3年と刻んであった。文化3年は1806年であるから、こちらは200年前のものである。石材は前の田の神の一体と同様、赤みを帯びた凝灰岩、たぶん高須産の「荒平石」ではないかと思われる。あの田の神も同じ時期に造られたのかもしれない。

 さらに下手の野里小学校の近くを通ると、一枚の田で小学生が30人くらいで田植えをしていた。Cimg3658_2 黄色い帽子のかわいらしい1年生が見えるから、低学年でこちら側の一枚を、そのあと高学年が向う側の一枚を植えて行くのだろうか。

 地方の小学校ならではの体験学習だ。皆でいっしょというのがいい。サツマイモ畑などもやっていると思うが、米作りは奥深さが違うので、とてもよい学習になるはずである。






  









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慶祝・消費税(社会保障との一体化)法案衆院通過

 今日の衆院本会議で消費税の社会保障との一体化を明記した法案が成立した。目出度いことである。何しろ少子高齢化社会が想定外に<進展した>結果、高齢者へのサービス(年金・医療)が膨らみ過ぎ、この辺で歯止めを掛けないとどうしようもない「低負担・高福祉」へ突き進むことは目に見えていた。

 かって消費税(物品税)のような間接税に注目が集まったのは、バブル時代に入り所得税などの直接税に割高感がうんぬんされるようになった時だった。だが、「高額(ぜいたく)商品に掛けられるならまだしも、どんな物でも買うたびに取られちゃたまったもんじゃない!」が、大方の受け止め方であった。

 しかし当時目に見えて高齢化が進み、「医院の待合室が老人の社交の場」という現象が見られるようになると、医療費の増大に危惧を持ち始めた政治家が、ついに広く薄くかけるので公平でありかつ負担感が少ない消費税を導入せざるを得なくなったのである。

 自民党の竹下内閣の時代であったが、3パーセントの掛け率で始めようとしたが、当時の日本チェーンストア協会の会長・清水氏を中心に大々的な反対キャンペーンが行われ、新聞初めマスコミを賑わしたものだった。まさに「カラスの鳴かない日はあっても、清水会長の出てこない日はなかった」くらい、連日マスコミに露出していた。

 挙句、その年の選挙で自民党は惨敗。

 約十年後の橋本内閣の時には税率を今日まで続いている5パーセントにアップしたが、この時もまた参議院選挙だったと思うが、自民党は敗れた。

 つまり消費税を導入して敗れ、税率をアップして敗れ・・・・・というように、消費税に関して、自民党は常に選挙で敗けるという結果になっているのである。

 このことが「常在選挙」(常に選挙があるものと思っているのが政治家だ)を金科玉条とする小沢一郎の恐れるところで、結局、小沢一郎という政治家は「選挙請負人」の異名の通りの人物だったことを証明したことになる。要するに「どんないいことを言っても、選挙に負けちゃしょうがない」ということだったのである。それだけの人間だったと言い換えることができる。

 政治家はおのれの身命をなげうってでも社会公共のために尽くさなければならない。それが政治家たる者の使命ではないか。

 これから小沢氏は「選挙に負けない政党」を立ち上げるのかもしれないが、もう見苦しいから右往左往しないでほしい。一党独裁の中国や北朝鮮ではあるまいし、「選挙から自由な政党」という亡霊のような政党はごめんこうむる。

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田崎池の大賀ハス(鹿屋市田崎町)

 鹿屋市の市役所のある共栄町から田崎方面へ県道を行くと、かって走っていた国鉄大隅線の跨線橋を渡るが、渡り終えた先の信号を右折するとすぐ公園の入り口が見える。

 これが「田崎親水公園」で、鹿屋原台地の下から湧き出した水によって出来た「田崎池」がある。傍を通ったので入ってみると、池畔の東屋近くにはハスがちらほら咲いていた。Cimg3656 昨日までの悪天候が嘘のように晴れ上がった池面は澄み切っていた。

 そのほんの一部だが、10坪くらいの広さにハスが繁茂している。

 この東屋で昼食後の休憩を取っていた公園整備関係者らしい人に聞くと、「今日はあんたが6人目だ。」と言われた。朝早くに来た女性は「ハスって咲く時に音がするって聞いたのできてみた」と言ったという。しかし8時ごろだったので聞こえなかったようで、「明日またもう少し早く来てみる」と帰って行ったそうだ。Cimg3653 もしかしたら串良町の「大賀ハス」の分根か―と思い近づいてみると、案の定そうであった。業者の男性に確かめると、2年前に分根をここに移植したという。去年はまだ花は見なかったから、今年、ようやく立派な花を咲かせたことになる。

 花後の種を蒔くのではなく、蓮根を移植するので2000年前の遺伝子をそのまま受け継いでいるおり、花の大きさも色合いも2000年前のままなのが貴重なところである。Cimg3655 そばに生えている水草を見ると「ガマ(蒲)」で、さほど大きくないが、それでも左の一群の中には茶色のキャンデーのようなガマの穂も見える。

 因幡の白ウサギが、隠岐の島から本土へ渡ろうとして「皆で何匹いるか、数えてあげるから」と言ってワニ(鮫)を海面に並べ、その上をぴょんぴょん飛び渡って本土に着いた。

 しかし言わなければいいものを「やーい、数を数えると言ったのは、お前たちを橋の代わりにしてこっちへ渡りたかったからだよー」と言ってしまったものだから、怒ったワニたちに身ぐるみを剥ぎ取られて赤裸になった。

 オイオイと泣いているところへ通りかかったオオクニヌシ命に事情話すと、「真水で体を洗い、ガマの穂にくるまっていれば治る」と言われたとか・・・・・。

 ガマはこの池ではごく少数派で、もし大賀ハスがこの勢いで増殖して行けば、早晩消えてしまうかもしれない。Cimg3654 今でも湧く水は絶えないが、昔はもっと水量が多く、この下の田んぼ地帯の用水として使われていた田崎池も、今では親水公園として人の心を潤す役割を果たすようになった。



 



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かりゆしバンド公演(肝属郡錦江町田代)

 6月17日(日)、与論島の「かりゆしバンド」の公演が田代で行われたので見に行った。

 旧田代町と与論町は昭和44年に姉妹町の盟約を交わしている。以後、一年おきくらいに交互に訪ねて行っては親睦を重ねている。

 なぜ大隅半島の山中の田代町と鹿児島県でも最も沖縄に近いサンゴの島与論が姉妹町となったか。

 簡単に言うと、戦前(昭和19年)に、国策で与論島から満州の一角「盤山県」に移住した数百人の人々が一年余り後の終戦で着の身着のまま逃げて帰り、鹿児島県の引揚者に対する入植地の斡旋でこの田代町大原の山奥に安住の地を得たのであった。56戸、二百数十人だったという。

 この人たちが茶業を中心に大原で生活を成り立たせたのちの23年後の昭和44年、故郷・与論島とのつながりを再確認し、その結果、姉妹町盟約が結ばれることになったのである。

 今回「かりゆしバンド」が6月の初めから九州各地で与論島とのゆかりのある町々を回り、最後から二番目に来たのがこの田代町であった。Cimg3640 開演の18時より20分前の会場の体育館。
 200人くらいの席に8割方の観客が入っていた。Cimg3642 18時10分、いよいよ公演が始まった。

 かりゆしバンドは今から18年前に結成された与論島の土着バンドである。今回のように5人がバンドのメンバーで友人に聞くと「真ん中の二人が創立当時からの中心メンバーで、後ろのドラム担当は結構古いメンバーだが、左右のギターとフルートは新しいメンバーだそうだ。Cimg3648 何曲目だったか、ハイテンポの曲がかかるとあちこちから踊り子が現れた。Cimg3649 20時近くなって最後から2曲目の曲は、あの旅番組「うるるん」何とかのエンディングソングに採用されて一躍全国に知れ渡るようになった「たましいの島」であった。

 さすがに聴きごたえのある曲だった。自分としては何曲目だったか忘れたが「よろん小唄」が良かったと思う。「よろん小唄」は沖縄ではきわめてポピュラーな曲「十九の春」の元唄で、花街の女の悲恋を歌ったものであるという。Cimg3650 フィナーレはやはりテンポの速い曲で、会場から踊り手が続々と現れ、にぎやかこの上ない最後となって終わった。

 会場で、先週訪ねた有馬さんの奥さんと孫の女の子と久しぶりの旧交を温めることができたのはうれしかった。















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出発(たびだち)

昨日の14日、少年は出発(たびだち)した。

 6月1日から職場に近いK町に家を借り、5月末になったら我が家からその借家に移る予定だった。

 だが、5月末の5,6日前から「二番茶」の加工が始まり、朝7時半から夜の9時、10時までの生産体制に入ったため、夜帰ってくると「バタンキュー」で就寝、翌朝は6時半起きというハードスケジュールの連日となり、とてもじゃないが一人では起きることさえままならない―ということで、二番茶の最盛期が過ぎたら借家に移る約束で、もう少し預かることにした。

 そして昨日、午前中にその借家を家内と一緒に訪れ、最終的に自分一人でやって行けるようにスタンバイした。結構広く、3部屋もある借家の掃除と、ベッドや冷蔵庫そして洗濯したあとの掛け干しなどのセッティングをしてやった。

 これで何とか暮らしは経つだろう。近所にスーパーもコンビニもある。

 問題は、起床だ。もし起きられず、遅刻をするようであれば職場に迷惑を掛ける。遅刻が重なると上司から叱られ、いやになって無断欠勤なんてことがあり得る。それが怖い。元の木阿弥になったらそれこそ往生だ。

 しかし、有難いことに、一昨日は職場の少年以外の5名のメンバー全員が少年の新居に集まって「励ます会」を開いてくれたとのこと。何でも一生懸命やっていれば助け、励ます人たちが現れるのだナー。

 今朝(6月15日)は6時半に携帯にかけてみた。

「もしもし、はい」

「おう、○○、起きてたかー」

「はい」

寝ぼけたような声ではなかった。緊張していて早く目が覚めたのかもしれない。ほっとした。

「起きていたか、よーし。今朝は雨が降っているぞ。近くなったからといって単車通勤には気を付けろよ」

「はい、大丈夫です」

「じゃあ、またな」

 いろいろ言いたいことはあったが、今生の最後ではあるまいし、緊張を和らげるだけにした。

 <朝の起床>のほかにも、問題はある。

 それはゴミの始末だ。我が家にいる間、自分の食べた後始末(食器洗い)はちゃんとするように言い、少年は感心にもずーっとそれを怠ったことはなかったが、ごみ処理は苦手だった。「ごみの分別」などは普通は母親がするものだが、母親がいないので習うこともなかったのだろう。

 だが、一人暮らしをする以上、それは避けて通れない仕事だ。

 K町には少年の兄(家族持ちで少年の親権者)もいるし、知り合いのおじさんもいるから、一週間に一度くらいは見回って欲しいものだ。

 4月8日に預かって以来、2か月と1週間。ようやく少年は第一段ロケットの切り離しに差し掛かった。これからは周囲の後押しに支えられて自分の周回軌道に乗るがいい。もちろんこちらからも応援するぞ。

 何とかなるさ、少年! 見守っているさ、少年! 仕事も勉強だぞ、少年! がんばれ、少年!

 「金は貯めても、ゴミは溜めるなよ」少年!(当面、最大の心配がこれ!!!)

Pt350233 態勢を立て直し、これからがショウブだぞ、少年!(鹿屋市吾平町・玉泉寺公園の花ショウブ群落)

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もったいない!(続き)

今朝の犬の散歩中に、何と、別の畑の大根が収穫されていた。Cimg3635 昨日の朝、大きくなり過ぎた大根の畑の話をしたが、200㍍くらい離れた大根畑のダイコンが見事に収穫されていた。

 畑の道路際にスチールケースが二段積みされており、太いダイコンがぎっしりと詰められていた。見たところ500本は無理で、200から300本くらいは入っているようだ。Cimg3636 爪付きローダーが大活躍したに違いない。Cimg3638 昨日のブログで、<機械はスタンバイして十日にもなるのに収穫しない。そのうちに大根が太り過ぎて売り物にならなくなる、もったいない話だ>と書いたが、その畑に来てみると・・・・・・、なあんだ、機械が畑のぬかるみにはまっている。

 そうか、昨日の日中にこの畑でも収穫が始まったのだ。しかし一作日にアップした時は物々しい収穫用の機械類がたくさん並んでいたが、おとといの午前中に降った雨で畑が冠水しにっちもさっちもいかなくなってしまったらしい。

 そのため急遽近くの畑の収穫を実行したということのようだ。Cimg3639 爪付きローダーも立ち往生したようで、ぬかるみから何とか抜け出ようと悪戦苦闘した証拠が見えている。

 ローダーの前の爪が畑に突き刺さったようになっているが、ああやって前輪を浮かせ、重量のかかっている後輪の力で動き出そうとしたのだが、それもかなわなかったらしい。

 今日はよく晴れたので、ぬかるみも固くなり、抜け出せると思うのだが・・・・・・。

 





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もったいない!(鹿屋市池園町)

毎朝6時ころ、愛犬ウメを散歩に連れ出し、近くの畑地帯を15分ほど回ってくるのだが、もう十日前から広さ3反(900坪)はある大根畑に、大きなスチール製のカゴや掘り取りの機械などが置かれたままになっている。Cimg3630 カゴの大きさは高さ1㍍、長辺1.5㍍、短辺1.2㍍ほどで、大根が500本くらいは十分に入りそうな大きさだ。Cimg3631 前にリフトの着いた荷役用のローダー。先っちょの二本の爪であのスチールカゴを持ち上げて運ぶ。Cimg3632 運転手の他に、掘り上げた大根の葉を切り落としていく人が二人、都合3人が乗り、走りながら作業のできる機械も置いてある。Cimg3633 前の部分、はしごのように見えるのが、大根を掘り上げる(というより抜き上げる)装置で、回転リフトになっている。Cimg3634 手前に見える大根。真ん中のは太さが12~3センチ、地上部分の長さは40センチ、抜けば全長60センチはある超ビッグ大根だ。この時期にここまで大きくなってしまうと「すが入る」(スカスカになる)はずだ。そのため収穫をあきらめたのだろうか。解せない。

 青首ではないところを見ると、おそらく漬物用(加工用)に栽培したのだろうが、豊作で加工が間に合わなくなったのか、それとも相場が安くなり過ぎたのか。

 いずれにしても、もったいない話である。











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あじさいロード(肝属郡錦江町田代)

 肝属郡錦江町に所用があり、足を延ばして田代地区の盤山にある「あじさいロード」を見て来た。

 旧大根占町の中心にある栄町交差点から国道448号線に道をとり、旧田代町中心部からさらに山手へ4キロほど行くと新田トンネル。そこを抜けて1キロ足らずで右手に「大原小学校へ」という看板があるから右折。Cimg3627 右折して1キロほどで大原地区の田園地帯に出る。一望10町くらいの田んぼ。ここの5枚の田で12,3年前まで米を作っていた。田の果てに見える白っぽい建物は大原小学校の体育館。あの辺りが大原の中心である。Cimg3609_2 7,8年前だったか、大原の中心部を迂回する「大原バイパス」が出来て、あっという間にあじさいロードの入り口だ。手前には「山茶香(やまさか)」という大きな茶工場がある。(右手の直線道路を行けば田代の川原地区へ至る。)Cimg3613_2 左折して清流に架かる橋を渡ると「盤山」への山道に入る。ここから延々3キロが「あじさいロード」である。Cimg3615 登り口が標高300㍍、盤山は標高500㍍。その差200mはあり、道はずっとカーブの連続だ。Cimg3617 途中に花崗岩の巨岩があり、その周りもあじさいで埋め尽くされていた。Cimg3622 上りついたところにあるのが「盤山公民館」で、ここは戦後開拓者の拠り所である。Cimg3618 公民館の庭の一角に「拓魂」と彫り込まれた大きな花崗岩の石碑が建っている。Cimg3620 「拓魂碑」の文面は

<昭和19年3月10日、旧満州国錦州省盤山県第13次与論開拓団に145戸635名が与論島から分村入植した。(しかしながら、20年8月15日には終戦となり)敗戦前後の苛酷な状況に中で、多数の人が犠牲となる。432人が町清之進氏を団長として肉親の遺骨を抱き、はだか同然で21年6月2日引き上げ上陸、内地開拓のため54戸156名が7月18日、現在地に入植した。

 

 開拓団長 町 清之進    副団長 池田 福利>

とあり、さらに開拓団員52名の名が刻まれている。

 開拓団員として名の見える元町議の有馬功さん(左から2列目、上から3人目)が、このあじさいロード植栽事業の中心人物であった。

 公民館からさらに150㍍ほど上がったところに有馬さんの家がある。訪れてみたがあいにくの留守であった。有馬さん一家には我が家が田代で米や野菜を作っていたころ、大いにお世話になった。娘が有馬さんの孫と同級生だったこともあってずいぶん親しくしてもらったものである。

 その有馬功さんは2年前に他界され、今はちょうど盤山公民館と有馬家の中間くらいにある墓地に眠っているので手向けをさせてもらった。Cimg3624 真新しい墓碑が6基建ち並ぶ。一番手前のが有馬家の墓である。Cimg3626 墓碑の左端、一番新しく刻まれた名が有馬さんのもの。その右手に昭和20年8月20日が命日の5人が見えるが、マツさん(52歳)が母親で、マツエさん、キヨさん、シズエさん、宏さんはいずれも有馬功さんの兄弟である。

 なぜ同じ日かというと、敗戦とともにソ連軍の侵入が始まり、逃げるのに足手まといになる、あるいはソ連軍に拉致・連行される・・・、ならいっそ死のうということで、・・・亡くなられたそうである。

 与論島から勇躍満州へ開拓に入ってからわずか1年5か月のことであった。

 満州にあじさいが咲くのかどうか知らないが、有馬功さんが熱心に植栽事業を進めたのは若くして亡くなった父母兄弟を偲ぶよすがだったのかもしれない。

 雨模様だが、あじさいはひときわ麗しく咲いているように思われた。合掌。

 


























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紫陽花二題(鹿屋市高隅町と天神町)

一昨日「梅雨に入ったかも宣言」が出された南九州。

 しかし、どういうわけか、宣言の出た翌日か翌々日は上天気のことが多い。今年も例外ではなかった。

 仕事で高隈周辺から百引の平南辺りを巡回したが、高隈ダムが堰き止めた大隅湖では湖畔に植えられたアジサイが満開だった。Pt350001 大隅湖の最上流部近くにある「貸しボートの収納施設」近辺はまさに見頃であった。Pt350002 梅雨入りして間もないので湖の水面は低い。砂州の上に上半身裸の青年が二人、釣り竿を持って今まさに針を投げ入れようとしている。この辺りはブラックバスがよく釣れると聞く。Pt350003 釣果を祈る。

 午後からは鹿屋市西部の海岸・天神地区を見回り、その帰り道に「アジサイ園」の側を通ったので休憩がてら見物をした。Pt350010 このアジサイ園は川村石材店が開いたもので、4年ほど前から道路ばたの斜面を切り崩し、赤い荒平石(阿多凝灰岩)をレンガ状にしたものをせっせと積み上げ、比高10㍍はある法面全体にアジサイを植えている。Pt350005 誰でも入っていいよ、お金要らないよ―と太っ腹な園主だ。「万が一怪我しても責任は負いません」は当然だろう。有り難く見学させてもらう。Pt350006 「桃源郷」という言葉があるが、ここは「紫陽花郷」だ。色とりどり、様々な種類のアジサイが所狭しと咲き誇っている。Pt350008 立体的ではあるが、さして広い空間ではない。それでも500坪は下らないか・・・、世塵を忘れさせてくれる庭園には違いない。Pt350011 本業の石材店は紫陽花園のやや下に忘れられたように(!?)、まさに世塵を離れてひっそりと静まり返っていた。






















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志布志を訪れる(志布志市志布志町)

所用で県立志布志高校を訪ね、その足で少しばかり旧跡を歩いてみた。

 志布志高校は旧制志布志中学校で、創立は明治40年(1907)と古い。Pt350260 創立当時は海岸線がずっと近くまであり、その名残りが正門入口に立つ松の大樹だろう。校庭の栴檀、銀杏、クスなどの大木はよく見かけるが、松(黒松)の樹林は珍しい。Pt350262 入って右手を行くと「追思の碑」という古めかしい石柱が建っている。一番右のやや低いのが<旧制志布志高等女学校>の門柱だったもので大正14年製、左手の一対は旧制志布志中学の門柱で明治40年の物である。

 この中学校出身者で著名なのは、自分の知っている中では「吉井淳二」と「海老原喜之助」がいる。どちらも画壇で重きをなした。大正デモクラシーの背景で育った同級生の両名は東京とパリでそれぞれの道を歩んだが、志布志の明るい海洋性の風物が絵画の世界に大きな影響を及ぼしたように思う。Pt350259 志布志高校を出てさらに国道を中心部へと向かう。志布志郵便局を過ぎて次の交差点を左折し、次の辻を右折したところにあるのが「小西児童公園」で、ここには愛甲喜春・日本どん・児玉伝左衛門・肝付兼続の墓がある。(写真、向かって右端が肝付兼続の五輪塔、児玉伝左衛門の墓塔、日本どんの墓、左端の樹木に隠れているが愛甲喜春の墓と並んでいる。)Pt350257_3 肝付第16代兼続の墓。説明では「墓碑」となっているが、肝付兼続こと省釣(しょうちょう)が志布志で死んだことは間違いない。

 肝付氏は次の良兼の代で高山本宗は滅び、18代の兼道の時、阿多12町に移封された。ただ、12代兼連の子の兼光流が大崎ー溝辺ー加治木ー喜入と生き延び、江戸期になって島津氏に重用され、そこから幕末の名家老・小松帯刀が出ている。Pt350256肝付兼続の五輪塔の後ろには、沖縄県糸満市にある「白銀堂」建立の由来を作った児玉伝左衛門実好の墓がある。

 <伝承によると、伝左衛門は帯刀を許された商人で、糸満の漁師に金を貸したところ2年目になっても返せないので腹を立てて漁師を斬ろうとした。漁師がそこで「意地起きらば手を引き、手出らば意地を引け(腹を立てたら手を引き、手を出そうとしたら腹を鎮めよ)」という地元のことわざを口に出して命乞いをしたところ、伝左衛門は何とか思いとどまり、もう一年待つことにして志布志に帰った。

 我が家に夜遅く帰ってみると、玄関に男物の履物があり、寝室では妻が男と寝ていた。伝左衛門はカッとなり刀に手をかけ両人を斬ろうとしたが、その瞬間、糸満の漁師に言われたことわざを思い出し、冷静になって布団を見ると、男と思ったのは母親で「女のひとり寝は、危ないから男の格好をして添い寝していた」とのこと。

 伝左衛門は事実を知り血の引く思いであった。もしかっとなったまま両人を斬り捨てていたら「親殺し・妻殺し」の大罪を犯すところだったのだ。

 翌年、伝左衛門が糸満の漁師のもとを訪れ、感謝を述べて返金には及ばない旨を言うが、漁師は豊漁で十分に返金ができると言い張って収まらない。そこで二人は合意の上、金をある岩の下に埋めて志とした。そこを「白銀岩」と呼ぶようになり、のちにお堂が建って「白銀堂」と呼ばれるようになった・・・>

 児玉伝左衛門(~文政7年=1825年)の墓はもとは町営墓地にあったのを、ここへ移転したようである。

 大隅半島では屈指の港町志布志ならではの伝承であり、ほぼ史実とされている。Pt350255 児玉伝左衛門の墓の左隣りには「日本どん」の墓がある。日本どんは志布志の漁師で「天下一の天気予報の名人」で、藩主の覚え目出度く<日本>姓を貰ったとのことである。現在も志布志には「日本」姓があるそうだ。(電話帳を見ると肝付町にも一軒ある。)Pt350254愛甲喜春は儒者で、加治木安国寺に墓のある南浦文之の孫弟子に当たる。

 「喜春聞書」という書で、漢文の和訓を最初に発明したのは薩摩の儒僧である南浦文之であり、「文之点」という和訓法が戦国時代にすでに鹿児島では普及していたことを記していることで有名な人である。Pt350258 以前ここに来た時にはなかった俳人・種田山頭火の句碑が建っていた。

   松風 ふいて 墓ばかり

 この句は山頭火が昭和5年(1930)の十月に志布志を訪れた際に詠んだ数十句のうちの一つらしい。この辺りは志布志大慈寺の境内のうちで、墓地が広がっていた様子を詠んでいる。

 現在の志布志の繁華街の西半分は大慈寺の敷地だったと言い、またこの辺りまで海岸の松林が茂っていた80年前の町の様子を偲ばせる句といえる。漂泊の詩人ならではの単刀直入である。







 
















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”Della Sela”で昼食 

所用で錦江町の大根占へ行った帰り、久しぶりに夫婦だけでレストランに入った。

国道269号線が旧大根占町の神川海岸に向かってもう少しで下り始めるというところに、1年くらい前にできたイタリアンレストランがある。Pt350237 イタリアの国旗のデザインの店名看板が、レンガ調の高い塀が道路に沿って打ち続く切れ目に掛かっている。30㍍くらい続く長い塀の一角、わずか4㍍ほどの間隙がレストランの入り口である。(道路の向うは神川海岸へのゆるやかな下りになっている。)Pt350241中は意外に広く、車が10台くらいは停められる。足元はレンガの塀同様のものが敷き詰められている。(逆光で明るすぎてよく分からないが・・・。)Pt350243 レストラン本体の壁も塀と同様のレンガが貼ってある。Pt350244 茶系の色調で統一されているとはいえ単調な入り口・駐車場・レストランの壁だな・・・、と思って入り、カウンターを横目に室内を通り抜け、外のテラスに出て驚いた。地中海の眺めがそこに・・・・・。Pt350245 下にもテラスがあり、その向こうには大根占から根占にかけての屈曲した海岸線と、シラス台地特有の海にせり出す平らなメサ地形がいくつも望まれる。Pt350246 ランチにはサラダがついている。メニューはパスタとピッツァだけだが、ピッツァの種類は豊富で、20種類くらいある。Pt350248 何を食べたらいいか分からなかったので「本日のランチメニュー」を注文した。

 手造り石窯焼きという生地の上には、スモークサーモンとインゲンと何とかがトッピングされていた。これまで食べたピッツァの中では最も手造り感のある食べ心地であった。何しろ風景と開放感には参った。Pt350247 「デラ セラ」ってどんな意味?―と注文の品を運んできた女店員に聞くと「夕日」のことだそうだ。

 なるほど、錦江湾は西側にある。開聞岳も見えるから、夕日が開聞岳の向うに落ち、シルエットになった時はどんなにか素晴らしいだろう!




















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