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志布志を訪れる(志布志市志布志町)

所用で県立志布志高校を訪ね、その足で少しばかり旧跡を歩いてみた。

 志布志高校は旧制志布志中学校で、創立は明治40年(1907)と古い。Pt350260 創立当時は海岸線がずっと近くまであり、その名残りが正門入口に立つ松の大樹だろう。校庭の栴檀、銀杏、クスなどの大木はよく見かけるが、松(黒松)の樹林は珍しい。Pt350262 入って右手を行くと「追思の碑」という古めかしい石柱が建っている。一番右のやや低いのが<旧制志布志高等女学校>の門柱だったもので大正14年製、左手の一対は旧制志布志中学の門柱で明治40年の物である。

 この中学校出身者で著名なのは、自分の知っている中では「吉井淳二」と「海老原喜之助」がいる。どちらも画壇で重きをなした。大正デモクラシーの背景で育った同級生の両名は東京とパリでそれぞれの道を歩んだが、志布志の明るい海洋性の風物が絵画の世界に大きな影響を及ぼしたように思う。Pt350259 志布志高校を出てさらに国道を中心部へと向かう。志布志郵便局を過ぎて次の交差点を左折し、次の辻を右折したところにあるのが「小西児童公園」で、ここには愛甲喜春・日本どん・児玉伝左衛門・肝付兼続の墓がある。(写真、向かって右端が肝付兼続の五輪塔、児玉伝左衛門の墓塔、日本どんの墓、左端の樹木に隠れているが愛甲喜春の墓と並んでいる。)Pt350257_3 肝付第16代兼続の墓。説明では「墓碑」となっているが、肝付兼続こと省釣(しょうちょう)が志布志で死んだことは間違いない。

 肝付氏は次の良兼の代で高山本宗は滅び、18代の兼道の時、阿多12町に移封された。ただ、12代兼連の子の兼光流が大崎ー溝辺ー加治木ー喜入と生き延び、江戸期になって島津氏に重用され、そこから幕末の名家老・小松帯刀が出ている。Pt350256肝付兼続の五輪塔の後ろには、沖縄県糸満市にある「白銀堂」建立の由来を作った児玉伝左衛門実好の墓がある。

 <伝承によると、伝左衛門は帯刀を許された商人で、糸満の漁師に金を貸したところ2年目になっても返せないので腹を立てて漁師を斬ろうとした。漁師がそこで「意地起きらば手を引き、手出らば意地を引け(腹を立てたら手を引き、手を出そうとしたら腹を鎮めよ)」という地元のことわざを口に出して命乞いをしたところ、伝左衛門は何とか思いとどまり、もう一年待つことにして志布志に帰った。

 我が家に夜遅く帰ってみると、玄関に男物の履物があり、寝室では妻が男と寝ていた。伝左衛門はカッとなり刀に手をかけ両人を斬ろうとしたが、その瞬間、糸満の漁師に言われたことわざを思い出し、冷静になって布団を見ると、男と思ったのは母親で「女のひとり寝は、危ないから男の格好をして添い寝していた」とのこと。

 伝左衛門は事実を知り血の引く思いであった。もしかっとなったまま両人を斬り捨てていたら「親殺し・妻殺し」の大罪を犯すところだったのだ。

 翌年、伝左衛門が糸満の漁師のもとを訪れ、感謝を述べて返金には及ばない旨を言うが、漁師は豊漁で十分に返金ができると言い張って収まらない。そこで二人は合意の上、金をある岩の下に埋めて志とした。そこを「白銀岩」と呼ぶようになり、のちにお堂が建って「白銀堂」と呼ばれるようになった・・・>

 児玉伝左衛門(~文政7年=1825年)の墓はもとは町営墓地にあったのを、ここへ移転したようである。

 大隅半島では屈指の港町志布志ならではの伝承であり、ほぼ史実とされている。Pt350255 児玉伝左衛門の墓の左隣りには「日本どん」の墓がある。日本どんは志布志の漁師で「天下一の天気予報の名人」で、藩主の覚え目出度く<日本>姓を貰ったとのことである。現在も志布志には「日本」姓があるそうだ。(電話帳を見ると肝付町にも一軒ある。)Pt350254愛甲喜春は儒者で、加治木安国寺に墓のある南浦文之の孫弟子に当たる。

 「喜春聞書」という書で、漢文の和訓を最初に発明したのは薩摩の儒僧である南浦文之であり、「文之点」という和訓法が戦国時代にすでに鹿児島では普及していたことを記していることで有名な人である。Pt350258 以前ここに来た時にはなかった俳人・種田山頭火の句碑が建っていた。

   松風 ふいて 墓ばかり

 この句は山頭火が昭和5年(1930)の十月に志布志を訪れた際に詠んだ数十句のうちの一つらしい。この辺りは志布志大慈寺の境内のうちで、墓地が広がっていた様子を詠んでいる。

 現在の志布志の繁華街の西半分は大慈寺の敷地だったと言い、またこの辺りまで海岸の松林が茂っていた80年前の町の様子を偲ばせる句といえる。漂泊の詩人ならではの単刀直入である。







 
















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