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アグネス・チャン講演会(鹿屋市文化会館)

 歌手でユニセフ親善大使のアグネス・チャンの講演が、鹿屋市文化会館で行われた。

 午後2時ころ文化会館の客席に入ってみると、2階まで1000人が観覧可能という文化会館はほぼ満席に近かった。Cimg3749 さすがにアグネスの知名度は高い。PTA主催の「家庭教育講演会」だが、宝くじ基金からの助成金ですべての運営ができたそうで、文字通り大当たりだったろう。Cimg3751 テーマは『みんな地球に生きている』で、アグネスが生まれ故郷の香港から日本に歌手としてやって来て以来、カナダでの大学生活、再来日してからの結婚とボランティア活動、そして現在までつながる国連のユニセフでの活動まで、流暢になった日本語で分かり易く語っていた。

 ただ、やや早口なので若干聞き取りにくいところもあったが、内容的には感心させられることが多かった。

 中でもボランティア活動には年期が入っていて、香港にいる頃の中学生の時から施設などを訪問して恵まれない子供たちを励ましていたそうであるだ。その頃、施設で子供たちに歌を聞かせてやっていたのが評判となり、香港でレコードデビューしたところ結構売れたという。

 日本のレコード会社がその様子を聞いて日本での歌手デビューを持ちかけたのが、日本へ来るきっかけとなった。数年後の17歳の時に出した『ひなげしの花』が空前の大ヒットとなり、たちまちメジャーへの道を歩み始めたのは、記憶に新しい。

 しかし、『ひなげしの花』のあとはヒットに恵まれず、父親の「芸能界のサイクルは短く、一生続けられるものじゃない。学問知識は一度身につければ一生のものだ」との意見でカナダの大学へ留学。

 卒業前に父親が亡くなり一度香港に帰ったが、母親の勧めもあり再度日本デビューを果たすことになった。その時の条件が「歌手生活のかたわら、ボランティア活動にも取り組めること」だったから変わっていると言えば言える。(その条件を認めてくれたプロダクションのプロデューサーがのちに夫となった。)Cimg3753 現在56歳、今年中には57歳になるが、見たところ17歳当時の顔だちも髪型も変わっていないのには驚く。

 その後、アグネスのボランティア活動は国際化し、戦争後のイラクや内戦のスーダン、エチオピア等での活動を話してくれた。どこを訪れてもアグネスの関心は子供で、戦禍に遭った子供たちへの支援が半端ではないのには驚かされる。

 か弱そうだったアグネスの、いったいどこにこのような活動のベースがあるのだろうか?信じられない思いがする。

 アグネスが日本に来て日比谷公園に案内されたとき、公園内にいるたくさんの鳩を見て驚いたそうである。それは鳩の数が多いからではなく、「香港だったら煮たり焼いたりして食べるのに、なぜ日本人はそのままにしておくのだろう?」

 また、アグネスは蛇料理が好きで、毒蛇でも身だけを焼いて食べたそうである。

 日本の友人に話したら「気持ち悪いからやめて!」と言われたが、今でも仲良しは続いているとのこと。

 「それぞれ人は食べ物も宗教も民族もどれもが違っていても、認め合えば仲良くしていられるんですよ」――これがアグネスの言いたかったこと。独特のアグネス節だ。

 思うに、平和の象徴である鳩を食べたことが<贖罪としての国際支援活動>に、蛇を食べたことで<地球上の最も危険で痛ましい地域へ出かけるタフさ>が見に付いたのだろう。とにかく精力的で、現地に行ってこの目で確かめ支援をしている強さがあった。

 また、自分から見て子供がどんなにダメでも、何かさせてたった一つでもうまくできたら褒めてあげることが子供の成長を促す、とも言う。このあたりは、多くの子育て論者は言っているが・・・。

Cimg3755 講演の最後に「歌手ですから歌を唄っておしまいにします」と、手話付きで会場のみんなを促して唄った。なんとかの花と、花が入った題名だったがよく聞き取れなかった・・・。

 東日本大震災でも避難所に支援で訪れている。ある避難所では5歳の女の子が勝手にアグネスの後を付いて回ったそうである。そして別れ際に彼女の小さな小銭入れからお金を出して「これ、わたしも寄付」といってアグネスに渡した。その額はわずか11円だったが、アグネスは大泣きに泣いたという。

 「こんな子がいる以上、大震災にもめげず、将来はきっと大丈夫だ、と感じましたね」

 

 言いながら、アグネスは手にしていたハンカチを目に当てていた。まさに感動の一瞬。こちらの目も潤んでしまった。
Cimg3746 世界にこんな平和が訪れてくれれば・・・。(鹿屋市文化会館入り口の道路際で)









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土用の丑の日(鹿屋市祓川町)

 今日7月27日は夏の土用の丑の日だ。この日、世間ではウナギを食べるのが通例だが、我が家では滅多に回って来ない。

 養殖ウナギの稚魚のシラスが大不漁ということで値上がりしているらしいが、そのことより、30年ほど前の昔、家内の実家の指宿で「天然ウナギ」をよく採る人がいて、その人から直買いのウナギの歯ごたえに感じ入って以来、養殖物のあの過度の柔らかさに堪えられなくなったことが大きい。

 たれの風味は格別だが、肝心のウナギが今のようでは大枚を叩いてまで食べようとは思わない。大隅は全国でトップクラスの養殖ウナギの産地なので残念なことだが、誰か養殖業者で天然ものに近い風味のウナギを生産してくれないだろうか。

 ウナギと言えば『万葉集』に載る大伴家持の歌が有名で、知り合いの「何を食べても飲んでも痩せてガリガリな吉田連老(よしだのむらじ・おゆ=通称が石麻呂)」をからかう2首を贈っている。

  石麻呂に 吾(われ)物申す 夏痩せに良しといふ物ぞ 鰻漁(と)り食(め)せ

                         ――『万葉集』巻16・3853番

  痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を漁(と)ると 川に流るな

                         ――同上・3854番

 大伴家持は歌人として著名だが、その父旅人(たびと)はほぼ1300年前の720年(養老4年)、南九州の隼人が大隅国守として赴任した陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を殺害して反乱を起こした時に、大和王朝から「征隼人持節大将軍」として遠征して来ている。

 この歌人・家持の贈った2首の歌が、なぜ吉田連老(石麻呂)をからかっていることになるのか?

 それは二首目の歌である。一首目の歌は「いつも痩せていて、夏になるともっと痩せてしまうお気の毒な石麻呂よ。栄養のある鰻をとりに行って召上がれ」と同情しているのだが、次の歌では「痩せていても生きておれば上々。もし鰻をとりに行って万が一川に流されたんでは目も当てられないからね」と皮肉っている。

 もらった石麻呂も「そうよなあ。ガリガリも個性なんだよなあ。鰻、やめとこ」と言ったとか言わなかったとか・・・。

 さて、土用は鰻ばかりではない。今日の午後、めずらしい立て看板に出くわした。鹿屋市を流れる肝属川の上流・祓川田んぼを通った時のこと。Cimg3742「瀬戸井出水利組合」というグループが道路端に立てたもので、<お知らせ>とあり、<土用干し 平成24年7月28日から平成24年8月5日まで>と分かり易い字で印刷してある。

 自分も7年ほど田んぼで米(早期米)を作ったことがあるので分かるのだが、この普通作の「土用干し」に当たる言葉は「中干し(なかぼし)」と言った。

 田植え後、稲が成長していく途中までは湛水(水を溜めたまま)なのだが、中干しとはその後一時的に水を田んぼから落として地面(じづら)を空気や太陽に晒すことである。

 地面はひび割れし、稲株の元まで光が届く。これが根の張りを良くし、また稲の茎(稲幹)を硬くする。そのことにより、その後の生殖成長(籾種の結実)に耐える丈夫な稲が育っていく、結果として稲が倒伏せず、収量も多いということにつながって行く。Cimg3743 普通このように立て看板などで広報することは無く、たいてい集落内の放送か座談で周知されるものであるが、田の別の側に回ってみて、なるほどと合点がいった。

「体験学習圃場」と書いた小さな看板が見える。この田んぼの向うの木立の中にある祓川小学校の学習農園だったのである。しかも「祓川村里づくり会」との共同農園らしい。

 左手の高い方の立て看板には、『テーマ』として「景観保全・生活環境保全」が取り上げられている。なるほど学校と地域がこのような目に見える形で協力し合い、児童にもふるさとの大切さを心に刻ませようという狙いがあるようだ。素晴らしい取り組みである。Cimg3744 「うるち米」と「もち米」とちゃんと区別できるように名標が立ててあるところが学習農園らしい。

 今はまだ苗の間が空いており、水が見えるが、明日から水を落とし8月5日までの9日間の「土用干し」となるようだ。人間で言えば、この2か月弱の苗は中学校に入ったばかりくらいの生徒。これが中干しにより根張りと体幹がぐんとたくましくなる。思春期から青年になって行くその通過点に差しかかっているところだ。Cimg3740 鹿屋の母なる川「肝属川」と祓川地区の田んぼ地帯。馬渡橋から上流を眺めたところ。左奥の山並みは高隅連山。





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梅雨明けの高須海水浴場(鹿屋市高須町)

 仕事で高須海岸に出かけた。昨日梅雨が明け、満天の青空が広がっている。

 海水浴場を眺めると、保育園児と思われる一団が海に入っているのが見えた。Pt350015_2 近づいてよく見ると着衣のまま海に入っていた。おそらく「着衣水泳」の練習なのだろうが、保育園児にはまだ早いようである。Pt350016_2 大人が4名就いていた。保育園の先生かと思われたが、二人は若いお兄さんだった。体育指導の一環だったのだろうか。

 救命胴衣を身に着けた園児たちは神妙に手を繋いで円陣を作り、真剣そのものの目でお兄さんたちの指示を見守っていた。

 夕方、久し振りにガ―デンテーブルと椅子を元の所に置き、さわやかな東風を楽しむ。東の空には白い夏の雲が肝属山地を覆うように浮かんでいた。Cimg3737







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集落のグラウンドゴルフ行事(鹿屋市田淵町)

 今朝は6時前にウメの散歩を済ませ、帰ってみるとウッドデッキにしつらえた朝顔ネットに大輪の花が咲いているのに気付いた。

 4,5日前から急にツルが大きく伸びてきていたのは知っていたが、すぐ人目に付く南側に巨輪が咲いていたのにはちょっと驚いた。Cimg3727 直径は20センチ近い。

 カメラを向けると、ウメの散歩中にデッキの上にちょこんと座っていたまあくんが振り向いて「何じゃ」と威嚇した。帰ってからまずウメに朝飯を与えるのだが、と同時に「僕にもくれ」と啼いてせがむのが恒例になっている。Cimg3729 まあくんに構わず、花に近寄って写そうとしていたら、蝶が飛んで来てとまった。この蝶も朝飯らしい。Cimg3730 向こう側面(東側)に回ってみると、おやおや結構な色合いのこちらも大輪だ。

 このあと、まあくんにも朝飯をやり、一段落。

 今日は8時から集落の班で行うレクリエーションのグラウンドゴルフに参加した。

 田淵町の大姶良小学校に隣接する芝生広場で開かれたが、20人ばかりの参加だった。Cimg3732 天気が上々なのはいいが、残念なことに風が全くないので暑さには参った。Cimg3735 ここの広場は1ラウンド16ホール分を取れるだけの広さがなく、8ホールを2回まわって1ラウンドに当てた。Cimg3736 10時半には終わり、もう弁当が到着したというので、家内と二人分の弁当をもらい早目に帰宅したが、汗の掻きようは尋常ではなかった。

 シャワーを浴びて昼弁をつまみにビールを一杯。熱中症が退散したこと言うまでもなし―。
















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飯隈の田んぼ地帯(鹿屋市飯隈町)

 鹿屋市内でもかなりまとまった広さを持つ飯隈田んぼ。もう早期米は黄金色の穂を垂らしはじめている。Cimg3721_2 奥行1.5キロ、幅1キロほどの田園の真ん中を貫く県道550号線(別名、鹿屋環状線と呼ばれている)の道路沿いはすっかり収穫の秋。

 奥に見える連山は鹿屋市と錦江町の境になる横尾山系だ。

Cimg3724 この飯隈平野は横尾山系から流れてくる大姶良川(上・樋渡橋から下流の飯隈方面を見たところ)と名貫川(下・永野田橋から上流を見たところ)との合流地帯が形成した肥沃な田んぼ地帯である。Cimg3716 もうすでに案山子を立てている田んぼがあった。Cimg3723 早期米の田植えは今年はどこも遅れたが、梅雨入り以降のほどよい降雨と高い気温で生育は悪くはない。この田んぼなら旧盆前に刈り入れができるだろう。

 この田の向う側を大姶良川が右手から左手へ流れているが、さらに向うの台地は川によって削り取られずに残ったシラス台地である。この台地の上で「堀木田地下式横穴墓」が見つかっている。

 地下の横穴(石棺を入れる部分)の長さが4㍍もあり、大刀の副葬もあった。興味深いのが、人骨に残された「外耳道腫」という耳の外耳道に残された腫瘍で、これは潜水するような生業に携わっている者に多く見られる一種の奇形である。

 これがあるということはこの被葬者が、農業者というより漁業・水運業者という性格を持っていることが言えるわけで、南九州人の古墳時代以前の暮らしぶりが垣間見える発見であった。純農村地帯に葬られた理由はよく分からないが、いずれにしてもこの飯隈辺りの農業者を従えるだけの力を持っていた首長だったと思われる。Cimg3722 中心部の田んぼで、面白い光景に出くわした。というのは手前の田jはまだ植えられて1,2か月なのに、その隣りの向うの田はもう重そうに穂が垂れているのだ。早期米と普通作とが交じりあっているのだが、ふつうこのような植え方はしない。水の管理が大変になるからだ。Cimg3717 同じ光景は大姶良川に合流する名貫川沿いの田でも見られた。手前はまだ田植え後3週間くらいだろうか、向うの穂が出そろいそろそろ垂れ始めようかという田んぼとはえらい違いだ。寒さのため早期米の苗が足らなかったのか、初めからそうしたのかは不明だが、例年の光景にはなかった状況である。Cimg3718 名貫のいまの田んぼの道路の反対側の田に、ハスが植えられていた。大賀ハスではなく真っ白い花で、食用のいわゆるレンコンとなるものだろう。これも初めて見る光景である。


 








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海の日(鹿屋市浜田海水浴場)

 7月第3日曜日の次の日が「海の日」になって久しい。連休を多くとれるように日曜日の次の日に祝日が設定されたのはいいが、肝心の祝日の存在意義が薄くなってきた。

 「海の日」は関係者以外の国民にとってはどうでもいい祝日だが、これが「敬老の日」や「成人の日」となると、我々のように青年時代から成人の日は「1月15日」、敬老の日は「9月15日」で馴染んできた者からすると腹立たしい。

 だが、とにかく海水浴場はどこもオープンしている。この三連休では、昨日の日曜日は「おおすみ歴史講座」で外出したが、庭の草取りだけで終わりそうなので、海水浴に行くことにした。

 といっても今日は33℃のカンカン照りで、日中はとてもじゃないが外に出るには厳しい。そこで夕方になってから行くことにした。大相撲名古屋場所の横綱白鳳が勝った瞬間まで観戦し、すぐに家を出て浜田海水浴場へ向かった。Cimg3697 浜田小学校の側から望む浜田海水浴場。

 赤い東屋はキャンプに来た若者がよくバーベキューなどをする場所。その手前に駐車場がある。去年から駐車場は無料で開放されている。

 手前の田んぼ、実はかなり昔は入り江だった所。海水浴場の小高い松林は砂嘴(さし)で、そこが自然の防波堤となり、田んぼのあるこの入り江は絶好の船溜まりだった。この浜田湊からは弥生時代中期の須玖式土器が見つかっているので、海を通じて北九州との交易があったらしいことが分かっている。

 浜田湊から20キロ北にある垂水市の縄文時代後期中頃(3500年前)の柊原(くぬぎばる)貝塚からは、北九州でも佐賀県伊万里市にある「腰岳」に産出する黒曜石がかなり出土しているので、それより1000年以上も新しい弥生時代中期(2000~2200年前)の遺跡に、北九州とのつながりを示す遺物が見つかって何ら違和感はない。我々が思う以上に海を介したつながりは深くかつ強いのである。Cimg3699 浜田海水浴場のある海岸はまだ松林がかなり残っている。手前に見える白い花は浜木綿(はまゆう)で浜田から高須にかけての海岸端にはよく見られる。Cimg3703 「海の日」と言えどももう6時を回っている。海岸には二家族とどちらかを見守るおばあさんらしき人がひとり。

 梅雨明けを思わせる澄んだ空気の中、秀麗な開聞岳が遠くに望まれる。Cimg3707 30分ほどぷかぷかと波に揺られているうちに太陽がだいぶ西に傾いてきた。Cimg3706 もう一家族を残すだけになった。Cimg3710 さらに15分ほどした7時ころ、太陽は薩摩半島の地平線に沈み始める。Cimg3713 さようなら太陽。Cimg3715 最後までいた若い家族も、砂浜に上がり、子供とともに夕日を眺めていた。感動を胸に刻んだかな・・・。














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珍妙な政党名

 民主党と袂を分かった小沢一郎率いる集団が、ついに新しい政党を立ち上げた。

 その名は「国民の生活が第一」党だそうだ。何ともしまりのない名である。

 民主党の会見があるとその席の後ろのボードに、「民主党」と並んで「国民の生活が第一」というスローガンがいつも見えていたが、そうか、あのキャッチフレーズは民主党を組織する際に小沢一郎が作ったものなのか。

 そのことはよく分かった。小沢一郎にしてみればそのキャッチフレーズこそ自分が作り、かつ、民主党が自民党を惨敗させた根本なのだという自負があるのだろう。だから民主党を離党する際に持って行ってしまったわけだ。

 「これがなきゃ、民主党は選挙に勝てないよーだ。ざまあみろ」と溜飲を下げたいらしい。実際に勝てないかどうかは解散総選挙があってみないとわからないが、これでも小沢新党への上積みはせいぜい30票というところだろう。

 第3党にはなるだろうが、政権を握ることは到底不可能だ。「民主党が政権を運営している間は、決して消費税を上げることはありません」というマニフェストも、現実問題として喉元に歳入不足を突きつけられては、どうあがいても仕方あるまい。「社会保障に回す金」ということであれば誰しも反対する理由がないのが現状で、マニフェスト違反は絶対認められないというのは単なる書生論だ。

 (10%以上の消費税にはしたくないが、根本に超高齢化・超少子化が横たわっており、これの解決を見ない限り、消費税の上昇は続くものと覚悟しておいた方がよいかもしれない。このままで行けば、アジアアフリカの多産民族から子供を分けてもらうという時代が来る可能性がないとは言えない。)

 珍妙な名の政党が生まれたついでに、自分がもし新政党を立ち上げるとしたら、

 「戦勝国アメリカの軍事的プレゼンスをリセットするために永世中立国宣言をし、沖縄はじめ列島から米軍基地を解消し、18歳になったら青年に国を守るための2年間の兵役またはボランティアを課して仕事または学業の単位を与える」党

 だな。

 青年には「世のため、人のため」という取り組みをさせることがぜひとも必要で、兵役が無理なら介護なり災害復旧なり、何でもいいからとにかく自分は世の中の役に立っているのだという実感と多少なりとも賃金を。また学生ならその分を学業の単位として与え、達成感を味わわせてやりたいものである。

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気晴らしは「木登り」

 7月8日(日)は久しぶりによく晴れ、梅雨の最後の中休みという感じだった。

 庭に出て、雨のためやり残した菜園の手入れ。ナスの支柱立てと草取りに若干汗を流す。

 終わって昼食を摂ったあと庭を眺めると、モモが木に登っていた。モモのお気に入りは合歓の木で、去年、倉庫の屋根の上を覆う太い枝が伸びたので、それを伝って行った。Cimg3693 やがて屋根の上に降り、しばらく向うを眺めたり、あごの下を掻いたりしていた。トタン屋根なので太陽の熱を吸収して熱かろうにと思うのだが、合歓の葉が日差しを和らげてくれているようだ。Cimg3692 雨続きで外に出られなかった日が多かったので、恰好の気晴らしになったろう。

 

 下を見ると、ウメは暑さのためかグロッキーのようだ。Cimg3691 ・・・というわけでもなく、夏の真昼はいつもこんな格好で寝ているのが普通なのだ。

 ウメの体が小屋の左壁の下の部分に食い込んで見えるが、その部分、実はウメがかじってしまったもので、文字通り「何食わぬ顔」でいるのが笑わせる。

 眺めているうちに、ウッドデッキのテラスに「まあくん」(仮称)が現れた。Cimg3689 この猫、ここ2ヶ月くらい我が家の周りに出没し、朝、ウメの散歩の頃は、いつもこのテラスにちょこんと座って、散歩から帰ってウメに餌をやるときになると、ニャー、ニャーと餌をねだる。Cimg3690 仕方なくちょっと餌をやり始めたのがいけなかった。それ以来、ウメとモモに餌を与える朝と夕方にはおすそ分けを・・・。どこのネコかも、オスなのかメスなのかもわからないが、とりあえず「まあくん」。











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「大浜電信局」跡(南大隅町大浜)

「大浜電信局」は知る人ぞ知る明治の記念物である。

日本に電信が紹介されたのは明治の初期だと思うが、実際に電信局が設けられ稼働したのは明治の後半であった。Cimg3678 ここ南大隅町の大浜海岸に「大浜電信局」が建設されたのは明治29(1896)年である。前年に日清戦争に勝利した日本は台湾を領土としたが、この台湾と本土を結ぶ通信線として計画されたのがこの「大浜電信局」であった。

 Cimg3686 大浜電信局の真向いの海岸から、通信用の海底ケーブル(直径14センチくらい)が海中にもぐり、はるか1600キロかなたの台湾の基隆(キールン)まで敷設されていたというから驚きいるほかない。

 大隅史談会発行の会誌『大隅』27号に「記念碑<大浜電信局之跡>に寄せて」という一文があるが、これは自身が日本電信電話公社に奉職していた会員(旧理事)の石踊二男氏が書いた物である。

 それによると明治29年8月に、この大浜からまずは奄美大島を経て沖縄までの海底ケーブルが敷設完了している。これは軍用として始まったのだが、同年10月には一般公衆用に供用された。

 そしてその3年後には基隆まで延長されている。

 ところがさらに4年後に、大浜から大根占町に移され「大根占電信局」と改称された。さらにその7年後の明治43年、電信局は長崎に移され、同年12月には大根占電信局は廃止となった。明治29年に設置されてからわずか14年のことであった。

 たった14年の期間、しかも遠い明治の中期に存在しただけだったにもかかわらず、跡地に立派な碑が建てられた(昭和41年9月)のにはわけがある。日本でさきがけの電信局だったからではなく、そこに当時働いていた著名な人物がいたからである。

 教育界に非常に優れた業績を残した玉川学園創立者・小原圀芳(明治20年生まれ)がその人で,『大隅』27号の石踊二男氏の執筆内容によれば、明治20年に鹿児島の坊津に生まれた小原は明治34年ごろから5年間をここで働いていたという。まだ10代後半の頃であった。

 石踊氏によれば「明治36年の局員数は、判任官として通信属16名、通信手7名、…事務員17名、集配人2名、信使(局内で電報を各回線別に区分し、配布する係)5名、小使5名、合計52名が従事していた。」そうで、その中のひとりが小原圀芳少年だった。当時としては破格の月給25円だったそうである。(その頃の日当は18銭だったとかで、これを月給に直すと30日働いても5円余りにしかならなかった。)

 とにもかくにも小原少年は五年間働いて溜めた金で師範学校に入り、さらに京都大学にも学んで教育者となった。東京の成城学園でも教鞭をとり、その経験を活かして「全人教育」を掲げて新しい学園「玉川学園」を創立した。Cimg3681 国道沿いにある「小原圀芳立志の碑」。青雲の志を抱いてここから中央へと羽ばたき、見事に教育者としての初志を貫徹した小原圀芳を讃える石碑が建つ。Cimg3683 国道が通っているとはいえ昼間でもひっそりと静まり返っている大浜地区。この通り沿いに、当時を回顧した小原圀芳本人の記すところによれば、

<やがて部落を通り抜けると、向うに電信局の一廓(いっかく)、村人たちが呼んでいた”大浜御殿”がある。どう見ても田舎には不似合いなビックリするほど堂々たる電信局、倉庫、電池室、工事室。そしてその周囲には何十軒という住宅、独身者のための寄宿舎から食堂、風呂場。さながら一城郭>

 だったというからすごいものだ。当時、52人の従業者がいたという。

 国策とはいえこの地にこのような立派な施設があったわけである。だが、ここにあったのはわずかに7年。その後大根占に移され、さらに7年後には長崎に移され、大根占電信局も廃止されている。

 小原圀芳のことを思うと、一期一会という言葉が浮かんでくる。小原が日本でも有数の教育機関「玉川学園」を創立した基礎が、ここ大浜でのわずか5年の就業にあったのであるから・・・。Cimg3673 大浜地区の鎮守「萬えびす神社」(よろずえびすじんじゃ)」の拝殿から望む大浜地区。白いコンクリート製の建物は「宮田小学校」。大浜電信局は小学校よりさらに向う150㍍ほど行った左手にある。

 

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「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(2)

 前回の(1)では「倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は何か?」という質問に対して、それは『魏略』である―と出典を明らかにした。

 そこには確かに<…その旧語を聞くに、自ら太白の後という。>とあり、これは<彼ら中国に使者としてやって来る倭人から、その昔話を聞くと、自分たちはあの太白の後裔である、と言っている>という意味である。一見すると倭人は呉を建国した太白の末裔と言っているのだから、「倭人は間違いなく呉の太白の後裔だ。つまり日本人の先祖である倭人の出自は呉である。」という結論を導き出せそうに思える。

 しかし使者として出かけた倭人は決して「呉の太白の後」とは言っていない。つまり「呉の」という修辞はないことに気付かなくてはならない。もし「倭人は呉の後裔である」と言いたいのであれば、「われわれは呉を建国し、かつ、代々後継者を出していた太白の弟の虞仲の後である」と言わなくてはならないのである。

 これならば話の筋が通り、文句なく「倭人は呉の後裔」と言う意味が確定する。ところが「太白の後」という表現だけでは直ちに倭人が呉の後裔であるとは言えない。

 では、太白と倭人との関係はどのようなものか?

 太白については『史記』「周本紀」「呉太白世家」に登場する。どちらも内容は同じで、父の古公が三人兄弟の末子である「季歴」とその子の「昌」こそが周王朝を継いでいくのにふさわしい、と考えたため、自分ら兄たちは周を離れ、南方の長江流域に出奔し、そこで新たな王家(呉)を樹立した―ということになっている。

 そして同じく「呉太白世家」によれば、長子の太白には子がなく、子の生まれた弟の虞仲が呉王家を世襲して行くのであるから、「太白の後」と言ったからといって「呉の末裔」とは言えないのである。

 太白には子がいなかったのであるから「太白の後」はあり得ない話である。では、「太白の後」と言ったその真意は何であろうか?これには三つのことが想定できる。

 (1).最も分かり易いのが、太白はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太白家を繋いで行き、後世になってその太白家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。

 

 (2).一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太白の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです」などと話したというような場合。

 

 (3).(1)(2)はどちらも太白には子孫がいてそれが倭人とつながっている、という考え方だが太白に本当に子孫がいない場合、「太白の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。

 (1)と(2)の可能性もあるが、その場合でも「太白の子孫が倭人となった」もしくは「太白の子孫が倭(国)を開いた」とまでは言えない。そのことを示す古史書が存在する。それは前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年~97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書の次の箇所である。

 第 八  儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。

 第十三  超奇篇 暢草は倭人より献じられる。

 第十八  異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。

 第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。

  第八、十三、十八、五十八とも倭人に関して「暢(暢草)」つまり霊草(神に捧げる酒に入れたという草)を貢ぎに来る人々である、という認識は同じである。さらに、それがいつの時代だったのかを特定しているのが第五十八の恢国篇の記述で、その時期を成王の時代としている。

 成王とは周王朝の2代目で、中国政府の「夏殷周年表プロジェクト」によって確定された在位は紀元前1042年から1021年の22年間である。したがって紀元前1040年頃、すでに倭人という存在が知られており、時代的には太白が周王朝の創始を弟の季歴に譲って次兄の虞仲とともに南方に奔り、呉を建国した頃でもある。

 もし倭人が「太白の後」(太白の末裔)であるならば、成王に暢草を貢献した際、「祖父の代に南方に逃れて呉を建国した太白の後裔である倭人」というような書き方がされてしかるべきところである。倭人は倭人として独立して描かれている以上、太白と倭人との間に血統的なつながりを見出すことはできない。

 『論衡』の上の記事では、「太白の後裔の倭人」という書き方はないうえ、第八と第五十八では呉よりさらに南方の越と並んで倭人だけが登場しており、呉人は出てこない。すなわち成王の時代には越人と倭人はいても、呉人はいなかった節がある。つまり時系列的には「倭人のほうが呉人よりも古い」とさえ言える可能性が出てくるのである。

 その点について、太白・虞仲・季歴兄弟の父親を俎上に載せてみると興味深いことが分かる。父はその名を「古公亶父」(ココウタンプ)というが、古公は「いにしえの」という意味であり、「亶父」は「亶州出身の・亶州を宰領する」男王と解釈される。亶州を私は日本列島(中でも九州島)と比定するので、「古公亶父」とは日本列島の中でも九州島出身の王を指しているのではないかと考えられるのである。

 

 以上により、「(呉を建国した)太白の後」とある『翰苑』巻30の記事から「倭人の起源は呉にある」と導き出すのは不可能であると断定できる。

 

 

 

 むしろ最後のほうで触れたように、周王朝発足当時(紀元前1040年頃)の呉の領域には実は倭人が居住していた可能性が見えてきた。2代目の成王の時に暢草を貢献した倭人がどこにいた倭人かはその暢草の種類が特定できれば原産地も特定でき、倭人の居住地も特定できよう。

 

 

 

 今のところその特定はできていないが、少なくとも紀元前1000年代には呉とは別に「倭人」と呼ばれる種族が居り、周王朝の祭祀の一部を支えていたことだけは確かである。

 ※ 以上の史料については、以下のホームページで参照できる。

    鴨着く島おおすみ:http://kamodoku.dee.cc/index.html

               この中の「中国史料に見る倭人」の項

 

 

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「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(1)

 中国の史書に「倭人は太白の後裔である」との記事があるため日本列島の倭人(日本人の直接の祖先)は、呉を建国した太白の後裔であるから、日本民族は長江流域の呉の人間が渡来して形成されたに違いない―という見解がある。

 この点に関して去年に引き続き東京の某出版社の会長という人から、「日本人は中国大陸の呉がルーツだという意見があるが、その史料(出典)は何なのか、また、この辺で日本人の歴史的な起源について最終的な結論を出したいものだ。」という内容の電話をもらった。

 まず、その史書だが、これは『三国志』(3世紀に陳寿が著した)の種本とされる『魏略』(3世紀にギョカンが著した)に登場する。ただし、現在『魏略』という書は散逸しており、わずかに『翰苑』(カンエン)という歴史書に「逸文」として、つまり断片が残されているに過ぎず、しかもその『翰苑』自体も日本の太宰府天満宮の蔵書の一部として「巻三十」一巻だけが残っていたという極めてレア物の歴史書なのである。著者は唐の時代の張楚金という歴史家であるという。

 その部分は次の通り。

 <…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太白の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>

 この『魏略』の逸文と三国志・魏志倭人伝を比べると、倭人伝には赤で示した「自ら太白の後」は無い。おそらく魏志には一般に「呉の太白」で通用している太白の後裔であってはまずいということで、削ったのだろう。なぜなら魏と呉は三世紀当時、敵対関係にあったからである。

 しかし紺色で示した部分は共通で、倭人伝にも載せられている。「夏后」は「夏王統」という意味で、殷王朝の前代の夏王朝であり、「少康」は「禹」から始まる夏王朝の六代目、およそ紀元前1900年頃の王である。この王の子が会稽に領地を与えられ下ったということだが、実は始祖の禹の出身地はそのあたりなのである。

 さて、問題はこの一文から果たして「倭人は呉の太白の後裔、すなわち日本人の祖先は中国大陸の長江流域から移動してきたのだ」と言えるのかどうかである。

 まだいくつもの史料があり、今日中には提示したうえでの推論まで書けそうもないので、続きということにしておきたい。とりあえず出典だけは明示したことで了解を得たい。

 ただ結論から先に言うと、「倭人が春秋戦国時代に長江流域に展開していた呉の末裔であるということは有り得ない」である。

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