「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(2)
前回の(1)では「倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は何か?」という質問に対して、それは『魏略』である―と出典を明らかにした。
そこには確かに<…その旧語を聞くに、自ら太白の後という。>とあり、これは<彼ら中国に使者としてやって来る倭人から、その昔話を聞くと、自分たちはあの太白の後裔である、と言っている>という意味である。一見すると倭人は呉を建国した太白の末裔と言っているのだから、「倭人は間違いなく呉の太白の後裔だ。つまり日本人の先祖である倭人の出自は呉である。」という結論を導き出せそうに思える。
しかし使者として出かけた倭人は決して「呉の太白の後」とは言っていない。つまり「呉の」という修辞はないことに気付かなくてはならない。もし「倭人は呉の後裔である」と言いたいのであれば、「われわれは呉を建国し、かつ、代々後継者を出していた太白の弟の虞仲の後である」と言わなくてはならないのである。
これならば話の筋が通り、文句なく「倭人は呉の後裔」と言う意味が確定する。ところが「太白の後」という表現だけでは直ちに倭人が呉の後裔であるとは言えない。
では、太白と倭人との関係はどのようなものか?
太白については『史記』の「周本紀」と「呉太白世家」に登場する。どちらも内容は同じで、父の古公が三人兄弟の末子である「季歴」とその子の「昌」こそが周王朝を継いでいくのにふさわしい、と考えたため、自分ら兄たちは周を離れ、南方の長江流域に出奔し、そこで新たな王家(呉)を樹立した―ということになっている。
そして同じく「呉太白世家」によれば、長子の太白には子がなく、子の生まれた弟の虞仲が呉王家を世襲して行くのであるから、「太白の後」と言ったからといって「呉の末裔」とは言えないのである。
太白には子がいなかったのであるから「太白の後」はあり得ない話である。では、「太白の後」と言ったその真意は何であろうか?これには三つのことが想定できる。
(1).最も分かり易いのが、太白はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太白家を繋いで行き、後世になってその太白家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。
(2).一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太白の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです」などと話したというような場合。
(3).(1)(2)はどちらも太白には子孫がいてそれが倭人とつながっている、という考え方だが太白に本当に子孫がいない場合、「太白の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。
(1)と(2)の可能性もあるが、その場合でも「太白の子孫が倭人となった」もしくは「太白の子孫が倭(国)を開いた」とまでは言えない。そのことを示す古史書が存在する。それは前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年~97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書の次の箇所である。
第 八 儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。
第十三 超奇篇 暢草は倭人より献じられる。
第十八 異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。
第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。
第八、十三、十八、五十八とも倭人に関して「暢(暢草)」つまり霊草(神に捧げる酒に入れたという草)を貢ぎに来る人々である、という認識は同じである。さらに、それがいつの時代だったのかを特定しているのが第五十八の恢国篇の記述で、その時期を成王の時代としている。
成王とは周王朝の2代目で、中国政府の「夏殷周年表プロジェクト」によって確定された在位は紀元前1042年から1021年の22年間である。したがって紀元前1040年頃、すでに倭人という存在が知られており、時代的には太白が周王朝の創始を弟の季歴に譲って次兄の虞仲とともに南方に奔り、呉を建国した頃でもある。
もし倭人が「太白の後」(太白の末裔)であるならば、成王に暢草を貢献した際、「祖父の代に南方に逃れて呉を建国した太白の後裔である倭人」というような書き方がされてしかるべきところである。倭人は倭人として独立して描かれている以上、太白と倭人との間に血統的なつながりを見出すことはできない。
『論衡』の上の記事では、「太白の後裔の倭人」という書き方はないうえ、第八と第五十八では呉よりさらに南方の越と並んで倭人だけが登場しており、呉人は出てこない。すなわち成王の時代には越人と倭人はいても、呉人はいなかった節がある。つまり時系列的には「倭人のほうが呉人よりも古い」とさえ言える可能性が出てくるのである。
その点について、太白・虞仲・季歴兄弟の父親を俎上に載せてみると興味深いことが分かる。父はその名を「古公亶父」(ココウタンプ)というが、古公は「いにしえの」という意味であり、「亶父」は「亶州出身の・亶州を宰領する」男王と解釈される。亶州を私は日本列島(中でも九州島)と比定するので、「古公亶父」とは日本列島の中でも九州島出身の王を指しているのではないかと考えられるのである。
以上により、「(呉を建国した)太白の後」とある『翰苑』巻30の記事から「倭人の起源は呉にある」と導き出すのは不可能であると断定できる。
むしろ最後のほうで触れたように、周王朝発足当時(紀元前1040年頃)の呉の領域には実は倭人が居住していた可能性が見えてきた。2代目の成王の時に暢草を貢献した倭人がどこにいた倭人かはその暢草の種類が特定できれば原産地も特定でき、倭人の居住地も特定できよう。
今のところその特定はできていないが、少なくとも紀元前1000年代には呉とは別に「倭人」と呼ばれる種族が居り、周王朝の祭祀の一部を支えていたことだけは確かである。
※ 以上の史料については、以下のホームページで参照できる。
鴨着く島おおすみ:http://kamodoku.dee.cc/index.html
この中の「中国史料に見る倭人」の項
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コメント
倭人は殷を作った民族と同一だと思います。
倭人、その後の日本人を外国人が表す時
あまりにも共通点が多すぎる。帯刀しているとか好戦的とか、卑弥呼の時代の習俗とかとにかく共通点が多い。もとは南九州から琉球あたりにいたのが
カルデラ噴火で大陸に逃れたのでは。
貝紋土器という最古にして高度な土器を完成させていた文明圏が九州にあった。
投稿: | 2018年7月 6日 (金) 18時17分
殷人は倭人であった可能性は高いでしょう。
殷は商とも呼ばれ、交易に秀でており、貝殻を貨幣に使い始めた。「貨」はまさに、「貝が化した」から来ている。
このように貝への嗜好が強く、南海産(おそらく琉球弧の産物)の「子安貝」が殷の社会では宝物であったことも傍証となります。
鹿児島の縄文考古学者が名付けた早期の「貝紋土器」の完成度の高さと美しさには驚嘆するほかありませんな。
世界の4大文明(長江文明を入れれば5大文明)はすべて南九州の草創期・早期縄文時代が鬼界カルデラ大噴火によって消滅した後に出現するわけで、途轍もない幻の高度文明が南九州にあったということです。
投稿: | 2018年7月 8日 (日) 22時24分