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「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(1)

 中国の史書に「倭人は太白の後裔である」との記事があるため日本列島の倭人(日本人の直接の祖先)は、呉を建国した太白の後裔であるから、日本民族は長江流域の呉の人間が渡来して形成されたに違いない―という見解がある。

 この点に関して去年に引き続き東京の某出版社の会長という人から、「日本人は中国大陸の呉がルーツだという意見があるが、その史料(出典)は何なのか、また、この辺で日本人の歴史的な起源について最終的な結論を出したいものだ。」という内容の電話をもらった。

 まず、その史書だが、これは『三国志』(3世紀に陳寿が著した)の種本とされる『魏略』(3世紀にギョカンが著した)に登場する。ただし、現在『魏略』という書は散逸しており、わずかに『翰苑』(カンエン)という歴史書に「逸文」として、つまり断片が残されているに過ぎず、しかもその『翰苑』自体も日本の太宰府天満宮の蔵書の一部として「巻三十」一巻だけが残っていたという極めてレア物の歴史書なのである。著者は唐の時代の張楚金という歴史家であるという。

 その部分は次の通り。

 <…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太白の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>

 この『魏略』の逸文と三国志・魏志倭人伝を比べると、倭人伝には赤で示した「自ら太白の後」は無い。おそらく魏志には一般に「呉の太白」で通用している太白の後裔であってはまずいということで、削ったのだろう。なぜなら魏と呉は三世紀当時、敵対関係にあったからである。

 しかし紺色で示した部分は共通で、倭人伝にも載せられている。「夏后」は「夏王統」という意味で、殷王朝の前代の夏王朝であり、「少康」は「禹」から始まる夏王朝の六代目、およそ紀元前1900年頃の王である。この王の子が会稽に領地を与えられ下ったということだが、実は始祖の禹の出身地はそのあたりなのである。

 さて、問題はこの一文から果たして「倭人は呉の太白の後裔、すなわち日本人の祖先は中国大陸の長江流域から移動してきたのだ」と言えるのかどうかである。

 まだいくつもの史料があり、今日中には提示したうえでの推論まで書けそうもないので、続きということにしておきたい。とりあえず出典だけは明示したことで了解を得たい。

 ただ結論から先に言うと、「倭人が春秋戦国時代に長江流域に展開していた呉の末裔であるということは有り得ない」である。

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