アグネス・チャン講演会(鹿屋市文化会館)
歌手でユニセフ親善大使のアグネス・チャンの講演が、鹿屋市文化会館で行われた。
午後2時ころ文化会館の客席に入ってみると、2階まで1000人が観覧可能という文化会館はほぼ満席に近かった。 さすがにアグネスの知名度は高い。PTA主催の「家庭教育講演会」だが、宝くじ基金からの助成金ですべての運営ができたそうで、文字通り大当たりだったろう。
テーマは『みんな地球に生きている』で、アグネスが生まれ故郷の香港から日本に歌手としてやって来て以来、カナダでの大学生活、再来日してからの結婚とボランティア活動、そして現在までつながる国連のユニセフでの活動まで、流暢になった日本語で分かり易く語っていた。
ただ、やや早口なので若干聞き取りにくいところもあったが、内容的には感心させられることが多かった。
中でもボランティア活動には年期が入っていて、香港にいる頃の中学生の時から施設などを訪問して恵まれない子供たちを励ましていたそうであるだ。その頃、施設で子供たちに歌を聞かせてやっていたのが評判となり、香港でレコードデビューしたところ結構売れたという。
日本のレコード会社がその様子を聞いて日本での歌手デビューを持ちかけたのが、日本へ来るきっかけとなった。数年後の17歳の時に出した『ひなげしの花』が空前の大ヒットとなり、たちまちメジャーへの道を歩み始めたのは、記憶に新しい。
しかし、『ひなげしの花』のあとはヒットに恵まれず、父親の「芸能界のサイクルは短く、一生続けられるものじゃない。学問知識は一度身につければ一生のものだ」との意見でカナダの大学へ留学。
卒業前に父親が亡くなり一度香港に帰ったが、母親の勧めもあり再度日本デビューを果たすことになった。その時の条件が「歌手生活のかたわら、ボランティア活動にも取り組めること」だったから変わっていると言えば言える。(その条件を認めてくれたプロダクションのプロデューサーがのちに夫となった。) 現在56歳、今年中には57歳になるが、見たところ17歳当時の顔だちも髪型も変わっていないのには驚く。
その後、アグネスのボランティア活動は国際化し、戦争後のイラクや内戦のスーダン、エチオピア等での活動を話してくれた。どこを訪れてもアグネスの関心は子供で、戦禍に遭った子供たちへの支援が半端ではないのには驚かされる。
か弱そうだったアグネスの、いったいどこにこのような活動のベースがあるのだろうか?信じられない思いがする。
アグネスが日本に来て日比谷公園に案内されたとき、公園内にいるたくさんの鳩を見て驚いたそうである。それは鳩の数が多いからではなく、「香港だったら煮たり焼いたりして食べるのに、なぜ日本人はそのままにしておくのだろう?」
また、アグネスは蛇料理が好きで、毒蛇でも身だけを焼いて食べたそうである。
日本の友人に話したら「気持ち悪いからやめて!」と言われたが、今でも仲良しは続いているとのこと。
「それぞれ人は食べ物も宗教も民族もどれもが違っていても、認め合えば仲良くしていられるんですよ」――これがアグネスの言いたかったこと。独特のアグネス節だ。
思うに、平和の象徴である鳩を食べたことが<贖罪としての国際支援活動>に、蛇を食べたことで<地球上の最も危険で痛ましい地域へ出かけるタフさ>が見に付いたのだろう。とにかく精力的で、現地に行ってこの目で確かめ支援をしている強さがあった。
また、自分から見て子供がどんなにダメでも、何かさせてたった一つでもうまくできたら褒めてあげることが子供の成長を促す、とも言う。このあたりは、多くの子育て論者は言っているが・・・。
講演の最後に「歌手ですから歌を唄っておしまいにします」と、手話付きで会場のみんなを促して唄った。なんとかの花と、花が入った題名だったがよく聞き取れなかった・・・。
東日本大震災でも避難所に支援で訪れている。ある避難所では5歳の女の子が勝手にアグネスの後を付いて回ったそうである。そして別れ際に彼女の小さな小銭入れからお金を出して「これ、わたしも寄付」といってアグネスに渡した。その額はわずか11円だったが、アグネスは大泣きに泣いたという。
「こんな子がいる以上、大震災にもめげず、将来はきっと大丈夫だ、と感じましたね」
言いながら、アグネスは手にしていたハンカチを目に当てていた。まさに感動の一瞬。こちらの目も潤んでしまった。 世界にこんな平和が訪れてくれれば・・・。(鹿屋市文化会館入り口の道路際で)
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