« 「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(2) | トップページ | 気晴らしは「木登り」 »

「大浜電信局」跡(南大隅町大浜)

「大浜電信局」は知る人ぞ知る明治の記念物である。

日本に電信が紹介されたのは明治の初期だと思うが、実際に電信局が設けられ稼働したのは明治の後半であった。Cimg3678 ここ南大隅町の大浜海岸に「大浜電信局」が建設されたのは明治29(1896)年である。前年に日清戦争に勝利した日本は台湾を領土としたが、この台湾と本土を結ぶ通信線として計画されたのがこの「大浜電信局」であった。

 Cimg3686 大浜電信局の真向いの海岸から、通信用の海底ケーブル(直径14センチくらい)が海中にもぐり、はるか1600キロかなたの台湾の基隆(キールン)まで敷設されていたというから驚きいるほかない。

 大隅史談会発行の会誌『大隅』27号に「記念碑<大浜電信局之跡>に寄せて」という一文があるが、これは自身が日本電信電話公社に奉職していた会員(旧理事)の石踊二男氏が書いた物である。

 それによると明治29年8月に、この大浜からまずは奄美大島を経て沖縄までの海底ケーブルが敷設完了している。これは軍用として始まったのだが、同年10月には一般公衆用に供用された。

 そしてその3年後には基隆まで延長されている。

 ところがさらに4年後に、大浜から大根占町に移され「大根占電信局」と改称された。さらにその7年後の明治43年、電信局は長崎に移され、同年12月には大根占電信局は廃止となった。明治29年に設置されてからわずか14年のことであった。

 たった14年の期間、しかも遠い明治の中期に存在しただけだったにもかかわらず、跡地に立派な碑が建てられた(昭和41年9月)のにはわけがある。日本でさきがけの電信局だったからではなく、そこに当時働いていた著名な人物がいたからである。

 教育界に非常に優れた業績を残した玉川学園創立者・小原圀芳(明治20年生まれ)がその人で,『大隅』27号の石踊二男氏の執筆内容によれば、明治20年に鹿児島の坊津に生まれた小原は明治34年ごろから5年間をここで働いていたという。まだ10代後半の頃であった。

 石踊氏によれば「明治36年の局員数は、判任官として通信属16名、通信手7名、…事務員17名、集配人2名、信使(局内で電報を各回線別に区分し、配布する係)5名、小使5名、合計52名が従事していた。」そうで、その中のひとりが小原圀芳少年だった。当時としては破格の月給25円だったそうである。(その頃の日当は18銭だったとかで、これを月給に直すと30日働いても5円余りにしかならなかった。)

 とにもかくにも小原少年は五年間働いて溜めた金で師範学校に入り、さらに京都大学にも学んで教育者となった。東京の成城学園でも教鞭をとり、その経験を活かして「全人教育」を掲げて新しい学園「玉川学園」を創立した。Cimg3681 国道沿いにある「小原圀芳立志の碑」。青雲の志を抱いてここから中央へと羽ばたき、見事に教育者としての初志を貫徹した小原圀芳を讃える石碑が建つ。Cimg3683 国道が通っているとはいえ昼間でもひっそりと静まり返っている大浜地区。この通り沿いに、当時を回顧した小原圀芳本人の記すところによれば、

<やがて部落を通り抜けると、向うに電信局の一廓(いっかく)、村人たちが呼んでいた”大浜御殿”がある。どう見ても田舎には不似合いなビックリするほど堂々たる電信局、倉庫、電池室、工事室。そしてその周囲には何十軒という住宅、独身者のための寄宿舎から食堂、風呂場。さながら一城郭>

 だったというからすごいものだ。当時、52人の従業者がいたという。

 国策とはいえこの地にこのような立派な施設があったわけである。だが、ここにあったのはわずかに7年。その後大根占に移され、さらに7年後には長崎に移され、大根占電信局も廃止されている。

 小原圀芳のことを思うと、一期一会という言葉が浮かんでくる。小原が日本でも有数の教育機関「玉川学園」を創立した基礎が、ここ大浜でのわずか5年の就業にあったのであるから・・・。Cimg3673 大浜地区の鎮守「萬えびす神社」(よろずえびすじんじゃ)」の拝殿から望む大浜地区。白いコンクリート製の建物は「宮田小学校」。大浜電信局は小学校よりさらに向う150㍍ほど行った左手にある。

 

|

« 「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(2) | トップページ | 気晴らしは「木登り」 »

おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(2) | トップページ | 気晴らしは「木登り」 »