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台風17号一過・・・。

 台風17号はきょう未明に強風域だけを記録し、かつ秋の清涼をもたらして足早に去って行った。

 台風15号も同じように強風域だけで済んだが、その時の方が風は強かった。

 せっかく咲いた季節の花―ということで、強風に耐えるように支柱を立てておいたコスモスは無事だった。Cimg4118 このコスモス、以前から毎年4,5本は自生してくるのだが、今年に限ってピンク一色ではなく、中が鮮やかな赤になっているのだ。Cimg4111 いつも咲くのはピンク一色だから、どうしてこの手の色合いが出るのか分からない。どこかで赤い花が咲いて、その花粉が虫媒によってピンクの花に着けられたのだろうか。そうとしか考えられない。Cimg4112 まあ、詮索は別として、花火を連想させる見応えのあるコスモスだ。

 花火と言えば、鹿屋市の花火大会は台風の接近による二度の延期を経て、10月6日の土曜日19:00ごろから1時間ほど打ち上げるということである。

 秋の美味しい焼酎を片手に、夜空に咲く鮮やかな花を愛でることにしよう。







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大阪維新の会が政党届を提出

 7時のNHKニュースで大阪維新の会が、いよいよ結党を正式に届け出たとあった。

 9月12日に結党宣言パーティーを開催しているので、正式にはいつなのかが期待されていたがそれが今日になった。

 ニュースの中で橋下代表が「東京一極集中を排除する方向へ持って行くのが役割だ」というようなことを述べていたが、大賛成である。

 そもそも薩長土肥同盟が、東京の前身である江戸を日本支配の中心としていた江戸幕府を打倒し、その260年余の幕府支配の根城を制圧するがために江戸を首都とし、あまつさえ京都御所が本宅であるべき天皇を東京に臨幸させて江戸城に入城し、名実ともに古き幕藩政治を支配下に置く象徴としたのであった。

 これは実に太平洋戦争で敗れた日本の首都東京に、GHQが置かれたのにそっくりである。(時系列から言うとGHQこそが薩長連合政府(明治政府)のやり方を真似たとすべきだろうが・・・。)

 その後どんどん、いわゆる文明開化(欧米かっ!)が推し進められ、それに伴って東京への一極集中化が押し進められた。

 これは明治以降の世界的な帝国主義的植民地支配の流れにあっては致し方ないことだったかもしれない。なにしろ国内で旧体制(幕藩体制)との確執が延々と続いていたら、欧米列強の植民地支配の餌食になっていたに違いないのである。

 

 しかし第二次大戦後は帝国主義も植民地主義も音を立てて崩れて行った。

 中国共産党や○○共産党はいまだに帝国主義的な振る舞いをするので困った存在だが、植民地主義については日本が非欧米国家では唯一欧米と肩を並べて世界に雄飛したがため(戦前の国際連盟では理事国であった)、太平洋戦争を戦うことによって欧米の世界分割闘争に一矢を報い、戦争には敗れたもののアジア・アフリカの植民地は次々に独立を勝ち取ったのである。

 アウンサウン・スーチーのミャンマー(ビルマ)は、父親のアウンサウン・マウン将軍が日本の太平洋戦争での敗色が濃厚になると、それまでの日本の援助による独立路線を捨てて旧領主国のイギリスに寝返ったために、戦後早い時期に一応は独立を果たしたもののイギリス植民地支配の旧体制との決別に失敗し、つい昨年まで国内の混乱が続く羽目になったのである。

 早くに日本の資金援助でも受けていれば、いまごろミャンマーは素晴らしい民主共和国になっていたであろうに残念なことであった。スーチーは未だに日本への協力を仰ぐのをためらっているようである。一度寝返った父親の子ということで、それはそれで筋が通っていると言えるが・・・。

 

 閑話休題。

 橋下氏の「東京一極支配の打破」をうたった政党の立ち上げというニュースからずいぶん飛躍してしまったが、この構想についてはもろ手を挙げて賛成である。

 たった400年の歴史しか持たない江戸ー東京がすべてではない。平安京は首都として江戸以前の800年の歴史があり、天皇の宮殿(御所)が築かれて鎮座ましました期間は1100年近い(794年~1869年)。こんなに長いこと一国の首長が連綿と世襲し、居住し続けた首都はおそらく世界中に無いだろう。

 したがって天皇家はもとの京都御所に戻られるのが一番である。警備かれこれは問題になろうが、最先端技術で十分にカバーできるはずだ。

 

 そのとき大阪も第二の首都として大きな役割を担うだろう。まずは東京直下型地震への危機管理対策として首都機能の30パーセントくらいは早目に移すことだ。これは日本国内だけの問題ではなく今や国際的な喫緊の課題でもある。日本が沈没して困るのは日本だけではないことに早く気付くべきなのである。

 

 

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レーザー治療の効果?

 去年の12月の半ばに曽於郡末吉町の耳鼻科で花粉症のレーザー治療というのを受けたが、肝心の花粉症シーズンの今年2月中旬から4月中旬の2か月のうち、残念ながら期間半ばにして効果が薄れてしまった。

 といっても今年のシーズンは相当大量の花粉が飛んだということが言われており、そのことを勘案すると効果が薄れただけのことで元の木阿弥になったというわけではなかった。

 とにかく薬を飲むことは全くないにもかかわらず、大量の薄い鼻水が出てそのあと寝ると今度は酷い鼻づまりで寝られない―というようなことはほとんどなく、症状がかなり緩和されたのは間違いないことであった。

 

 夏を過ぎる頃になると、秋のススキの類が穂を出し始めて花粉を飛ばすが、この時期になって外出していると「くしゃみ」と「鼻の中のヒリヒリ感」が症状として現れ、それに伴い就寝後に鼻づまりが見られる。案の定、9月の半ば以来、くしゃみはさほど出ないのだが「鼻の中のヒリヒリ感」が始まっていた。

 以前ならこの感触のまま眠りに就くと、たいてい鼻づまりで眠りを妨げられるのだが、今年の秋口は鼻づまりで寝られないようなことは、これまでのところ無い。

 今年の花粉症シーズンは余りにも花粉の飛散が多かったため、シーズン半ばにしてせっかくのレーザー治療の効果も薄れたのであろう。想定外?だったのだろうか致し方あるまい。

 今年はインフルエンザの予防注射を早めに受けておこうと思っているが、鼻のレーザー治療のほうは逆に遅らせ、1月下旬に受けるつもりである。。

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指宿の元湯温泉

 秋の彼岸ということで、家内の実家の指宿へ墓参りに出かけた。

 指宿に行くと必ず近くの温泉に入ってくるのだが、今回は指宿の元湯に浸かって来た。

 30年余り前に指宿に初めて来た頃、指宿の温泉街「摺りが浜」に宿をとったことがあり、確かその時に入った記憶があるのだが、今回行ってみてかなり雰囲気が変わっていたので看板がなければそれと気づかなかったかもしれない。Cimg4093 まだ十年くらいしか経っていないような綺麗な入り口。

 左手が男湯でのれんを入り、番台(と言うには低かったが)で料金300円也を払って中に入った。Cimg4105 脱衣所は4畳半ほどでやや狭く感じたが、中はかなり広い。入り口の壁に「ガラン(コック)の左手のは泉源から直接来る湯で、70℃ほどもある熱湯なのでご注意を!」という張り紙が貼ってあった。五つある洗い場の、ホースの付いていないガラン(コック)がその熱湯の出る蛇口で、たしかに熱かった。泉質は単純塩化物泉で塩味が相当強い。Cimg4104 15坪ほどある温泉内部。湯船は二つあり、手前のが温度が低く、奥のはやや熱かった。

 摺りが浜と言えば砂蒸し温泉で有名だが、元はどこの温泉にもあるこのような銭湯として利用されるのが普通で、砂蒸しは特殊な利用法に過ぎなかった。それが観光ブームとともに砂蒸し温泉に入らねば指宿に来た甲斐がない、というようになって行ったのである。Cimg4092 元湯の近くは湯治宿の多いところで、かっては近郷近在はもとより大隅半島などからもいわゆる「農閑期」である冬場などに、農作業の疲れを癒すために米を持参してやって来た所であったようだ。

 1時間ほどして風呂を出たら、同じように風呂上がりの老人が近くにいたので聞いてみたところ、湯治宿も今は民宿と名を変えて続いているが、数はめっきり減ったという。

 元湯も以前は道路から低い位置にあり、階段を下りて入湯したものだが、経営者が変わってから新築されると同時にかさ上げされ、道路と同じ高さになったとのことである。

 

 すぐ近くに旧郷社・若宮神社(祭神:神功皇后・応神天皇・仁徳天皇)があったので、湯冷ましを兼ねて参拝した。 Cimg4095 境内に入ってすぐの右手に大きなアコウの木があり、その前に説明の看板が立てられている。Cimg4098 それによるとこのアコウは霊元天皇の時代(112代天皇。在位1663年~1687年)に、「ボルネオ」を出発した交易航海民が途中嵐にあい、ようやくたどり着いたのが摺りが浜だったそうで、そのことに感激した航海民が持参のアコウの苗を奉納して成長したのがこのアコウだそうである。(木の下の右手に赤い扉の小さな祠が見える。)

 したがってこのアコウは樹齢300年余ということになるが、その割には小さい気がするが・・・。

 しかし根張りは大したもので、3㍍×3㍍位はあり、相当な年月を想像はさせる。Cimg4099 境内にはもう一本のアコウがあり、これも同じように根張りがものすごい。Cimg4100_2 足の踏み場もないほどだ。

 入り口付近のアコウの木の下の右手に、山川石(凝灰岩)製の小さな祠があったので覗いてみると、えびすさんの石像が祭られていた。Cimg4101 釣竿と釣り糸まで手にしたリアリティあふれる神様である。

 漁場の豊漁と海洋の安全をお願いしておいた。




















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鹿屋城址がすっきり(鹿屋市北田町)

 今日は休日だが市内に用事があって出かけた際に、北田公園の近くを通ると保健相談センター前の信号から左折して文化会館方面へ上がる道路が通行止めになっていた。

(この保健センターの場所に、昔は「中央公会堂」が建っており、40年ほど前にここでNHKののど自慢大会が開かれたという。その時の司会は例の宮田輝アナウンサーだったそうだ。)Cimg4080 上がって行く道路を見はるかすと、うっそうとした樹木で暗かった間道(空堀)がすっかり明るくなっている。Cimg4081 車を置いて上がってみることにする。

 右手は北田公園の駐車場。かっては水がこんこんと湧き出て「北田池」があり、戦後の一時期は市営プールとして活用されたと聞いている。いまも湧水はあるが、小さな池に導水されているだけで、以前に比べて格段に乏しくなってしまった。

 駐車場の上は鹿屋城の一部で、その奥に二の丸・本丸が位置する。Cimg4083 鹿屋城(亀鶴城)址の説明看板のある少し手前から最上部の長寿庵と名付けられた小さな木造の東屋の所まで、200㍍くらいの「空堀」の左右の法面に生えていたクスや杉、雑木が見事に刈り払われ、今まで見たこともない明るさが出現した。

 それにつけても、説明看板のある法面(と言うか壁面と言うべきか)の何と傾斜のきついことか! 

 看板が垂直に立てられているとすると、それより5度くらい緩いだけの傾斜である。歩道に立って見上げると、それが実感できる。しかもこの傾斜面にはがけ崩れを防ぐための手当は何にも施されておらず、よくこの真下に歩道が整備されたものだと感心する。

 これがシラスの崖のすごいところで、一見脆そうに見えるシラス特有の粘着性が可能にした姿なのである。ただし何と言う成分がそうさせているかなどは分からないが・・・。Cimg4084 看板のある崖の先に鹿屋城本丸への入り口がある。向うの緑の中に見える狭い空間も、この崖のように断ち割られた両崖の間道になって二の丸へ続いている。

 この城の原型は鎌倉時代の初期に造られ、南北朝のころから戦国時代の終わりまで代々肝付氏流の「鹿屋氏」の居城であった。大隅半島の肝付氏が滅亡したあと、ここは島津氏の直轄地となり、大隅半島一円の代官として赴任してきた伊集院忠棟(幸侃)が入城し、町割りやら数々の施策を行ったという。

 忠棟は使者として勝利者側の秀吉政権のある京都伏見へ行くことがあり、うまく取り入って都城8万石の領有を獲得してしまうが、本家筋の島津義弘の子・忠恒(のちの18代藩主家久)によって殺害された。息子の忠真は都城で反旗を翻し(庄内の乱)、1年半近く雌雄が決せられず、ついに徳川氏の調停で矛を収めたのであったが、江戸開府後に忠真は頴娃2万石に落とされ、最後には暗殺された。

 戦国武将島津氏の面目と言うべきか、主家に楯突いたものは徹底的に潰されたのである。

 坂を上りきったところに小広い芝生の広場があるが、ちょうどそこでは祭りの準備が行われていた。城山の西を流れる上谷(かみたに)川の流域に展開する「上谷町内会」のふれあい夏祭りであった。Cimg4086 準備をしている中に知人がいたので聞いてみると、夕方6時から始まるという。広場のど真ん中に立派な舞台も準備されており、周りにはカラフルな4連・5連のテントが張られ、中では婦人たちが忙しそうに何かを並べたりしている。

 今日の予報では午後からは雨模様だが、どうなることか。

 (このブログを書き終える4時前になって、雨が本降りになって来たぞ・・・・・)






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中国のさらなる策動

 尖閣諸島をめぐって、中国共産党政府はいよいよ実力行使への第一歩を放った。

 中国海洋局所属の「海洋監視船」6隻を、尖閣諸島の領海付近まで派遣し、領海を侵して入って来たという。

 この行為に対して日本がどのような出方をするかを見届けたいのと、万が一にも日本の海上保安庁の巡視船が「放水」などの実力行使を行うかどうかを見極めたいのだ。もしそうなったらしめたもので、「主権を侵害した」とかなんとか喚き散らし、次なる対抗手段、つまり海軍の登場となるのだろう。

 くわばら、くわばら、中狂(共)の策動に乗ってはなるまい。

 昼のニュ―スで中国中央テレビの女性アナウンサーが「日本政府の尖閣諸島の国有化は、中国の主権の侵害である」などと言っていたが、この時、「中国領土への不法介入」とは言わなかったのが印象的だった。

 自分は「あれ、控え目な言い回しだな」と、一瞬思ったのだが、考えてみれば1970年にこの海域で埋蔵石油資源が発見されるまで中国共産党政府は、学校で教える地図でも「尖閣諸島は琉球諸島の一部、すなわち日本の領土」としていた事実は隠ぺいのしようがないので、「中国の領土」とおおっぴらに言わず、「主権の侵害」で済ましたのだろう。

 しかし、「主権」とは地理的真実を上回る国家概念である(と彼らはそう思っている)。勝手に自国の主権ラインを東シナ海はもとより南シナ海にも設定して、ごり押ししようと図っているのだ。ここは残念ながらアメリカ第7艦隊の睨みで抑え込んでもらうしかあるまい。

 上海などでは日本人とみると嫌がらせや、ひどい場合は暴行を働くという。トンデモナイ奴らである。

 かって、日本に留学やら仕事やらで来て、犯罪どころか殺人まで犯した中国人は数知れずいるのに日本人は黙っているケースが多い。厳しく罰すると本国からの仕返しが恐ろしいからだろうか。それとこれとは別に考えなければならないのに、呆れた話だ。だから舐められる。

 しかし共産党政府は、日本からの莫大な借款と技術移転により、経済開放政策が極めて順調に行きここまで来たという恩義など、何も感じないのだろうか?

 こうなったら、日本企業は中国から引き上げるか、インドかインドネシアなどに移転してしまったほうがいい。「中国が崩壊するとき、真っ先に逃げ出すのは共産党幹部の連中だろう」というようなジョークとも本音ともつかないことが言われているが、案外真実だろう。借款とか投下資本の甘い汁を吸って来たのはそういった連中だからだ。(人民軍もしこたま儲けている、とも聞いているが・・・。)

 とにかく中国は尖閣から手を引け! 

 チベットはチベット人に返せ! 内モンゴルもモンゴル人に返せ!

                                          (9月14日記す)

(追記)

 1940年代から1960年代、つまり尖閣諸島海域の石油埋蔵が発見されるまでの中国自身が作成した公用地図には中国の領域に尖閣諸島が入っていないことを、以下のブログが詳細に載せている。

  風と葦

                                         (9月18日追記)

 

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台風一過の「心の字池」

 台風16号は東シナ海のど真ん中を北上したため、鹿児島本土に爪痕はほとんど残さずに通り過ぎた。

 それでも日曜日(16日)の夜遅くになってかなりの風が吹き、慌てて雨戸を閉めたのだが、翌日の県内ニュースでは鹿屋地方は最大瞬間風速34メートルだったそうである。

 それでも被害は全くなく、無事に夜明けを迎えほっとすることだった。(ただし、夜明けになってもそれなりの風と小雨が降り注ぎ、ウメの早朝散歩は中止となった。残念そうなウメだった。)

 

 今日(18日)の夕方、勤務先から帰ってみると、心の字池の「ホテイアオイ」の花が、さあ見てくれとばかりに沢山の花を咲かせていた。Cimg4075 台風前にたしか二つ三つの花は確認していたが、こんなに咲くなんて思いも寄らなかった。やはり、集中豪雨のような雨が降ったおかげで池が潤ったせいだろうか・・・。Cimg4079 たしかに池の縁近くの水面まで水が入っている。Cimg4076 ホテイアオイの花を見るといつもヒアシンスの花を連想してならないが、花自体はヒアシンスより大きく、色合いも違っているのが分かる。Cimg4077 花の真ん中の薄黄色と、それから放射状にのびるブルーからパープルへのモデレーションは、目立たないながら優美なものである。

 土に植える花で、こんな味わいのある花があったら、結構もてはやされるのではないかと思う。








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何てこった!

 昨日買ってきた『ニュートン』の臨時増刊号(2012年10月7日発行・副題「首都直下型震度7―大震災予測」)を読んでいて「ああ、本当かよ、何てこった!」と驚いてしまった。

 実は今は鹿児島県鹿屋市に住んでいるが、自分の生れも育ちも「東京都北区赤羽」なので、昨日書店に立ち寄った時に他にも同様の特集を組んでいる雑誌や本が置かれたコーナーを素通りできず、買い求めたのであった。

 この増刊号の最初の半分は首都直下型地震で震度7ほどのものに襲われた時の被害や避難のシミュレーション的な解説があり、後半部分には東京の23区の各区の地図を見開きで、つまり46ページにわたって載せ、地図上におおむね○○丁目単位でカラフルな色分けがなされている。北区のページを広げてみると・・・(同書96~7ページ)Cimg4070 北区は今は人口30万くらいだろうか、北部のサクラソウで有名な浮間から東南部の田端まで、タツノオトシゴのような形をしている。赤羽はタツノオトシゴの胸部に当たる場所である。黄色から赤まで5色で塗り分けられているが、拡大すると・・・Cimg4072 一番上に大きく見えるのが赤羽駅で自分が学校などに通っていたころは赤羽線と京浜東北線を利用したものだが、もう20年くらい前になるか、赤羽線(赤羽・池袋間)が無くなり、新路線として<埼京線>なるものが敷設され、埼玉から池袋・新宿方面まで乗り換えなしで行けるようになり、その中間駅として赤羽駅も駅の周辺も同時に再開発されたのであった。

 母が亡くなった平成10年、入院中の母の見舞いに帰省した時はまさに「今浦島」状態で、「これが赤羽駅かい?」としばし茫然としたのを思い出す。そのくらい変わっていた。今から45年くらい前の駅のトイレなんか小便をする所は「長壁式」のコンクリート製で、小便臭が酷かったものだが・・・。

 しかしその時は茫然だったが、今度は「唖然」としてしまった。何故かというと、この拡大地図で我が家がある場所は赤羽駅から南西方向(左下)、赤羽台西小学校とあるすぐ下の真っ赤に塗られた部分(赤羽西4)なのだが、この濃い赤で塗られた箇所は、色分けされたランクでは最も総合危険度の高い地域だそうである。

 我が家はたしか昭和50年頃に建て替えているが、もう35年を過ぎている。木造建築なので耐用年数的には限界に近い。また周囲も同じような木造建築の住家が多く、典型的な(古い型の)ベッドタウンで、隣家との間隔が狭い住宅街である。揺れにも火災にも弱いのは目に見えている。

 実はもう一つ驚いたことがある。これがなければ「驚いた。が、しかし納得もできる」で済んだだろう。

 というのも、この同じ拡大図の中には母の実家も見えており、そこは「十条仲原1」で、地図の一番下の加賀中学校とその隣りの岸病院とあるそのすぐ上の地区である。ここも何と真っ赤ではないか!

 これに気付いたとき自分は「ああ、本当かよ、何てこった」と、唖然としてしまったのである。

 母の実家も、その後の家族生活の場所も、ともに総合危険度5の地域だったとは! 今もそこには兄一家が住み、十条仲原には従兄弟の一家が住んでいるのだ。

 もっと言うと、母は関東大震災で焼け出され、避難生活を送っている。十条仲原に住む以前のもともとの実家は三重県の津市から上京した祖父が組み紐職人だったとかで、浅草に店を出した関係で台東区にあった。ところが大正12年9月1日に起きた大震災で、あたり一面は焼き尽くされ、まずは使用職人の実家のある東京郊外に逃げ、しばらくしてから三重県の津に帰り、避難生活をしたそうである。

 津から再び東京に戻り、安全そうな高台にある新開地の十条に住まいと店を構えたのが今もある母の実家なのである。子供の頃は盆と正月に必ず家族そろって行った。歩いても25分くらいだったが、バスで行くことが多かった。

 よりによって母のつながりのある2ヵ所が危ないとは、驚くほかない。関東大震災でやられた浅草時代も含めて考えると、母はよほど災害に遭うたちなのか(運勢的に何とか言ったが・・・)、はたまたそのような逆境にもめげず生きた人と言うべきか。Cimg4073 東京の23区全体を色分けした地図を見ると、真っ赤な総合危険度5の箇所は○○丁目単位では80地区くらいだろうか。面積で言えばわずか3パーセントあるかないかだが、これはあくまでも揺れによる崩壊度とその後の火災による被害だけの危険度であり、津波による被害は含まれていない。

 ただでさえ隅田川下流域のいわゆる「下町」の危険度が非常に高いのが見て取れるのに、もし津波が想定を超えるものだったら、下町地区の被害は想像を絶するものになるだろう。

 早く手を打てばいいのにと思う。個人としては東京から避難することを念頭に入れること。また国(東京都)としては首都機能の半分を速やかに地方(大阪都?大阪市を無くしたのなら大阪府のままでもいいのでは?)に移転すること。県や地方都市では大量の「避難民」の受け入れについて整備を始めておくこと・・・、などなど。

 大震災が起きてからでは遅すぎるのだ。



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計画倒れだった「計画停電」

 「計画停電」はついに実施されなかった。皮肉な言い方だが、計画倒れでよかった。

 8月末に各電力会社のこの夏場の電力需要量と供給量の推移が発表されたが、どの電力会社も計画停電を実施する需要水準に達することなく終わった。

 需要量が最大供給量の97パーセントになったら予定通りの「計画停電」に入るというものだったが、需要者(一般市民)の節電が功を奏したのか、最大の需要日8月3日でも94パーセントで収まったらしい。

 ただ、関西電力は大飯原子力発電所(230万キロワット)の稼働があったために、供給面で何とかクリアーできたという。つまり原発が無ければ「計画停電」が実施された可能性が大きかったという。

 しかし一方で、他の関西電力と同じ周波数を持つ電気を供給している西日本の電力会社から送電してもらえば、最大需要日の8月3日でも十分にカバーできたともいう。

 今、国内で稼働しているのは大飯原発のみで、それがなくても国内の電力供給は足りていたことからすれば、「原発は無くもがな」と思う。

 やはり、「原発が稼働しないと電力供給が非常に不安定で、国内の産業の空洞化は一層進み、経済はさらに冷え込む」という原発推進派の考えは誤認であったと考えるほかないだろう。

 昨日、大隅半島南端の南大隅町に「福島原発の崩壊により汚染された土やがれきを受け入れる施設を作る案が浮上している」とのニュースが放送され、地元の肥後商工会会長や漁協の安楽組合長のそれぞれ反対・賛成の意見が放映されていた。

 青森の原発廃燃料(プルトニウムなど)処理施設のある六ヶ所村が対比されて登場していたが、あれとは比べ物にならないくらい放射能レベルは低いのだが、地元として環境問題・自然破壊問題と捉えるのはやむを得ないのではないか・・・。

 地震と津波による被害は一瞬でありもちろん悲しいことだが、いつかは「天災なんだから」とあきらめもつく。それなのに、たった一か所の原発の崩壊で、家族や本人はおろか家業・生業施設など一切は無傷であるのに、その後の避難生活がまだ続き、風評被害に晒されている福島人の方がよっぽど気の毒にさえ思えてくる。何ともやりきれない思いが募るばかりだ。

 この夏を通しての<壮大な実験>で原発を全廃しても国内電力は賄えることがはっきりした以上、廃炉の方向に持って行くのが筋だと思う。世界トップの地震多発国日本の安全上そうしてもらわないと困る。それよりこれを機会に太陽光発電や風力発電などに思い切って転換して行くほうが日本のためになる。

 大々的に自然電力を取り入れて行けば、安全な上ににより安価になり、いわゆる発展途上国にも容易に輸出し設置されるようになろう。ドラえもんの「どこでもドアー」ではないが「どこでも発電」というような小規模な需要にも応えられる環境融和な施設は、日本の緻密な技術力の得意とするところだ。頑張れ、日本!

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肝属平野の水田地帯(肝属郡肝付町北後田)

 よく通る田んぼ道でこれほど道の真っ直ぐな所はないのが、肝付町旧高山の肝属平野である。Cimg4046 鹿屋市吾平町の広い田んぼと肝付町の広大な田んぼ地帯を4キロほどにわたって貫く農道が平野の真ん中を走っている。

 ところがこの単調と言えば単調な長い直線道路、高山側に200㍍おき位に看板が立っていて脳を覚まさせてくれる。

 看板によるとこの辺りは同じ高山でも「上之原地区」であるらしい。また「水土里」と書いて「みどり」と読ませ、水利組合の俗称(愛称)のようである。環境保全を呼びかけている。

 このような看板がざっと15枚くらいは立っているだろうか―Cimg4048必ず標語が添えてあるのはどこでもおなじみだが・・・。Cimg4051看板の側面にある「ご縁券のきた・うしとだ」が最初意味が分からなかったが、「ご縁券」は言うならば「ボランティアポイント」で、ゴミ拾いや草刈りの奉仕作業をするとポイントが加算され、自分が頼みたいときにそのポイントの分が使えるというものだろう。

 それより「のきた・うしとだ」だ。でも看板の表に「水土里サークル活動・北後田地区」とあるのでようやく分かった。「のきた」は「の北」であり、「うしとだ」は「後田(うしろだ)」の鹿児島方言だったのだ。車でビュンと通り過ぎる時にちらっと目をやる人が、「はて、なんのこっちゃ」とさらに脳が覚醒するに違いない。Cimg4052ちゃんとご縁券を解説する看板もあった!Cimg4059傑作なのが、標語がさつま狂句になっている看板だ。さつま狂句をやっている知人が言うには「漢字には必ずルビをふるのが原則」とかで、なるほど「総員」が「ずる」とは絶対に読めない。Cimg4057分かり易いが、しかし、悲痛な叫びを詠んだのもある。それほどこの直線道路では車からのポイ捨てが多いか。情けない。

 向こうに見える石碑は県営圃場整備事業の「完成記念碑」である。表に回ってみる。Cimg4054「田の神も 水土里活動見て 笑顔!!」と、この看板の標語は狂句ではない。自画自賛句だ。でも、これだけの広い田園を綺麗に保って行くのは並大抵ではないから、当然、田の神も満足されているにちがいない。

 碑は左から「完成記念碑」。圃場整備は昭和60年から平成10年まで13年かかって完成した。碑面の下に総工費約13億円(国が45%、県が32%、地元が23%の負担)受益農家637戸、総面積133ヘクタール(1.33平方キロ)とある。

 昭和60年と言えばもうとっくに生産調整(減反)がなされていたはずで、今さらという気もするが、他作物への転換たとえば畜産用の大規模な飼料畑に、というような方向性のもとでとにかく整備だけはしておこうと進められた事業なのだろう。

 その右手の石柱は昭和41年のもので、おそらく小規模な整備事業があった記念碑と思われる。その右はその当時に造られた水神の祠である。

 さらに右手に「タノカンサー」が鎮座するが、かなり剥落が進んでいて刻銘は何もなく、いつの建立かは分からなかった。

 一番右手は大正3年建立の水神祠。ちょうど100年前に建立されたことになる。Cimg4065旧高山と旧吾平の境を流れる「境川」の橋の側にも。ここからが高山地区、という目印だ。Cimg4066「境川橋」から反対側は鹿屋市吾平町の広い田んぼ地帯だが、こちら側には高山側のような看板は立っていない。

 広大な肝属平野の一角である北後田田んぼを俯瞰できるところはないかと、ふと思いついたのが田んぼ地帯を見下ろすシラス台地のへりにある高山高校だった。Cimg4043県立高山高等学校。普通科だけでは存立が危ういとも聞いているが、伝統ある高校である。

 この学校の広いグラウンドの向うが若干開けているので行ってみる。Cimg4041北後田の田園地帯の向こうは笠野原台地が平らに広がり、その手前を肝属川が流れている。

 ※赤い屋根の奥の方に桜迫(おうさこ)神社があり、そのあたりが神武天皇揺籃の地と言われている。古代はこの見渡す限りの田園の内部まで海が入り込み、神武天皇揺籃の地は川と海との境界域であり、そこには良港があったと思われる。

 

 私見では―神武天皇とはアイラツヒメの子(長男)で東征に付き従って行った投馬国王タギシミミ(船舵王と意訳できる)のことであると思っている。航海と交易の両方を兼ね備えた人物であったろう。
































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