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鹿屋城址がすっきり(鹿屋市北田町)

 今日は休日だが市内に用事があって出かけた際に、北田公園の近くを通ると保健相談センター前の信号から左折して文化会館方面へ上がる道路が通行止めになっていた。

(この保健センターの場所に、昔は「中央公会堂」が建っており、40年ほど前にここでNHKののど自慢大会が開かれたという。その時の司会は例の宮田輝アナウンサーだったそうだ。)Cimg4080 上がって行く道路を見はるかすと、うっそうとした樹木で暗かった間道(空堀)がすっかり明るくなっている。Cimg4081 車を置いて上がってみることにする。

 右手は北田公園の駐車場。かっては水がこんこんと湧き出て「北田池」があり、戦後の一時期は市営プールとして活用されたと聞いている。いまも湧水はあるが、小さな池に導水されているだけで、以前に比べて格段に乏しくなってしまった。

 駐車場の上は鹿屋城の一部で、その奥に二の丸・本丸が位置する。Cimg4083 鹿屋城(亀鶴城)址の説明看板のある少し手前から最上部の長寿庵と名付けられた小さな木造の東屋の所まで、200㍍くらいの「空堀」の左右の法面に生えていたクスや杉、雑木が見事に刈り払われ、今まで見たこともない明るさが出現した。

 それにつけても、説明看板のある法面(と言うか壁面と言うべきか)の何と傾斜のきついことか! 

 看板が垂直に立てられているとすると、それより5度くらい緩いだけの傾斜である。歩道に立って見上げると、それが実感できる。しかもこの傾斜面にはがけ崩れを防ぐための手当は何にも施されておらず、よくこの真下に歩道が整備されたものだと感心する。

 これがシラスの崖のすごいところで、一見脆そうに見えるシラス特有の粘着性が可能にした姿なのである。ただし何と言う成分がそうさせているかなどは分からないが・・・。Cimg4084 看板のある崖の先に鹿屋城本丸への入り口がある。向うの緑の中に見える狭い空間も、この崖のように断ち割られた両崖の間道になって二の丸へ続いている。

 この城の原型は鎌倉時代の初期に造られ、南北朝のころから戦国時代の終わりまで代々肝付氏流の「鹿屋氏」の居城であった。大隅半島の肝付氏が滅亡したあと、ここは島津氏の直轄地となり、大隅半島一円の代官として赴任してきた伊集院忠棟(幸侃)が入城し、町割りやら数々の施策を行ったという。

 忠棟は使者として勝利者側の秀吉政権のある京都伏見へ行くことがあり、うまく取り入って都城8万石の領有を獲得してしまうが、本家筋の島津義弘の子・忠恒(のちの18代藩主家久)によって殺害された。息子の忠真は都城で反旗を翻し(庄内の乱)、1年半近く雌雄が決せられず、ついに徳川氏の調停で矛を収めたのであったが、江戸開府後に忠真は頴娃2万石に落とされ、最後には暗殺された。

 戦国武将島津氏の面目と言うべきか、主家に楯突いたものは徹底的に潰されたのである。

 坂を上りきったところに小広い芝生の広場があるが、ちょうどそこでは祭りの準備が行われていた。城山の西を流れる上谷(かみたに)川の流域に展開する「上谷町内会」のふれあい夏祭りであった。Cimg4086 準備をしている中に知人がいたので聞いてみると、夕方6時から始まるという。広場のど真ん中に立派な舞台も準備されており、周りにはカラフルな4連・5連のテントが張られ、中では婦人たちが忙しそうに何かを並べたりしている。

 今日の予報では午後からは雨模様だが、どうなることか。

 (このブログを書き終える4時前になって、雨が本降りになって来たぞ・・・・・)






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