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何てこった!

 昨日買ってきた『ニュートン』の臨時増刊号(2012年10月7日発行・副題「首都直下型震度7―大震災予測」)を読んでいて「ああ、本当かよ、何てこった!」と驚いてしまった。

 実は今は鹿児島県鹿屋市に住んでいるが、自分の生れも育ちも「東京都北区赤羽」なので、昨日書店に立ち寄った時に他にも同様の特集を組んでいる雑誌や本が置かれたコーナーを素通りできず、買い求めたのであった。

 この増刊号の最初の半分は首都直下型地震で震度7ほどのものに襲われた時の被害や避難のシミュレーション的な解説があり、後半部分には東京の23区の各区の地図を見開きで、つまり46ページにわたって載せ、地図上におおむね○○丁目単位でカラフルな色分けがなされている。北区のページを広げてみると・・・(同書96~7ページ)Cimg4070 北区は今は人口30万くらいだろうか、北部のサクラソウで有名な浮間から東南部の田端まで、タツノオトシゴのような形をしている。赤羽はタツノオトシゴの胸部に当たる場所である。黄色から赤まで5色で塗り分けられているが、拡大すると・・・Cimg4072 一番上に大きく見えるのが赤羽駅で自分が学校などに通っていたころは赤羽線と京浜東北線を利用したものだが、もう20年くらい前になるか、赤羽線(赤羽・池袋間)が無くなり、新路線として<埼京線>なるものが敷設され、埼玉から池袋・新宿方面まで乗り換えなしで行けるようになり、その中間駅として赤羽駅も駅の周辺も同時に再開発されたのであった。

 母が亡くなった平成10年、入院中の母の見舞いに帰省した時はまさに「今浦島」状態で、「これが赤羽駅かい?」としばし茫然としたのを思い出す。そのくらい変わっていた。今から45年くらい前の駅のトイレなんか小便をする所は「長壁式」のコンクリート製で、小便臭が酷かったものだが・・・。

 しかしその時は茫然だったが、今度は「唖然」としてしまった。何故かというと、この拡大地図で我が家がある場所は赤羽駅から南西方向(左下)、赤羽台西小学校とあるすぐ下の真っ赤に塗られた部分(赤羽西4)なのだが、この濃い赤で塗られた箇所は、色分けされたランクでは最も総合危険度の高い地域だそうである。

 我が家はたしか昭和50年頃に建て替えているが、もう35年を過ぎている。木造建築なので耐用年数的には限界に近い。また周囲も同じような木造建築の住家が多く、典型的な(古い型の)ベッドタウンで、隣家との間隔が狭い住宅街である。揺れにも火災にも弱いのは目に見えている。

 実はもう一つ驚いたことがある。これがなければ「驚いた。が、しかし納得もできる」で済んだだろう。

 というのも、この同じ拡大図の中には母の実家も見えており、そこは「十条仲原1」で、地図の一番下の加賀中学校とその隣りの岸病院とあるそのすぐ上の地区である。ここも何と真っ赤ではないか!

 これに気付いたとき自分は「ああ、本当かよ、何てこった」と、唖然としてしまったのである。

 母の実家も、その後の家族生活の場所も、ともに総合危険度5の地域だったとは! 今もそこには兄一家が住み、十条仲原には従兄弟の一家が住んでいるのだ。

 もっと言うと、母は関東大震災で焼け出され、避難生活を送っている。十条仲原に住む以前のもともとの実家は三重県の津市から上京した祖父が組み紐職人だったとかで、浅草に店を出した関係で台東区にあった。ところが大正12年9月1日に起きた大震災で、あたり一面は焼き尽くされ、まずは使用職人の実家のある東京郊外に逃げ、しばらくしてから三重県の津に帰り、避難生活をしたそうである。

 津から再び東京に戻り、安全そうな高台にある新開地の十条に住まいと店を構えたのが今もある母の実家なのである。子供の頃は盆と正月に必ず家族そろって行った。歩いても25分くらいだったが、バスで行くことが多かった。

 よりによって母のつながりのある2ヵ所が危ないとは、驚くほかない。関東大震災でやられた浅草時代も含めて考えると、母はよほど災害に遭うたちなのか(運勢的に何とか言ったが・・・)、はたまたそのような逆境にもめげず生きた人と言うべきか。Cimg4073 東京の23区全体を色分けした地図を見ると、真っ赤な総合危険度5の箇所は○○丁目単位では80地区くらいだろうか。面積で言えばわずか3パーセントあるかないかだが、これはあくまでも揺れによる崩壊度とその後の火災による被害だけの危険度であり、津波による被害は含まれていない。

 ただでさえ隅田川下流域のいわゆる「下町」の危険度が非常に高いのが見て取れるのに、もし津波が想定を超えるものだったら、下町地区の被害は想像を絶するものになるだろう。

 早く手を打てばいいのにと思う。個人としては東京から避難することを念頭に入れること。また国(東京都)としては首都機能の半分を速やかに地方(大阪都?大阪市を無くしたのなら大阪府のままでもいいのでは?)に移転すること。県や地方都市では大量の「避難民」の受け入れについて整備を始めておくこと・・・、などなど。

 大震災が起きてからでは遅すぎるのだ。



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コメント

お久しぶりです。

いつも楽しみに拝見させて頂いております。

過日は、我が母校鹿屋工業高校をアップして頂き、重ねて御礼申し上げます。

私が、上京し、初めて担当した工事が浮間ポンプ所のサイレンサー工事でした。

当時は、右も左もわからぬまま、役所の工事を任され、写真が足りなく、お詫びしたり、大変な思いをして、工事を納めた記憶があります。

今から30年以上前の話ですが。

管理者様は、何故鹿屋にいわゆるJターンをされたのですか⁈

私は、永野田出身で、西俣小学校が母校です。加治や、森園といった姓の連中が同級生にいました。(池園町)一度も同窓会をやってませんので、彼らの消息は不明です。

懐かしくてつい書き込みしてしまいました。

投稿: おやっとさあ | 2012年9月10日 (月) 09時36分

おやっとさあさん、コメント有難うございます。

 そうですか、浮間でねえ。荒川べりの川に囲まれた、一種の水郷のような所ですよね。

 さて、どうして鹿屋へという質問ですが、全く無縁の土地にあこがれがあってやって来たのです。
 取っ掛かりは肝属郡田代町への「入植」でした。もちろんここも何の地縁もありませんでしたが、農業がやってみたくて引っ越しました。

 その前は指宿に11年、広島に2年ほどいました。広島でも農業ができないかと探したのですが、意外にも冬の寒さが強いところで、それならやはり鹿児島かな、と田代に入りました。因みに家内は指宿出身ですが、農家ではなかったのでよそに目を向けたところ、田代町に出会ったのです。

 田代では主に米を作っていました。農業をしながら子育てをしたいというのが念願で、下の娘が中学校に入る時まで足掛け8年を田代で過ごし、その次に隣り町の根占に移って3年、そして今の鹿屋市池園町に定住したわけです。

 池園町に家を建てて今年で9年目、ただし入っている町内会は「田淵町内会」ですが・・・。
 ここが終の住処です。

 どうして無縁の土地にあこがれたのかは、東京の実家での生活の不条理(理屈に合わない子育て)のせいと言っていいと思います。一言ではとても言い尽くせませんが、
昨年の1月14日のブログにおおよそのことは書きましたので、もし興味があって読んでいただければ幸いです。

 

投稿: kamodoku | 2012年9月11日 (火) 00時15分

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