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河野覚兵衛家墓塔群と鰻温泉(指宿市山川町)

 土曜日(10月27日)は足を延ばして金峰山と野間岳に登り、日曜日(10月28日)は疲れを癒すべく鰻温泉に入ることにした。

 温泉に直行する前、同じ山川町にある「河野覚兵衛家の墓塔群」を見ておきたかったので、まずは山川港へ行った。

 山川港カルデラの縁を回り、山川フェリー乗り場のある港町に向かう。あと100㍍ほどでフェリー乗り場というところで道を右手に取る。ここは若干の上り坂ですぐに右折をし、次の交差点を左折すると、石垣の間にちょっとした階段があり、小さな案内標柱「河野覚兵衛家墓石群」が立つ。Cimg4334 階段を上がった右手には最近建てられた「琉球人鎮魂墓碑」が見える。

 江戸時代初期の慶長14(1609)年に島津氏が侵攻して以来、薩摩への朝貢国となった琉球からは役人の往来や船頭・船子の往き来も半端ではなく、中には道中や薩摩本土で命を落とした者も多く、山川港に代々琉球人の墓が多数あったという。Cimg4331 これは墓地の改変などで次第に失われつつあった琉球人の墓群を、2009年の交流400年記念式典を機に、ひとまとめにし、メモリアルとして建立したものである。大変清々しい出来栄えではないだろうか。Cimg4329 墓地に入って沢山の墓を縫うように進んでいくと、かなり大きな五輪塔群に行き当たる。これが「河野覚兵衛家墓塔群」である。

 河野覚兵衛家は藩政期の山川港の豪商で、ここには12代にわたって当主の墓塔があるという。Cimg4323 時代的には指宿の豪商・第8代浜崎太平次家よりも若干古い家筋のようで、もしかしたらあのカライモオンジョこと「前田利衛門」が琉球を往来し、ひそかにサツマイモの苗をもたらしたのはこの河野家の船だったのかもしれない。Cimg4327 河野家の墓塔群のさらに奥、山が迫る下に「正龍寺墓地跡」があり、数々の墓塔が並んでいる。Cimg4324 昭和53年に制定の「文化財保護条例」により、9年を掛けてここまで原状回復をしたそうである。

 昭和53、4年ごろ、どこの市町村でも文化財保護への気運が高まり、このような保護回復がなされるようになったようである。

 正龍寺といえば江戸時代初期の儒学者・藤原惺窩が朱子学を学ぼうと明へ渡るために、大隅内之浦からここ山川港に到来して船待ちをしている間、正龍寺を訪れた際に、学僧たちが「文之点(戦国時代末期に島津義弘が重用した学僧・南浦文之が発明した)」を使って漢文を読誦しているのを見て驚愕し、早速採り入れて自学の指針としたということで有名な禅寺である。Cimg4335 正龍寺は今も町中に残るが、かってはさっきの墓のある山際までを境内地とする広壮な寺院であった。

 山川港で近世の初めから藩政期にわたる遺跡を見たあと、鰻温泉に向かった。指宿近辺では珍しい「硫化泉」の泉質を持つ鰻温泉。嗅覚はあまり利かないが、鰻の集落に入ると硫黄の臭いがしてくる。

 今日は「鰻地蔵」という古来の信仰の拠り所を見ることにした。あと50メートルで鰻地区銭湯に着くという所に右手に上がる道があるから、そこを上がって30メートル位先を右折すると右手に鬱蒼と茂った林がある。

 そこが鰻地蔵堂のある場所だ。車を停めて行ってみる。道路からの入り口は狭いが、お堂の建つ辺り(境内)は5,60坪ほどの広さはある。Cimg4340 十坪ほどの小さな地蔵堂の中には、真ん中に木造の鰻地蔵が金襴緞子に包まれて鎮座し、両脇には別の陶器製の地蔵さんが三体もある。Cimg4338 お堂に向かい合った崖下には鰻地蔵の起源を記す古い板碑がある。そばには説明板が立つ。Cimg4337 南北朝時代の元徳4(1332)年の造立というからずいぶん古いものである。木造の地蔵がその頃の製作かどうかは書いてないが、その時代の物としておかしくはないように見えた。Cimg4342 境内から見下ろす鰻の集落。後ろの山々はうなぎ湖カルデラの外輪山で、鰻集落自体がカルデラの内部にあることが分かる。Cimg4344 鰻池を取り巻く外輪山で最も高い鷲尾岳。高さは411m。

 鰻地区銭湯の料金所の女性によると「鰻地区は寒くて、下とは衣類が一枚違う。去年の冬などは37センチも雪が積もり、地熱があるのになかなか消えなかった」そうで、「あの山に雲がかかるのが見えたら、浜の人たちは急いで干していたカツオ節を中に取り込む」という。

 その山こそ鷲尾岳である。山川港の海に突き出た砂嘴状の場所からはよく見えるのだろう。山は海浜の人々にとって「天の気」を教えてくれる存在でもあるようだ。




 









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金峰山と野間岳(鹿児島県南さつま市)

 10月27日の土曜日、若い二人と南さつま市の金峰(きんぽう)山と野間岳に登った。

 金峰山は旧阿多郡の金峰町にある標高636㍍の修験道の山で、本岳・東岳・北岳の三峰に分かれている。Cimg4284 鹿児島へは垂水フェリーで渡り、谷山から錫山方面へ上がり、途中から県道20号線に入って大坂(だいさか)集落へ。

 ここから右折して山道に入る手前に「2000年橋」という木造アーチ橋があり、ここを渡った向こう側に道路をまたぐ大きな朱の鳥居が見えた。

 何か煙が立ち込めているなと思ったら、地元の若い人たちが、土手に生えていた雑草を刈ったあとの焼却作業の真っ最中だった。Cimg4287 うねうね坂を登ること15分、金峰神社の入り口駐車場へ。そこから5分ほどで石の鳥居にたどり着く。ここからいよいよ登り開始だ。Cimg4290 直に金峰神社に到着。かっては本岳の山頂にあったものだが、時代の変遷で中腹に祀られることになった。祭神は修験道の主祭神・蔵王権現である。

 「この金峰山は推古天皇2年(594年)に、大和吉野の金剛蔵王権現を分祀した」と駐車場の案内看板にあった。本当だとすれば1400年前にはあったことになる。ずいぶん古いものだ。

  急な階段また階段の山道を登って行くこと20分、喘ぎながらもやや呆気なく山頂にたどり着く。Cimg4293 636㍍の山頂。あいにくかすみが強く、四周の風景はぼうっとしていた。Cimg4295 修験の山らしく、山頂近くの眺めの良い岩場に「護摩壇」のようなしつらえがあった。Cimg4308 金峰山を一時間ほどで後にし、旧金峰町の水田地帯を目指して山道を降りると、東市来と加世田を結ぶ国道270号線に突き当り、そこを左折して加世田方面へ行く。

 すると間もなく道の駅「木花館(こなはなかん)」が左手にある。道路に反対側にちょっとした展望所があり、そこから眺めると、いま登って来た金峰山が施設の上に望まれた。

 施設は向かって左が「木花館」。その右隣りは金峰町歴史交流センターである。昼食前に30分ほど見学したが、展示の内容はしっかりしたもので、縄文時代から中世の阿多地区の歴史がよく分かるようになっていた。

 次に向かったのが「野間岳」。野間岳は旧川辺郡笠沙町に聳える590㍍ほどの山で、特徴のあるとんがりピークが船運の目印になっていたことでよく知られている。Cimg4322 加世田を過ぎ、大浦干拓地を右に見ながら行くと、やがて「黒瀬入り口」に至る。この黒瀬地区は焼酎造りの杜氏を輩出することで有名な土地柄で、一説によると相当昔に、南方から醸造技術者が漂着したと言う由緒を持つ。

 ここから山道を登ること15分で、野間神社に到着。向かって右手から登山道に入って行く。Cimg4316 下りの一切ない登山道で、さらに山頂まであと10分というところからは、鎖付きの道をよじ登る。Cimg4318 山頂は、開聞岳ほどではないが岩がごろごろと露出している。東シナ海を眼下に望むが、向うに長く伸びているのが「野間半島」で、よく見ると風力発電用のプロペラが7、8基並んでいる。

 この山頂にはかって野間神社があった場所があり、そこに古い灯篭が立っている。Cimg4317 小さな祠と石灯籠。石灯籠の胴の部分に「文政13年寄進」とあるが、文政13年は1830年に当たる。この時、同時に中腹に今の野間神社が建立されている。

 つまりこれらの石造物は、野間神社が山頂から中腹に降ろされた代わりに「奥宮(元宮)」として存続すべく設置されたものだろう。

 この野間神社の祭神は『三国名勝図会』では天孫初代のニニギ・コノハナサクヤヒメ、二代目のホホデミ・ホスセリ・ホアカリであり、霧島神宮の祭神に重なる。ということはここも霧島山と並んでクシフルノ峯だったのであろうか。(先ほどの「黒瀬杜氏」の南方渡来説になぞらえて、天孫も実は南方から海を越えてここに上陸したのだ、とする説もある。)

 ただ地元加世田地区の伝承では祭神を「娘媽(ろうま)神女」としている。この神女は海域を守る海の女神として中国南部で崇められる神であり、この「ろうま」が野間(のま)に転訛したという地名由来譚にもなっているのである。

 真偽のほどや如何。























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サツマイモの収穫風景(鹿屋市池園町)

 今、あちこちの畑でサツマイモの収穫が盛んだ。

 今朝7時ころ、我が家の南にある畑でけたたましくエンジン音が聞こえてきた。庭に出て行って眺めると、イモ畑の中、耕運機にツル切り機を装着し、優に100㍍はある長い畝を走らせていた。Cimg4271 ツルを切ったあとの畝は黒いビニール(マルチ)でかまぼこ型に覆われているので、それを二人の女性がはがして歩く。Cimg4272 かなりアップしたので写りが悪い・・・。

 次に、はがした黒ビニールを巻き取る機械が活躍する。Cimg4276 4輪のパイプ車体に小型ガソリンエンジンを載せ、その回転で長い畝の上の黒ビニールを巻き取り、同時に前に進んで行くようになっている。Cimg4283 畝一条ごとにきれいに巻き取られたマルチ用黒ビニール。

 この廃ビニールは再生工場に持って行かれ、キロいくらかの料金を払って処分してもらう。再生品はいろいろな用途があるらしい。(苗用の黒ポットや黒い苗箱など・・・)

 かなり以前は畑でそのまま燃やしてしまうようなこともあったが、今は完全に禁じられていてそんなことをする農業者はいなくなった。環境問題にちゃんと対応している。Cimg4281 イモの掘り取りはトラクターの後ろに畝一条用の掘り取り機を取り付けて慎重に行っていた。赤いイモが次々に現れる。

 ここのイモは苗採り用で、年が明けて2月頃にハウス内に伏せ込み、ツルを伸ばしてそれを出荷販売するためのイモである。「紅ハルカ」などという青果用のイモになる種類が多いそうだ。

 鹿屋のあちこちで見られるイモ畑で、面積的に圧倒的に多いのが焼酎・でんぷん加工用の「黄金千貫(こがねせんがん)」で、このイモは皮が白いのが特徴である。Cimg4275 収穫の終わった隣りの畑で、傷物として捨てられていた黄金千貫。真ん中のえぐれはカラスのつついた跡のようだ。








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肝付氏第6代兼藤の墓(鹿屋市串良町中郷)

 昨日のおおすみ歴史講座で、肝付町からおいでのF氏から、「6代肝付兼藤の墓が中郷にあったなんて驚いたな」と言われ、今日の午後仕事ついでに行ってみた。

 串良町の串良小学校と総合支所の間の串良川沿いの県道(高山・串良線)を北上し、国道220号線を横切り、平坦な道を道成りに行くこと4キロ、左手に花崗岩の石柱の立っている所が目的の「小野原墓地」であった。

 道路に沿って流れる用水を横切って山手側に入ると、ほんの20メートル先に墓塔群が見えた。その中の一番立派な宝塔が兼藤の墓らしい。Pt350036_3 苔むした古墓には似つかわしくない造花だが、墓守がいてどの五輪塔にも常に香華を絶やさないようだ。Pt350034 兼藤の墓と思しき物は、一見して非凡な造りであることが分かる。胴(水輪)の部分に彫られた阿弥陀如来か地蔵菩薩か、この墓の主の菩提を弔う強い意思が如実に表わされているように見える。Pt350032 兼藤は、北条家一門で当地の地頭となった名越氏と領地争いをした挙句、地頭代としてやって来ていた源盛貞によって殺害された。元亨3年というから1323年のことである。

 「納骨宝塔」とは遺骨が納められた宝塔のことであるから墓と言って間違いではない。とすると、なぜ文永5年(1268年)に前代の第5代兼石によって創建された盛光寺墓地に建立されなかったのだろうか?

 それは執権北条氏の勢力が極めて強力で、地頭代も北条氏の威光のもとに肝付氏を抑えにかかり、ついに兼藤は「逆賊」として誅殺されたがゆえに、本貫の地である盛光寺墓地に葬るのを憚られたのではなかろうか。

 次代の7代兼尚はさらに争論を重ね、ついに直接鎌倉幕府の問注所まで越訴に出かけたが、行方不明となっている。これも「逆賊」としての成敗を受け、本貫地の高山に葬られなかったのであろう。

 







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茶工場と茶畑(肝属郡錦江町)

 四ヶ月前の6月中旬までの二ヶ月間、我が家から錦江町の茶工場に通い、自立したあとも茶工場で働き続けているはずのМ君。

 一昨日、彼に電話したら「この携帯番号は今は使われておりません」ときた。

 ええ!もしかしたら・・・と一瞬不安がよぎった。仕事をやめてしまったのではないか・・・。

 そこで今日の仕事が終わってから、茶工場を訪ねてみることにした。Cimg4255 以前にも二回訪ねているが、駐車場の端まで来てようやく何とか全体が見渡せる。改めてかなりの規模の茶工場だな、と感心する。Cimg4249 入り口から入って行くと、ちょうど2トントラックの入荷に出くわした。女性二人で入荷に来たようだ。一人が荷台に上がり、10袋くらい積まれていた茶袋を次々に後部から細長い穴に流し込んで行く。「ペットボトル用に使われるらしい」と言う。

 ○○園とかいうペットボトル茶の会社に行くのだろうか。Cimg4251 流し込まれた茶葉は洗い終わったあと、次々にコンベアーに載せられて様々な工程を経て製品となる。Cimg4253 それにしても機械だらけである。こんな体育館がすっぽり入るような大きな工場だが、たったの6人で製造しているというからすごいものだ。

 見て回っていると、件のМ君が現れた。携帯の番号が使われなくなったのは「どっかへ落としたので、新しい携帯になったんです」。何だ、良かった。元気に働いていた。

 ほっとして帰途に就いたが、途中で素晴らしい光景に出会った。Cimg4257 茶畑を写しておこうと農道に入ったのだが、茶畑以上に感動する光景がそこにあった。Cimg4267 茶畑の反対側は錦江湾で、今まさに開聞岳の山裾に日が沈んで行く。時刻は5時40分。下に見えるのは大根占港の波止である。Cimg4269 日は沈み切り、シラス台地の上にある茶畑に夜の帳が訪れようとしていた。












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水神祭と鉦踊り(鹿屋市王子町)

 今日は旧暦の8月28日、王子町では水神祭が行われ、水(水神様)への感謝が捧げられた。

 Cimg4224_2 昼の1時から「鉦(かね)踊り」の一行が町内の家々を回って門付祝いの踊りを奉納するというので、付いて行く。Cimg4227 とある建設業者の広い駐車場で、最初の鉦踊りがふるまわれた。終わった後には「金一封」を貰うしきたりになっている。Cimg4229 太鼓を叩くのは大人だが、鉦を敲くのは子供である。Cimg4238 これが太鼓。直径30センチ余りの締め太鼓である。Cimg4237 こちらが「鉦」。大人用と子供用がある。Cimg4231 新興住宅街の狭い道路まで入って行く。Cimg4233 三か所目。これが終わるとしばし休憩ということで、自分は水神祭の行われる「和田井堰公園」に先に行くことにした。Cimg4235 この公園の500㍍北の肝属川を仕切っているのが「和田井堰」で、取水された用水路は鹿屋中心部を通り、川東地区を経て延々と吾平町の光同寺地区まで約13キロ、その間の田んぼを潤しながら流れて行く。

 池のように見えている所は肝属川の旧河道で、右手の台地下からの湧水が多いので今でも川のようになって流れている。Cimg4236 湧水の流れを横切って公園に行くと、水神祭が執り行われていた。Cimg4244 江戸時代からの水神祠は六基もある。後ろには河川改修や和田井堰の改良記念碑などが立つ。

 3時過ぎ、いよいよ鉦踊りが始まった。まずは水神様へ奉納される。Cimg4240 続いて講演の広い芝生の上で踊りが披露される。Cimg4246 これは「光同寺鉦踊り」で、ここからの用水の最終受益者である光同寺地区の人たちが感謝をこめて踊る。Cimg4247 このあと王子町の鉦踊りが奉納されてお開きとなった。



































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稲刈りの風景②(鹿屋市吉国・野里)

 今朝、所用で一里山近くまで行った帰り、高橋水源地から高須川沿いの吉国と野里の田んぼ地帯を通ってみた。Cimg4210 田んぼ地帯へ下る坂の途中から眺める。ここは長い田んぼ地帯の一番上(上流沿い)の田んぼで、黄金色の田が見事だ。Cimg4211 田んぼ沿いの道路に降りると、刈り取った稲を掛け干し用の「馬」を立てながら干して行く作業に取り掛かっている家族がいた。Cimg4212 今は金属のパイプを「馬」にしていっぺんに三列の稲を掛けて行くのが主流のようだ。屋根の部分の一列と、壁に当たる部分の左右両側に二列で都合三列になる。一挙三得というわけだ。

 普通は三列に掛けたあと、てっぺんに長いビニールを被せて雨が藁の中に入るのを防ぐのだがのだが、ここのは裸のままである。今日あたり脱穀をするので除去したのかもしれない。Cimg4215 吉国の田んぼ地帯のすぐ脇を流れる高須川の清流。ここには堰が設けられていて、ずっと下の野里の田んぼ地帯に供給されている。Cimg4217 だが、もう水の不要な収穫時期とあって、堰から3、40メートル先で水は川に戻されている。まるで小ぶりの滝のようだ。遠い昔なら水車に利用されてもおかしくなかろう。Cimg4220 その下流の野里地区での刈り入れはもう最後にかかっている。Cimg4223 野里田んぼの中心部に存在感のあるタノカンサ―(田の神様)がデンと鎮座している。

 寛延4年というから西暦1751年の建立のこの田の神像は、同一の造形の中では最も古く、姿も立派であるということで県の文化財に指定されている。Cimg4221 田の神のすぐ向こう隣りには小さな水神碑があり、さらにその向こうには耕地整理碑と土地(農地)改良記念碑が立つ。

 土地改良記念碑によると、この田の神様の後背の農地80ヘクタール余りが昭和57年に改良完工している。ちょうど30年前のことになる。

 国の減反政策がすでにその10年前から行われており、おそらく改良後の維持経費の高さから見て反対する農家もあったろうが、平成5年の長雨と台風13号による大減収を受けて、田んぼの重要性が見直されてたことが契機になり、安全な作物への関心も高まったこともあって、再び農家の生産への意欲がかき立てられるようになった。

 疑問の残る土地改良事業だったが、今から考えるとかえって良かったと思われているのではないだろうか。現実にもここ7,8年で、草ぼうぼうのまま放置された田がみるみる減って来ている。

 コンバインなど使わずに、ある程度規模を拡大すれば、コメ販売の自由化でやや値下がりした分を補うことが可能かもしれない、と一度は米作りをしたことのある自分は思うことである。






















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万歳、やっと解放される!

 昨日の午後、我が家の東に広がる雑草の生い茂った畑の方から、急にけたたましい音がし始めた。

 知らない人が聞いたら「暴走族がそこらに来ている」と思うかもしれない。それほど似ているのがエンジン刈り払い(草刈り)機の音だ。

 田代町の大原地区にいたころは、この草刈り機に加えて山中でときおり響く「エンジンチェーンソー(鋸)」の木を伐採する音が「暴走族がなんであんな山の中に?」などと一瞬思ったものである。

 我が家の東の畑を見下ろす方に行き、眺めると「おう、やっと畑になるのか」とにんまりした。Cimg4205 見ると、麦わら帽子をかぶった男性が草刈り機を使っている。

 ここに家を建ててからこれまでの9年間、画面の左下から左上にのびる我が家のブロック塀沿いの幅2メートル位を自前の草刈り機で年に6~7回は刈っていた。

 そうしないと雑草が伸び放題になり、ブロックを越えて左手の我が家の庭に侵入してくる。特につる性の「カンネンカズラ(葛)」や「ヤブガラシ」が困った存在であった。

 今回もし草を刈った後に何らかの作付け(サツマイモや大根、ニンジンなど)がなされれば、つまり恒常的に畑として使われるようになれば、耕作者の「善良な管理」がなされ、自分の草刈りの出番が不要になることになる。そうなれば万歳だ!Cimg4209 ウメも喜んでいるのか!Cimg4200 嘘つけ、Cimg4199
ついさっきまで腹を天に向けて寝ていたくせに!Cimg4202 ウメ! と呼んだら、ガバっと起き上がったウメであったよのう。








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鹿屋市納涼花火大会(新川町旧専売公社跡地)

 8月下旬の大会も、9月に延期された大会も、どちらも台風の影響で中止となっていたが、今日(10月6日)は「三度目の正直」とばかり、無事に花火が打ち上げられた。

 新川町と川西町の境にある「役所の下橋」に着いた頃、ちょうど最初の花火が上がり、川土手に単車を置いて、さあここからならよく見えると橋の上の歩道に行ったところ、何人もの警備員が立っていて「橋の上からの観賞はできません」とのたもう。

 橋のすぐ下あたりで肝属川本流と肝属川の分水路が合流していて遮るものがなく、花火会場まで500㍍程度と近いので絶好の観賞ポイントなのである。車で来て橋の上に停めて見られては確かに交通の妨げになり渋滞この上なくなるので規制するのは分かるのだが、人間だけならいいのじゃないかと思ってみたが・・・。

 仕方なく近くの土手(堤防)道路に入って見ることにした。よく見えることは見える。Cimg4167 打ち上げの場所は肝属川本流の左岸堤防の上のようで、川を挟んで左手のいくつも明るい照明灯の光っているところが会場の旧専売公社跡地だ。

 中央から左下に見える光の帯が肝属川本流で、その手前の水溜りのように赤っぽく光るのが肝属川の分水路である。この二本の帯はちょうどこの画面の左下の隅辺りで合流し、元の肝属川となって肝付町(高山)の波見を経て志布志湾に注ぐ。(分水路の右側に見える白い物は堤防上のガードレール)Cimg4170 連発花火の始まり。右手に見えるビルは鹿屋市商工会議所。このビルの向う側の窓から見たら最高の打ち上げショーが見られるだろうに・・・。Cimg4174 「連発」の中途の連発花火。Cimg4168 これが連発の最後。連発花火を提供するスポンサーが最も多く、たいていこのようにかなり大きめの花火が4,5発連射されて終わる。

 終わった直後の「余韻」と「静寂」が何とも言えない。

 Cimg4191 花火ショーのトリを飾る仕掛け花火だが、遠くてよく分からない。三角形の山(富士山?)形にいろんな色の火が燃えて行き、最後は全体が明るい光に覆われた。すかさず、10発ほどの連射花火が打ち上げられ終了。

 秋の穏やかな夜空をステージにして1時間、見応えのある納涼花火大会は幕を閉じた。











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稲刈りの風景(鹿屋市西祓川・祓川町)

 ここのところ続く秋晴れの空の下、あちこちで稲を刈る風景が見られる。

 いま刈られているのは普通作。だいたい6月初旬から梅雨入り前の夏至の頃までに植え付けられたもので、今年は台風(の直撃)にも長雨にもあわず、おおむね豊作と言ってよい。

 西祓川から祓川方面へ行ってみると、収穫の真っ盛りだった。Cimg4152 バインダーという刈り取りと結束を兼ねた機械で収穫している高齢者夫婦(西祓川町)。

 手前の田んぼの刈り干しは相当に乾燥が効いているので、脱穀は間近だろう。Cimg4146 鹿屋バイパス(国道220号)の「鹿屋大橋」の下から、鹿屋の母なる川、肝属川沿いの田園を望む。

 この辺りの刈り取りはやや遅れている。2割程度だろうか。Cimg4149 刈り取りは、やはりバインダーだ。ウマを立てて掛け干しをする手間は掛かるが、コンバインで刈ると一反(300坪)当たり15000円かかるうえ、乾燥機での乾燥賃が米一袋に付き1000円くらいかかる。15袋収穫したとするとこれも15000円。合計で30000円也でバカにならない額だ。

 台風さえ来なければ、天日干しの方が見た目もいいし、味も良いという。通りすがりに眺めるにしても、こっちの方が俗に「絵になる」のでありがたい。Cimg4154 7月に通りかかった時に見た祓川小学校の「体験学習農園」のその後はどうなったかと、西祓川から少し上流の祓川町まで行ってみる。

 学習農園はまだ刈られていなかった。すっかり葉の緑色が抜けているので、もういつ刈ってもいいようだ。道路の反対側ではコンバインで稲刈りをしていたが、そこの人がもうすぐ刈り取るようだと教えてくれた。Cimg4153 コンバインによる収穫はとにかく早い。(コンバインのはるか後ろの緑の小山にあとで紹介するタノカンサ―が鎮座している。)Cimg4157 コンバインの中のタンクが一杯になるとホースを横に伸ばし、軽トラックの荷台にしつらえたじょうご型の袋に吐き出していく。Cimg4156 桜島の降灰で幾分空が霞んでいるものの、御岳(1182㍍)が望まれる田園風景は心に沁み込むものがある。(赤い屋根の向こうに祓川小学校の校舎が見えている。)Cimg4160 学習農園前の道路から北へ150㍍くらい、右手の田んぼの中の小高い丘の天辺にあるのがおなじみの「タノカンサ―(田の神様)」だ。

 高さ40センチほどの可愛らしいタノカンサ―だが、今回は後ろに回って製作年を確かめた。Cimg4162 すると安永9年とあるではないか。安永9年は1780年で、鹿児島では前年の安永8年11月に桜島の大噴火があり、初冬という季節から考えるとこちらでも相当な火山灰が降ったと思われる。

 その降灰の被害の軽微ならんことを祈って奉納(奉寄進)されたタノカンサ―ではなかっただろうか。



















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星塚敬愛園で冠二郎・瀬川瑛子の歌謡ショー(鹿屋市星塚町)

 いつも8月の初旬に開催される「星塚敬愛園夏祭り」は台風10号の接近で中止になったが、10日くらい前だったか町内会の放送で、敬愛園の祭りが今日(10月2日)の夕方から行われるという。しかも2か月前と同じ出演者、冠二郎と瀬川瑛子がやって来るというので、夕方6時半に敬愛園まで行ってみた。Cimg4119 彼岸過ぎとあって6時半にはすっかり日は落ちていたが、到着した時はスポットライトを浴びた舞台の上で敬愛園の若い職員の出し物が演じられていた。曲目はちょっと思い出せない。

 これが終わると、司会者もプロに代わり(何でも福岡のラジオ局のパーソナリティだった)、いよいよ冠二郎の登場となった。Cimg4123 小気味のいい冠二郎の挨拶のあと、持ち歌が次々に披露された。

 冠二郎と瀬川瑛子のショーは合わせて90分、冠二郎は「燃えろ、燃えろ、燃えろ!!!」の『炎』という歌で締めくくるまで12,3曲は歌った。最後の挨拶が済んで袖尻に下がったが、アンコールの声にもう一度登場し、「自分の持ち歌ではありませんが、村田英雄さんの<無法松の一生>を歌います」と言ってサービスしてくれた。Cimg4125 続いて現れた瀬川瑛子。派手な衣装に身を包んでいた。Cimg4131自分のデザインした衣装(振袖?)で「パイナップルをイメージして作りました」とあの独特の鼻に掛かった声で、訳の分からない説明をしていた。
Cimg4136 『長崎の夜はむらさき』など往年のヒット曲を7、8曲は歌っただろうか、その合間合間のトークも絶妙で、観客を大いに笑わせていた。

 『矢切りの渡し』のあと敬愛園の自治会長が舞台に上がって花束を贈呈し、ツーショットに収まった。

Cimg4139 最後の2曲というところでお色直し。瀬川瑛子にピッタリのぴちぴちドレスに替わった後は新曲「男嫌い」を歌い、フィナーレはやはり『命くれない』であった。

 一時間半の立ちっぱなしだったが、全く疲れもしないでショーに見入っていた。

 帰る道すがら見た花火と満月(よりは進んでいた。18日くらいか?)はなかなかの見ものだった。Cimg4143Cimg4145











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