« サツマイモの収穫風景(鹿屋市池園町) | トップページ | 河野覚兵衛家墓塔群と鰻温泉(指宿市山川町) »

金峰山と野間岳(鹿児島県南さつま市)

 10月27日の土曜日、若い二人と南さつま市の金峰(きんぽう)山と野間岳に登った。

 金峰山は旧阿多郡の金峰町にある標高636㍍の修験道の山で、本岳・東岳・北岳の三峰に分かれている。Cimg4284 鹿児島へは垂水フェリーで渡り、谷山から錫山方面へ上がり、途中から県道20号線に入って大坂(だいさか)集落へ。

 ここから右折して山道に入る手前に「2000年橋」という木造アーチ橋があり、ここを渡った向こう側に道路をまたぐ大きな朱の鳥居が見えた。

 何か煙が立ち込めているなと思ったら、地元の若い人たちが、土手に生えていた雑草を刈ったあとの焼却作業の真っ最中だった。Cimg4287 うねうね坂を登ること15分、金峰神社の入り口駐車場へ。そこから5分ほどで石の鳥居にたどり着く。ここからいよいよ登り開始だ。Cimg4290 直に金峰神社に到着。かっては本岳の山頂にあったものだが、時代の変遷で中腹に祀られることになった。祭神は修験道の主祭神・蔵王権現である。

 「この金峰山は推古天皇2年(594年)に、大和吉野の金剛蔵王権現を分祀した」と駐車場の案内看板にあった。本当だとすれば1400年前にはあったことになる。ずいぶん古いものだ。

  急な階段また階段の山道を登って行くこと20分、喘ぎながらもやや呆気なく山頂にたどり着く。Cimg4293 636㍍の山頂。あいにくかすみが強く、四周の風景はぼうっとしていた。Cimg4295 修験の山らしく、山頂近くの眺めの良い岩場に「護摩壇」のようなしつらえがあった。Cimg4308 金峰山を一時間ほどで後にし、旧金峰町の水田地帯を目指して山道を降りると、東市来と加世田を結ぶ国道270号線に突き当り、そこを左折して加世田方面へ行く。

 すると間もなく道の駅「木花館(こなはなかん)」が左手にある。道路に反対側にちょっとした展望所があり、そこから眺めると、いま登って来た金峰山が施設の上に望まれた。

 施設は向かって左が「木花館」。その右隣りは金峰町歴史交流センターである。昼食前に30分ほど見学したが、展示の内容はしっかりしたもので、縄文時代から中世の阿多地区の歴史がよく分かるようになっていた。

 次に向かったのが「野間岳」。野間岳は旧川辺郡笠沙町に聳える590㍍ほどの山で、特徴のあるとんがりピークが船運の目印になっていたことでよく知られている。Cimg4322 加世田を過ぎ、大浦干拓地を右に見ながら行くと、やがて「黒瀬入り口」に至る。この黒瀬地区は焼酎造りの杜氏を輩出することで有名な土地柄で、一説によると相当昔に、南方から醸造技術者が漂着したと言う由緒を持つ。

 ここから山道を登ること15分で、野間神社に到着。向かって右手から登山道に入って行く。Cimg4316 下りの一切ない登山道で、さらに山頂まであと10分というところからは、鎖付きの道をよじ登る。Cimg4318 山頂は、開聞岳ほどではないが岩がごろごろと露出している。東シナ海を眼下に望むが、向うに長く伸びているのが「野間半島」で、よく見ると風力発電用のプロペラが7、8基並んでいる。

 この山頂にはかって野間神社があった場所があり、そこに古い灯篭が立っている。Cimg4317 小さな祠と石灯籠。石灯籠の胴の部分に「文政13年寄進」とあるが、文政13年は1830年に当たる。この時、同時に中腹に今の野間神社が建立されている。

 つまりこれらの石造物は、野間神社が山頂から中腹に降ろされた代わりに「奥宮(元宮)」として存続すべく設置されたものだろう。

 この野間神社の祭神は『三国名勝図会』では天孫初代のニニギ・コノハナサクヤヒメ、二代目のホホデミ・ホスセリ・ホアカリであり、霧島神宮の祭神に重なる。ということはここも霧島山と並んでクシフルノ峯だったのであろうか。(先ほどの「黒瀬杜氏」の南方渡来説になぞらえて、天孫も実は南方から海を越えてここに上陸したのだ、とする説もある。)

 ただ地元加世田地区の伝承では祭神を「娘媽(ろうま)神女」としている。この神女は海域を守る海の女神として中国南部で崇められる神であり、この「ろうま」が野間(のま)に転訛したという地名由来譚にもなっているのである。

 真偽のほどや如何。























|

« サツマイモの収穫風景(鹿屋市池園町) | トップページ | 河野覚兵衛家墓塔群と鰻温泉(指宿市山川町) »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« サツマイモの収穫風景(鹿屋市池園町) | トップページ | 河野覚兵衛家墓塔群と鰻温泉(指宿市山川町) »