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ついに氷点下!(鹿屋市池園町)

 昨夜の天気予報では最低気温が2℃ということだったが、我が家のある所では今朝ついに氷点下を記録した。

 ウメの散歩の時刻ではまだ薄暗くて霜の状態がよくは分からなかったが、帰って来てウメに餌をやり、自分も居間で温かいものを飲んで再び庭に出てみると、まず車のフロントガラスの凍り方が半端ではなかった。Cimg4473 本格的な霜と言えるだろう。

 ウメの水いれの水にはうっすらと氷が張っていた。Cimg4472 初氷だ。庭の畑の高菜の葉にもかなり霜が降りている。Cimg4471 四周の畑も真っ白だ。Cimg4468 片付けるのを忘れたのか、畝一列分の黒いマルチ用ビニールも白くなっている。Cimg4469 畑に一本だけぽつんと残された木が、寒そうだ。Cimg4476 東の肝属山地から日が昇りはじめた。ちょうど黒尊岳と甫余志岳の間のくぼんだ稜線の間からお日様が顔を出した。7時11分であった。

 この時、我が家の玄関口の寒暖計では2℃。例によって3℃を差し引くとマイナス1℃。とうとう氷点下を記録した。11月としては何年かぶりの寒さだ。

 これで霜が降りた回数は4回目になる。

 1回目・・・11月1日(ごく軽い霜。気温は2.9℃)

 2回目・・・11月16日(ほぼ普通の霜。気温は1.9℃)

 3回目・・・11月25日(1回目と同じくらいの軽い霜。3℃)

 4回目・・・今日11月28日(本格的な霜。―1℃)

 11月に4回の霜というのは記憶にない。今年は寒い冬になるのだろうか。
















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王子町の銭太鼓(鹿屋市新川町)

 旧暦の8月28日(10月13日)の午後、王子町と打馬町の境にある和田井堰公園で開催された「水神祭」を見に行ってこのブログに掲載したが、その際、昨年から復活したという「王子町銭太鼓」(同保存会による)は昼前に終わっていたので、残念ながら見ることができなかった。

 しかし、11月23日の鹿屋農業祭りでその銭太鼓が出演するというチラシを貰い、出かけることにした。以前は中央公園で行われていたが、最近は新川町の青果市場(天上付き)を借り切って行われるようになった。そのほうが天気の心配がなくてよいからだろう。

 10時過ぎに会場近くまで来ると、太鼓の大きな音が響いてきた。あ、もう銭太鼓の出番だったか―と足早に会場に入ると、どうも違う。女性連だけで演奏すると聞いていたのに、出演者の半分以上が男子だったのだ。しかもみんな若い。Cimg4414 プログラムの表示はないのだが、よく見ると鹿屋農業高校の太鼓クラブの演奏であった。Cimg4416 総勢はちょうど10人、小さな締め太鼓は二人だけで、あとはみな大太鼓の部類で迫力ある演奏である。終わってから女性司会者のインタビューを受けたキャプテンによると、全国大会に出場したが入賞は逃したらしい。「でも出られて精一杯やったので悔いはありません!」とさわやかに答えていた。Cimg4419 次がいよいよ「王子町銭太鼓」の出番。高齢者から小学生まで、20人近い参加者である。後ろの幟旗を持つ人たちを入れると30名からなる大集団だ。Cimg4421 両手に紅白を巻いた30センチくらいの棒を持ち、膝をついたままの姿勢で頭の上で回したり、床を叩いたりする。Cimg4422 唄は「ハンヤ節」で、早い節回しなので、見かけ以上に大変な仕草に違いない。

 太鼓は使っていないうえ、何で「銭」が付くのかよく分からない。ただ、これは舞台だから床を叩くのだが、実際には地面を叩くはずで、地面を叩くあるいは棒で突く仕草は「豊穣祈願」であるから、これもその流れの踊りだろうと思う。

 後継者も沢山いるようだから、これからが楽しみである。

 次の出演は「つむぎんちゅ」(紬の人)という奄美の島唄をベースにしたデュオで、これはもうけものと思い耳を傾けた。Cimg4427 二人は大島高校の同級生で30歳を少し越えたくらいらしい。ふたりの名は麓和幸と肥後陽子。

 麓の経歴が変わっている。高校卒業後、自衛隊入隊、そのあと吉本興業に入ったという。おそらく吉本では芽が出なかったのだろう、ホームページによると2008年に初めは3人で活動を始めたようである。Cimg4429 女性の方は高校卒業後は大阪の製菓学校に入ったという。祖父が奄美では有名な唄者(うたしゃ)だったというから、来るべき所へ来たというところか。

 麓のトークはなかなかのもので、蛇皮線より面白い。最後に観客席まで下りてきて六調の手踊りをして回ったが、道に入ったものだ。これも楽しみなエンターテイナーである。

 












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画家の長寿(曽於市末吉町)

 所用で曽於市末吉町の総合センターに出かけたが、そこには末吉町出身で文化勲章受章の洋画家・吉井淳二画伯の大作が2点と織田廣喜の大作が1点、ロビーに飾られていた。Cimg4398 真ん中のは200号だろうか、『レシフェの丘にて』という題で、吉井の好んでテーマ地に選んだメキシコの風景人物画である。Cimg4401 1904年生まれの吉井が80歳近くになって描いた大作である。Cimg4400 『鳥を売る女』もメキシコがテーマで、1980年の作品だから76歳の時である。男性の平均寿命から見れば、もうあとが無い高齢の作品だが、このあともまだまだ描き続けている。

 それよりも驚くのが、右手に飾られた織田廣喜の作品だ。Cimg4402 この少女の絵は、何と織田廣喜が96歳の時にかいている。織田は吉井に遅れること10年あとの1914年生まれで、2010年の作品である。織田は今年この世を去ったが、98歳だった。

 一方、10歳年上の吉井は2004年に逝去している。ちょうど100歳であった。

 吉井は洋画団体「二科会」の理事長を長年務め、その頃に文化勲章も受賞しており、この末吉町ではそれを記念して<吉井淳二記念洋画コンクール>を開始した。当然ながら審査委員長に就任し、次に委員長になったのが、やはり二科会の後任の理事長になっていた織田であった。

 それが、吉井作品に並んで織田の作品が展示されているわけなのである。

 

 ふたりは二科会の最重鎮であったことと、どちらも長寿なのが共通している。よく言われることだが、「画家には長寿が多い」をまさに証明したふたりであった。

 画家の長寿の要因は脳の使い方だろうか。絵は空間認識を主体としているから右脳をよく使うはずで、左脳を休ませる時間が長いのではないか。(左脳は言語や計算などでいつもフル回転しているから、ストレスも溜めやすい。)

 真剣にキャンパスに向き合っているときの脳波は、おそらく禅の坊さんが精神統一に入った際に出される何とか波と同じようなものではないだろうか。禅の坊さんも一般的には長命者が多いとされている。

  同じロビーの一角と別の部屋では今年創設30回目の記念ということで「吉井賞記念作品展」が開催されていた。Cimg4396
中に入って歴代の受賞作品を観賞して行くと、第一回の記念大賞が展示されているのを見たら、むかし指宿で油絵を習っていたころ、属していた会の指導者だったK先生の作品だったのには驚いた。Cimg4390 K先生は今おいくつだろうか。高校の教員を定年退職後はN美術館の館長をされていた。叔父も画家だというし、蛇皮線を弾き、音階の五線譜化などにも取り組んでいたと記憶する多彩な先生であった。

 30年前といえば三昔で、長寿であるにしても人間はそれなりに加齢により、見かけはずいぶん変わるが、絵画は30年前のそのままである。・・・・・・・芸術は長し。









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具志堅用高の出自と沖縄

 昨日の夜のNHK番組で、具志堅用高の知られざるファミリー(家系)が紹介され、興味深く視聴した。

 用高は1955年に沖縄県の石垣島に生まれているが、江戸時代の琉球王朝においては士族の家柄であったという。

 それが、明治になってからの「琉球処分」で王朝は瓦解し、本土の旧武士階級と同じように職を失い、帰農したのであった。最初は沖縄本島の中部に入植したがままならず、大正の末年に生まれた用高の父は応召して軍人になった。

 しかし敗戦で何もかも失い、石垣島に渡り、盛んだったカツオ漁の漁師になってやっと生活が安定したようである。

 4人兄弟の3番目に生まれた用高は幼い頃はひ弱だったが、沖縄本島の私立高校に入学してからボクシングに出会い、すぐに魅力に取りつかれた。ひそかに「ボクシングで稼いで両親を楽にさせてあげたい」という気持ちを持ちながら一心不乱に取り組んだところ、3年生になった年に、何とインターハイで優勝を果たした。1973年のことであった。

 その前年(1972年)に沖縄はアメリカの占領から解放され、あらゆる面で堂々と日本の一員に復帰し、用高も「俺は日本人になった。しかし沖縄人だぞ」というハングリー精神がファイトを掻き立てた面もあったろうが、父親譲りという人並み外れた「動体視力」の良さで次々に優勝を重ね、ついにプロデビューを果たしてジュニアフライ級で世界チャンピオンになり、前人未到の13連勝の偉業を達成したのである。

 何とも素晴らしいサクセスストーリーではないか。国民栄誉賞ものだが、沖縄人にとってはそれ以上に価値のある用高の活躍であった。

 今でも具志堅ジムの会長であり、テレビのお笑い系番組でもおなじみのキャラクターで活躍しているのは周知のことだ。

 それよりも自分の興味を誘ったのは、具志堅一族の誰かの家に所蔵されている家系図が映されたとき、系図のトップに『允姓 具志堅家』と書かれているのが見えた場面である。

 「允(いん)」とは、相当古いことを言えば、越王・勾践(こうせん)の父は越を開いた始祖だが、その名が「允常」であった。また沖縄に明の初代洪武帝の25年(1392年:奇しくもこの年、日本では南北朝の合一が行われている)に「閩(びん)人36姓」が福建省方面から渡来しているが、閩人は「閩越(びんえつ)」とも言って越人の一種なのである。この中に「允姓」を持った人物がいておかしくない。

 それどころか、洪武帝の皇太子の名が「允炆(いんぶん)」で、明王朝は長江流域から興っており、古代の越や呉の領域に重なっていることからすると、もしかしたら洪武帝はひそかにその当時の越の始祖・允常に因んで息子に允炆と名付けたのではないか。

 具志堅一族の姓が「允」であるとすれば、具志堅氏の祖先は福建か長江下流域からの渡来人だったかもしれない。

 またあの当時は倭寇が大活躍をしていたころで、洪武帝は日本の足利将軍家へ倭寇の取り締まりを要請している。倭寇の一部が南中国に拠点を持ち、沖縄や日本との橋渡しの役をしていた可能性もあるから、その方面との関係も考える必要があるだろう。

 どっちにしても具志堅氏の出自は中国南部との関係抜きにはかたれないと思う。

 さて一般に沖縄は本土の日本人と比べるとより縄文人的で、アイヌ人との親近性も言われているが、それだけでは沖縄全体を語るに不足する。要するに沖縄人は九州人などとともに非常に海洋性に富み、周辺の諸族との交流が古くから存在した地域であるということで、そのことは常に念頭に置かなくてはならないのである。

 戦後は27年間アメリカの支配下にあって、今度はその影響も受けている。良い面では音楽の隆盛が挙げられる。本土へデビューした歌手やグループは相当な数にのぼり、数多くのヒットを飛ばしている。

 沖縄の歴史は長く深い。しかし戦中・戦後のわずか70年余りが著しく不遇である。沖縄の置かれた現状が少しでも本来の沖縄の姿に戻ればいいと願う。

 

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二番霜(鹿屋市池園町)

 けさ6時過ぎ、ウメを散歩に連れて行こうと玄関を出るとかなりの冷え込みであった。寒暖計を見ると5℃を指している。この寒暖計は3℃ほど引いて見ないといけないので、正しくは2℃だ。

 全くの無風状態である。畑地帯に来ると、先日芋掘りをし終えた畑が再び白くなっている。Cimg4375_2 今月一日にあった一番霜より霜の降り方が強い。あの時は最低気温2.9℃だったから、今朝の方が0.9℃低い。Cimg4376_2 畦に残されたイモづるの上にも霜が降りていた。Cimg4378_2 畑の向こうに見えるのは高隅山系で、中央の右手のピークは御岳(1182m)。左へ妻岳、双子岳、平岳、横岳(どれも1000㍍を超える)と続き、垂水方面へ稜線が下がって行く。

 連山の上に横たわる真っ黒な雲は実は桜島の噴煙で、風がほとんど無いので高隅連山の真上で棚引いているところである。今までは西風が強かったが、これから本格的な木枯らしが吹き出すと風向きは北西に変わり、鹿屋方面まで降灰に見舞われることになる。

 報道では、今年これまでの桜島の爆発・噴火回数は800回ほどで、去年を下回ってはいるが、依然として多いとのことである。(・・・爆発と噴火の違いは、火口から溶岩がこぼれないか、こぼれるかの差らしい。)Cimg4379 6時半。雲に朝日が差し始めた。

 霜の日に限って、日中は結構温かく感じられる。快晴で無風のことが多いからだろう。Cimg4383 午後のイモ畑では、あちこちで収穫作業が行われていた。Cimg4382 耕運機に「ツルきり装置」を装着してイモの畝の中を歩かせ、自分は足元の切り残しを確認しながら、手にした鎌でさっさっと刈って行く女性。巧みなものである。このあと黒マルチビニールをはがして、掘り取り機の出番となる。Cimg4381 別の畑では、掘り取りと一個一個のイモを切り分けて袋に詰める作業を同時にこなすキャタピラー車が、ゆっくりとイモの畝の上を歩いて行く。4人が乗って行われる作業だが、キャタピラーの威力はすごい。



















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菊の秋(鹿屋市池園町)

 11月1日に初霜が降りてから、季節は秋から晩秋・初冬へと衣替えをしてきた。

 この時期に咲き始めるのが菊である。

 雨の降る前に庭に出て、あちこちに顔を見せ出した色とりどりの菊を見て回った。あるある、今年はまたバリエーションを加えている。Cimg4355 これが9年前にここに居を定めた時、最初に庭に植えた藤色の小菊のたぐいで、色合いと形はこれが最も我が家での「原種」に近い。

 しかし2年ほどはこの種の菊が庭一面にわが世を謳歌していたのだが、3年目くらいになると、白が現れ始めた。Cimg4352 この手は今頃の大隅では、特に日当たりのよい海岸道路や山手の崖沿いによく見かける「薩摩ノジギク」という自然種にそっくりで、藤色の小菊の先祖返りだと思われる。

 そして同時期だったか、翌年だったかは忘れたが、濃い赤が出現した。Cimg4353 これも藤色菊の先祖で、ノジギクの白とこの赤の掛け合わせが、最初の藤色菊だったのだろうか。Cimg4357 5年目になると赤と白のキメラ型が現れたので、これを「日の出菊」と呼んでおいた。

 3年前、この手の物のバリエーションが見えるようになった。Cimg4363 今年も咲いたが、「日の出菊」より赤白の境界がはっきりしていない。

 今年はさらにこのバリエーションが出た。Cimg4362 色合いは「日の出菊」に近いが、花弁(正確に言うとガク弁?)の先端がうんと細く、と言うより尖っているのだ。直径も一回り大きい。

 「日の出菊」の蕾の時にはっきり見える黄色味だけが抜け出て花になったのがこれで、Cimg4358 基本は白だが、ほんのりと黄色身を帯びたクリーム系の花が、6年目に現れ、さらに翌年、つまり一昨年になって真っ黄色ののが分化した。Cimg4359 見事な黄色だ。Cimg4361 おや、誰かと思えばモモかい。どこに遊びに行ってたんだい。・・・黄色菊を写していたら横から忍び寄って来ていた。Cimg4371 白にもうれしい分化があった。八重咲きである。まるでダリアのようだ。Cimg4372 花弁が長く、ちょっとねじれた感じの白。


Cimg4365 ここなんか藤色菊を植えておいたつもりだったのだが、濃い色のうえ花弁が思いっきり開いている。

 白系が傍にあるので交雑したら面白い菊が生まれるかもしれない。

 とにかく、10年目の菊たち。以上のように、もう10種類ほどに分化して目を楽しませてくれている。































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中国のまたまたおろかな策動②

 ASEMという聞きなれない国際協議『アジア欧州会合』がラオスで開かれている。

 この総会で日本と中国が尖閣諸島をめぐって火花を散らした。

 日本は以前にも野田首相が公式の記者会見で「尖閣諸島は歴史上も、国際法上も日本の領土であり、中国との領土問題は存在しない」と宣言していた。そして民間人の所有者から諸島を買い上げ国有化した。

 これに難癖をつけた中国共産党政府は中国の日本企業や大使館への暴動をあおり、日本への「制裁」とし、かつ国際社会にアピールした(つもりらしい)。暴力団まがい(以下)のやり方である。

 とんでもない国である。

 今度はASEMというアジアとヨーロッパの合同会議において、またぞろ日本を非難して盗っ人呼ばわりした。1970年に国連資源何とかという組織が「尖閣諸島の海域に膨大な石油資源があるようだ」と発表するまでは、国家承認の学校の地図にも何もかも尖閣諸島は日本の沖縄に属しているとしておきながら、手のひらを返すように「俺の国の物だ」と言い始めたのである。がめつい中国!!汚い中国!!

 今回の会議では、中国が盗っ人呼ばわりしたので野田首相も黙っておれず、再度「尖閣諸島は日本の領土であることは歴史上も国際法上も明らかで、そもそも領土問題などない」と、予定の演説にアドリブ的に加えたらしい。大拍手する!!

 それに対して中国の楊外交部長(外務大臣)はこう言ったそうだ。

  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121107-00000044-scn-cn

 簡単にその主旨を言うと「反ファシズムを覆した第2次大戦。その過程での国際秩序(カイロ宣言・ポツダム宣言・国連憲章)に逆らうようなことを言っていいのか!俺の国は国連安全保障会議の五大国・常任理事国様の一国であるぞよ!」ということである。

 日本が英米を相手に「世界植民地争奪戦と人種差別の終焉(第一次大戦後のパリ講和会議での牧野伸顕の演説内容)」を目的にして戦ったが、結果としては敗れはしたものの、戦後は世界の植民地の独立が相次ぎ、日本が目指した所期の目的は達した。これは誰も否定できない史実である。(自分はこの意味から太平洋戦争を肯定する。ただし、英米の当時の国際秩序=植民地主義・人種差別に逆らったので、国連ではいまだに敵国条項下の国家だ。)

 中国はというと、アメリカの援助を受けて日本が相手にしなくなった蒋介石国民党に対抗して伸びてきた共産党軍は、日本と国民党(陰にアメリカの援助)及び軍閥との戦いを横目に勢力を扶植して行き、戦争が終わると一気に国民党軍を攻撃し、遂に4年後の1949年に天下を取ったのであった。

 カイロ宣言は「蒋介石の国民党こそが中国大陸の正当な政府であるから、日本の大陸進出を阻止しよう」との思惑で出されたもので、ここには中国共産党の出る幕はないのである。したがってむしろ蒋介石将軍の後継者たる台湾が主張するなら傾聴に値するが、中国共産党などがとやかく言う筋合いのものではない。

 ポツダム宣言は日本の敗戦を見越して話し合われた英米ソ協議で、いわゆる無条件降伏を要求するものであったが、台湾を返したものの、尖閣諸島については沖縄県の管轄から切り離されてはいない。

 楊外交部長は

 魚釣島(尖閣諸島)は古来からの中国の「神聖な領土」であり、少なくとも明朝時代から中国が「管轄してきた」のだから、返せ!

 と言っている。

 尖閣諸島はどこの国の「神聖な領土」でもなければ、中国王朝が「管轄してきた」事実もない。嘘を並べるのもいい加減にせよ!

 実は台湾さえ中国王朝は実効支配していなかったのだ。

 

 明治4(1871)年の12月に起きた「台湾における琉球宮古島民の大虐殺事件」を時の清王朝政府は不問に付していた。痺れを切らした明治政府は明治6(1873)年の5月に『台湾征討』を敢行し、10月に清王朝との講和を結んだ―という史実がある。このことが日清戦争後の下関条約で「台湾割譲」の伏線になっている。

 

 この頃に尖閣諸島が日本側に再認識され、15年ほど掛けて清王朝側の支配下に無いことを確認したのち、沖縄県に編入しているのである。その後まもなく古賀という実業家によりカツオ節工場を建てるとの申請を受け、政府は許可を与えたのであり、尖閣諸島の実効支配は下関条約と何の関係もなく進められたのである。

 そもそも戦後の国際秩序は蒋介石の国民党政府が担うべきものであったのだ。それが戦後の国共内戦により、わずか4年で毛沢東の共産党政府が勝利を収めたのは、英米ソによる「中国内政不干渉」の取り決めがあったからで、英米とは相容れない共産主義の跋扈を許す結果になってしまった。

 アメリカが以前にはしたような国民党政府への援助に動かなかったのはもちろんその縛りもあったが、それより大きかったのが、やっとやっつけた日本をどうしようかという対日政策だったろう。

 戦時国際法に違反する一般民衆への焼夷弾攻撃に加え原子爆弾まで2発落として日本をほとんど完膚なきまでに叩いて戦後復興に多大な負担を強い、日本の「民主化のため」に憲法をはじめ様々な制度などの整備(という名の押しつけ)に時間を費やし、その上に戦犯の裁判(極東国際軍事法廷裁判)に種々陰謀を凝らして日本を一方的に悪者扱いし、最終的に「平和に対する罪」「人道に対する罪」をおっ被せて13人の戦争指導者の死刑・禁固刑に持って行った。それが終わったのが昭和23(1948)年12月23日(この日、東條元首相など7人が絞首刑)。

 アメリカでさえその頃、黒人には基本的人権が与えられなかったし、有色人種には様々な差別があったという非民主主義の国でありながら、日本を民主化しようというのもおかしな話だが、日本をアメリカに都合のいいような国家体制に「してあげている」間に、大陸では共産党の大攻勢が始まり、翌24(1949)年10月、ついに共産党が中華人民共和国の建国を果たしてしまったのである。

 その後朝鮮半島をめぐって動乱が起き、日本への再軍備要請もあったりしたが吉田首相が拒否をしたので、日本は完全に米国のパワーの傘の下に入ることになった。紆余曲折はあったが結局、竹のカーテンの向こうの中国共産党政府をアメリカも認めざるを得なくなり、戦後の国連では台湾国民党政府が常任理事国であったにもかかわらず、1971年に今の中国共産党政府に委譲されてしまった。その後の高慢ちき・恫喝的遣り口はテレビなどでご覧の通りである。

 1970年まで「魚釣島諸島は沖縄県に属していた」が「領海内に石油海底資源が見つかったのでその後は俺たちのものだ」では、窃盗団の言い草だろう。これが国連安全保障理事会の常任理事国というから呆れて物が言えない。

 中国政府よ恥を知れ! チベットは早くチベット人に返せ!!

 

 

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初霜(鹿屋市池園町)

 今朝6時過ぎ、いつもの愛犬ウメの散歩に出たが、かなり冷え込んでいた。

 すぐ近くの、先日カライモを掘り取って耕した畑の側に来ると、畑一面にびっしりというほどではないが霜が降りていた。Cimg4347 初霜である。昨日は一日中、西風が強く、夕方にはずんずん冷え込んできたが、明け方近くなって放射冷却が一気に進んだのだろう。Cimg4348 イモを掘ってすぐに耕したので、耕土の下の湿った土が表面にまで出てきたのと、空気が乾燥しているのとで水蒸気がどんどん発生し、気化熱が奪われて地表面の温度が零度近くまで下がったに違いない。Cimg4350 散歩から我が家に戻り、この間草を刈っていた東の荒れた畑を覗くと、きれいに耕運がなされ、その上にやはり霜が降りていた。Cimg4351 東には肝属の連山が屏風のように左右に伸びているが、国見岳と黒尊岳の間から朝日が昇って来るところだった。6時50分、太陽は姿を現した。

 夕方のニュースでは、鹿屋市の今朝の最低気温は2.9℃だったそうである。

 日が昇る頃に見た我が家の玄関先の寒暖計は何と6.5℃もあった。今度から3℃くらい割り引いて見ないといけないようだ。へっぽこ寒暖計め!










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