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中国のまたまたおろかな策動②

 ASEMという聞きなれない国際協議『アジア欧州会合』がラオスで開かれている。

 この総会で日本と中国が尖閣諸島をめぐって火花を散らした。

 日本は以前にも野田首相が公式の記者会見で「尖閣諸島は歴史上も、国際法上も日本の領土であり、中国との領土問題は存在しない」と宣言していた。そして民間人の所有者から諸島を買い上げ国有化した。

 これに難癖をつけた中国共産党政府は中国の日本企業や大使館への暴動をあおり、日本への「制裁」とし、かつ国際社会にアピールした(つもりらしい)。暴力団まがい(以下)のやり方である。

 とんでもない国である。

 今度はASEMというアジアとヨーロッパの合同会議において、またぞろ日本を非難して盗っ人呼ばわりした。1970年に国連資源何とかという組織が「尖閣諸島の海域に膨大な石油資源があるようだ」と発表するまでは、国家承認の学校の地図にも何もかも尖閣諸島は日本の沖縄に属しているとしておきながら、手のひらを返すように「俺の国の物だ」と言い始めたのである。がめつい中国!!汚い中国!!

 今回の会議では、中国が盗っ人呼ばわりしたので野田首相も黙っておれず、再度「尖閣諸島は日本の領土であることは歴史上も国際法上も明らかで、そもそも領土問題などない」と、予定の演説にアドリブ的に加えたらしい。大拍手する!!

 それに対して中国の楊外交部長(外務大臣)はこう言ったそうだ。

  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121107-00000044-scn-cn

 簡単にその主旨を言うと「反ファシズムを覆した第2次大戦。その過程での国際秩序(カイロ宣言・ポツダム宣言・国連憲章)に逆らうようなことを言っていいのか!俺の国は国連安全保障会議の五大国・常任理事国様の一国であるぞよ!」ということである。

 日本が英米を相手に「世界植民地争奪戦と人種差別の終焉(第一次大戦後のパリ講和会議での牧野伸顕の演説内容)」を目的にして戦ったが、結果としては敗れはしたものの、戦後は世界の植民地の独立が相次ぎ、日本が目指した所期の目的は達した。これは誰も否定できない史実である。(自分はこの意味から太平洋戦争を肯定する。ただし、英米の当時の国際秩序=植民地主義・人種差別に逆らったので、国連ではいまだに敵国条項下の国家だ。)

 中国はというと、アメリカの援助を受けて日本が相手にしなくなった蒋介石国民党に対抗して伸びてきた共産党軍は、日本と国民党(陰にアメリカの援助)及び軍閥との戦いを横目に勢力を扶植して行き、戦争が終わると一気に国民党軍を攻撃し、遂に4年後の1949年に天下を取ったのであった。

 カイロ宣言は「蒋介石の国民党こそが中国大陸の正当な政府であるから、日本の大陸進出を阻止しよう」との思惑で出されたもので、ここには中国共産党の出る幕はないのである。したがってむしろ蒋介石将軍の後継者たる台湾が主張するなら傾聴に値するが、中国共産党などがとやかく言う筋合いのものではない。

 ポツダム宣言は日本の敗戦を見越して話し合われた英米ソ協議で、いわゆる無条件降伏を要求するものであったが、台湾を返したものの、尖閣諸島については沖縄県の管轄から切り離されてはいない。

 楊外交部長は

 魚釣島(尖閣諸島)は古来からの中国の「神聖な領土」であり、少なくとも明朝時代から中国が「管轄してきた」のだから、返せ!

 と言っている。

 尖閣諸島はどこの国の「神聖な領土」でもなければ、中国王朝が「管轄してきた」事実もない。嘘を並べるのもいい加減にせよ!

 実は台湾さえ中国王朝は実効支配していなかったのだ。

 

 明治4(1871)年の12月に起きた「台湾における琉球宮古島民の大虐殺事件」を時の清王朝政府は不問に付していた。痺れを切らした明治政府は明治6(1873)年の5月に『台湾征討』を敢行し、10月に清王朝との講和を結んだ―という史実がある。このことが日清戦争後の下関条約で「台湾割譲」の伏線になっている。

 

 この頃に尖閣諸島が日本側に再認識され、15年ほど掛けて清王朝側の支配下に無いことを確認したのち、沖縄県に編入しているのである。その後まもなく古賀という実業家によりカツオ節工場を建てるとの申請を受け、政府は許可を与えたのであり、尖閣諸島の実効支配は下関条約と何の関係もなく進められたのである。

 そもそも戦後の国際秩序は蒋介石の国民党政府が担うべきものであったのだ。それが戦後の国共内戦により、わずか4年で毛沢東の共産党政府が勝利を収めたのは、英米ソによる「中国内政不干渉」の取り決めがあったからで、英米とは相容れない共産主義の跋扈を許す結果になってしまった。

 アメリカが以前にはしたような国民党政府への援助に動かなかったのはもちろんその縛りもあったが、それより大きかったのが、やっとやっつけた日本をどうしようかという対日政策だったろう。

 戦時国際法に違反する一般民衆への焼夷弾攻撃に加え原子爆弾まで2発落として日本をほとんど完膚なきまでに叩いて戦後復興に多大な負担を強い、日本の「民主化のため」に憲法をはじめ様々な制度などの整備(という名の押しつけ)に時間を費やし、その上に戦犯の裁判(極東国際軍事法廷裁判)に種々陰謀を凝らして日本を一方的に悪者扱いし、最終的に「平和に対する罪」「人道に対する罪」をおっ被せて13人の戦争指導者の死刑・禁固刑に持って行った。それが終わったのが昭和23(1948)年12月23日(この日、東條元首相など7人が絞首刑)。

 アメリカでさえその頃、黒人には基本的人権が与えられなかったし、有色人種には様々な差別があったという非民主主義の国でありながら、日本を民主化しようというのもおかしな話だが、日本をアメリカに都合のいいような国家体制に「してあげている」間に、大陸では共産党の大攻勢が始まり、翌24(1949)年10月、ついに共産党が中華人民共和国の建国を果たしてしまったのである。

 その後朝鮮半島をめぐって動乱が起き、日本への再軍備要請もあったりしたが吉田首相が拒否をしたので、日本は完全に米国のパワーの傘の下に入ることになった。紆余曲折はあったが結局、竹のカーテンの向こうの中国共産党政府をアメリカも認めざるを得なくなり、戦後の国連では台湾国民党政府が常任理事国であったにもかかわらず、1971年に今の中国共産党政府に委譲されてしまった。その後の高慢ちき・恫喝的遣り口はテレビなどでご覧の通りである。

 1970年まで「魚釣島諸島は沖縄県に属していた」が「領海内に石油海底資源が見つかったのでその後は俺たちのものだ」では、窃盗団の言い草だろう。これが国連安全保障理事会の常任理事国というから呆れて物が言えない。

 中国政府よ恥を知れ! チベットは早くチベット人に返せ!!

 

 

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