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具志堅用高の出自と沖縄

 昨日の夜のNHK番組で、具志堅用高の知られざるファミリー(家系)が紹介され、興味深く視聴した。

 用高は1955年に沖縄県の石垣島に生まれているが、江戸時代の琉球王朝においては士族の家柄であったという。

 それが、明治になってからの「琉球処分」で王朝は瓦解し、本土の旧武士階級と同じように職を失い、帰農したのであった。最初は沖縄本島の中部に入植したがままならず、大正の末年に生まれた用高の父は応召して軍人になった。

 しかし敗戦で何もかも失い、石垣島に渡り、盛んだったカツオ漁の漁師になってやっと生活が安定したようである。

 4人兄弟の3番目に生まれた用高は幼い頃はひ弱だったが、沖縄本島の私立高校に入学してからボクシングに出会い、すぐに魅力に取りつかれた。ひそかに「ボクシングで稼いで両親を楽にさせてあげたい」という気持ちを持ちながら一心不乱に取り組んだところ、3年生になった年に、何とインターハイで優勝を果たした。1973年のことであった。

 その前年(1972年)に沖縄はアメリカの占領から解放され、あらゆる面で堂々と日本の一員に復帰し、用高も「俺は日本人になった。しかし沖縄人だぞ」というハングリー精神がファイトを掻き立てた面もあったろうが、父親譲りという人並み外れた「動体視力」の良さで次々に優勝を重ね、ついにプロデビューを果たしてジュニアフライ級で世界チャンピオンになり、前人未到の13連勝の偉業を達成したのである。

 何とも素晴らしいサクセスストーリーではないか。国民栄誉賞ものだが、沖縄人にとってはそれ以上に価値のある用高の活躍であった。

 今でも具志堅ジムの会長であり、テレビのお笑い系番組でもおなじみのキャラクターで活躍しているのは周知のことだ。

 それよりも自分の興味を誘ったのは、具志堅一族の誰かの家に所蔵されている家系図が映されたとき、系図のトップに『允姓 具志堅家』と書かれているのが見えた場面である。

 「允(いん)」とは、相当古いことを言えば、越王・勾践(こうせん)の父は越を開いた始祖だが、その名が「允常」であった。また沖縄に明の初代洪武帝の25年(1392年:奇しくもこの年、日本では南北朝の合一が行われている)に「閩(びん)人36姓」が福建省方面から渡来しているが、閩人は「閩越(びんえつ)」とも言って越人の一種なのである。この中に「允姓」を持った人物がいておかしくない。

 それどころか、洪武帝の皇太子の名が「允炆(いんぶん)」で、明王朝は長江流域から興っており、古代の越や呉の領域に重なっていることからすると、もしかしたら洪武帝はひそかにその当時の越の始祖・允常に因んで息子に允炆と名付けたのではないか。

 具志堅一族の姓が「允」であるとすれば、具志堅氏の祖先は福建か長江下流域からの渡来人だったかもしれない。

 またあの当時は倭寇が大活躍をしていたころで、洪武帝は日本の足利将軍家へ倭寇の取り締まりを要請している。倭寇の一部が南中国に拠点を持ち、沖縄や日本との橋渡しの役をしていた可能性もあるから、その方面との関係も考える必要があるだろう。

 どっちにしても具志堅氏の出自は中国南部との関係抜きにはかたれないと思う。

 さて一般に沖縄は本土の日本人と比べるとより縄文人的で、アイヌ人との親近性も言われているが、それだけでは沖縄全体を語るに不足する。要するに沖縄人は九州人などとともに非常に海洋性に富み、周辺の諸族との交流が古くから存在した地域であるということで、そのことは常に念頭に置かなくてはならないのである。

 戦後は27年間アメリカの支配下にあって、今度はその影響も受けている。良い面では音楽の隆盛が挙げられる。本土へデビューした歌手やグループは相当な数にのぼり、数多くのヒットを飛ばしている。

 沖縄の歴史は長く深い。しかし戦中・戦後のわずか70年余りが著しく不遇である。沖縄の置かれた現状が少しでも本来の沖縄の姿に戻ればいいと願う。

 

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