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大晦日の風景(肝属郡肝付町)

大晦日の今日、垣根の剪定から始めて庭の掃除も済み、気温8℃と寒かったにもかかわらず汗をかいたので、温泉に行くことにした。

 行く先は肝付町の「やぶさめ温泉(高山温泉ドーム)」だ。ここはややぬるめだが高血圧の自分には都合の良い銭湯である。Cimg4567 大晦日とあっておそらく帰省客が多いのだろう、かなりの混雑であった。玄関の長い回廊の入り口には大きな注連飾りがぶら下がっていた。

 温泉を出たあと、帰りがてらに高山の宗廟「四十九所神社」を訪れた。Cimg4568 大鳥居の両柱の前には高さ1メートルくらいの門松が立てられ、鳥居をくぐった先では2軒の露店が開店の準備をしたいた。おみくじとイカ・トウモロコシの2店だった。Cimg4571 段々の上の境内には「奉寄進」と書いた幟旗が拝殿までずらりと立てられている。Cimg4572 右手に回ると、注連をを張り巡らせた中に設えられたたき火が、もう点火されていた。寒さ凌ぎと古いお札の焚き上げとを兼ねたものだろう。

 Cimg4573 階段の途中から見下ろす「流鏑馬馬場」。

 二町(200㍍余り)の直線道路は毎年10月に行われる流鏑馬の舞台だ。5,6メートル幅の道路の向かって左半分は舗装されずに残してある。流鏑馬の通り道なのである。

 四十九所神社の創建は不詳だが、流鏑馬は記録上では白河天皇の時代に始まったとされており、少なくとも九百年の歴史はあるとされている。四十九所神社の創建は当然それより古いはずである。

(祭神は天地開闢から天孫降臨までの四十九の神々を祭っている、と高山町郷土誌には書かれている。)

 今年もいろいろなことがあったが、何とか無事に過ごせたことを感謝し、来る平成25年もつつがなきことを祈りたい。










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寒い冬に寒い話題

 今年の寒さは以前から指摘しているところだが、クリスマス寒波が律儀にやって来たことで、12月27日までで都合13回の降霜。

 11月に異例の4回の降霜、さらにその勢いは止まらず、12月に入ってからも霜がひきを切らずに降り、27日までで9回を数えることになった。つまり12月に入ってからは3日に一回ということになる。

 10数年以前に住んでいたことのある肝属郡田代町は高原地帯にあるため寒さでは有名な所だったが、ちゃんとした記録は取っていないものの、おそらくこの初冬は、当時の田代以上の霜降りではないだろうか。

 おととしの今頃は急に寒さがやって来て、大晦日から2011年の元旦の朝まで雪が降り続き、5センチ位の積雪となったが、その年の3月11日にあの東日本大震災が起きている。

 来年明けてからの気象状況にもよるが、今のところ、この異常な寒さは何か大変な震災か火山噴火の予兆のようにも思えてくる。杞憂であればそれに越したことはないが、念のため用心していて欲しいと思う。

 さて、寒い話題をもう一つ。

 12月18日に「政権交代(2012衆院選挙)」というブログを書いたが、最後のほうで「小沢ドロ船に乗せられた日本未来の党の嘉田代表こそ哀れである」とコメントし、小沢一郎の率いる「生活が第一党」の「日本未来の党」への急な合流が選挙目当てではないか、というようなことを述べた。

 その挙句にたった9票という目も当てられぬ惨敗を喫したのだが、今日のニュースによると、惨敗の結果、再び両者は離反し、小沢は今度は新党「生活党」を立ち上げ、生活が第一党から移行した15人の議員(ほとんどが参議院議員)を擁しているということで、政党助成金8億円余りが懐に入るそうである。

 何ともすさまじい亡者である。ほとほと恐れ入る仕業だ。

 「策士、策に溺れる」ということわざは今回の小沢のドロ船作戦のことだったわけだが、「溺れる者は藁をも掴む」も、小沢にかかっては「溺れる策士は政党助成金を掴む」となってしまった。いやはや、寒いことである。

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都電もなか

 娘がさいたまアリーナ(埼玉県さいたま市)で開かれるコンサートに行くというので、かねてから食べてみたいと思っていた「都電もなか」というのを所望したところ、今日帰宅したお土産の中にあった。

 向こうで、最初は土産屋の行き先が分からず困ったそうだが、そこは結構有名な菓子ということで人伝てにすぐに突き止めたらしい。

 王子駅から都電の「三ノ輪橋」行で二駅目の梶原という所であった。梶原駅からはすぐで、包装紙のカラフルな地図によると「菓匠 明美」という店名。梶原銀座商店街の一角にあるようだ。Cimg4565 地図の真ん中に「とでんもなか」と書いてあるのをはじめ「とんでもなか」と読んでしまったのは、鹿児島在住歴33年のキャリアによる誤読だった。

 京浜東北線の王子駅はわが故郷赤羽から南へ京浜東北線で二つ目の駅で、ここであの「王子製紙」が創業されている。昔は「紙の博物館」があったが今はどうか。

 とにかく王子駅から梶原駅まで娘たちは都電・荒川線に乗って買いに行ってくれた。Cimg4563 菓子箱が振るっている。これは10個入りだが、都電の車庫の形をしていて、2段重ねに入っていた。Cimg4559 開けてみると一個一個が都電車両の形をしており、それが都電の車両図の描かれたやや硬めの箱に入っている。五種類ある。Cimg4562 最中の外側の皮に焼き型を当てて都電の形に成形してある。子供は喜ぶだろう。

 中の餡は牛皮入りの粒あんで、どの種類も同じのようだ。意外と素朴な味わいがする。一個140円也。

 同じ王子界隈では「ミミズク最中」という名物もあるが、子供の時によく食べた記憶がある。こちらは練あんが主で、抹茶入りやアンズ入りなど餡にバラエティがあった。

 







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こんなに寒い初冬なんて初めて!

 今朝の最低気温はついにマイナス3℃。マイナスになったのはこれで4回目だが、霜の方は今日で何と10回目。

 ここに住んで10年目の冬だが、これまでだと多い年で年内に5回くらいなので今年はちょっと異常だ。Cimg4545 庭の枯れ芝の上にもびっしりの霜が降りている。Cimg4544 近くの小ネギのハウスの間の通路に溜まった水は完全に凍り付いていた。Cimg4549 散歩から帰って水を飲もうとしたウメもビックリ。水入れに張った氷を割ってやった。Pt350046 今日は一日中寒く、夜見に行ったリナシティの川沿いのイルミネーションも閑散としていた。Pt350047 夕刻前まではたくさんの人や車が行き来していた中心部も人影はなく、せっかくの灯りも手持無沙汰のようだ。もったいない。













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政権交代(2012衆院選挙)

 日曜の夜は衆議院議員選挙の開票速報を見続けていたが、自民党が圧勝の250議席ラインの当確を決めたあたりから眠くなり床に就いた。

 結果的には294議席。連立相手の公明党と合わせて325議席を確保し、議員定数の3分の2に届いてしまった。地滑り的大勝である。

 一方で与党の民主党は57議席というから、改選前のちょうど4分の1になった。第3党の日本維新の会が54議席で、もし維新の会が選挙の直前に石原慎太郎と合流しなかったら、おそらく第2党に昇格していただろう。

 維新の会の支持者のうち、石原の強硬路線を危惧する者が自民党へ流れたのと、以前は民主党支持者だったが民主党の内部分裂に嫌気の差した者も同じように自民党を選んだのではないか。

 自民党の圧勝はそのような消去法的投票によって生まれたのであって、積極的な支持行動(投票)ではないと思う。

 今回良かったのは「日本を取り戻す」とのキャッチフレーズを掲げた党首・安部晋三の選挙用ポスターで、あれによって民主党政権下で表面化した中国と韓国、それにロシアとの領土をめぐるぎくしゃくした外交関係への不安が、何となく収まるような気にさせられたのではないか。

 実際には自民党政府の下ですでに領土問題はぎくしゃくとしていたのであって、民主党政権下で始まったことではない。石原都知事の突っ込みに応じて、「火中の栗を拾った」(尖閣諸島を国有化した)のは民主党の野田政権であり、中国から大ブーイングを浴びせられている。自民党政権だったらおそらくそれが怖くて石原の提案には応じなかったであろう。

 民主党が今回沈んだのは「消費税増税法案」を通したからでもない。事実、自民党も賛成したことだし、消費増税に大反対して民主党から袂を分かった小沢一郎の率いる「国民の生活が第一」党の擦り寄った「日本未来の党」はわずか9議席という惨敗を喫したことからも分かる。

 それにしても小沢一郎という政治家はよく分からない。脱アメリカつまり「自前の軍備を持った通常の国家」にしたかったのだろうが、大きな理念を横に置いたまま「常在選挙」という縛りにあったまま、結局、腰の据わらない「選挙請負師」に成り果ててしまった。

 民主党結党の最大の功労者だったのに、途中で反消費増税をかかげて分裂して野に下り、今回は滋賀県知事を担ぎ上げてまたまた新党を作った挙句の大惨敗。まさに泥縄式に作られた「小沢ドロ船」に乗せられた嘉田滋賀県知事こそ哀れである。

 いや、嘉田知事は知事職に就いたままだからまだ救われる。民主党から小沢とともに新党に参加し、立候補して落選した元議員たちはこの先どうするのか?

 唖然とするのは、日本未来の党から唯一小選挙区で当選を果たしたのが小沢本人だけだということだ。

 こうなると、いつぞや小沢が民主党の議員を百何十人か引き連れてわざわざ土下座的なご挨拶に行った中国の習近平総書記が日本の尖閣諸島国有化を受けて言ったという「茶番だ!」がもっともあてはまる対象が小沢一郎ということになる。

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おいおい!もう8回目だぞ。

 今年の冬の寒さは尋常ではない。今朝、犬の散歩に出てみると何とも寒い!あちこちの畑と言わず、道路端と言わず真っ白い霜が遠慮もなく降りていた。

 今年の冬になって、もう8回目の霜だ。11月の1ヶ月に4回降りたのさえこの10年来無かったことなのに、12月に入ってからわずか13日でさらに4回を数えている。とにかく尋常ではない。Cimg4536 これまでで一番の寒さで、我が家の玄関口に置いてあるズンダレ(しよ-もない)寒暖計で0.5℃だったから、3℃引いて、何とマイナス2.5℃だ。(夕方の気象情報で鹿屋の最低気温はマイナス2.9℃と出ていた。)Cimg4538 家庭菜園の高菜と三つ葉の葉の上も真っ白である。Cimg4541 朝の散歩から帰って、ウメの水入れを覗くと、この冬2回目の氷が張っていた。(カメラを向けるとウメは及び腰になった。)Cimg4539 7時18分ごろ、東の肝属山地の稜線から日が昇って来た。

 まったくの無風で、そのために霜が降りやすくなっているのだろう。

 それにしても犬は寒さに強い。びっしり霜の降りた草むらへ、何が匂うのか鼻先を突っ込むのだから。Cimg4534_4 餌を食べて再び地面に丸くなったウメを、暖房の利いた室内から眺めるモモ。

―寒くないのかニャー。















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永吉天神段遺跡(曽於郡大崎町永吉)

 曽於郡大崎町の永吉(集落名は档ヶ山=まてがやま)に発掘された「永吉天神段遺跡」の説明会があり、昨日の午後現地へ足を運んだ。

 ここは東九州自動車道の通過地点で、この集落から東へ持留(もちどめ)川を渡る橋ができることになっており、その事前調査で遺跡が見つかった。Cimg4531 説明会のパンフレットから地形図を転写した。赤丸が今日の説明会の現場、川向いの二つの遺跡のうち南側の「荒園遺跡」は同じ東九州自動車道の通過地点で、持留川に架かる橋の東側の立脚地点である。

 そのすぐ北側に見える「下堀遺跡」は同じようなルートで志布志市方面に向かって造成された農免道路「志布志グリーン道路」の工事中に発見された古墳時代の遺跡で鉄器や大きな須恵器の壺などが発掘されている。川を挟んで4~500㍍内外の範囲に古墳時代・弥生時代・縄文時代の連続した遺跡がそれこそゴロゴロと発見されたことになる。

 下の航空写真左手の持留川の流れる低地に設置された2枚のコンクリートパネルはこの遺跡を削って架けられる橋の橋脚である。パネルの間に持留川が流れている。幅10㍍程度の小河川である。

 永吉のこの档ヶ山集落はその持留川に向かって岬のように突き出た丘の上に展開している。Cimg4525 この永吉天神段遺跡の航空写真がこれで(現場の展示場で撮影)、北西側から撮影したものである。下に見える大きなブルーシートの右手に建ち並んだプレハブの一番手前が「展示場」であった。Cimg4495 午後2時から始まるというので10分前に着いたが、まだ見学者はちらほら。Cimg4508 2時を少し回ったころぞろぞろと集まり、早速、職員の説明が始まった。Cimg4509 まずは発掘現場の地層の説明から。説明者の影に3枚の白いプレートが貼ってあるが、これは鬼界カルデラの噴出物「アカホヤ」の層を示している。聞くと、最近の学説で7300年前の噴出だという。我々が習った頃は6400年前だったが、最新の研究では900年繰り上がって7300年前だそうだ。

 同じく、縄文早期の最も古い「薩摩火山灰層」の年代も繰り上がって12800年前になっている。説明者も「私が習った時は11400年前だったんですが・・・」と申し訳なさそうだった。この遺跡からの遺物はすべてこのアカホヤの上からの出土で、およそ5000年前以降、近くは平安期までの物であったという。Cimg4513 次に受けた説明は「弥生早期の住居跡」の発掘に至るまでのこと。

 弥生時代の初めの住居跡が完全な形で確認されたのは県内では初めてのことという。Cimg4518 この住居跡は直径6メートルもあり、単なる住居ではなさそうとのこと。Cimg4519 摩訶不思議な柱穴跡のある小型の長方形の住居跡。説明者の左手の下と、6と書かれたプラカードの差し込まれた柱穴は他のよりも太くて深いので、この2本が建物の屋根を支える大黒柱であるが、他の異常に多い柱穴が何のために建てられたのかはミステリーだという。Cimg4506 発掘現場から展示場に入ると目に付くのが弥生土器の数々で、この一角は同じ大崎町の遺跡名も同じ「天神段遺跡」(野方地区)の物である。

 今日は同じ大崎町の出土物ということで特別に展示したという。ラッキーなことであった

 中で注目したいのが、もちろん5000年前の石剣だ。Cimg4504 初夏の頃、野方の天神段遺跡から出土したこの石剣は報道でも大きく取り上げられていた。Cimg4505 西日本では最古だそうである。東日本ではもっと古い物が出土しているそうだが、石を徹底的に磨いて金属に劣らない形状にまでしている技術は大したものだ。長さは30センチほどで、祭祀用か実用の物かはまだ分かっていない。

 いずれにしても大崎町は考古学的な出土物が多く、しかも多岐にわたっている。志布志湾に向かって開けた土地柄で、海の交流には適した温暖な住みやすい地域であることは間違いない。


























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「芦の港」の初冬(鹿屋市浜田町)

 鹿屋市の西部の浜田町は海岸部に「浜田海水浴場」があり、真夏は海水浴客・納涼キャンプの客でそれなりに賑わうが、それも一時で、あとは静かな農業地帯となる。Cimg4493 鹿屋市の大姶良地区から行くと海岸部へ下る長い坂があるが、その直前の瀬筒峠からは、海岸とその手前に広がる田んぼ地帯を見下ろすことができる。

 田んぼ地帯は昔は潟湖(ラグーン)で、海水がここまで入り込んでおり、絶好の港になっていた。一名「芦の港」と呼ばれたそうである。Cimg4492 1キロ余りの長い坂を下りきって右手の田んぼ道に入ると、米の後作(二毛作)の牧草・キャベツ・絹サヤエンドウなどの作物が見える。

 田んぼの奥の丘は「霧島が丘」で、見えているのは展望台である(無料)。その向こうの丘の続きには西日本最大となった「かのやばら園」が広がる。

 ここが昔は湾内であったとはとても思えない。かっては「千石船が入った」と『鹿屋市史』上巻に書いてあるが、千石船と言えば江戸時代に入ってからの巨船で、当時としては大きかった。千石積みは現在のメートル法では150トンほどになる。しかし、500石以上の大船建造禁止令が寛永12(1635)年に出されているから、それ以前の話だろう。Cimg4480 海を想定させるものが、この田園の最奥部にある。それがこの「玖玉神社」。

 祭神の「塩土翁(しおつちのおじ)」は、海路の道案内の神である。自分ではこの神を「事代主(ことしろぬし)神」と同じと考えており、国つ神の中ではもっとも海に関係した神様で、別名「恵比寿様」は漁業の保護神として知られている。

 現在は「浜田港」という姿はないし、周りを見回しても農業地帯なのでピンとは来ないかもしれないが、古い神社の祭神が伝承を裏付けてくれている。Cimg4479 神社の前には「濱田・土地整理・開田記念碑」なる立派な石碑が建つ。昭和6年のもので、30町余りの田が整備されたようである。Cimg4482 石碑の左手には小ぶりの田の神もあり、静かに田園を見守っている。

 この石碑の下まで、満潮時には海水がひたひたと上がってきたことだろう。

 ところで「芦」というと、植物の芦(葦)のことだろうと考えがちだが、これは鴨のことである。鴨でも「味鴨」(あじかも)という古語から来た言葉で、「あじ」も「かも」もどちらも遠近(北部九州・朝鮮半島)を問わず、海路を往き来する航海民の姿を鴨(味鴨)になぞらえた命名である。

 この命名法は北九州や兵庫にある「芦屋」に反映されているし、大阪の淀川下流のにある分流「安治川」もその範疇に入っている。

 また沖縄本島には「安次嶺(あしみね)」という地名もある。さらに言えば、沖縄の古代以来の土豪(族長)を「按司」(あじ)と言うが、この「あじ」も鴨のことかもしれない。沖縄の風土こそまさに航海者が必要とされ、権力を握っていた土地柄なのであるから・・・。

 大隅史談会の研究誌『大隅』第51号の中の拙論「葛城地方の出雲系鴨神と南九州」で論じたが、出雲神話の「高鴨阿治須岐高日子根(たかがもあじすきたかひこね)命」とは、南九州の「曽の峰」に天下り、神武に先んじて大和へ移った「鴨建角身(かもたけつぬみ)命」のことであり、大和葛城から北上して京都の下鴨神社のある辺りで土着したと考えている。

 神武東征の時に、海路の案内をしたのがこの玖玉神社の祭神「塩土翁(しおつちのおじ)」であるが、この人物は神武による王朝樹立後に「大和直(やまとのあたい)」に任命されている。大和地方の知事になったと言ってよく、大出世を果たしている。(民俗学で言われる「海人の岡上がり」で、零落したのではなく反対に栄光を得たことになるが)。Cimg4488 閑話休題。浜田の初冬の風景を撮りに来たのにむつかしい話になってしまったが、今、この辺りの野道ではツワブキとノジギクが花盛りである。Cimg4489_2 風の無い陽だまりに、本当によく似合う花々である。Cimg4485
どこにもゴミの落ちていない集落の野道は、散策にもってこいだ。


 










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11党首の会見

 衆議院選挙告示前の昨日(11月30日)、日本記者クラブで、何と11の政党の党首がずらりと雁首を並べて会見に臨んでいた。壮観なものである。

 新党大地の鈴木党首が「選挙目当ての合流では話にならない」旨の発言をしていたが、その念頭にあるのは<日本未来の党>と<維新の会>だろうが、逆に自民党・民主党と並んで最も存在感を示していたのは皮肉だ。

 とくに維新の会の代表・石原慎太郎は「尖閣諸島問題」を含む外交・安全保障のへの記者席からの質問に、口角泡を飛ばす勢いで、他の党首の出る幕がないほどであった。終には「核兵器保有」への議論をすべきとの持論を展開したが、付いてくる党首は見当たらなかった。

 「尖閣諸島の国有化で中国との関係への悪化を招いたが、その責任は・・・」とのある記者の愚問には「そりゃ、中国にある」とぴしゃりと答えていたのは小気味よかった。

 民主党でさえ党首の野田首相は「歴史的にみて領土問題は存在しない。わが国固有の領土である」と杓子定規に繰り返すだけで、中国への名指しの批判は避けている。

 自民党になるとこれさえしない。自民党の田中政権が獲得した日中国交回復の大手柄を貶めるようなあからさまな中国批判には、結局及び腰のままである。かって自民党の若き幹事長になり、その後新自由クラブ・日本新党・新生党・民主党そして国民の生活が第一と、政党を作っては壊し、作っては壊ししてきたあの小沢一郎などは、次期総書記に選任された習近平に擦り寄って見苦しい姿を見せてしまった。

 これに業を煮やしたのが石原慎太郎である。

 石原の歴史認識は正しいと思う。

 ただ、自衛隊を国防軍とするのは理解できるが、核兵器保有となると二の足を踏む。通常兵器でも十分な国防能力はあり、核兵器は必要ない。保有するだけで使いはしない―と言いたいのだろうが、万が一の暴発ということもあるし、北朝鮮が先制を仕掛けてくる口実になる可能性もある。

 冷戦時代ならいざ知らず、いまどき核兵器を保有したところで抑止力が格段に増強されるとは思えない。情報戦の方が勝っているという見方の方が強い。

 それよりももっと歴史の大局を考えて日本の行き方を示して欲しいものだ。

 今の国際政治の中心に位置する国連はそもそも「対独・対日勝利国(連合国)」による連合組織であって、日本は戦敗国としていまだに「敵国条項」の呪縛の中にある。その縛りの発端は英米の「大西洋憲章」である。それに対抗すべく「太平洋憲章」を作ったらどうかと提案したのが野田首相であった。

 おそらくそれはアメリカのご意向に敏感な外務官僚により口封じされたのだろう、一切聞こえてこなくなった。

 石原慎太郎ならそう言ってもだれも止めようがないので、積極的に言って欲しいものである。

 しかしそれを積極的に推し進めると、残念ながら国連には居られなくなるだろう。なにしろアメリカの牛耳る国連であり、安全保障理事会も対日戦勝国である英米仏中露の五か国がデンと居座っているからだ。(このうち、中露は関係ないのだが、対日封じ込め的な意味合いから理事国であるに過ぎない。)

 党首の中で誰も日本を「永世中立国」にしようと言わないのが残念である。

 子供の頃、日本を「東洋のスイスにしよう」などとよく聞いたものである。それがいつの間にかマスコミから消えてしまったが、スイスを調べてみると「国民皆兵」だったり「直接民主制」だったり「女子への選挙権差別」があったりと、当時の日本のマスコミの左翼的政治主張に抵触することばかりだったので次第に無視されてしまったようである。

 今日、これを再び取り上げてみたらどうだろうか。バカな左翼主義も鳴りを潜めたし、取り上げるに値すると思う。

 日本を敵国条項で縛り、それでいて分担金の額ではアメリカに次ぐ大金を拠出させられている現状では、脱退した方がよいくらいだが、永世中立を宣言して敵国条項を実質的に無視すればよいのではないか。

 これによりアメリカの過重な基地設置、とくに沖縄からの大幅な基地の撤廃が可能になろう。もしそれでは日本の国防が図れない、というのであれば、米軍に代わって「国連多国籍軍」を導入してもよいだろう。

 こうすれば―「敵国」日本はどこの国に対しても武力で訴えることはない、心配なら「国連多国籍軍」を置いよい。それで監視をすればよいではないか―という平和主義のメッセージにもなろう。ただし、必要最小限度の基地数に減らしての話で、沖縄には二ヵ所もあれば十分だろう。

 アメリカは対日戦勝国としてこれまで日本へコミットしてきた意義が失われて当然反対するだろが、そこは再選なったオバマ大統領の容認するところとなるだろう。なにしろ日本が反民族差別で戦わなかったら、アメリカの黒人差別もまだまだ長く続いていたはずだから。

 この四年のうちに何とかそういう方向へ向かって欲しいものだ。

※2年半前に、これと同じ内容を違った切り口から論じたのが「密約はあった!」である。ぜひ参照してもらいたい。

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