「芦の港」の初冬(鹿屋市浜田町)
鹿屋市の西部の浜田町は海岸部に「浜田海水浴場」があり、真夏は海水浴客・納涼キャンプの客でそれなりに賑わうが、それも一時で、あとは静かな農業地帯となる。 鹿屋市の大姶良地区から行くと海岸部へ下る長い坂があるが、その直前の瀬筒峠からは、海岸とその手前に広がる田んぼ地帯を見下ろすことができる。
田んぼ地帯は昔は潟湖(ラグーン)で、海水がここまで入り込んでおり、絶好の港になっていた。一名「芦の港」と呼ばれたそうである。 1キロ余りの長い坂を下りきって右手の田んぼ道に入ると、米の後作(二毛作)の牧草・キャベツ・絹サヤエンドウなどの作物が見える。
田んぼの奥の丘は「霧島が丘」で、見えているのは展望台である(無料)。その向こうの丘の続きには西日本最大となった「かのやばら園」が広がる。
ここが昔は湾内であったとはとても思えない。かっては「千石船が入った」と『鹿屋市史』上巻に書いてあるが、千石船と言えば江戸時代に入ってからの巨船で、当時としては大きかった。千石積みは現在のメートル法では150トンほどになる。しかし、500石以上の大船建造禁止令が寛永12(1635)年に出されているから、それ以前の話だろう。 海を想定させるものが、この田園の最奥部にある。それがこの「玖玉神社」。
祭神の「塩土翁(しおつちのおじ)」は、海路の道案内の神である。自分ではこの神を「事代主(ことしろぬし)神」と同じと考えており、国つ神の中ではもっとも海に関係した神様で、別名「恵比寿様」は漁業の保護神として知られている。
現在は「浜田港」という姿はないし、周りを見回しても農業地帯なのでピンとは来ないかもしれないが、古い神社の祭神が伝承を裏付けてくれている。 神社の前には「濱田・土地整理・開田記念碑」なる立派な石碑が建つ。昭和6年のもので、30町余りの田が整備されたようである。
石碑の左手には小ぶりの田の神もあり、静かに田園を見守っている。
この石碑の下まで、満潮時には海水がひたひたと上がってきたことだろう。
ところで「芦」というと、植物の芦(葦)のことだろうと考えがちだが、これは鴨のことである。鴨でも「味鴨」(あじかも)という古語から来た言葉で、「あじ」も「かも」もどちらも遠近(北部九州・朝鮮半島)を問わず、海路を往き来する航海民の姿を鴨(味鴨)になぞらえた命名である。
この命名法は北九州や兵庫にある「芦屋」に反映されているし、大阪の淀川下流のにある分流「安治川」もその範疇に入っている。
また沖縄本島には「安次嶺(あしみね)」という地名もある。さらに言えば、沖縄の古代以来の土豪(族長)を「按司」(あじ)と言うが、この「あじ」も鴨のことかもしれない。沖縄の風土こそまさに航海者が必要とされ、権力を握っていた土地柄なのであるから・・・。
大隅史談会の研究誌『大隅』第51号の中の拙論「葛城地方の出雲系鴨神と南九州」で論じたが、出雲神話の「高鴨阿治須岐高日子根(たかがもあじすきたかひこね)命」とは、南九州の「曽の峰」に天下り、神武に先んじて大和へ移った「鴨建角身(かもたけつぬみ)命」のことであり、大和葛城から北上して京都の下鴨神社のある辺りで土着したと考えている。
神武東征の時に、海路の案内をしたのがこの玖玉神社の祭神「塩土翁(しおつちのおじ)」であるが、この人物は神武による王朝樹立後に「大和直(やまとのあたい)」に任命されている。大和地方の知事になったと言ってよく、大出世を果たしている。(民俗学で言われる「海人の岡上がり」で、零落したのではなく反対に栄光を得たことになるが)。 閑話休題。浜田の初冬の風景を撮りに来たのにむつかしい話になってしまったが、今、この辺りの野道ではツワブキとノジギクが花盛りである。
風の無い陽だまりに、本当によく似合う花々である。
どこにもゴミの落ちていない集落の野道は、散策にもってこいだ。
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コメント
田の神様探していました 助かりました 早速行ってきます
それから八幡神社の田の神は中福良の田の神とも
言われています
輝北町諏訪原重田にも中福良の田の神様が居られます
隼人町小田にも中福良があります
隼人町嘉例川の中福良までで4ヶ所あります現在の所
私は仏教から来ているのではと
思っていましたが興味を引く響きですね
投稿: masa | 2012年12月20日 (木) 09時11分
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
投稿: 履歴書 | 2012年12月21日 (金) 14時57分