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沖縄に耳を傾けよ!

 今日、通常国会が開会した。その中で行われた安倍総理の演説内容は、やはり「三本の矢」が中心であった。夜7時のNHKニュースによると、その中でも経済再生が最大の課題だそうだ。Cimg4759 三本の矢とは1月25日に鹿屋で行われた「須田慎一郎」講演会で縷々説明があったように、「金融緩和」「公共事業投資」「経済成長戦略」のことだが、結局は日本経済の再生が目的ということである。

 これに加えて閣僚には、Cimg4758_2と、「危機管理」という言葉を追加してている。

 強い日本を取り戻すための大きな戦略に位置付けたいのだろう。もちろん念頭にあるのは最近起きたばかりの「アルジェリア人質事件」だ。しかしそれはたまたま発生した事件であり、最終的な目的は対中国牽制にある。

 それには「日米同盟」の絆の再強化が必要であるとも言っている。

 ところが同じこの日に、沖縄県の全市町村の首長が大挙して上京し、首相に陳情している。Cimg4749 「少なくともオスプレイの配備はやめて欲しい。これ以上沖縄県民に負担を掛けては困る」―これが沖縄首長連合の主張である。

 まったく同感である。

 沖縄から基地負担が軽減されるどころか、逆に増やされたのだから怒るのはもっともなことだ。

 自民党が口を開けば言う「日米同盟の強化」は、世界の国から見ると、

 <太平洋戦争に負けた日本が戦争を放棄したので、戦勝国アメリカの進駐を許しているままだ。日米同盟というがあんなの同盟でもなんでもない。対等で同盟を結んでいるわけではないからだ。それを「強化する」ということはますますアメリカの関与を強めるだけで、沖縄はじめ各地にある米軍基地は存在感を強めるだけだ。>

となろう。

 アメリカに占領されていた沖縄を「取り戻した」佐藤栄作首相はノーベル平和賞を貰っている。

 強い日本を取り戻すとは、日本が世界の平和に武力に拠らずに貢献して行くことを国是として、アメリカにも物申す毅然とした態度を示せる国になることだと思うが、如何。











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ああモンゴル大相撲(平成25年初場所)

 千秋楽の最後の三番は「これより三役」という大相撲最高のランクにいる関取同士の取り組みだが、鶴竜ー琴奨菊、稀勢の里ー琴欧洲、そして結びの一番は横綱同士の取り組みで日馬富士が白鵬に勝って全勝優勝を決めた。Cimg4746 今年一年を振り返ると日馬富士のほうが戦績は勝っている。Cimg4748 それにしても・・・、「これより三役」の力士6人のうちモンゴル人が鶴竜、日馬富士、白鵬の三人、次いで日本人力士の稀勢の里、琴奨菊の二人、残る一人がブルガリア出身の琴欧洲。

 大相撲力士のベスト6の中に日本人は二人しかいないのだ。何とも寂しい。この二人は体格的にはモンゴル人力士に何ら劣っていない。

 そうするとモンゴル人力士の強さの秘密は何なのか?

 一番に考えられるのが「勝負強さ」だろう。それを支えているのは「モンゴル相撲の伝統」と「ハングリー精神」の二つだろうか。

 日本人力士にはもともと「大相撲の伝統」があったわけだから、彼我の大きな違いは、やはり「ハングリー精神」に尽きると言うべきだろう。

 関取になっただけでも給金でモンゴルの最高給取りに匹敵し、さらに横綱となればおそらくモンゴルでは考えられない収入が得られるはずだ。さらに懸賞金もある。

 頑張れば頑張っただけ目もくらむような収入が得られるのだから、ちょっとやそっとのことで挫けてはいられない。今後ともモンゴルをはじめ諸外国から大相撲を目指す若者が入門してくるだろう。

 そもそも相撲は4世紀ごろの怪力「出雲の野見宿祢(のみのすくね)と大和の当麻蹴速(たいまのけはや)」の決闘に始まるという。だが天覧相撲というジャンルで活躍したのが7世紀の南九州の「大隅隼人と阿多隼人」であった。(「天武天皇紀」による)

 南九州ではおそらく縄文時代から、たとえば秋の十五夜の晩に「綱引き」や「相撲」が行われ、神々に豊穣を祈っていた。したがって南九州由来の相撲は神事でもあったのである。

 綱引きは今でも南九州や沖縄では普通に行われ、相撲は現在は主に「子ども相撲」に縮小しているが、かっては誰もが競ったようだ。

 面白いのは、どこの行事か忘れたが「人と神が相撲を取る」というのがあることで、人が勝つか神が勝つかは初めから決められているのである。大事なのは勝敗よりも「神人合一」ということなのであろう。

 相撲が国際的になるのはもう誰も止めることはできないしそれはそれでいいのだが、外国人力士であっても「相撲は神事から始まったので、ただの金稼ぎのプロスポーツではない」ことを肝に銘じてほしいものだ。

 




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須田慎一郎講演会(鹿屋市リナシティホール)

 1月25日金曜日夜、鹿屋市リナシティの3階にある大ホールで、鹿屋肝属地区法人会主催の新春講演会が開かれたので観覧に出かけた。

 今回の講演者はテレビでおなじみのジャーナリスト・須田慎一郎氏で、テーマのタイトルは「日本経済の展望と金融情勢」であった。Cimg4737 パンフレットを貰って中に入り、読んでみると書いてない。何が、というと、今回自民党が政権を取って真っ先に掲げられたのがあの「アベノミクス」で、パンフレットには一文字も触れられていない。(写真は貰ったパンフレットから転写した。)

 ―何だ、ちょっと残念だな。そこを聞きたかったのに・・・。

 そう思いながら聞き始めたところ、須田氏は「経済はつまるところ政治の影響を免れない」と前置きし、今回のアベノミクスについて滔々と語り始めたのである。

 アベノミクスには「三本の矢」があって、①金融緩和 ②公共事業投資 ③経済の成長戦略 が謳われている。

 ①の金融緩和は「輪転機で紙幣をどんどん刷って市中に流し入れる」ことで、インフレを誘発し、経済活動が上向き、さらに「円安」をもたらすので、輸出産業は息を吹き返し、賃金も消費も上がって行く―という手法だそうだ。

 ②の公共事業投資は地域経済の柱である農業と土建業のうち、土建業を活性化させることで、地域の雇用が生まれ、潤って行く―という手法。

 ③の成長戦略は「たとえばiPS細胞の研究応用に多額の予算を付け世界的な成長産業にまでもって行く」―という手法。

 野太い声でやや早口でしゃべるので、聞き取りにくい面もあったが、おおむね以上のようなことであった。

 このアベノミクスは今年夏の参議院選挙をターゲットに入れての政治戦略でもあるそうで、これに失敗したら負けるだろうとのことである。

 危惧されるのは地方の保守層に万全の強みを持つ②の公共事業投資が間に合うだろうか―ということで、5兆円に上る補正予算も執行されるのは5,6月の頃なので、目に見えて地方が潤うという実感が湧くのにはタイムラグがあり、果たして7月の参議院選挙の前に懐具合が良くなればいいが・・・と言う。

 また、安倍首相はタカ派と言われるが、靖国神社に公式参拝はしない、つまり中国からの批判を避けるという現実主義的政治姿勢を取っているので、小泉首相のようには敵視されないだろう―との認識を示した。

 ついこの間、公明党の山口代表が中国を訪問し「尖閣諸島については棚上げする」と記者会見で述べたようだが、実は山口代表は安倍首相の親書を持参したらしい。

 親書の内容はもとより公表されていないが、案外と安倍首相自身が親書の中で「尖閣諸島については、当面棚上げしたい」というようなことを書いたのではないか、との憶測もできる。現実路線とはこういうものだろう、とのことである。

 6時半から始まった講演はまさに「立て板に水」で、休憩を入れることもなく8時過ぎまでしゃべりまくっていたが、有意義な講演だったと思う。

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鬼火たき(鹿屋市川西町)

 三日前の土曜日(1月19日)、昼間に通った時、田んぼの中に孟宗竹を束ねた櫓が立っているのを確認していたが、近くに誰もいなかったので「鬼火たき」が何時から始まるのかは分からなかった。

 暗くなってからに違いないと、真っ暗になった6時半に現場に行ってみたところ、すでに火が着けられかなり燃えたあとだった。薄暗くなった6時ころには点火されたようだ。Pt350058 手前に張られた「川西町親子会」「川西町内会」の二つのテントの中からは賑やかな声が聞こえてくる。Pt350055 近くにいた中学生3人に

 「点火したのはどんな人だった?」と聞いてみると、

 「年男でした。」「あれ、女もいたかな?」「いや、男だけだったよ。」

 と、3人が確認しあうように答えてくれた。

 よその鬼火たきでは、厄男や厄女が点火する所もある。地域によって若干の違いがあるようだ。

 ふいにアナウンスがあった。

 「竹の先に餅をつけて火で焼いてください。」Pt350057 すっかり倒れてちょうど焚き火のようになった火に、子供たちが長い竹の先に切り餅をつけて、あぶり始めた。

 この餅を食べるとこの一年、無病息災とのことである。

 これは小正月の行事で、こちらでは「鬼火たき」と言うが、所によっては「とんど焼き」などと言う。正月にお供えした鏡餅や門松、紙垂飾りなどを焼いて始末する意味合いもある。

 誰彼を区別することなく行われる伝統行事が子供たちの記憶の中に少しでも残り、心豊かな人生への糧にして欲しいものだ。ここの子供たちは幸せだと思う。






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遠来の客人(2)

 今朝はまたまた霜が降った。これで年が明けてから10回目、11月1日に初霜があって以来通算で23回目となった。

 今冬は異常に早い初霜だったので、これは記録しておこうと日記手帳に書き留めておいているが、正月以来の記録を見ると霜の降りた日は、

 元旦・2日・4日・7日・11日(この日の最低気温-4℃)・15日・16日・18日(この日二度目の-4℃)19日・そして今日

 の10回である。最後の3回は三日連続でこれはおそらく新記録、通算23回も新記録、正月明けて20日のうち10日霜が降りたのも新記録と、トリプル新記録達成。三冠だ。異例尽くめの今日このごろ、本当に何事もなければよいが・・・。

 今日は午前中に福岡から客人があった。ブログによくコメントをくれる「隅南風人(すみはやと)」氏である。もともと鹿屋市串良町の出身で、肝付町宮下(みやげ)に嫁いでいたおばさんが亡くなって葬儀に参列のため帰省したその帰り道に我が家を訪れたのである。

 隅南風人氏は福岡で映像編集の仕事をされており、その話もだが、氏の交流関係の「あけぼの会」の話が非常に興味深かった。

 あけぼの会の目的は「台湾の原住民である高砂族は戦時中に志願して日本軍とともに戦ったが、密林での働きは舌を巻くほど優れていて、パプアニューギアでの戦闘ではかなりの日本兵が助けられたので顕彰したい」というものらしい。

 一般によく言われる<高砂族は無理やり出征させられた気の毒な人々だった>という定説とは全く違い、40倍、50倍の競争率を経て志願兵としてみずから日本軍に入ったのだという。

 その働きの目覚ましさを日本人はもとより世界で顕彰しようというのが「あけぼの会」である。最盛期には500人からいた会員も現在は100人台に減少しているが、隅南風人氏は一員として後世に残せないかと考えている。

 「高砂義勇軍」で検索すれば、高砂族と日本軍との交流が分かるんですよ―と我が家のパソコンを使って紹介してくれた。なるほど高砂族とはすごい民族だ。

 ある高砂族は食糧事情の窮迫した日本軍に頼まれ、密林の中を食料を求めついに確保したが、帰る途中で餓死していたという。自分の背負ってきた食料を食べれば餓死は免れたはずなのに、食料はあくまで日本軍のためのものとの一心で手を付けなかったそうである。これがもし朝鮮人軍属であれば途中でわが前の分を確保したうえ、横流しして半分になっていただろうともいう(すべての朝鮮人がそうであったというわけではないであろうが・・・)。

 このような高砂族に救われた日本兵の中には戦後になっても、「高砂族の居る台湾には足を向けて寝られない」とさえ言う人がいるくらいだ。

 氏は実際に高砂族を訪れ、高砂族の歌を見聞しているが、文章にはできない見事な歌いっぷりに感銘している。わずかな語彙を使ってあらゆる表現がなされていて、これこそ日本でも縄文時代には行われていたであろう「歌垣(かがひ)」を偲ばせる文化だろうという。

 高砂族は台湾自生のいわゆる原住民で、太平洋戦争後に入って来た国民党軍とは相容れず、戦いもあったというが、現在は台湾国民として融和している。しかしその血に流れる縄文的な志操は変わらないとのことである。

 うーん、ためになる情報を頂いた。隅南風人氏にはお礼を申し上げたい。

 午後は月例の「おおすみ歴史講座」を開催。今月は大隅国姶羅郡帖佐郷の部分を学習した。

 ところがちょうど同じ日に霧島市では「大隅国建国1300年記念講演会」が開かれており、今日の出席者の中には午前中そちらに行っていたという人がいて、講演「大隅国の成立前夜」(講演者:中村明蔵・鹿児島国際大学大学院教授)のレジュメを頂戴した。

 霧島市では今後6回にわたって、大隅国建国(和銅6年=713年)にまつわる講話を行うそうである。計画を見たら毎月第3日曜日に開催するようで、こちらの講座と重なっている。残念ながら行けそうにない。

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山ノ口祭祀遺跡の碑(肝属郡錦江町山ノ口)

 今朝の寒さも尋常ではなく、マイナス4℃を記録した。これで11日に続き、2回目のマイナス4℃である。

 降霜も今日でこの冬21回目。正月になってからは8回目だ。18日で8回は尋常ではないを通り越して異常の部類だ。Cimg4712 霜柱も2センチを超えている。Cimg4715 ウメのバケツの水が凍ったのも、もう20回は数えるだろう。(困ったな・・・。)

 今日は午後が休みだったので、3,4日前に取れた歯の詰め物を直してもらいに、以前南大隅町に住んでいた頃に治療してもらった錦江町の歯科の所に出かけた。午後も早かったせいか少し待っただけで再治療(詰め直し)してもらい、7,8分で済んだ。

 この歯科からは「山ノ口祭祀遺跡」が近いので、帰りに立ち寄った。Cimg4720 写真は南大隅町側から撮った。国道269号線のすぐ左手脇に石碑が立っている。Cimg4723 コンクリートで固められたテラスの先端に石碑が立つが、手前の電柱が邪魔な感じがする。仕方あるまい。Cimg4724 この辺りは砂鉄の採取地だったそうである。今は畑になっているが、発見された昭和33年当時は砂浜の一部だったようだ。現在は海岸から直線にしてちょうど100㍍くらいで、砂浜だったことを偲ばせるものはない。Cimg4726 石碑の裏にこの遺跡の発見と内容が簡単に彫り込んである。

 ここは昭和33年当時、「東邦金属」という会社が砂鉄を採取しており、その際に発見された。
 

 昭和33年と言えばまだ埋蔵文化財(いわゆる遺跡)に対する認識は低く、普通だったら破壊してしまう所だったのだが、当時、遺跡マニアのような先生が近くの小学校にいた。それが大隅史談会第5代会長となる神田三男氏である。

 たしかその頃、教頭先生だったと思うが、事業所は先生が遺跡などに熱心なことを知っていたようで、不思議な遺物が見つかったのを真っ先に神田先生に知らせたらしい。

 それが県の考古学会を動かし、3回の発掘調査が実施された。その結果、弥生中期の祭祀遺跡であることが判明した。

 石の角柱や人形型の石が中心に置かれ、その周りに軽石製の円形や楕円形の物が配され、その近くには壺型土器ち甕型土器が置かれていた。火を使った跡もあった。また勾玉・岩偶・磨製石鏃なども見つかっている。
 

 特にこの時に出土した甕型土器は「山ノ口式土器」と名付けられて、弥生中期の指標土器になっている。Cimg4725_2道路を挟んだ向こうは山手で、比高5、60㍍の岡が連なり、その上で「千束遺跡」が見つかっている。時期的にはやや遅れるのかもしれないが、いわゆる「高地性集落」ではないかと言われている。

 さて山ノ口祭祀遺跡は「農耕祭祀の跡」と考古学会は説明するが、当時は海岸だった場所で農耕はないだろうと思う。それでは何の祭祀か?

 石碑の場所に立って、海を眺めると錦江湾とその向こうに開聞岳を盟主とする薩摩半島南部の山並みがよく見える。Cimg4735 山ノ口遺跡から100㍍余り行くと海岸部に出る。ここからは開聞岳が手に取るように見える・・・と言いたいが、あいにく今日は春霞か中国大陸由来の黄砂によってかすんでしまっている。

 この眺めからすると、私はこの遺跡は開聞岳の噴火を鎮めるための祭祀が行われたのではないか、と推理したい。直近の噴火で有名なのは貞観16年(西暦874年)のもので、その噴火により開聞宮は壊滅し、指宿の東方にあった天智天皇を祭る葛城宮に避難している。

 さらにその前の縄文晩期(約2300年前)、同じ指宿だが、橋牟礼川遺跡を埋めているのも開聞岳の噴火だ。この橋牟礼川遺跡によって、縄文土器と弥生土器の層序、つまり縄文土器の方が弥生土器より古いことが判明したという記念すべき遺跡である。

 この山ノ口遺跡での祭祀は、その時の噴火を鎮めるためのものであったのではないかと考えると、話がつながって面白いのだが・・・。















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肝付町高山・宮下(みやげ)

 今日やって来た知人と話をしているとき、肝属郡肝付町宮下(みやげ)に鎮座する桜迫神社のことを、自分は「おうさこ」と読むのだが、知人が言うには「たまたま桜迫神社の宮司と一緒になって話を聞いたところ、桜迫神社は呼び名はサクラ迫ですよ。」とのこと。

 ええ!「おうさこ」ではないのか、実は自分も最初にこの神社の名を見た時、「さくらさこ神社」と読んでいたのだが、いろいろ調べるうちに「おうさこ神社」と書いてあったので、その通りと思いずっと「おうさこ神社」で通していた。

 というのは、この辺りは神武天皇の父であるウガヤフキアエズ尊が住んでいた所という伝承があり、なるほどならば王者の迫(谷)なので「おうさこ」なんだな、と納得していたのである。

 そこで昼過ぎから現地に出かけてみた。

 肝属郡肝付町宮下(みやげ)はすぐそばを肝属川が流れている。Cimg4693 川では何かの工事が行われている。土手の向こうに見える鉄筋の建物は桜迫神社に隣接する宮富小学校である。

 そのすぐ後ろのなだらかな丘の辺りが、神武天皇の父・ウガヤフキアエズ尊が都を置いていた所だという。Cimg4699 宮富小学校の左となりにこじんまりとしたお宮がある。これが「桜迫神社」である。明治に入ってこの名が付けられたといい、その前は「六所権現」と呼ばれていたという。

 神仏混淆(本地垂迹)時代のよくある権現信仰で、ここには神社とともに寺があったのだろう。お宮の入り口に仁王像が二体立っているのがその証拠だ。Cimg4700 神社からさらに左へ50㍍、ウガヤフキアエズの宮があったところとして戦前に建立された「西洲宮跡」という大きな石碑がある。

 戦前の皇国民教育華やかなりしころに建立されたこの碑は、日本書紀のいわゆる日向神話に「久しくましまして、ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズ尊、西洲の宮に崩(かむさ)りましぬ。よりて日向の吾平山上陵に葬(おさ)めまつる。」とあるので、この桜迫神社のあたりに西洲(にしのくに)があったに違いないとして建てられたものである。

 したがって戦後は記紀神話など「嘘八百」のでっち上げ、と一刀両断された風潮の中で、いつしか全く忘れ去られた存在となり、事実、4、5年ほど前に訪れた時は、この石碑の周りは草だらけで、かろうじて碑まで行けるだけの踏み跡があっただけだった。

 それがつい最近になって以前からの「神武天皇誕生地」の伝承のある肝属川の畔に建てられている「神武天皇生誕地」の石碑がきれいに整備され、再び脚光を浴びるようになったのである。Cimg4703 まさに戦前の昭和17年に建てられた「神武天皇御降誕伝説地」碑は、右に高い土手が見えるように肝属川に隣接している。付近には神武天皇の胞衣(えな)が納められているという「水神棚」の遺称地もあり、地元ではこここそが神武天皇の誕生地であるとの伝承が根強く残っている。Cimg4706 土手に上がると手前の石碑の向こうに、さっき訪れた桜迫神社と西洲宮跡のあるこんもりとした岡が望まれる。あそこに宮居していたウガヤフキアエズの妻・タマヨリヒメがこの川のほとりで神武天皇を産み落としたことになる。Cimg4707 同じ土手の上から反対方向に目を転じると、遥か肝属川越しに肝属山地が見える。広大な肝属平野の一角ということがよく分かる。

 しかしこの広大な平野も実はかって、おそらく古墳時代の頃までは広々とした潟湖(ラグーン)だったのだ。この宮下(みやげ)のあたりまで満潮の時は海の水がひたひたと押し寄せる場所でもあった。

 それを垣間見せる証拠がある。明治37年に制作された陸軍省測量部の五万分の一地形図がそれである。この地図中に見えるポチポチした川沿いの田んぼ地帯こそかっては海水が入り込んでいた様子を示している。Cimg4688_2 地図の中の青い線は川の流路を示している。左から右へと流れるのが肝属川で、宮下(みやげ)は左手の上(北)から下(南)へ流れる中山川と左手から流れるその肝属川との合流点にある。赤で四角く囲ってあるのが宮下(みやげ)で、そのすぐ左隣りにある小さな赤丸で囲んだ所が桜迫神社である。北から伸びてきた笠野原シラス台地の肝属川に臨んだ先端にあるということが分かる。

 このような丘は古来聖地であったことは、先日のブログ「笠祇神社と串間」でも指摘したが、このような所に王宮もしくは王の墳墓が築かれるケースが非常に多いのである。

 私見ではこの神武天皇というのを、神武天皇とアイラツヒメの間の子として記紀に記載されている「タギシミミ」と置き換える。タギシミミは古語で「船舵王」のことであり、まさに東征の船団を率いるにふさわしい王であった。弟の「キスミミ」はこの地に残り、ここ肝付の王者として辺り一帯を統率したのだろう。

 (なお、宮下をミヤゲと読むことでここに「屯倉」(みやけ)があったとし、安閑天皇の二年五月に全国に屯倉二十六ヶ所が置かれたと書かれている中で、「肝等屯倉」(かもとのみやけ)をこの肝付の地に引き当てる「高山郷土誌」の説がある。だが、「肝等屯倉」は豊国(大分県)にあるとして記載されている。なぜこれを大隅国に持ってきたのだろうか。肝等(きもと)と肝付の類似性がそうさせたのだろうと思うが、安閑天皇紀を読む限りでは有り得ない話である。ちなみに九州には八ヶ所あり、筑紫国に二つ、豊国に肝等屯倉を含む五つ、火国に一つの八つである。

 

 
















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ブルブルッ、-4℃!(鹿屋市池園町)

 昨日の夕方の天気予報で覚悟してはいたものの、最低気温がマイナス4℃となったのには驚いた。まだ小寒に入ったばかりというのに・・・。(夕方の天気情報による確定値はマイナス4、3℃)Cimg4679 寝室の窓から見た隣家の屋根。いつもは黒々としている太陽光発電パネルも真っ白だ。Cimg4681 庭に出てみると、冷凍してパリパリになったような草たち。Cimg4684 菜園にも容赦なく霜が降りている。Cimg4682 池もすっかり氷り付き、厚さ5ミリほどの氷が張っていた。ホテイアオイは完全に霜焼けしてしまった。Cimg4683 東隣りの畑はうっすらと雪が積もったようになっている。

 年が明けてから今日で5回目の霜である。元旦、二日、四日、七日そして今日。去年の11月1日に最初の霜が降りてから、これで18回目になる。

 12月に9回降ったのは前代未聞のようで、全国的にも12月の平均気温の低さは統計上初めてという所が多かった。

 繰り返すようだが、おととしも寒い冬で大晦日から元旦の朝方まで雪が降る異例の年だった。そして1月26日の新燃岳の大噴火と3月11日の東日本大震災が起きた。

 もちろん因果関係は明確ではない。だが今年も何かありそうだ。情報のアンテナを高く張って災害に備えたい。









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東京が2020年夏季オリンピック開催計画を提出

 1月8日、東京が立候補していた2020年夏季オリンピック開催へのファイル(計画書)をIOCに提出したとの報道があった。

 東京以外では、トルコのイスタンブール、スペインのマドリードだそうだ。このうちトルコだけは、これまで国内での開催経験がない。

 おそらく十数都市の候補地の中から絞られた三候補だろうが、まず、スペインでの開催は無理ではないか。国内経済が危機に瀕していると聞く。たしか失業率が世界一高く、25パーセントを超えているらしい。

 そうだからこそ雇用を創出するためにも新規公共事業としてのオリンピック施設が必要だ―という考え方もあるが、オリンピック関連施設でどれほどの金が落ち、雇用が生まれるというのだろうか? 失業率が仮に5パーセント軽減されたとしても、残りの20パーセントをどうするのか。逆に新たな雇用差別が生まれ、しかも2020年を待たずして、つまり6年程度の期間しかない短期雇用なのである。

 オリンピックを余りにも経済と結び付ける愚を犯してはなるまい。綺麗ごとのようだが、近代オリンピックにはスポーツを通じて世界民族(人種)の融和を目指すという原点がある。これを忘れてはなるまい。スペインはオリンピックなどに頼らない自前のボトムアップを成し遂げて行かなければなるまい。

 トルコと東京を比べると、一見して経済的にも、施設面でも東京が抜きんでているように見えるが、実は安全面で大きな心配がある。首都直下型地震である。一部報道ではこの4年くらいの間に70パーセント起きる確率があると言っている。別の情報では富士山噴火がやはり近い将来には起こるとも言う。

 ということはどういうことか。オリンピックなど開催している場合ではないということである。早急に「首都移転」、それが無理なら「分都」に着手すべき時ではないだろうか。

 自分としては、最低でもここ数年のうちに「皇居」を元の平安京すなわち京都に帰っていただきたい、宮内庁を引き連れて・・・。これを移転または分都の皮切りとしてどんどん推し進めてもらいたい。

 オリンピックなどと言う一過性のちゃちなイベントよりもこっちの事業の方がはるかに巨大で、おそらく30年かそこらはかかるだろうから、まさに雇用の創出も経済の活性化(内需の拡大)にも完璧な貢献をするだろう。

 

 加えてやがて間違いなく来るであろう首都直下型地震、また小田原地震や東海地震に対する大きな防御策にもなるから一挙両得の事業ではないか。

 

 だから2020年夏季オリンピックは初開催となるトルコに譲り、日本はそれまでに首都移転もしくは分都へと、国民の関心を促して行くべきである。

 もう一つ。

 今度の安部内閣の時に日本の「永世中立国宣言」(ただし武装はする)を出してもらいたいと思う。日本は武力では世界平和に貢献できないが、紛争当事国のお互いの言い分をよく聞き、平和裏に紛争を解決する道筋をつけることに徹するという姿勢を堂々と宣言すればよい。

 そうすることで日本は現在の国連を支配している「第二次大戦における大西洋憲章認証国連合」からフリーになる。そして、たとえ「敵国条項の適用国」であるにしてもそれを実質的に無力化(無効化)してしまえばよいのである。

 今は中国との関係が悪化しているので、万が一に備えて「集団自衛権」への参加がクローズアップされているが、それではアメリカの思う壺で、日本は永遠にアメリカの「同盟国という名の属国」から抜け出せない上、「応分の武力行使」を催促されるだろう。

 かって公民権闘争を闘ったアメリカ黒人。その人々に限りなく近いオバマが大統領でいるうちに宣言すればアメリカの反発は最小限に抑えられるはずである。

 

 もし安部首相が「永世中立国宣言」を世界に向かって唱えたら、間違いなくノーベル平和賞が授与されるだろう。

 

 近代史の中で有色人種としてはただ一国、欧米諸国に伍して完全独立を果たし、人種差別の非を訴えた日本。そんな日本の世界平和への高らかなメッセージを待ち望んでいる国は多いと思う。

 

 

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桜島大正大噴火100年目(1914年1月12日発生)

 夕方放送のМBC(南日本放送)の「ニューズナウ」を見ていたら、今度の12日で桜島大正大噴火が起きてからちょうど100年目を迎えるとのことで、今日から特集が始まるという。

 今日は第一回「映像と証言」とかで、これはと思い、デジカメに収めた。Cimg4654 大噴火が起きたのは大正3(1914)年1月12日の午前10時。桜島山体の2ヵ所からの噴火だという。Cimg4659 このうち右(東)側の「鍋山」から噴出した大量の溶岩流が、2週間余り後についに瀬戸(海峡)を埋め、大隅半島と陸続きになった。

 噴火時の様子はCimg4660たという。後に東桜島村長になる野添氏の表現である。Cimg4666 海を隔てた西側の鹿児島市方面から見ていた春田氏によれば、火山雷と呼ばれる現象が見られたようだ。Cimg4661 桜島の住民は数日前から地震や小動物の異変を察知して大噴火が起こるのでは・・・と思っていたらしい。すでに前日の11日に鹿児島市内へ避難していた人たちもいた。Cimg4675 昼過ぎになると噴煙が鹿児島市街地を襲い、さらに18時29分に起きたマグニチュード7.1の激震が市民を慄かせ、西へ西へと避難しはじめた。Cimg4669 鹿児島市街地では大きな地割れも発生している。Cimg4676_2 被害状況:死者・行方不明者58人。住宅全壊が2269棟。

 住宅の全壊戸数の割には死者の数が少なかったのは、大噴火が10時、大地震が夕刻の6時半と、逃げおおせるだけの余裕の持てた時間帯だったからだろう。

 それでも桜島の住民から死者・行方不明58人もの犠牲が出ており、実はこのことでは後日譚がある。

 桜島では数日前から地震や異変が起きていて、当時の村長は鹿児島測候所に「桜島大噴火の前触れではないか」と何度も問い合わせたが、測候所では「噴火の心配なし」との回答。それでも「真冬なのにヘビ・カエルが這い出し、ニワトリが昼間から声を上げるなど、異常な島に危険を感じた数百人が避難していた。」(『かごしま世相百年』南日本新聞社S56年より)

 前日(11日)は地震が60数回も発生し、鹿児島市内でも「市中、人心安き心地なかりし」という有り様だったようで、測候所がようやく「震源地は桜島にて火山地震なること判明したり」と発表したのは12日当日の朝だったという。しかもこの発表では噴火の可能性には触れていないのであった。

 それがわずか数時間後に途方もない大噴火が起きてしまった。2年前の1月26日に起きた霧島山系新燃岳の大噴火の100倍の大きさだったというからすごい。

 噴火があるぞ、と、ひとこと測候所に言ってもらえたら東桜島村民で50名余りの死者・行方不明者は無かったかもしれない、というわけで、東桜島小学校の旧正門前に建立された記念碑にはこう書かれている。

<爆発数日前より地震頻発し・・・、村長は数回測候所に判定を求めしも、桜島には噴火なしと答ふ。・・・測候所を信頼せし知識階級の人却って災禍に罹(かか)り・・・、住民は理論を信頼せず、異変を認知するときは未然に避難の用意もっとも肝要とし・・・>(同書より抜粋。ただし碑文は片仮名を使っている)

 科学をもってする測候所の判断の遅れを揶揄した文章だが、住民の経験知の方が勝っていたと言い換えてもよい碑面である。

 東日本大震災でも、ある地域では過去に起きた大津波による経験知として、「この高さ以上に逃げよう」というラインが昔から言い伝え続けられおり、それに従った地域では死者が少なかったという報告がある。

 ただ、原子力発電所の揚水用ディーゼルポンプの高さにまで適用されなかったのが残念である。無理もない。なにしろ原子力発電に経験知を認知するほどの歴史は無いのだから・・・。

 家や家族は無傷なのに、放射能汚染のためいまだに避難生活を続けなければならない人々は、避難生活を終えて元に戻った時、上の桜島住民のような記念碑を建てるといい。

「わずか50年足らずの歴史しかない原子力発電のたった一回の爆発事故のために、先祖伝来数百年の土地を離れなければならなかった無念さは筆舌を絶している・・・」と。



















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笠祇岳と串間(志布志市・串間市)

 正月恒例となった「腹ごなしハイキング」。今年は志布志市と宮崎県串間市との県境にある「笠祇岳」に登ることにした。笠祇岳は標高444mで頂上には牛馬の神を祭る「笠祇神社」がある。

 9時半に家を出て志布志市に向かう。市内に入り中心部を抜け左手の志布志小学校を目指し、小学校からは手前(南)を東方面に行く。潤ヶ野から八郎ヶ野へ抜ける道だ。

 潤ヶ野の手前の立花迫郵便局を過ぎて間もなくの二俣を右に取り、2キロほど行くと道路の左手の民家の前に小さな標柱が立つ。「田床辺路番所跡」だ。余りにも小さいので見過ごしてしまうかもしれない。Cimg4605 「田床番所跡」という志布志町教育委員会の標柱が古色を帯びて立っている。ここは江戸時代に造られた番所で、志布志(薩摩藩)から、この先の串間(日向高鍋藩の飛び地)へと抜ける三つの往還に置かれたうちの一つである。

 串間では念仏宗(浄土宗・浄土真宗)の取り締まりはなかったので、取締りの厳しい薩摩藩から兆散して行く信者が多かったらしく、串間への通路のすべてに番所が置かれたのである。

 笠祇岳へはこの番所跡を過ぎて100㍍ほど行った所から左折して行く道があるのだが、立花迫のガソリンスタンドで聞いた情報では、その道をとると軽の四駆車でないと上がれないとのことで、そのままの道を串間方面へ向かった。

 県境を過ぎて1キロ弱、左手にUターンするように「笠祇小学校へ」という木製の看板に従い入って行く。それから約1.5キロ、向かいに市営水道の貯水タンクが見えてくるので、今度はそこを左手にUターンすると鳥居がある。Cimg4617 笠祇神社登山口。木製の鳥居をくぐって登って行く。

 平均勾配7~8%の道を行くこと3キロで山頂に着く。Cimg4615 最も高い場所に大きな赤い鳥居が立つ。平成23年の建立、と左の石碑に書かれている。

 肝心の神社はというと・・・・・鳥居をくぐった長い階段の下にあった。Cimg4609_3 手前の狛犬はどう見ても獅子だが、門祠を持つ格式高い造りである。それにしても手前の杉は素晴らしい。高さ30㍍は下らないだろう。樹齢3、400年はある大木だ。Cimg4612 山頂からは東と南の180度の展望が得られる。左手の島は志布志湾に浮かぶ枇榔島。右手の連山は高隅山系である。Cimg4614 目を東に転じると海岸が見える。串間市の海岸部だ。

 歩くつもりが車で頂上まで来たので時間はたっぷりある。串間に見ておきたい所があるのでそっちへ向かった。

 元の県道に引き返し、串間へ下ること約15分、串間市街地に入り信号「西小路」を左折する。道はほぼ北に向かい、福島中学校の横を通り抜け、城山という小字の台地を通り、今度は下って行く。すると左手からの小流がえぐった谷地田が見える。Cimg4621 この小流の名は不明だが、谷地田沿いに見える集落は穂佐ヶ原といい、この谷地田を含むどこかからか、あの有名な「串間出土の玉璧(ぎょくへき)」が掘り出されたらしい。発見したのは「今町の農夫・佐吉」だった。

 この谷間を「王子谷」と呼び、また小流の奥には池があり「王子池」と呼ばれているようである。とにかく、この辺りは相当古くから開け、串間を支配下に置く「王」がおり、繁栄していたと思われる。その王はおそらく「航海王」の類に違いない。

 「玉璧」とは『周礼』によると、大陸王朝の周の時代に諸侯に与えた宝器類のうち「子爵」に賜与された物であるという。

 そんな宝器を大陸王朝から貰う勢力がここにあったのだろうか? それともどこかで貰った勢力がここへやって来たのであろうか?

 実はこの点については3年前(2009年11月)の西都原考古館で開催された「玉と王権」のシンポジウムでかなり明らかにされている。ただし、結論としてなぜ串間に持って来られたのかが不明のようである。

 (ブログ「玉と王権」についてはこちらを参照。)

 串間出土の玉壁は南越王墓(中国広州市)から発見されたのとほぼ同じ形態のようで、これをシンポジストは「漢の時代に諸王に配られた物」とするが、越と倭(串間も倭の一部である)とに共通するのは「周の時代に、越人が白雉を献上し、倭人は暢草(ちょうそう)を献じた」という『史記・周本紀』の記事で、このことから越(南越)と倭が周王朝から特別に玉壁を賜与されたと考えてもおかしくはない。

 玉壁の謎はまだまだ解けそうにもないが・・・。

 穂佐ヶ原を見終わって右手を流れる串間では最大の川「福島川」を渡って台地に上がる。そこは平準な畑地帯がどこまでも広がっていた。「大束(おおつか)原台地」といい、ど真ん中に開発記念碑が立っていた。Cimg4624 「特殊農地保全事業」とかいう名目の開発事業が行われ、完成を見たその記念碑である。石碑の裏を見ると昭和50年の建立であった。

 この「大束原」という地名だが「大束」は「大塚」のことだろう。串間の地勢で特徴的なのは二河川の合流するY字状の台地地形が多いことである。こういう場所は上古「聖地」であり、王墓や霊廟が造られている。

 近くでは曽於郡大崎町の神領古墳群が典型であり、鹿屋市串良町の岡崎古墳群もそうであろう。遥か遠くだが、京都の下鴨神社がまさにそのような場所にある。その主神であるカモタケツヌミは『山城国風土記逸文』によれば「曾の峰に天降り」、大和葛城に東遷している。出自は南九州鴨族なのである。

 最後に訪れた「串間神社」もそのようなY字地形の中に鎮座している。左側が福島川、右側が大平川で、上で見た「大束原台地」の末端に当たっている。Cimg4628 串間神社は串間の宗廟で、祭神はヒコホホデミノミコト以下13神という。Cimg4630 本殿の壁が白塗りなのは珍しい。何かわけがあるのだろうが、宮司さんらしき人が見えなかったので聞きそびれた。 帰途は海岸道路をとり、福島川河口近くの福島大橋を渡った。Cimg4638 大橋から見る河口に近い「今町」。

 ここは藩政時代からもっとも人口の多い地区である。文政年間にあの玉壁を掘り出したのはこの「今町の農夫・佐吉」だそうだが、佐吉がここに住んでいたとすると穂佐ヶ原の畑までは5キロほどもあり、当時そんなに遠い畑まで通っていたとするには無理があろう。

 謎は深まるばかりである。Cimg4640 反対側の海に目を転じると、波穏やかな志布志湾に日は傾きつつあった。




























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2013年元旦

 当ブログをご覧のみなさん、明けましておめでとうございます。

 2006年10月から始めたブログは今年で7年目となります。我ながらよく続いていると感心していますが、今後も徒然なるままにアップして行きたいと思いますので、どうぞよろしく。

 さて今朝は寝坊をして、ウメの散歩がいつもより1時間遅れ、7時20分くらいに連れて行った。(昨夜の紅白歌合戦は森信一が「冬のリビエラ」を歌っていたことまでは覚えているのだが、歌合戦の結果まで持たなかったようで・・・。)

 玄関を出る時はそんなに寒くは感じなかったけれども、広い畑地帯に来てみると一面の霜だった。Cimg4580 ウメは霜の降りた畑で何かが臭うのだろうか、懸命に前足で掘り始めた。相変わらず犬は寒さ知らずだ。Cimg4577 東の空の色がだいぶ赤味を帯びたなと思って見ていると、山の稜線と、そのすぐ上まで垂れ込めている雲とのわずかな隙間から曙光が差してきた。太陽そのものはついに見えなかったが御来光だ。7時40分頃だった。(右のピークは肝属山地最高峰の甫余志岳967㍍。左のピークは黒尊岳909㍍。)

 家に戻り、帰って来ている息子夫婦を囲んで雑煮などで新年を祝った後、初詣でに西海岸の天神地区にある「荒平天神」に出かけた。

 海岸道路沿いの7、8台停められる駐車場は、さすがに今日は満杯に近かったが、空いた場所にうまく滑り込ませた。Cimg4601 幟旗には「菅原神社」とあったが、これが正式名なのか。普段地元では荒平天神と呼びならわしている。

 いずれにしても祭神は菅原道真。醍醐天皇の延喜元年(901年)に時の左大臣・藤原時平の讒言にあい、右大臣の職を解かれたうえ大宰府の権帥に左遷され、その時にお忍びで薩摩国から当地を経巡ったとの伝承があり、その証拠がこの天神様とされるが、後付けの説のようである。 Cimg4599
 天神社は「荒平石」と呼ばれる赤い溶結凝灰岩の岩礁上に鎮座しており、コンクリート製の階段の途中からは岩礁を削った急峻な階段になり、危ないので、息子と二人だけ参拝しに上がって来た。

 本殿を覆う社殿の内側の壁には「○○高校合格祈願」などと書いた物がたくさん貼られている。Cimg4600_2 陸繋島という地形の一種で、今朝は引き潮のせいか、白い砂浜に散りばめられたような赤い凝灰岩が風趣を添える。

 左手は天神地区の船溜まりになっているが、右手は静かな入り江で、海水の透明度が非常に高く、夏はよく海水浴客が遊ぶところである。

 2年前の元旦は明け方まで雪が降ってとても寒かった。今朝は霜が降り、日中でも8℃くらいしか気温が上がらなかったが、風がほとんどないのでそれほどの寒さとは思えなかった。

 しかし例年より寒いと言えば寒い。なにしろこの冬になって今日で14回目の降霜である。おととしの大震災のようなことがなければよいが・・・。

 今年の無事を祈りたい。













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