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肝付町高山・宮下(みやげ)

 今日やって来た知人と話をしているとき、肝属郡肝付町宮下(みやげ)に鎮座する桜迫神社のことを、自分は「おうさこ」と読むのだが、知人が言うには「たまたま桜迫神社の宮司と一緒になって話を聞いたところ、桜迫神社は呼び名はサクラ迫ですよ。」とのこと。

 ええ!「おうさこ」ではないのか、実は自分も最初にこの神社の名を見た時、「さくらさこ神社」と読んでいたのだが、いろいろ調べるうちに「おうさこ神社」と書いてあったので、その通りと思いずっと「おうさこ神社」で通していた。

 というのは、この辺りは神武天皇の父であるウガヤフキアエズ尊が住んでいた所という伝承があり、なるほどならば王者の迫(谷)なので「おうさこ」なんだな、と納得していたのである。

 そこで昼過ぎから現地に出かけてみた。

 肝属郡肝付町宮下(みやげ)はすぐそばを肝属川が流れている。Cimg4693 川では何かの工事が行われている。土手の向こうに見える鉄筋の建物は桜迫神社に隣接する宮富小学校である。

 そのすぐ後ろのなだらかな丘の辺りが、神武天皇の父・ウガヤフキアエズ尊が都を置いていた所だという。Cimg4699 宮富小学校の左となりにこじんまりとしたお宮がある。これが「桜迫神社」である。明治に入ってこの名が付けられたといい、その前は「六所権現」と呼ばれていたという。

 神仏混淆(本地垂迹)時代のよくある権現信仰で、ここには神社とともに寺があったのだろう。お宮の入り口に仁王像が二体立っているのがその証拠だ。Cimg4700 神社からさらに左へ50㍍、ウガヤフキアエズの宮があったところとして戦前に建立された「西洲宮跡」という大きな石碑がある。

 戦前の皇国民教育華やかなりしころに建立されたこの碑は、日本書紀のいわゆる日向神話に「久しくましまして、ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズ尊、西洲の宮に崩(かむさ)りましぬ。よりて日向の吾平山上陵に葬(おさ)めまつる。」とあるので、この桜迫神社のあたりに西洲(にしのくに)があったに違いないとして建てられたものである。

 したがって戦後は記紀神話など「嘘八百」のでっち上げ、と一刀両断された風潮の中で、いつしか全く忘れ去られた存在となり、事実、4、5年ほど前に訪れた時は、この石碑の周りは草だらけで、かろうじて碑まで行けるだけの踏み跡があっただけだった。

 それがつい最近になって以前からの「神武天皇誕生地」の伝承のある肝属川の畔に建てられている「神武天皇生誕地」の石碑がきれいに整備され、再び脚光を浴びるようになったのである。Cimg4703 まさに戦前の昭和17年に建てられた「神武天皇御降誕伝説地」碑は、右に高い土手が見えるように肝属川に隣接している。付近には神武天皇の胞衣(えな)が納められているという「水神棚」の遺称地もあり、地元ではこここそが神武天皇の誕生地であるとの伝承が根強く残っている。Cimg4706 土手に上がると手前の石碑の向こうに、さっき訪れた桜迫神社と西洲宮跡のあるこんもりとした岡が望まれる。あそこに宮居していたウガヤフキアエズの妻・タマヨリヒメがこの川のほとりで神武天皇を産み落としたことになる。Cimg4707 同じ土手の上から反対方向に目を転じると、遥か肝属川越しに肝属山地が見える。広大な肝属平野の一角ということがよく分かる。

 しかしこの広大な平野も実はかって、おそらく古墳時代の頃までは広々とした潟湖(ラグーン)だったのだ。この宮下(みやげ)のあたりまで満潮の時は海の水がひたひたと押し寄せる場所でもあった。

 それを垣間見せる証拠がある。明治37年に制作された陸軍省測量部の五万分の一地形図がそれである。この地図中に見えるポチポチした川沿いの田んぼ地帯こそかっては海水が入り込んでいた様子を示している。Cimg4688_2 地図の中の青い線は川の流路を示している。左から右へと流れるのが肝属川で、宮下(みやげ)は左手の上(北)から下(南)へ流れる中山川と左手から流れるその肝属川との合流点にある。赤で四角く囲ってあるのが宮下(みやげ)で、そのすぐ左隣りにある小さな赤丸で囲んだ所が桜迫神社である。北から伸びてきた笠野原シラス台地の肝属川に臨んだ先端にあるということが分かる。

 このような丘は古来聖地であったことは、先日のブログ「笠祇神社と串間」でも指摘したが、このような所に王宮もしくは王の墳墓が築かれるケースが非常に多いのである。

 私見ではこの神武天皇というのを、神武天皇とアイラツヒメの間の子として記紀に記載されている「タギシミミ」と置き換える。タギシミミは古語で「船舵王」のことであり、まさに東征の船団を率いるにふさわしい王であった。弟の「キスミミ」はこの地に残り、ここ肝付の王者として辺り一帯を統率したのだろう。

 (なお、宮下をミヤゲと読むことでここに「屯倉」(みやけ)があったとし、安閑天皇の二年五月に全国に屯倉二十六ヶ所が置かれたと書かれている中で、「肝等屯倉」(かもとのみやけ)をこの肝付の地に引き当てる「高山郷土誌」の説がある。だが、「肝等屯倉」は豊国(大分県)にあるとして記載されている。なぜこれを大隅国に持ってきたのだろうか。肝等(きもと)と肝付の類似性がそうさせたのだろうと思うが、安閑天皇紀を読む限りでは有り得ない話である。ちなみに九州には八ヶ所あり、筑紫国に二つ、豊国に肝等屯倉を含む五つ、火国に一つの八つである。

 

 
















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おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

明けましておめでとうございます。
毎回当ブログを拝読しています。本年もよろしく。

宮下は終戦時兄が代用教員をしたいたり、叔母が当地に嫁いでいたりで良く「神武天皇生誕地」石碑裏の堤防で遊んでいました。
一昨年亡くなった叔父よりこの地の古伝を聴いていましたが今となってはもっと良く聞き置くべきだったと後悔しています。(10年ほど前に桜迫神社裏中山川対岸麓にあったという小学校跡のビデオ撮影したこともありました)
叔父はこの牌前道路西突き当たり左折先の墓地内にこの地由来を記した小さな牌を建立しています。

貴殿のブログを当地福岡の古墳研究の若いHNスカイトレッカー氏のブログコメント欄に紹介させていただきました。
彼は貴殿も訪問の立小野遺跡を一昨日愛用バイクで再訪しています。
「古跡探訪録」
http://blog.livedoor.jp/ncc74210/archives/2013-01.html

昨年小生もお世話になっている当地「福史連」創設者で九大名誉教授秀村 選三先生の話を数人で聴く会が開かれビデオ撮影しました。
先生は貴会誌にも寄稿されておられるようですね。
充分な話はできませんでしたが、小生が串良出身ということもあり、特に貴殿主催の大隅史談会の活動を称賛されていました。
関係者の許可が得られたら撮影したビデオを後日お送りいたします。

鹿児島ご出身でも無いご貴殿が大隅半島の歴史発掘紹介にご尽力下さっていることに頭が下がります・

大隅史談会の今後益々のご発展をこころより祈念します。
            隅南風人 拝

投稿: | 2013年1月16日 (水) 22時54分

隅南風人さん、コメント有難うございます。
 そうですか、この辺りもホームグラウンドの一部だったのですね。
 私はもともと邪馬台国問題に興味があり、南九州(古日向)を投馬国(王名:ミミ)と比定し結果、記紀の神武天皇の皇子とされるタギシミミ・キスミミ、大和へ入ってからの子にもカムヌナカワミミ・カムヤイミミというように、名に「ミミ」がつくことから、神武東征とは実は投馬国王による東征(東遷)であり、史実であると確信しました。
 南九州といっても広大なので、どこが投馬国王の最大拠点だったのかを突き止めるのは難しいのですが、船団を組んで出征したわけですから、ここ大隅半島の東海岸が最もふさわしいと考えています。
 私は全くのよそ者ですが、大隅半島にやって来たのもこのことを証明するためだったのではないか、などと最近思うようになりました。
 今後ともご教示いただければ幸いです。

投稿: kamodoku | 2013年1月17日 (木) 22時58分

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