笠祇岳と串間(志布志市・串間市)
正月恒例となった「腹ごなしハイキング」。今年は志布志市と宮崎県串間市との県境にある「笠祇岳」に登ることにした。笠祇岳は標高444mで頂上には牛馬の神を祭る「笠祇神社」がある。
9時半に家を出て志布志市に向かう。市内に入り中心部を抜け左手の志布志小学校を目指し、小学校からは手前(南)を東方面に行く。潤ヶ野から八郎ヶ野へ抜ける道だ。
潤ヶ野の手前の立花迫郵便局を過ぎて間もなくの二俣を右に取り、2キロほど行くと道路の左手の民家の前に小さな標柱が立つ。「田床辺路番所跡」だ。余りにも小さいので見過ごしてしまうかもしれない。 「田床番所跡」という志布志町教育委員会の標柱が古色を帯びて立っている。ここは江戸時代に造られた番所で、志布志(薩摩藩)から、この先の串間(日向高鍋藩の飛び地)へと抜ける三つの往還に置かれたうちの一つである。
串間では念仏宗(浄土宗・浄土真宗)の取り締まりはなかったので、取締りの厳しい薩摩藩から兆散して行く信者が多かったらしく、串間への通路のすべてに番所が置かれたのである。
笠祇岳へはこの番所跡を過ぎて100㍍ほど行った所から左折して行く道があるのだが、立花迫のガソリンスタンドで聞いた情報では、その道をとると軽の四駆車でないと上がれないとのことで、そのままの道を串間方面へ向かった。
県境を過ぎて1キロ弱、左手にUターンするように「笠祇小学校へ」という木製の看板に従い入って行く。それから約1.5キロ、向かいに市営水道の貯水タンクが見えてくるので、今度はそこを左手にUターンすると鳥居がある。 笠祇神社登山口。木製の鳥居をくぐって登って行く。
平均勾配7~8%の道を行くこと3キロで山頂に着く。 最も高い場所に大きな赤い鳥居が立つ。平成23年の建立、と左の石碑に書かれている。
肝心の神社はというと・・・・・鳥居をくぐった長い階段の下にあった。 手前の狛犬はどう見ても獅子だが、門祠を持つ格式高い造りである。それにしても手前の杉は素晴らしい。高さ30㍍は下らないだろう。樹齢3、400年はある大木だ。
山頂からは東と南の180度の展望が得られる。左手の島は志布志湾に浮かぶ枇榔島。右手の連山は高隅山系である。
目を東に転じると海岸が見える。串間市の海岸部だ。
歩くつもりが車で頂上まで来たので時間はたっぷりある。串間に見ておきたい所があるのでそっちへ向かった。
元の県道に引き返し、串間へ下ること約15分、串間市街地に入り信号「西小路」を左折する。道はほぼ北に向かい、福島中学校の横を通り抜け、城山という小字の台地を通り、今度は下って行く。すると左手からの小流がえぐった谷地田が見える。 この小流の名は不明だが、谷地田沿いに見える集落は穂佐ヶ原といい、この谷地田を含むどこかからか、あの有名な「串間出土の玉璧(ぎょくへき)」が掘り出されたらしい。発見したのは「今町の農夫・佐吉」だった。
この谷間を「王子谷」と呼び、また小流の奥には池があり「王子池」と呼ばれているようである。とにかく、この辺りは相当古くから開け、串間を支配下に置く「王」がおり、繁栄していたと思われる。その王はおそらく「航海王」の類に違いない。
「玉璧」とは『周礼』によると、大陸王朝の周の時代に諸侯に与えた宝器類のうち「子爵」に賜与された物であるという。
そんな宝器を大陸王朝から貰う勢力がここにあったのだろうか? それともどこかで貰った勢力がここへやって来たのであろうか?
実はこの点については3年前(2009年11月)の西都原考古館で開催された「玉と王権」のシンポジウムでかなり明らかにされている。ただし、結論としてなぜ串間に持って来られたのかが不明のようである。
(ブログ「玉と王権」についてはこちらを参照。)
串間出土の玉壁は南越王墓(中国広州市)から発見されたのとほぼ同じ形態のようで、これをシンポジストは「漢の時代に諸王に配られた物」とするが、越と倭(串間も倭の一部である)とに共通するのは「周の時代に、越人が白雉を献上し、倭人は暢草(ちょうそう)を献じた」という『史記・周本紀』の記事で、このことから越(南越)と倭が周王朝から特別に玉壁を賜与されたと考えてもおかしくはない。
玉壁の謎はまだまだ解けそうにもないが・・・。
穂佐ヶ原を見終わって右手を流れる串間では最大の川「福島川」を渡って台地に上がる。そこは平準な畑地帯がどこまでも広がっていた。「大束(おおつか)原台地」といい、ど真ん中に開発記念碑が立っていた。 「特殊農地保全事業」とかいう名目の開発事業が行われ、完成を見たその記念碑である。石碑の裏を見ると昭和50年の建立であった。
この「大束原」という地名だが「大束」は「大塚」のことだろう。串間の地勢で特徴的なのは二河川の合流するY字状の台地地形が多いことである。こういう場所は上古「聖地」であり、王墓や霊廟が造られている。
近くでは曽於郡大崎町の神領古墳群が典型であり、鹿屋市串良町の岡崎古墳群もそうであろう。遥か遠くだが、京都の下鴨神社がまさにそのような場所にある。その主神であるカモタケツヌミは『山城国風土記逸文』によれば「曾の峰に天降り」、大和葛城に東遷している。出自は南九州鴨族なのである。
最後に訪れた「串間神社」もそのようなY字地形の中に鎮座している。左側が福島川、右側が大平川で、上で見た「大束原台地」の末端に当たっている。 串間神社は串間の宗廟で、祭神はヒコホホデミノミコト以下13神という。
本殿の壁が白塗りなのは珍しい。何かわけがあるのだろうが、宮司さんらしき人が見えなかったので聞きそびれた。 帰途は海岸道路をとり、福島川河口近くの福島大橋を渡った。
大橋から見る河口に近い「今町」。
ここは藩政時代からもっとも人口の多い地区である。文政年間にあの玉壁を掘り出したのはこの「今町の農夫・佐吉」だそうだが、佐吉がここに住んでいたとすると穂佐ヶ原の畑までは5キロほどもあり、当時そんなに遠い畑まで通っていたとするには無理があろう。
謎は深まるばかりである。 反対側の海に目を転じると、波穏やかな志布志湾に日は傾きつつあった。
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