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山ノ口祭祀遺跡の碑(肝属郡錦江町山ノ口)

 今朝の寒さも尋常ではなく、マイナス4℃を記録した。これで11日に続き、2回目のマイナス4℃である。

 降霜も今日でこの冬21回目。正月になってからは8回目だ。18日で8回は尋常ではないを通り越して異常の部類だ。Cimg4712 霜柱も2センチを超えている。Cimg4715 ウメのバケツの水が凍ったのも、もう20回は数えるだろう。(困ったな・・・。)

 今日は午後が休みだったので、3,4日前に取れた歯の詰め物を直してもらいに、以前南大隅町に住んでいた頃に治療してもらった錦江町の歯科の所に出かけた。午後も早かったせいか少し待っただけで再治療(詰め直し)してもらい、7,8分で済んだ。

 この歯科からは「山ノ口祭祀遺跡」が近いので、帰りに立ち寄った。Cimg4720 写真は南大隅町側から撮った。国道269号線のすぐ左手脇に石碑が立っている。Cimg4723 コンクリートで固められたテラスの先端に石碑が立つが、手前の電柱が邪魔な感じがする。仕方あるまい。Cimg4724 この辺りは砂鉄の採取地だったそうである。今は畑になっているが、発見された昭和33年当時は砂浜の一部だったようだ。現在は海岸から直線にしてちょうど100㍍くらいで、砂浜だったことを偲ばせるものはない。Cimg4726 石碑の裏にこの遺跡の発見と内容が簡単に彫り込んである。

 ここは昭和33年当時、「東邦金属」という会社が砂鉄を採取しており、その際に発見された。
 

 昭和33年と言えばまだ埋蔵文化財(いわゆる遺跡)に対する認識は低く、普通だったら破壊してしまう所だったのだが、当時、遺跡マニアのような先生が近くの小学校にいた。それが大隅史談会第5代会長となる神田三男氏である。

 たしかその頃、教頭先生だったと思うが、事業所は先生が遺跡などに熱心なことを知っていたようで、不思議な遺物が見つかったのを真っ先に神田先生に知らせたらしい。

 それが県の考古学会を動かし、3回の発掘調査が実施された。その結果、弥生中期の祭祀遺跡であることが判明した。

 石の角柱や人形型の石が中心に置かれ、その周りに軽石製の円形や楕円形の物が配され、その近くには壺型土器ち甕型土器が置かれていた。火を使った跡もあった。また勾玉・岩偶・磨製石鏃なども見つかっている。
 

 特にこの時に出土した甕型土器は「山ノ口式土器」と名付けられて、弥生中期の指標土器になっている。Cimg4725_2道路を挟んだ向こうは山手で、比高5、60㍍の岡が連なり、その上で「千束遺跡」が見つかっている。時期的にはやや遅れるのかもしれないが、いわゆる「高地性集落」ではないかと言われている。

 さて山ノ口祭祀遺跡は「農耕祭祀の跡」と考古学会は説明するが、当時は海岸だった場所で農耕はないだろうと思う。それでは何の祭祀か?

 石碑の場所に立って、海を眺めると錦江湾とその向こうに開聞岳を盟主とする薩摩半島南部の山並みがよく見える。Cimg4735 山ノ口遺跡から100㍍余り行くと海岸部に出る。ここからは開聞岳が手に取るように見える・・・と言いたいが、あいにく今日は春霞か中国大陸由来の黄砂によってかすんでしまっている。

 この眺めからすると、私はこの遺跡は開聞岳の噴火を鎮めるための祭祀が行われたのではないか、と推理したい。直近の噴火で有名なのは貞観16年(西暦874年)のもので、その噴火により開聞宮は壊滅し、指宿の東方にあった天智天皇を祭る葛城宮に避難している。

 さらにその前の縄文晩期(約2300年前)、同じ指宿だが、橋牟礼川遺跡を埋めているのも開聞岳の噴火だ。この橋牟礼川遺跡によって、縄文土器と弥生土器の層序、つまり縄文土器の方が弥生土器より古いことが判明したという記念すべき遺跡である。

 この山ノ口遺跡での祭祀は、その時の噴火を鎮めるためのものであったのではないかと考えると、話がつながって面白いのだが・・・。















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