« 中国の策動と詐術 | トップページ | 霜と降灰(鹿屋市池園町) »

大隅国建国1300年記念講演会(霧島市国分公民館)

 先月の第三日曜日から連続して開催されている「大隅国建国1300年記念講演会」を聞きに行ってきた。

 パンフレットによると、7月ごろまで毎月第3日曜日に歴史識者を招いて大隅国の国府があった霧島市国分地方の歴史的解明を行うという。

 毎月第3日曜日は「おおすみ歴史講座」と重なるのだが、今回はそれを1週間繰り下げることにして講座生3人とともに聴講にやって来た。

 会場の国分公民館は霧島市役所と隣接しており、到着して会場に向かうと「食育」をテーマにしたイベントも行われていたので人出はかなりなものだった。Cimg4831

 受付を済ませて入った会場は小さな体育館だったのには驚いたが、開会の挨拶に立った市役所職員の「予定以上にたくさんの聴講予約があり、抽選で所定の聴講人数に絞るのは忍びなかったので、急遽広いこの会場にしました。暖房の無い施設なので着込んでお聞きください。」と説明。

 なるほどそうだったのか。見回せば200人は下らない聴講者がいる。予定数は150人くらいだったのだろう。熱気でむんむんというには聴講者の年齢層は高い。現に鹿屋から参加した人たちの平均年齢は自分を含めて67,8歳だ。

 開催者の挨拶のあと、さっそく今日の講演者・永山修一氏(ラサール高校教員で若手の隼人研究の第一人者。文学(日本史)博士。おなじみの中村明蔵博士とは、ラサール高校の同僚として6年間職員室で机を並べていたという)の「大隅国建国の事情」が始まった。Cimg4832 講演で配られた史料はかなりの量だが分かり易く、講演者の説明も明瞭であった。Cimg4833_2 隼人という呼称は天孫降臨神話からあるが、それは実体がなく、実質的に大和王権に捕捉されたのは682年の「大隅隼人・阿多隼人が朝貢し、相撲を取って見せた」という記事が最初で、最後は『類聚国史』「巻190・風俗隼人」の項にある

 延暦20年(801)6月12日の条

 ・・・「大宰府をして隼人を進むることを停(や)めしむ。」

 また、同じく延暦24年(805)正月15日の条

 ・・・「永く大替隼人の風俗歌舞を停(や)む。」

 という記事から、「隼人」という呼称は遅くとも延暦24年には無くなったという。

 したがって南九州人が大和王権で「隼人」と呼ばれたのは、約120年のことに過ぎないということになる。

 しかし一度名付けられた「隼人」はその後も独り歩きし、明治以降になってかえって人口に膾炙し、現代でも男の子に「隼人」と名付けられるほどである。恐るべし。

 さて、永山修一氏の講演内容はおおむね首肯できるのだが、文武天皇4年(700年)にあった「覔国使剽却(べっこくし・ひょうきょう)事件」の首謀者のひとりである「肝衝難波」のことについて質問したところ、大隅半島の肝属川流域を支配していた人物であるのは間違いないが、「君・直・県主」などの姓(かばね)が付いていないことには「?」のようであった。

 また、この人物以降、平安末期に至る450年ほどの期間に「肝付氏」なる存在は確認されていないとも言う。

 鎌倉時代末期以降、島津氏と覇を争った大隅半島の古族・伴姓肝付氏の由来の一つと思われた「肝衝難波」の後裔はどうなっていたのか、謎のままだ。

 午後3時過ぎに講演が終わり、まだ時間があるので帰り道に「隼人塚史跡館」に立ち寄った。Cimg4834 120円也を払って史料室の中に入る。Cimg4835 手前に置いてある石仏はこの辺りにあったとされる「正国寺」の石仏で、右の2体は康治元年(1142年)の作だそうだ。

 解説員にいろいろ質問をしたところ、その人は垂水出身で鹿屋高校の卒業生であることが分かり、さらに同行したA氏の4歳後輩であることも分かって話が弾むことだった。Cimg4837 外に出て「隼人塚」を見物したが、近くにいたデート中の高専生が写真を撮ってくれた。

 五重の層塔と石造の神将の建つ場所は、塚らしい盛り土があるが実際の墓ではないらしい。

 一説によると、この辺りに建立されていた「正国寺」にあった石造物だろうというが、確認されたわけではないようだ。これも謎のままである。

 











|

« 中国の策動と詐術 | トップページ | 霜と降灰(鹿屋市池園町) »

おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 中国の策動と詐術 | トップページ | 霜と降灰(鹿屋市池園町) »