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メジロ(鹿屋市池園町)

 今朝9時半ごろだったか、書斎にしている部屋で午後に開催する「おおすみ歴史講座」(今日は『三国名勝図会』の大隅国・姶羅郡・重富郷・蒲生郷・山田郷・溝辺郷)で使う資料を準備していたところ、窓の外の金木犀の茂みでちらちら動くものが目の片隅に入り、そうっと覗いたらメジロがせわしく動き回っているではないか。

 急いでデジカメを取り出し、窓のガラス越しにシャッターを切った。Cimg4863 メジロの動き回るスピードにシャッターチャンスがなかなか得られなかったが、ほんの一瞬、おそらくは天敵の猫や猛禽類などに狙われているのではないかどうかを確認するのだろうと思うのだが、高みに止まって周囲を眺める仕草をする。

 そこが唯一のシャッターチャンスだ。小鳥の「大見え切り」といってもいいかもしれない。

 かくて可愛らしい姿を撮ることができた。

 もう一羽と一緒だったから、間違いなく夫婦連れに違いない。Cimg4864 これがメスの方か。いや同じ鳥だったかな。

 今どき、金木犀に花はなく蜜もないから、枝に着いた虫を食べに来たのだろう。

 間もなく巣篭りに入るはず。そういえば4,5日前には遠い畑の方からヒバリのさえずる声を聞いた。そっちもそろそろ畑の牧草などの間に、巣を設けて繁殖に入るに違いない。

 春はもうそこまで来ている。




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霜と降灰(鹿屋市池園町)

 今朝の最低気温はマイナス1℃くらいだったが、一昨日にほぼ終日雨が降ったため地面の水分が十分で、畑地帯は霜と薄氷の交じった真っ白いもので覆われていた。

 Cimg4859 ちょうど7時頃の東雲(しののめ)。

 快晴ではなく、東の空一面にうろこ雲状の高層雲が出ていた。雲が出ていた割には厳しい霜だった。Cimg4860 やや南に目を転じると、うろこ雲の下に妙な真っ黒い物が西から伸びてきている。

 これは雲ではなく桜島の噴煙がこちらまで棚引いたもので、夜中の4時頃だったか、「ゴンッ」という小さな物音がしたあと、家の建てつけの緩い部分がカタカタと数秒間鳴ったので、あれから3時間でここまで噴煙が到達したことになる。北西の風が強ければもっと早く来るが、今朝は霜が降りるくらいだったから、風は微風程度だったのだろう。

 「ゴンッ」(人によっては「バン」とも聞こえるだろうか)という音は桜島の爆発の際の空振で、家内部の引き戸などがカタカタいうのはよくある現象だが、知らない人が経験したらポルターガイストが出たかと思うかもしれない。

 今朝のテレビの「桜島噴火情報」では、このあとも9時過ぎに爆発があり、噴煙が1200m上がったと速報された。

 1月からこの方、これで179回目の爆発・噴火だそうだ。元旦から今日まで52日。179割る52は約3.5で、今年に入ってから一日平均3.5回の爆発または噴火が起きていることになる。

 この平均値のままで行くと、今年一年で1200回を超えるが、もしそうなら新記録である。去年も年度初めの頃は多かった気がするが、最終的には1000回を少し下回ったはずで、その前年(2011年)は900回台の前半だったから、ここ3年で徐々に回数を増やして来ているということは言える。

 99年前の桜島大噴火のような事態が起きるかどうか、予断は許さずといえども万が一の心配をしておくに越したことはない。

 

 なお、降霜についての記録をメモ代わりに残しておくと、

 11月1日に初霜があり、その後、11月に合計4回の霜。

 12月は9回。

 新年の1月は元旦から降霜で、合計13回。

 2月に入ってからは4日の立春の日に「春一番」が吹き、その流れか、比較的暖かく、今日21日までに5回と少な目だ。

 このまま暖かく推移して行くのか。暖かいとスギ花粉の「爆発的飛散」があろうから困ってしまう。昨日は日中寒かったにもかかわらず、雨上りの上天気だったせいか、だいぶ花粉が飛散していた。

 それがなぜ分かるかというと、花の奥の粘膜が少しヒリヒリするので、「ああ、スギ花粉が鼻の粘膜にこびりついたな」と分かるのである。こんな時でもレーザー照射で粘膜を焼いてあるので少し鼻水が出るには出るが、抗アレルギー薬は飲まずにマスクだけで症状は抑えられる。

 飛散量の多い最近では、朝6時過ぎのまだ若干暗い中での犬の散歩の時でも、しっかりとマスクをして行くことにしている。初めてマスクをして玄関から外に出たら、ウメがややビビったような顔付をしたが、今はもう慣れた。3月下旬までマスクは外せないだろう。



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大隅国建国1300年記念講演会(霧島市国分公民館)

 先月の第三日曜日から連続して開催されている「大隅国建国1300年記念講演会」を聞きに行ってきた。

 パンフレットによると、7月ごろまで毎月第3日曜日に歴史識者を招いて大隅国の国府があった霧島市国分地方の歴史的解明を行うという。

 毎月第3日曜日は「おおすみ歴史講座」と重なるのだが、今回はそれを1週間繰り下げることにして講座生3人とともに聴講にやって来た。

 会場の国分公民館は霧島市役所と隣接しており、到着して会場に向かうと「食育」をテーマにしたイベントも行われていたので人出はかなりなものだった。Cimg4831

 受付を済ませて入った会場は小さな体育館だったのには驚いたが、開会の挨拶に立った市役所職員の「予定以上にたくさんの聴講予約があり、抽選で所定の聴講人数に絞るのは忍びなかったので、急遽広いこの会場にしました。暖房の無い施設なので着込んでお聞きください。」と説明。

 なるほどそうだったのか。見回せば200人は下らない聴講者がいる。予定数は150人くらいだったのだろう。熱気でむんむんというには聴講者の年齢層は高い。現に鹿屋から参加した人たちの平均年齢は自分を含めて67,8歳だ。

 開催者の挨拶のあと、さっそく今日の講演者・永山修一氏(ラサール高校教員で若手の隼人研究の第一人者。文学(日本史)博士。おなじみの中村明蔵博士とは、ラサール高校の同僚として6年間職員室で机を並べていたという)の「大隅国建国の事情」が始まった。Cimg4832 講演で配られた史料はかなりの量だが分かり易く、講演者の説明も明瞭であった。Cimg4833_2 隼人という呼称は天孫降臨神話からあるが、それは実体がなく、実質的に大和王権に捕捉されたのは682年の「大隅隼人・阿多隼人が朝貢し、相撲を取って見せた」という記事が最初で、最後は『類聚国史』「巻190・風俗隼人」の項にある

 延暦20年(801)6月12日の条

 ・・・「大宰府をして隼人を進むることを停(や)めしむ。」

 また、同じく延暦24年(805)正月15日の条

 ・・・「永く大替隼人の風俗歌舞を停(や)む。」

 という記事から、「隼人」という呼称は遅くとも延暦24年には無くなったという。

 したがって南九州人が大和王権で「隼人」と呼ばれたのは、約120年のことに過ぎないということになる。

 しかし一度名付けられた「隼人」はその後も独り歩きし、明治以降になってかえって人口に膾炙し、現代でも男の子に「隼人」と名付けられるほどである。恐るべし。

 さて、永山修一氏の講演内容はおおむね首肯できるのだが、文武天皇4年(700年)にあった「覔国使剽却(べっこくし・ひょうきょう)事件」の首謀者のひとりである「肝衝難波」のことについて質問したところ、大隅半島の肝属川流域を支配していた人物であるのは間違いないが、「君・直・県主」などの姓(かばね)が付いていないことには「?」のようであった。

 また、この人物以降、平安末期に至る450年ほどの期間に「肝付氏」なる存在は確認されていないとも言う。

 鎌倉時代末期以降、島津氏と覇を争った大隅半島の古族・伴姓肝付氏の由来の一つと思われた「肝衝難波」の後裔はどうなっていたのか、謎のままだ。

 午後3時過ぎに講演が終わり、まだ時間があるので帰り道に「隼人塚史跡館」に立ち寄った。Cimg4834 120円也を払って史料室の中に入る。Cimg4835 手前に置いてある石仏はこの辺りにあったとされる「正国寺」の石仏で、右の2体は康治元年(1142年)の作だそうだ。

 解説員にいろいろ質問をしたところ、その人は垂水出身で鹿屋高校の卒業生であることが分かり、さらに同行したA氏の4歳後輩であることも分かって話が弾むことだった。Cimg4837 外に出て「隼人塚」を見物したが、近くにいたデート中の高専生が写真を撮ってくれた。

 五重の層塔と石造の神将の建つ場所は、塚らしい盛り土があるが実際の墓ではないらしい。

 一説によると、この辺りに建立されていた「正国寺」にあった石造物だろうというが、確認されたわけではないようだ。これも謎のままである。

 











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中国の策動と詐術

 習近平総書記政権になってからの中国共産党政府は尖閣諸島をめぐり、露骨に日本領有を覆そうと策動している。

 今回の海鑑からの「攻撃用レーダー照射事件」に関して、最初、外交部は「知らぬ存ぜぬ、日本のでっち上げだ」などと言っていたが、やがて人民軍に対する調査の結果だろうが、「攻撃用でもなんでもない只のレーダー照射である」と照射そのものは認めながらも、欺瞞的な声明に切り替えた。

 その際に、自民党の代表的「親中派」の一人の議員が「照射なんて本当にあったのか?」と日本側の情報に疑問符を投げていたそうである。

 自民党があの田中角栄の時に「日中平和友好条約」を結び、中国に対しては親密な感情を持っており、それなりに中国側に「友人がいる」ことも、また「竹のカーテンが開けられて、日中両国がいよいよ古くからの交流を回復する」ことへの期待感もあったがゆえに、自民党のみならず、公明党などにも「親中・容共」的な議員が増えて行ったのは事実だろう。

 しかしそんな経緯を踏まえても、今日の中国政府及び中国人は当時とすっかり変わったということを全く考えずに、迂闊に口に出してしまう政治家は不謹慎としか言いようがない。

 「昔、貴国に侵略をして、ご迷惑をお掛けしたから、中国様のおっしゃることはご無理ごもっともです。尖閣諸島もどちらに帰属するのか話し合いましょう。また南京で30万の中国人民を殺害したのは日本軍国主義が悪いのであって、日本人民のせいではない―とおっしゃって頂いて本当に感謝しています。」

 そのような政治家は内心ではこう思っているようである。

 尖閣諸島の帰属は沖縄県であり、沖縄県が日本に属している以上、日本の領土であり、日本人が実効支配してきた島々であることは動かしようがない史実であり、また南京大虐殺30万人説などもでっち上げもいいところの詐術である。

 中国政府が「日本軍国主義」と「日本人民」とを分けて論評するのは、外交上の詐術と言ってもよい。

 太平洋戦争は、世界史的な流れで見れば <欧米の植民地主義・人種差別主義反対提議>(第一次大戦後のパリ講和会議における日本国全権副使・牧野伸顕の主張)が取り上げられなかったことに対する唯一の非欧米非植民地国(独立国)日本のやむなき反撃である。(日本占領最高司令官だったマッカーサー自身も「日本の自衛戦争に近い」と言っている。)

 その反撃の際に「軍国主義」の体裁を取るのは当然であり、「日本人民」も多くは「東洋の欧米からの独立」という上の理念を是として戦ったのである。

 結果としてはアメリカに敗れたが、東洋のみならずアフリカ植民地諸国までが1960年代までにどんどん独立を果たす結果をもたらしたではないか。まさに<戦に敗れたが、目的は達した>のである。

 そのような成果をもたらした太平洋戦争は決して「凶暴な日本軍国主義が、日本人民をいやいや戦場に駆り立てた」というタチのものでないことは、戦後の世界史が証明している。

 「立派な戦争」という概念はなかろうが、「義戦」という概念はあるから、日本が起こした大東亜戦争は義戦の一つであったということはできるだろう。

 

 日本を恫喝し揺さぶろうとしている中国の習近平政権がどんな状況に置かれているか、については次のサイト

  【 石平のChaina Watch 】

 が参考になる。驚くべき事態になっているようだ。 

 石平氏はちょうど1年前に、鹿屋で講演をしている。

  石平講演会

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「国司城址」の碑(鹿屋市新栄町)

 鹿屋市には「国司城」があったと鹿屋市史で読んだことがある。

 鹿屋市史ではこの国司城は、大隅国の国府である霧島市向花に所在したといわれる「大隅国府」の鹿屋出張所のようなものだろうという。

 鹿屋方面に巡検に来た大隅国司がここに滞在しているときに、隼人から襲撃され、命からがら白馬に乗って逃げのびたが、永野田町にある「国司塚」まで来て絶命した―という伝承になっている。

 その大隅国府出張所たる「国司城」がどこにあったのか突き止めていなかったが、三日前だったが、たまたま新栄町の旧大隅線沿いの道を市役所に向かって歩いていたところ、とある住宅の入り口に「国司城址」という石碑を見出した。Cimg4815 住宅の門柱の右横に2メートルはありそうな石碑があった。

 右手の道路は鹿屋市役所に通じる道路で、さらにその右、ガードレールの下は道路に並行している旧大隅線の軌道で、今は「サンロード」として歩行者専用の道路になっている。

 垣根になっている黄色いマサキで前面が覆われているが、枝を掻き分け、ようやくのことで「国司城址」と彫られているのが分かった。Cimg4817

 裏面にはCimg4816_2

「昭和36年5月27日 市制20周年記念 市長 永田良吉」

と彫ってあった。永田良吉さんは大正の終わりころから県議-衆議院議員-鹿屋市長となった人物で、鹿屋に海軍航空隊を誘致し、戦争中は鹿屋市長として大政翼賛会に関係したということで、戦後は公職追放に遭い、解放後再び政治家として活躍した。

 昭和39年に鹿屋市長を引退しているので、36年は政界における最後の時期に当たり、75歳の頃である。

 今は当時を偲ぶ石垣のような物は全く無く、辺り一面はフラットである。

 ところが、昭和21年発行の5万分の1の地形図を見ると、ここには紛れもなく小高い岡があった。Cimg4829 この地図の2本の青い筋は左が「下谷川」、右が「肝属川(当時は鹿屋川)」で、下に見える小さな青い池は田崎池(現在は田崎親水公園)である。

 田崎池の上(北)、下谷川を挟んで向かい側に田崎池と面積的には同じくらいの小山があるが、これこそが「国司城」のあった岡である。

 これを田崎池から北西に延びる道路に掛かっている「田崎橋」から見ると、Cimg4827 ちょうど電柱の向こう、鉄筋の家を含むあたりに「国司城」の小山があったようである。近所の80歳の老人の話では、「高さは20メートルくらいあった」という。鉄筋の家の3倍近くあったことになる。(はるかに見える山は高隅連山である。)

 さらに地図上ではこの小山の左上に変電所(太陽のようなマーク)が見えるが、これを含む長い岡も何かありそうな場所である。

 しかし共に昭和38年頃から56年頃までに実施された新栄町・田崎町・西原町の都市化つまり「土地区画整理事業」によって、跡形もなく消え去ってしまった。

 鹿屋市の古代解明に無くてはならない大隅国分立以前の「古日向の一大遺跡」だったと思われるのに残念なことである。

 地図で明確なように、二本の川に挟まれたこのような土地は古代以前の聖地(霊地)であり、長い岡も「国司城」ももっと以前は古墳だったかもしれないのだ。

 小山や長い岡を崩す際には何かが発見されたかもしれない。昭和55年くらいにやっと文化財的な遺物の保存が叫ばれるようになったが、この工事はそれ以前に行われており、何か考古学的遺物はあっても散逸したのだろう。惜しいことである。

 この「国司城」について考察すると、市史のような「大隅国府の出先機関がここにあり、国司が鹿屋方面に巡検に来て滞在したおりに隼人の襲撃を受けて落ち延び、鹿屋市永野田の「国司塚」で死亡し、以来そこに祭られている」という考えは無理だろう。

 大隅国司・陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)は確かに養老4年(720)の「隼人の反乱」で殺害されているが、あれは国府の置かれていた現在の霧島市であった出来事であり、もし仮に大隅国司が鹿屋に来た際に殺害されたとしても、永野田に塚(墓)を残すことはあり得ない。負け戦ではなく隼人に勝利したのだから。

 また、朝廷の派遣した官吏である国司が現地で死亡した場合、「骨送使」というのが派遣され、遺骨は中央に送られてそれぞれの出身地に返されるのが筋だというから、なお一層永野田に墓がそのままあるというのはあり得ないことになる。

 ではまず、この「国司城」とは一体何なのか?

 これは古代鹿屋の豪族の居城か古墳だったと考えたら良いのではないか。「国司」という語が気になるが、これはもしかしたら「国造」だったのかもしれない。律令制度以降、「国造」が過去の名称となったので、時代に合わせて「国司」に名称替えされて語り継がれたのではないだろうか。

 また、現在ある永野田の「国司塚」に眠るのは朝廷から派遣されて大隅国司になり隼人に殺害された陽侯史麻呂ではなく、この「国司城」及び現在の市役所のある場所にあった長い岡に拠点を持つ当地の豪族だろう。

 もしかしたら自ら「わしこそが国司じゃ」と国司を自称していたのかもしれないが、1年半近いいわゆる隼人の反乱が当地にも波及し、大伴旅人が大将として率いる大和朝廷遠征軍(官軍)の別動隊に攻め込まれ、ついに落城して落ち延びたが、永野田で戦死した人物ではなかったかと思われる。

 あの大和朝廷の対新羅遠征軍(任那救援隊)の大将・物部麁鹿火(もののべのあらかび)に対して「お前と俺はかって同僚として朝廷の護衛に当たった仲ではないか。なぜおまえが俺を攻めるのだ!」と吼えた筑紫君・磐井を髣髴とさせる人物だと思うのである。

 磐井の墓は死んだ年代、すなわち520年代の前方後円墳としては九州はもちろん全国的にも最大級の大きさを誇るという。ただ、生前に造られたいわゆる「寿墓」だったというのが定説で、もし死後に造ろうとしても朝廷軍(官軍)に逆らった以上、巨大な造墓など許されるはずがないからである。(私見の邪馬台国所在地はこの筑紫君磐井の本拠地・八女である。)

 そのほぼ200年後に起きた隼人の反乱の際に、官軍により殺害された当地の豪族(名は不詳)。磐井の古墳とは比べるも愚かなくらい小さな永野田のその墓が、今も永田良吉家の人々によって丁重に祀られていると聞く。間もなく1300年になろうというが、これは奇跡という他ない。

 

 


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花粉が飛んだ(らしい)!

 今朝7時台のNHK地方版ニュースで初めて「花粉予報」を見た。

 それによると県下全域で「少ない」という予報だった。

 「少ない」とはいってもついに飛び始めたのだ。やれやれ・・・、思っていたよりも早かった。今月半ばだろうと予想していたのだが、立春の2月4日に早くも春一番が吹いたのだから当然といえば当然かもしれない。

 今日から室内にいるとき以外はマスクをすることにした。

 町を歩いてもマスクをしている人を多く見かける。小学生の子供たちなんかも結構マスクをしている。こっちは花粉より風邪やインフルエンザ予防なのだろうが―。

 九州は例年より花粉の量が少ないということだが、近畿以東は例年の何倍も多いらしい。

 これからほぼ2か月、マスクを外せないというのはちょっと憂鬱だが、発症した時の苦しさやストレスを思えば我慢するしかない。

 雨の降る日は花粉が飛ばないので、「春雨」が待ち遠しい。

 

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春一番が吹く

 今日は立春だが、何と早々と春一番が吹くという思いがけない天候になった。

 夜中に一度外を吹く風の音で目を覚ましたが、その後再び眠りにつき、明け方近くに今度は雨の音で目が開いた。

 寝室のガラス戸を開けてみると、そう強くはないが雨が降っている。しかし風そのものはそれほど強くは感じなかった。

 ところが日中は雨が小やみになるにつれて風が強さを増して行き、完全に雨の上がった昼過ぎには西風からだんだん南寄りに風向きが変わり、加えて蒸し暑くなってきた。

 これはひょっとして春一番か、と頭をよぎったが、まさか立春の日に春一番はないだろう―と躊躇した。人に話しても、誰もがそんなふうだった。

 だが、勤めを終えて家に帰り、6時のニュースを見ていると、「南九州と奄美地方に春一番が吹いた。気温も鹿児島で20.7℃まで上昇した。」とのこと。やはり春一番だったのだ(瞬間的には18メートル位あった)。

 自分の記憶では最も早い春一番だが、tennki.jpによると、この50年間では2番目だそうだ。

 つい昨日のブログに、1月は記録的な寒さだったという内容を書いたのだが、そんなことお構いなしのこの天気の激変。スギ花粉の飛散が早まらなければよいが・・・。

 おまけに今日は強い西風に乗って例の「中国の大気汚染」が押し寄せたようで、まるで桜島が噴火した時のように薄黒い雲とも靄ともつかないものが西の空を中心に広がっていた。

 こっちもクワバラ、クワバラだ。

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大寒に咲く(鹿屋市寿八丁目)

 今日で小寒から大寒と続いた4週間の寒が終わり、明日は立春。

 この1月は11月から続いた寒さを持ち越し、霜の降りた日が13日もあった。氷点下でも曇った日は降りないので、月の半分は最低気温がマイナスだっとしてよく、やはり例年になく寒かった。

 そんな中でも春の足音は間違いなくやって来ている。出かけた先の住宅地では梅の花が五,六分咲きになっていた。Cimg4808 市営住宅か何かの会社の寮なのかは分からないが、結構大きな梅の木が一本だけ見事に咲いている。Cimg4809 蕾より花の数の方が多く、見応えがある。Cimg4810 通りを違えた一軒の住宅では、これも大きな紅梅樹が咲き誇る。カメラを向けたら野鳥が何羽か驚いて飛び立って行った。Cimg4811 これは八重の紅梅である。Cimg4812 別の路地を行くと、また人目を惹く紅梅らしき一本が庭先に・・・。今度は一重の紅梅かと思ってよく見ると、緋寒桜だった。Cimg4813 色はむしろ紅梅より鮮やかだ。ただ梅と違うのは、花がすべて下向きなところ。

 下から見上げるにはちょうどいいが、下向きを嫌う人もあるらしい。「したむき」を「ひたむき」と捉え、奥ゆかしさを連想すれば捨てたものではない。

 葉の上に実のついているのが「千両」で、葉の下についているのは「万両」と呼ばれる例もある。

 三か所で写真を撮っているうちに、結局、寿八丁目界隈をぐるっと回ってしまったが、鹿屋中央高校の正門のある通りに来た時、嫌なものに出くわした。

 何でこんな住宅街に杉の林があるのだろう??Cimg4807_2 山林に杉を植えるのは分かるが、ここはもと山林だったのだろうか。Cimg4805 道路際の一本を見上げると・・・、夏の花の結実である胞子袋がもこもこと膨らんでいる。

 立春後の降雨の後に暖かい日があれば、これを破裂させて四方八方に撒き散らすに違いない。それももう間もなくだ。クワバラ、クワバラ。

 




















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鼻のレーザー治療

 昨日のブログ「高天原を訪ねて」にも書いたが、同じ日に末吉町の耳鼻咽喉科でレーザー治療を受けたのであった。

 花粉症を発症してからもう23,4年になるか、もともと子供の時から「洟垂れ小僧」で、やがて慢性の蓄膿症になり、高校2年の夏休みに手術を受けている。

 その後2,3年は濃い膿汁は出なくはなったものの、鼻詰まりのような症状は残り、本当に解放されたと感じたのは25,6歳の頃ではなかったかと思う。

 その後約15年は、鼻の健常者程度の状況は確保して過ごしてきたが、40歳頃の冬に、酷い風邪にかかってから花粉症が始まった。たぶん花粉の大量飛散時と重なったのが直接の原因だったろう。

 その後、43歳から大隅半島の南部にある田代町に「入植」したが、そこは名にし負う森林地帯で、杉の植林地も多く、これにより以前よりも花粉症はひどくなり、病院通いは毎年2月から4月上旬まで続くことになった。

 それから根占町、鹿屋市と移転したが、引き続き約20年もの間、治療薬を飲んで凌ぐことになった。

 60歳を迎えたころには、加えて高血圧の薬も飲むようになり、薬に頼らない方法として考えたのが「鼻のアレルギー症状を外科的に除去するレーザー治療」を受けることだった。これはアレルギーを起こす粘膜そのものを焼いてしまえば、アレルギーは起こらない―という直接的な対症療法である。

 一度焼いた粘膜も基本的には3ヶ月くらいでもとに回復して、再びアレルギー反応に晒されるのだが、スギ花粉が大量に飛ぶ2月から4月初旬の3か月弱の間、「粘膜が回復してくれないでいたらスギ花粉によるアレルギー反応を免れることができる」のである。

 そういうコンセプトのもと、昨日、2011年12月の手術に引き続き2回目の手術を受けることにしたのであった。

 「今年もお願いします」と治療椅子に座ったところ、先生が「晩酌をしますよね、やめた方がいいんですよ」と開口一番おっしゃる。

 「ええ?」と怪訝な顔で先生を見たところ、「怖い顔をしないでください」と。

 何で、晩酌が悪いのか、自分にとってはクスリなのに・・・。

 そんな表情を悟ったのか、手術中は何にも言われなかったが・・・。

 まあ、先生の言うことも一理あり(自分もその経験者だから十分わかっているが)、花粉症シーズン中に酒を飲むと極端に鼻水が出て止まらなくなり、床に就いて眠ると今度は極端な鼻詰まりになってしまうのである。

 床に就いたあとは池の鯉よろしく口パクで息をせざるを得なくなり、安眠を妨げることおびただしいのだ。呼吸困難でもうだめかと思える酷い時もあった。

 ところが、2011年12月に初めてレーザー治療を受けたあとのこの1年間は、花粉飛散シーズンにはクスリを飲まずに二重マスクだけ、その他の期間は、鼻がムズムズするなと思ったらすぐにマスクをする―という習慣をつけたところ、風邪を引けば誰でもくしゃみをするが、その位な程度に収まったのである。

 しかも一年を通じて晩酌をしながら、「鼻詰まりで寝苦しい日」というのがほとんど無く過ごせた。これも大きな収穫であった。実に実に有難いことである、<晩酌はクスリ族>にとっては。(感謝状を贈呈したいくらいだ!)

 で、今度も曽於市の末吉町まで手術を受けに行ったのであった。

 手術は部分麻酔で行われる。麻酔薬を浸したガーゼを両方の鼻の孔の奥に詰め込み、約20分経って麻酔が効いてから行う。

 レーザー治療機は歯科医で使う歯を削るドリル(?)に似ており、先端はやや長く出ていてそこからレーザー光線が出るようだ。片方の孔に2分くらいずつ、合計で5分もあれば終わる。歯の治療でも瞬間的にチクリという痛みは感じるが、せいぜいその程度の痛みしかない。

 あっけなく思うほどである。少しの間(2,3時間)は鼻をかむと赤い血が混じるが、要するに切り傷程度のものでしかないので、手術としては超楽な手術である。多くの鼻アレルギー患者に受けてもらいたい治療法である。

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高天原を訪ねて(曽於市末吉町南之郷高岡)

 去年、北九州に住むネットユーザーから、『三国名勝図会』中の「大隅国・曽於郡・末吉郷」にあるという<イザナギ尊の祓い禊ぎの霊地>について興味があり、実地に歩いてみたい、とのメールを貰い、その時はおおまかなことしか返事が出来なかった。

 今年もまた同じ人から、中岳(橘岳=452m)に登ってみたいし、高天原についても知りたい―というメールが来た。

 そこでちょうど今日、末吉町の耳鼻咽喉科で一昨年の12月に受けた「レーザー治療」(鼻の中の粘膜をレーザーで焼いて、アレルギー反応を除去する手術)を再度受けに行く予定日でもあったので、午前中を費やして天の岩戸や高天原があるという「桜谷」に行ってみた。

 あいにくの小雨が降り続く天気であったが、大崎から都城まで伸びている農免道路を走り、途中、志布志・都城道路の有明北インターから末吉インターを利用したので、イザナギを祭る「檍神社」近くの信号まで49キロあるのを、約60分で到着。

 信号をそのまま突き抜けると大淀川の上流へ向かう道に入り、約7キロで右手にちょっとした看板が見え、それを右折する。(この先わずかで左手に高岡小学校がある。)Cimg4775 看板には「桜谷諸神跡へ」とあり、「天の岩戸」を紹介していた。Cimg4777「桜谷橋」。

 この辺りの大淀川はまことにささやかな流れとなり、しかも傾斜が緩い。ここからあと10キロで水源の「橘岳(中岳)=452m」に至るのだから谷川になっていてもおかしくないのだが、川幅は15㍍ほど、少ない水流がゆったりと流れている。

 大淀川は100キロを超える一級河川だが、源流の山の高さは450m余りしかない。これは大淀川最大の特徴である。

 向こうに見える林道を入って行く。一応は車の轍があり何とか走っていけるが、約1キロ余りで右手に駐車スペースがある。Cimg4779 そこから「天の岩戸」に降りていく。 三国名勝図会では「佐久良谷」と書く。

 桜谷には諸神の霊跡があり、中でもこの「天照大神がスサノヲの乱暴狼藉を働いたので籠った」という洞窟には、御神体が無く洞窟そのものが神体なのだそうだ。

(高句麗にも「隧神」(穴の神)と呼ぶ神があり、一年にいっぺんだけ祭儀(東盟公会)を執り行い、穴の外にお出ましいただく―という。)Cimg4783 降りて行くと、赤い鳥居があり、その向こうには小さな社祠が見える。すぐ下を巨岩を嵌め込んだような谷川が流れる。(今現在、水は流れていないが・・・)Cimg4781 洞窟は入り口は人が入れるのかといぶかしく思うくらい狭いが、奥は深く、一説では霧島まで続いているという。霧島まで地下でつながっているというのは、財部町の「溝の口洞穴」でも言われている。確かめたわけではないから話半分と理解しておく。Cimg4793 洞窟から林道を500㍍も進むと、狭かった谷が急に広くなり視界が開けた。そこには田んぼが作られている。

 向こうの丸っこい山が「佐久良ヶ崖(さくらがひら)」だろうか。この山を挟むように二本の小川が流れ出て、さっきの洞窟前の谷川になる。

 左手の道をなおも進むと、途中雨のためかぬかるんだ道になって来たので車を停めて、歩いて沢の奥に向かう。Cimg4789 小雨に煙る桜谷の上流部。

 道路は小さな沢を渡ってから、急に傾斜を増して行くが今日はその先は雨のため断念した。地図では、小さな峠を越えて「吉原」という山間の小さな集落に至るのだが、その峠などが「高天原」なのかもしれない。

 あるいはいっそ「吉原」という山中にぽつりとある集落自体が高天原なのではないか―などとも飛躍する。

 引き返してくる途中、こんな山奥でも米作りへの執念を燃やしている人がいるんだなーと感心した光景があった。Cimg4790 数えてみると2~3畝(2~3アール=60坪から90坪)くらいのかわいい田んぼが9枚もあった。田んぼ全体をブルーのビニール製の金網で囲っている。イノシシ除けだろうか。難儀なことである。

 この谷筋の向こうに連なる岡はさっき急に視界が開けた場所からはただの丸っこい岡にしか見えなかったが、谷筋の奥に入って横から見ると急傾斜の崖がむき出しだ。これこそが「佐久良ヶ崖(ひら)」に間違いないだろう。

 Cimg4802 この地図は旧陸軍省測量部作成の5万分の1地形図で、左手に見える赤い四角で囲んだ所が「檍神社」で、そこから8キロ(2里)ほどで右下の佐久良ヶ崖に至る。

 その部分だけアップしたのが次の図。
Cimg4803_2_2 真ん中あたりの「高岡小」のすぐ下から南へ下っている川が「桜谷川」で、最初の赤い四角が「天の岩戸」(洞窟)、さらに南下するとグリーンに塗られた箇所がある。これが田んぼである。そこを南下し最後の田んぼ地帯を過ぎて今度は峠を登り越えて行くと、「吉原」(右下の赤丸)。ここにも小流沿いに田んぼがある。

 吉原へ下る手前の峠辺りが「高天原」か。そうとすれば『三国名勝図会』の説明が正しければ、その高天原の北に「高山(たかやま)」が聳えるのであればそれは429m峰だろうし、北西方面の峰続きの中腹にあるという「短山(ひきやま)」は429m峰の左下の400mそこそこの峰ということになるだろう。

 中臣の祓い(大祓い)詞には、「高山の末、短山の末よりさくなだりに落ち滾(たぎ)つ早川の・・・」とあるが、このような「祓い禊ぎ」信仰を持つ一族がこの大淀川上流地帯を聖地と崇めた。そしてその結果、一種の「見立て」心理が働いて事細かく「霊地の名付け」を行ったのではないだろうか?

 その根源地は自分としては宮崎海岸の方に軍配を上げるが、この末吉のイザナギ聖地信仰は、住吉三神(海の神と津の神)を信奉する海人族が何らかの理由で船を捨てて陸に上がった際に招来したものと思う。

 また貝原益軒の説では「阿波岐原」は福岡の早良区のイザナギ信仰地を指すとするが、確かにあそこは安曇族のような海人が土着していた場所である。しかしやはり宮崎の橘の小戸のほうが先であろう。
 
 





















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