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「国司城址」の碑(鹿屋市新栄町)

 鹿屋市には「国司城」があったと鹿屋市史で読んだことがある。

 鹿屋市史ではこの国司城は、大隅国の国府である霧島市向花に所在したといわれる「大隅国府」の鹿屋出張所のようなものだろうという。

 鹿屋方面に巡検に来た大隅国司がここに滞在しているときに、隼人から襲撃され、命からがら白馬に乗って逃げのびたが、永野田町にある「国司塚」まで来て絶命した―という伝承になっている。

 その大隅国府出張所たる「国司城」がどこにあったのか突き止めていなかったが、三日前だったが、たまたま新栄町の旧大隅線沿いの道を市役所に向かって歩いていたところ、とある住宅の入り口に「国司城址」という石碑を見出した。Cimg4815 住宅の門柱の右横に2メートルはありそうな石碑があった。

 右手の道路は鹿屋市役所に通じる道路で、さらにその右、ガードレールの下は道路に並行している旧大隅線の軌道で、今は「サンロード」として歩行者専用の道路になっている。

 垣根になっている黄色いマサキで前面が覆われているが、枝を掻き分け、ようやくのことで「国司城址」と彫られているのが分かった。Cimg4817

 裏面にはCimg4816_2

「昭和36年5月27日 市制20周年記念 市長 永田良吉」

と彫ってあった。永田良吉さんは大正の終わりころから県議-衆議院議員-鹿屋市長となった人物で、鹿屋に海軍航空隊を誘致し、戦争中は鹿屋市長として大政翼賛会に関係したということで、戦後は公職追放に遭い、解放後再び政治家として活躍した。

 昭和39年に鹿屋市長を引退しているので、36年は政界における最後の時期に当たり、75歳の頃である。

 今は当時を偲ぶ石垣のような物は全く無く、辺り一面はフラットである。

 ところが、昭和21年発行の5万分の1の地形図を見ると、ここには紛れもなく小高い岡があった。Cimg4829 この地図の2本の青い筋は左が「下谷川」、右が「肝属川(当時は鹿屋川)」で、下に見える小さな青い池は田崎池(現在は田崎親水公園)である。

 田崎池の上(北)、下谷川を挟んで向かい側に田崎池と面積的には同じくらいの小山があるが、これこそが「国司城」のあった岡である。

 これを田崎池から北西に延びる道路に掛かっている「田崎橋」から見ると、Cimg4827 ちょうど電柱の向こう、鉄筋の家を含むあたりに「国司城」の小山があったようである。近所の80歳の老人の話では、「高さは20メートルくらいあった」という。鉄筋の家の3倍近くあったことになる。(はるかに見える山は高隅連山である。)

 さらに地図上ではこの小山の左上に変電所(太陽のようなマーク)が見えるが、これを含む長い岡も何かありそうな場所である。

 しかし共に昭和38年頃から56年頃までに実施された新栄町・田崎町・西原町の都市化つまり「土地区画整理事業」によって、跡形もなく消え去ってしまった。

 鹿屋市の古代解明に無くてはならない大隅国分立以前の「古日向の一大遺跡」だったと思われるのに残念なことである。

 地図で明確なように、二本の川に挟まれたこのような土地は古代以前の聖地(霊地)であり、長い岡も「国司城」ももっと以前は古墳だったかもしれないのだ。

 小山や長い岡を崩す際には何かが発見されたかもしれない。昭和55年くらいにやっと文化財的な遺物の保存が叫ばれるようになったが、この工事はそれ以前に行われており、何か考古学的遺物はあっても散逸したのだろう。惜しいことである。

 この「国司城」について考察すると、市史のような「大隅国府の出先機関がここにあり、国司が鹿屋方面に巡検に来て滞在したおりに隼人の襲撃を受けて落ち延び、鹿屋市永野田の「国司塚」で死亡し、以来そこに祭られている」という考えは無理だろう。

 大隅国司・陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)は確かに養老4年(720)の「隼人の反乱」で殺害されているが、あれは国府の置かれていた現在の霧島市であった出来事であり、もし仮に大隅国司が鹿屋に来た際に殺害されたとしても、永野田に塚(墓)を残すことはあり得ない。負け戦ではなく隼人に勝利したのだから。

 また、朝廷の派遣した官吏である国司が現地で死亡した場合、「骨送使」というのが派遣され、遺骨は中央に送られてそれぞれの出身地に返されるのが筋だというから、なお一層永野田に墓がそのままあるというのはあり得ないことになる。

 ではまず、この「国司城」とは一体何なのか?

 これは古代鹿屋の豪族の居城か古墳だったと考えたら良いのではないか。「国司」という語が気になるが、これはもしかしたら「国造」だったのかもしれない。律令制度以降、「国造」が過去の名称となったので、時代に合わせて「国司」に名称替えされて語り継がれたのではないだろうか。

 また、現在ある永野田の「国司塚」に眠るのは朝廷から派遣されて大隅国司になり隼人に殺害された陽侯史麻呂ではなく、この「国司城」及び現在の市役所のある場所にあった長い岡に拠点を持つ当地の豪族だろう。

 もしかしたら自ら「わしこそが国司じゃ」と国司を自称していたのかもしれないが、1年半近いいわゆる隼人の反乱が当地にも波及し、大伴旅人が大将として率いる大和朝廷遠征軍(官軍)の別動隊に攻め込まれ、ついに落城して落ち延びたが、永野田で戦死した人物ではなかったかと思われる。

 あの大和朝廷の対新羅遠征軍(任那救援隊)の大将・物部麁鹿火(もののべのあらかび)に対して「お前と俺はかって同僚として朝廷の護衛に当たった仲ではないか。なぜおまえが俺を攻めるのだ!」と吼えた筑紫君・磐井を髣髴とさせる人物だと思うのである。

 磐井の墓は死んだ年代、すなわち520年代の前方後円墳としては九州はもちろん全国的にも最大級の大きさを誇るという。ただ、生前に造られたいわゆる「寿墓」だったというのが定説で、もし死後に造ろうとしても朝廷軍(官軍)に逆らった以上、巨大な造墓など許されるはずがないからである。(私見の邪馬台国所在地はこの筑紫君磐井の本拠地・八女である。)

 そのほぼ200年後に起きた隼人の反乱の際に、官軍により殺害された当地の豪族(名は不詳)。磐井の古墳とは比べるも愚かなくらい小さな永野田のその墓が、今も永田良吉家の人々によって丁重に祀られていると聞く。間もなく1300年になろうというが、これは奇跡という他ない。

 

 


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