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福岡・佐賀歴史探訪(2)

 二日目の3月22日はいよいよ本命というべき探訪箇所・糸島市を訪れた。

 言わずと知れた魏志倭人伝上の「伊都国」の所在地(と邪馬台国研究者のほとんどの者がそう比定している地)である。

 7時半過ぎに福岡のホテルを出発し、唐津街道を東へ5キロほど走ると昨日の夕方来た小戸海岸を右手に見てさらに5キロ、周船寺という地区に入る。ここは「すせんじ」と読むが、本来は「主船司」であったろう。船を管理・取り締まる役所のことである。

 周船寺西という信号交差点を左折し、3キロ余り南へ行くと辺りはすっかり農村地帯である。やがて左手に「怡土城上り口」という標識を見る。

 そこを左折すると、すぐに小高い岡が立ちふさがるが、それを左に巻いた所に立派な看板が立っていた。向かいにはこぎれいなトイレもある。

 看板の説明を読むと、今いる所は史跡「怡土(いと)城」のある高祖(たかす)山麓の土塁の切れ目で、立ちふさがるような5,6メートルの高さの岡はその一部であった。また、高祖山の中腹には「高祖神社」が鎮座するとも書いてある。

 まずはトイレの横から岡に上がってみた。Cimg5036 上がった頂上には「皇紀2582年」(大正11年=1922年)建立の「怡土城址」碑が立つ。この真後ろに回ってみると、Cimg5041 平らになった土塁の上に結構な大木が建ち並び、その間は人が十分に歩ける広さで、行ってみると100㍍ほどは続いていた。右手には人家が立ち並ぶが、高さはちょうど2階建ての屋根くらいはある。敵の襲来を防ぐには十分だっただろう。

 この怡土城の築城は『続日本紀』の天平宝字8年(西暦756年)のこととして次のように記されている。

 六月甲辰(22日)、はじめて怡土城を築く。大宰大弐・吉備朝臣真備をして専らその事に当たらせしむ。>
 

 756年と言えばこの年の5月には聖武天皇が崩御している。世上やや不穏だったのだろうか。ところがそれから9年後の天平神護元年(765)3月にも、大宰大弐・佐伯宿祢今毛人に対して同様の命令が出されている。

 唐への留学生上がりで学者としても一流の吉備真備が最初に築城に取り掛かかったが、途中で都に昇進して行ったため完成を見ず、代わって同じ大宰府高官であった佐伯今毛人が監督することになったようである。

 怡土城はこの高祖山(416m)の山麓から山頂近くにかけて延々と土塁で囲うように築かれていて、とてもすぐに回れる所ではないが、200㍍ほど山域に進んだ所に高祖(たかす)神社があるので上がってみる。Cimg5048 駐車場に車を入れ、少し上るとどっしりした花崗岩製の鳥居がある。くぐって石段を登ると拝殿である。Cimg5046 拝殿は瓦葺だが本殿は茅葺である。
 創建の由来は不明だが、祭神は三座あり、中央が皇孫ヒコホホデミ尊・左座がタマヨリヒメ・右座はオキナガタラシヒメ(神功皇后)だそうである。古代から「怡土郡の一之宮」として崇敬されていた。

 正史『日本三代実録』の元慶元年(877)9月25日の条に

 正六位・高礒比売神の従五位下を授く。>

 と見え、「これはこの神社のことに違いないものの、ヒメ神としてあるのは不審だが、主祭神ホホデミの左右がタマヨリヒメ・タラシヒメとヒメ神である故、このように表記したものであろう」というふうに神社由緒看板には記してあった。

 たしかにそう思われはするが、しかし三代実録では「高礒比売神」(たかいそひめのかみ)とあり、「たかす」神社ではないのが、むしろ不審である。

 最初にこの神社名を見た時は「こうそ神社」と読むものと思っていたが、現地に来て「たかす」と読むことを知った。「こうそ(高祖)」ならこの地域における「天孫降臨伝承地」(聖地)に違いないと踏んでいたのである。

 それが「たかいそ」神社と言うならば、実はむしろ思い当たる節がある。

 というのは、この怡土郡の前代の名は発音は同じ「伊覩郡」であるが、仲哀天皇紀に伊覩県主・五十迹手(怡土の首長)が登場する。

 県主は仲哀天皇に恭順して貢などをするのだが、その様子を見た天皇が、「お前はたいそうまめまめしく・いそいそと恭順の様々な貢献をしてくれたので、お前の国を<伊蘇国>(いそのくに)と名付けよう。」と述べ、それ以来この地方を「伊蘇国」と呼んだ、という。

 また、筑前風土記逸文には同じような理由から怡土県主の五十迹手を称賛し、国名を<恪勤国>(いそしのくに)にせよと言ったと記す。

 以上の記事から、私見ではこの怡土郡の古名は「いそ国」であり、「いそ」を漢字で書けば「五十」であろうと考えていたが、現地の高祖神社の祭神が本来は「高比売神」(たかいそひめ)であるのなら、まさに記紀や風土記の記述と合致し、私見の正しさが証明されたように思う。(「五十」は10代崇神天皇と11代垂仁天皇の和風諡号に含まれる。)

 高祖神社から、今日の最大の目的地「伊都国歴史博物館」へはもと来た道をさらに南下し、右手に(西に)行った所にあった。約1キロほどである。Cimg5051 ちょっとした町役場ほどもある立派な博物館だ。後方に見えるのが「高祖山(416m)。

 3階まである博物館をじっくりと見て回る。途中からボランティア氏(男性)がずっと案内をしてくれた。

 原田大六という地元の民間考古学者が発掘した「平原弥生古墳」出土物が大量に展示されている。古墳と言えば4世紀以降のいわゆる前方後円墳を代表とする遺構の名称だが、原田はそれを承知であえて「弥生古墳」とした。(一般的に弥生時代の物は「墳丘墓」と呼ぶのがふつうである。)

 副葬されていた舶載の漢式鏡から弥生時代後期中葉(西暦100年代)頃の墳墓であるというう。この墳墓より前の王墓として「井原やりみぞ王墓」さらに古く「三雲南小路(みなみしょうじ)王墓」があるが、これはどちらも北部九州に大量に見られる「甕棺墓」であったのに対し、この平原弥生古墳は「割竹形木棺」であり、この形式は畿内の前期古墳と共通している。

 また、出土した鏡・玉・剣の三点セットも畿内の古墳に共通する副葬品であり、以上の理由から、平原王墓の主の次の代(2世紀後半)にはここから畿内へ東征を果たしと考えるのが順当だろうとした。

 したがって原田大六は、倭人伝の時代(3世紀前半)には、その5、60年前にここから東征を敢行して畿内に樹立した邪馬台国(という名の、のちの大和王朝の前身)に逆に支配される地域となり、それゆえ大和の邪馬台国から「一大率」を置かれて統治下に入っていたのだ―と考えている。(原田は邪馬台国畿内説をとる。)

 以上のように、原田大六は直径46.5センチもある八咫の鏡と同じ鏡を5面も副葬していた平原王墓の主は後の天皇家につながる人物で、剣が一振りしかなく巨大な大量の鏡と無数と言っていい玉(勾玉・管玉など)の副葬品を勘案すると、女王であるとする。

 原田はその主の名は「玉依姫」だろうとする。日向神話では、タマヨリヒメはウガヤフキアエズ尊の王妃であり、神武天皇の母である。この人物は神話上の創作された人物ではなく、現実に存在したのであり、その子である神武天皇も神武東征も史実であった。

 そこで平原弥生古墳について著した書に『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』と名付けたのである。戦後の記紀神話の冷遇を見事に吹き飛ばす著書と言っていいだろう。(ただ、相変わらず世上の史学は記紀神話をまともに取り上げないでいるが・・・。)

 博物館を出る直前に学芸員という人に質問をぶつけた。

―倭人伝では壱岐国からは船で末廬国(唐津)に上陸し、そのあと陸行で伊都国に来るとしている。もし伊都国がここだとしたら壱岐から唐津などに行くよりここへ直接船を着ければいいのではないか? 

「ここの船関係者の話では、糸島から壱岐に行くときは対馬海流に逆行する形になってしまうので、わざわざ唐津(呼子)まで行ってから対馬海峡を横断して壱岐に行くといいます。その方が最短距離で安全でもありますし・・・」

―なるほど、壱岐に行くときはそうしたらいいよね。じゃあ、その帰りはどうなるの? 倭人伝の記述はその帰り道と同じ<壱岐から本土>への道筋を書いているんだが。

「そうですね、帰りは・・・・・・。直接来れますよね・・・。」

 学芸員氏も、やゝしどろもどろになってきた。

 結論は出なかったものの、糸島から壱岐への航路は

 ①行きは糸島港(加布里湾)から船でまずは唐津湾を横断し、呼子辺りで風待ちをして一気に対馬海峡を横断する。

 ②帰りは壱岐から呼子を目指し、そこから加布里湾へ横断する。もしくは壱岐から直接加布里湾を目指す。

 というやり方であれば、唐津で船を捨てずに船のまま直接糸島へ到着することができる。Cimg5060(加布里漁港。向うの山は「可也(かや)山」(365m)で、糸島海人のランドマーク。加布里とは「かやふり」の略語だろう。)

 したがって、末廬国(唐津)から「東南へ陸行、500里で伊都国に到る」と記述されている「伊都国」は糸島ではない―という結論に達せざるを得ないのである。

 判然としない面持ちのうちに受付で図録など5冊を買い求め、土産品などの情報を得てから館を後にした。

 次に向かったのが、原田大六が精魂を傾けて発掘・整理・報告に陣頭指揮を執った平原弥生古墳だ。伊都国歴史博物館から西南2キロくらいに歴史公園として整備されていた。Cimg5059 堂々たる標柱石。Cimg5057 かなり広い公園の中央に復元された盛り土が弥生古墳である。東西14メートル、南北が10メートルというからそう大きなものではない。Cimg5058 副葬品の数々の写真をを特殊なタイルに焼き付けた、壁面。

 なにしろ鏡がすごい。国内最大の直径46.5センチの国産「内行八葉花文鏡」4枚は、もうこれだけで他の墳墓を圧倒する副葬品である。その他国産鏡1枚。他に舶載鏡(漢鏡)が35枚。剣は素環頭太刀(80センチ)が一本のみ。他にガラス製の勾玉・管玉・連玉、メノウ製管玉など装身具品が多数発掘された。

 ただ、埋納された鏡はほぼすべて埋納前に割られていたことが確実で、それが何を意味するのか謎が残っている。

 眺めまわしたところ、鹿屋の笠野原台地の半分くらいの面積と思われる怡土の地に、かくも巨大な痕跡を残した平原王墓の主とはいったい誰で、なぜ副葬の日本のどこにも無いような巨大な40面の鏡がことごとく割られて納められたのか、謎は尽きない。

 私見ではどうやら「五十王家」一族の殷賑の地かと思うのだが、課題が増えた。

 土産の「伊都の鏡」という最中を買い、次に向かったのが唐津。

 加布里湾を右手に道は海岸道路。二丈町と浜玉町のほとんどは海岸まで迫る山塊に押しつぶされそうな険路で、とてもじゃないが帯方郡使が歩けるような道ではない。やはり唐津から糸島へは船で行くほかないはずで、これも伊都国が糸島ではない証拠になる。Cimg5073 唐津市の「末廬館」という資料館を見学。ここは実は日本最古の水田跡が発見された「菜畑遺跡」の場所である。館内に入ると、この近くで見つかった唐津の王墓と言われる「桜馬場遺跡」の解説が目を引いた。Cimg5067 のちの末廬国国王家につながる王の墓(甕棺墓)だろう。

 唐津の古代の地図を見ると海域はかなり町の中まで広がっていたようだが、松浦川のもたらす堆積で陸域が押し返してきた。

 その松浦川河口の、昔は島だった小山の上に、唐津城が復元されて立っている。見事な眺めである。Cimg5063 さて、私見では末廬国(唐津)から、帯方郡の使者は東南へ陸行したとあるのは、松浦川沿いの道を行ったのだと考えているので、実際に松浦川を走ってみる。まさに東南に向かっている。

 川沿いの道は悪路にしても、飲み水には事欠かないし、確実に高度を稼ぎ、確実に峠を越え、迷わずに目的地に到達できる。それは今も昔も変わらないだろう。Cimg5076国道203号線にある「厳木(きゆらぎ)の里」。唐津から15キロ弱、休憩にはもってこいの山里の道の駅。左手に国道、国道のさらに左手には松浦川沿いに集落が広がっている。向こうへ行くと峠を越えて多久市に入る。Cimg5077ここで驚いたのが、巨大な石膏像だ。説明板によると「松浦佐用姫」で当地の出身だという。あれ、佐用姫は唐津の「領布(ひれ)振り峰」(鏡山)に登って、任那に船出した大伴狭手彦を慕って、いつまでも領布を振ってそのまま石になった―というから、てっきり港に近い唐津市内のヒメかと思っていたのだが・・・。

 肥前風土記「松浦郡」の項に出てくる話で、ここも当時松浦郡に属していたとあれば、まんざら作り話でもないのだろう。美女がこんな山中にいること、稀ではないのだから。

 面白いのは、この石膏像。時間とともにゆっくり回っているのである。最初見た時は後ろ向きだったのだが、今はほらこっちを向いてヒレを振っている。






















 

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福岡・佐賀歴史探訪(1)

 3月21日から23日まで福岡と佐賀一帯を回った。目的は九州邪馬台国説の検証である。

 21日は早朝6時半に家を出発。都城インターから九州道に乗り、えびの・人吉・熊本・鳥栖経由で大分自動車道の「甘木インターチェンジ」で降りた。ほぼ300キロを走った。

 インターチェンジから北に向かって3,4キロも行くと朝倉市甘木町に入る。いくつかの大手スーパーが立ち並ぶ道を行くと、右手に小さな道路標示「卑弥呼の湯」が見えた。

 ―たぶんここだろう。

 と思い、右折して行くと案の定、卑弥呼の湯と並んで「甘木歴史資料館」があった。Cimg4993 桜が映えた瀟洒な白塗り土塀に囲まれて、目指す資料館はあった。

 今まさに桜が咲き誇っていた。ここでもやはり早いようで、たいていこの時期はどこに行っても「○○桜まつり」などという看板が立っているものだが、こう早く咲いてしまっては準備が追い付かないのだろう。Cimg4998 しっくい塗の資料館はこれまで見たことがないので気品を感じた。

 ここ甘木は、邪馬台国論争で九州説の大御所・安本美典が、こここそ邪馬台国の所在地であると断定している場所である。

ここを邪馬台国とする 安本の論拠の大きな一つが大和地方と甘木の「地名の類似」である。その類似性にはさらに大きな特徴があり、類似した地名の地図上の並び方までが同じだという。

 館長らしき人にその点を訪ねてみた。

「ええ、そう言いわれますよね。確かに似ているんですよ。」

―そうですか。でもその類似が三世紀の邪馬台国時代にすでにあったのですかねえ。疑問に思いますよ。

 というのは、この朝倉地方は斉明天皇の時代に、唐・新羅連合軍と戦うためにわざわざ大和から朝廷を移した場所じゃないですか。女帝である斉明天皇が自らここへやって来て朝倉宮を建て、対新羅戦の陣頭指揮を執ったことは確かですよね。

 その際に本宮のある大和地方の地名を行宮のこの朝倉・甘木地方に名付けて回った―というのが本当ではないですか?

「・・・・・」

 というわけで、私見には答えてもらえなかった。

 世界各地で移民とかやむを得ず故郷に別れを告げざるを得なかったような場合、移住先で故郷の名を付けるというのはありふれたことである。

 このことを考えると、卑弥呼の時代にこちらから大和へ地名が遷移されたと考えるよりも、卑弥呼の時代より400年後の660年頃に、対唐・新羅戦争に向けて置かれた朝倉宮の存在感のほうに軍配が上がるはずである。

 やや僅少な例かもしれないが、自分たち一家が足掛け8年ほどを過ごした肝属郡田代町(現在は大根占町と合併して錦江町田代地区)の高原地帯にある大原地区は、ここに平家の落人が住み着き、京都の大原に因んで大原と名付けられ、また近くのランドマーク的な山を嵐山に因んで「荒西(あらせ)山」と名付けたと聞いている。

 ことほど左様に、平家のように落ちぶれて、あるいは斉明天皇のように繁栄の飛鳥京を離れて九州の片田舎に遷都したような場合、かって馴染んだ地名をそこここに名付けて昔日の栄華を忍ぶということはもっともな心理であろう。

 したがって、私は邪馬台国がこの甘木にあり、東遷した先の大和に甘木の地名を名付けたのではなく、その反対に大和から遷都を余儀なくされた斉明天皇はじめ百官百寮の望郷の念が甘木一帯に大和の地名を名付けさせたと考える。

 結論として、邪馬台国甘木説は成り立たないと見るのである。

 資料館を辞して次に向かったのはいま話題になった「斉明天皇の行宮・朝倉橘広庭宮を訪れた。Cimg5000 甘木からは東南へ走る国道(日田往還)をほぼ一直線に行くこと7キロ、比良松というところから左折して丘陵地帯を目指すと1キロほどで目指す「橘広庭宮」跡に行き当たる。

 ここには「長安寺」という古い寺もあったらしい(二本の桜の右手奥)。また赤御影石の上の奥に小さく鳥居が見えるが、あの神社は「朝闇(あさくら)神社」で、ここ朝倉地方の地名の語源という。Cimg5003 朝闇神社の横を登って岡の上に出ると、「橘広庭宮址」と刻まれた巨大な石碑が立っていた。表面の字は「橘広庭宮址」とある。昭和13年建立。

 後ろはなだらかな丘に繋がっている。この辺りはナシの栽培が盛んなようで、あちこちにナシの樹園が広がっている。

 朝倉宮はここではなく、今しがた通って来た丘陵の一角にあったというが、いずれにしても今でも畑以外何もないような土地柄であるから、1350年前の斉明天皇の当時はどんなにか辺鄙なさびしいところだったろうか。

 

 こんなところに行宮が営まれたら、天皇はじめ大宮人たちの繁華な飛鳥の都への思慕はいかばかりか、想像するだにすさまじきものがある。遠い都を懐かしんで周辺の山々岡々に都の地名を付けて偲ぶよすがとしたであろうことは、心理的に極めてよく理解できる。

 卑弥呼時代に安本が見出したような大和に共通する地名とその配列があったと考えるのであれば、まずはそれが三世紀の地名及びその配列であることが証明されなければなるまい。

 さて近くのそば屋で昼食を摂ったあと、今度はひたすら北西を目指して走った。

 二時半ごろ、次の目標である「奴国の丘歴史資料館」に到着。早速調べに入る。Cimg5013 歴史資料館にしてはモダンな建物であった。

 明治32年(1899)、ここ須玖岡本遺跡からは王墓と思しき甕棺墓が見つかり、その内外に30面の銅鏡(舶載鏡)、ガラスの璧、銅剣、銅矛、銅戈、ガラス製勾玉・管玉等多数の副葬品が確認された。ことのほか丁寧に埋葬されていることから、この甕棺の主は「奴国王」と断定された。Cimg5007 ジオラマ展示。CGを使った分かり易い甕棺墓の中身。二つの巨大な甕を口合わせにし、合わせた部分を粘土で糊付けする。

 甘木もここも、このあと二日目、三日目に回った糸島市でも吉野ヶ里遺跡でも、甕棺の盛行はすさまじいの一言に尽きる。弥生期の前期から後期まで(ほぼ弥生時代中)九州北部でも朝倉地方から筑紫野を経て玄界灘に面する一帯と背振山系を南に越えた佐賀平野一帯の弥生時代の墓として、なぜこのように甕棺墓が流行ったのか、実はよく分かっていない。どう焼いて作ったのかも窯跡が発見されていないので不明という。

 こんなに白日の下にさらされた墳墓は少なく、その数3000から5000と言われているくらい発掘の事例があるのに、いまだに上のように謎だらけである。Cimg5014 資料館の広い庭の一部には二つのドーム形の建物があり、その中では甕棺墓の発掘の状況を再現している。このように密接して発見されるのは家族墓らしい。

 弥生時代の甕棺墓の先行形態は縄文時代の「壺棺墓」だが、縄文時代は主に幼児用で、幼児の亡骸を壺に入れたあと家の敷地内の土の中に埋めた。それは幼児を母の子宮に似た壺に入れ家の地下に置くことにより、再生(生まれ変わり)をスムースに行うという意味があったようである。

 そのことを敷衍すると、甕棺も壺棺と同様、遺体を子宮になぞらえた甕に入れて埋葬することで再生を願ったのだろうか。

  奴国の丘を見学したあと、時間があったので宿泊先のホテルよりさらに西、翌日行く予定の糸島市に近いところにある「小戸」海岸まで行ってみた。Cimg5023 小戸海岸近くの丘の上には「小戸神社」があり、祭神はオオヒルメムチ。はて、ここは禊祓いをしたイザナギの聖地ではなかったか。なぜイザナギが祭られないのだろうか。ちょっと首をかしげる。Cimg5032 そんなことを考えながら、西向きの海岸まで行ってみた。少し待つと夕日が向うに沈んで行った。そうかこの太陽(オオヒルメムチ)こそ、イザナギの禊ぎにより生まれたのであった。だから小戸神社に祭られたのであろう。(第一日目終わり)






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アカハラタカ(?)の水浴び(鹿屋市池園町)

 今朝の8時過ぎ、急に降り出したかなり強い雨と雷が気になり、居間の窓から庭の方を眺めていると、どこからか一羽のやや大きめの鳥が飛んで来て背の高い方の合歓の木に止まった。

 最初よく来るカラスかと思ったが色が黒いわけではないし、キジバトにしては大き過ぎる。しかもキジバトだったらたいてい夫婦連れで来る。

 鷹の仲間のチョウゲンボウあたりかなと思い、多分急な雨で捕食を中断してここで一時羽を休めすぐに飛び立つのだろうと観察していたが、なかなか飛び立とうとしない。

 そのうちに何と、降りしきる雨をシャワーと見なしてか、左右の羽を交互に広げる仕草をし出したではないか。そこでデジカメを取りに行った部屋の窓から、そっとガラス越しに撮影してみた。Cimg4989 左側の羽を広げようとしているところ。Cimg4987 首を後ろに回して何かをついばんでいる。虫でもいるのか。Cimg4988 一見すると顔の優しさからキジバトのようだが、ふた回りは大きい。しかも一羽だけだ。Cimg4991 ずんとアップしたがぼやけた。腹の部分がかなり赤っぽい。(若干、彩度とシャープネスを上げてある。)尾の内側に黒い線模様がはっきり見える。Cimg4992 おっと、気付かれたか羽を広げ飛び立った。

 最初に合歓の木に止まってから、5~6分は居たと思う。

 インターネットで「鳥類図鑑」を検索したら、どうやら鷹の仲間(タカ目・タカ科)の<アカハラダカ>のようである。

 ただ、鷹にしてはくちばしが直線的で優し過ぎる気もするがどうなんだろう?

 それにしても1時間余り降った雨脚は相当なもので、おかげで桜島からの降灰でくすんでいた草木の葉が見違えるようにきれいになった。

 もうこれで降灰にもスギ花粉にもおさらばしたいものだ。













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桜咲く(鹿屋市浜田町)

 3月15日、鹿児島では桜の開花宣言が出された。例年より10日以上早い開花である。

 町中を走っていると、公園などの桜がどこもかしこもちらほら咲き始めている。ところが仕事で霧島が丘公園を回ったとき、かなり開花が進んでいるのを目にした。

 帰宅後、大急ぎで霧島が丘公園に上がってみた。すると大広場の野外ステージ裏がもやもやと薄紅色になっていた。Cimg4967 舞台裏に行ってみると何本あるか分からないが、どれも二、三分咲きになっている。Cimg4964 見上げてみると、どうやら三分咲き以上かもしれない。Cimg4969 桜の個体によっては五分咲きくらいのもある。Cimg4976 ピンポイント的には満開に近いのもある。Cimg4971 向こうに見えるグリーンはイングリッシュローズ・ガーデン。去年新たにイングリッシュローズを植え替えて新装が成った。

 手前の桜の下には「田の神」(タノカンサ―)がちょこんと立っている。頭の上の桜よりも、向うのローズガーデンの方が気になると見える。













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尚志館高校野球部が春の甲子園へ(志布志市)

 志布志市にある尚志館高校の野球部が今日、選抜大会出場のため甲子園に向けて出発した。(以下の写真は今日の夕方6時台のNHK鹿児島地方ニュース画面から)

Cimg4951 尚志館高校はもと「志布志実業高校」といい、高校野球界では有名な鹿児島実業高校の系列校である。

 系列校と言っても、鹿児島実業には野球のため全国から生徒が入学するが、大隅にある尚志館高校にはそのような生徒は皆無で、今回のメンバー全員が地元大隅半島出身者である。

 聞くところでは、レギュラー入りしている選手のうち8名が鹿屋市の出身で、主将もその中の一人という。Cimg4950 監督は鮎川氏で、温厚な先生のようだ。Cimg4949 それぞれが全力を、最善を、と抱負を語っていた。Cimg4956 エントリーされた20名のチームメイトが志布志港発のフェリー「さんふらわあ」の前に勢ぞろい。主将が挨拶をしている。Cimg4962 女生徒やサッカー部員らの見送りを受けてフェリーに乗り込んだ。

 鹿児島から甲子園のある神戸へ普通は新幹線で行くのだが、志布志港は大阪への夜間フェリー航路があり、志布志市でも利用促進対策が言われており、その格好の対象として今回、尚志館高校野球部が利用したようだ。大いに宣伝になるはず。

 約20時間の船旅はちょっと長いが、しかし半分は寝ている間に夜が明ければ大坂だからそう退屈はしないだろう。(ただし、波が荒くなければ・・・の話。)Cimg4961 何しろ尚志館高校自体が初出場のうえ、春夏90年の全国高校野球の歴史を通じて、大隅地区から甲子園に出場するのも初めてのことである。気負わずに「だめもと」の気楽さで戦って来て欲しい。

 明日が組み合わせ抽選会、22日が初日。全国各地から選ばれた36チームが激突する。

 選抜に絶対王者はいないぞ、がんばれ尚志館高校!





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早春の色(鹿屋市下堀町)

 先週の土曜日、日中ついに20℃を超え、今日もまた22℃まで気温が上がった。早春を通り越して「春たけなわ」くらいの陽気になった。

 郵便局に出かけたついでに近隣を回ってみる(もちろんマスクをして)。

 いま目立つ色と言えば、黄色と蓮華色だろう。Cimg4938 黄色は菜の花畑。

 ここ2,3年のブームなのか、あちこちの畑で菜の花が目に付く。景観植物の部類に入るのだろう。菜種油を採るため、何ていう話は聞かない。Cimg4939_2 気温が高いのにミツバチの飛ぶ姿は見られない。菜の花を植えている畑がそれだけ多いのか。

 もっとも菜の花も最盛期になると独特の精油っぽい匂いがするものだが、今はまだ発散していない。

 さて、蓮華色と言えばもちろん水田の裏作に植えるレンゲが本家だが、こちらでは岩ツツジを思い出す。いまこれも満開を迎えている。Cimg4940 とある街角で、道路を隔てて向かい合った家に、それぞれ一本ずつ岩ツツジが咲き誇っていた。Cimg4941 右手の家のは高さは2.5メートルくらいで見応え十分。Cimg4942 左手の家のは石を配した小庭の中に植えられている。高さは2メートル弱か。ここだけひときわ明るい。

 早春の風物詩の一つである。

 今頃はハクレン・モクレンなども咲き出している。遠くの山肌にはちらほら山桜が霞んだように見える。

 もうじき彼岸が来れば、いよいよ春本番だ。(スギ花粉も下火になるだろう!)














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乙女椿の雪花(鹿屋市池園町)

 家の西側に三本の乙女椿がある。

 10日くらい前から鳥たちがよく来るようになり、メジロもだが大型のヒヨドリなども蜜を吸いに来ていたので、もう満開が近いかと思っているうちに、昨日今日の強い西風でどんどん花を落とし始めた。

 今朝窓から見ると、それまでの淡雪のような落花状態から「一面の雪景色」に変わっていたのには驚いた。Cimg4928 庭に出て西に回ってみると、Cimg4929三本の椿とも、まだ十分に花を着けているのだが、落ちた花の数は半端ではない。Cimg4930 この状態で半分残ったというところか。まだまだ鑑賞には堪えられる。Cimg4931 鳥が蜜を吸いがてら糞をして行くので、根元周りに何と言う常緑樹か知らないが、たくさんの芽苗が吹き出している。Cimg4932 二本目と三本目の間には八つ手が。もうかれこれ4年ほどにはなると思うが、いつの間にかここまで成長した。八つ手の実は大きいので、大型のヒヨドリの落とした糞から芽生えたに違いない。Cimg4935 手前のはヒトツバ(槇)でこれも落としものだろう。

 その上に青々と見えているのはホトトギスだ。以前住んでいた肝属郡田代町(現在は錦江町田代)の大原地区から移植したもので、毎年、地味だが可愛らしい花を咲かせる。Cimg4934 その元花から種が飛んだか、1メートル以上離れた場所にホトトギスの芽吹きがあった。まるで雪割り草のようだ。

 ついでに庭の草むしりをして帰ったら、鼻水とくしゃみを連発した。相当な数のスギ花粉が飛び回っているようだ。(ちゃんとマスクはして出たのだが・・・。)

 今年はレーザー治療を受けるのが遅過ぎたのだろう。去年と比べ、鼻水・くしゃみ・鼻詰まりの症状が、弱いながらも出てしまっている。来年は年明け正月の前半のうちに受けることにしよう。

















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アカホヤ火山灰?(鹿屋市池園町)

 我が家では生ごみを庭の土に埋めるのだが、穴を掘って行くと赤味がかった白っぽい地層に行き会うことがある。今回もそうだった。Cimg4925 ちょうど履いているスリッパの長さ(25、6センチ)くらい掘ったところで、赤味がかった層が見えて来た。上部の土は普通どこにでもありそうな土層だが、これは明らかに違う。Cimg4924 掘り出してみると、かなり赤味が強い。

 鹿児島で俗に言う「アカホヤ」だろうか。やや粘土質で放り投げて地面に落ちても粉々にはならない。

 よく切通しの崖の断面に見るオレンジ色のきれいなアカホヤとは違いが大きすぎる。しかもアカホヤ層(約7500年前の喜界カルデラ噴出物)ならもっと深いはずである。

 アカホヤより新しい火山性の堆積物だと思うが、それがいつのものなのかは分からない。

 アカホヤの噴出堆積年代を約7500年前としたが、この年代観は新しいもので、昔は6500年位前というのが定説であり、どの本にもそう書いてあった。

 しかし最近の精度の高い学説では1000年ほど上限が繰り上がり、7500年前ということになった。

 そうなると縄文早期の時期はさほど変わらないものの、アカホヤ層より上に眠っていた縄文前期とされる土器やその他の遺物の年代も同じように1000年繰り上がる、つまりこれまでの年代比定より1000年古くなるということである。

 鹿児島では喜界カルデラの大噴火によって噴出されたアカホヤ火砕流が、縄文早期の文明を壊滅させたのだが、いったいどのような経緯で世界でも最初期の文明を生んだのか、興味津々である。


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鹿児島神宮初午祭と蒲生・重富(霧島市・姶良市)

 今年の鹿児島神宮初午祭は3月3日(日)とあって、グループで出かけることにした。

 午前7時に鹿屋の北田池公園駐車場をFさんの車に便乗して、都合5名で空港道路(504号線)で一路、霧島市隼人町を目指す。祭の開始は9時半だが、1時間の余裕を見て早目に出発した。

 隼人町には予定通り8時半に到着したが、神宮の後ろに広がる駐車場にたどり着けず、一行の中に実弟の家が神宮のすぐ近くにあるということで好意に甘え、駐車場に停めさせてもらった。

 その家は神宮の西側5分ほどにあり、神宮の境内に入る間際、うまい具合に「宮坂貝塚」を見ることができた。Cimg4871 宮坂貝塚は平成7年に発見された縄文早期の貝塚で、九州では2番目に古いそうである。アカホヤ層の下にハマグリ・カキ・アサリなどの海の幸のほか、鹿の角・石の矢じり・土器片などかなりの量が出たという。

 この遺跡の標高が約30㍍あることから、当時の海岸線はいわゆる<縄文の海進>により、この辺りまで海岸線が上がっていたということらしい。鹿児島神宮の境内はその頃は格好の海辺の居住地だったのかもしれない。

 こうなると神宮の東300mほどに鎮座する蛭児(ひるこ)神社は、祭神である蛭児が流れて着いた所という伝承があるが、蛭児の正体が何であるかはさておいて、まんざら嘘ではないと思われてくる。

 神宮から参道を逆に下って行くと、凝灰岩製の明治時代に造られた鳥居をくぐって間もなく、左右にこじんまりとした三社が並んでいる。Cimg4875 この「三之社」だが、神宮に向かって左側にある社は、「ホスセリ命」と「大隅命」を祭神としている。

 俗に言う<隼人の神(祖先)>で、ホスセリは神宮の祭神「ホホデミ命」の兄に当たり、大隅命はおそらく神宮創建以前からここを支配していた原住民の首長で、いわゆるクマソ・ハヤトと言われた人々の王だった人物の後付け的命名だろう。言い換えれば「古日向=投馬国の王者」に違いない。

 反対側、向かって右側に並ぶのは、Cimg4876 手前は「豊姫」と「磯良(いそら)命」で、トヨヒメは、『三国名勝図会』国分郷・鹿児島神社・三之社の項によると神功皇后の妹で、もう一柱の磯良は安曇之磯良(あずみのいそら)で、海神の子孫という。ともに神功皇后つながりで、神功皇后もこの鹿児島神宮(正八幡宮)に祭られていることから摂社として建立されたものだろう。

 また後ろのお宮の祭神は「タケミカヅチ命・フツヌシ命」と、これは神宮宮司職の多くが藤原氏族であったことにより、いわば「祖先神」(氏神)として祭られたに違いない。Cimg4878 沢山出ている露店を眺めながら参道を下り、参道入り口の交差点でしばらく待っていると、留守氏屋敷跡にあるという神社でお祓いを受けた「神馬」が神職に先導されて姿を見せた。Cimg4886 この奉納馬第一号(神馬)は加治木町の木田集落で飼育している。奉納踊りは、戦国末期450年前のの当主・島津貴久の霊夢から始まったという。

 しかしこのような着飾った馬で踊りを踊らせながら奉納するようになったのは、木田集落で飼っていた時にたまたま疫病がはやった際に、馬に今見るような足踏みダンスをさせたところ、疫病が収まったという故事に基づくようである。その時期は今から360年前というから、こっちが正しいにしても歴史は古い。Cimg4894 途中、4,5ヵ所で観衆に踊りを披露しながら、Cimg4905 最終的には神宮の境内の所定の場所で奉納踊りをして終了する。Cimg4907 ここまでちょうど1時間半。木田郷の神馬、ありさ号(牝馬・2歳)よ、ご苦労さん。

 このあとも神馬ではないが、企業などで奉納する踊り馬連が23ほどあり、次々に繰り出しては賑やかに参道を上がって来る。最後の馬が終わるのが午後3時だそうが、午後に蒲生・重富を回る予定のわれわれは神馬の奉納を見届けたあとすぐに神宮を後にした。Cimg4909 見たことがないという人がいるので、途中、加治木の「龍門の滝」を見物。Cimg4910 また、滝から山手へ300㍍ほどにある「龍門司(たつもんじ)坂」も訪れた。古代ローマの道に似た石畳の坂道にみな一様に感心する。Cimg4911 次に目指したのが蒲生神社。拝殿も本殿も立派なものだ。蒲生を450年ほど支配した藤原姓蒲生氏の初代・舜清(ちかきよ)の母方は宇佐八幡大宮司家の出身ということで、舜清(ちかきよ)が勧請し建立したと伝えられている。

 しかし現在では何と言っても樹齢1500年の「日本一の大クス」である。拝殿の高さは7~8メートルあるが、30㍍の大クスに比べると模型のように見えてしまうほどだ。Cimg4919 最後は「白銀(しろかね)坂」。さっき訪れた「龍門司(たつもんじ)坂」同様、日向・大口方面への主要道を画する急坂を石畳にした藩政時代の遺構である。

 ここのは龍門司坂に比べると道幅も狭く、石畳の石組もやや雑である。いずれも国指定の史跡になっているだけの歴史を感じさせる。

 今度は全部を歩いてみたいという要望があるので、加治木温泉で汗を流すことを楽しみに歩いてみたいものだ。




















 





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外交の季節

 安倍総理が就任後初めてアメリカを訪問し、2期目を決めたオバマ大統領との首脳会談を行った。

 また、ロシアへは自民党の元総理・森氏が出かけてプーチンに会い、お隣りの韓国へ女性新大統領・朴槿根の就任式へこれも元総理の麻生氏が参列した。

 ここ1週間ほどの間に、現役総理と元総理の3人が世界各地に出かけたことになる。記憶にない「豪華な顔ぶれの」外遊である。

 安倍総理は結局のところ対中国を意識した「日米のさらなる強い絆」を強調して来ただけで、オバマ大統領がせっかく核兵器廃絶宣言で日本を念頭に置いた融和策を提言した真意には触れずじまいだったのは、残念である。

 まずは「顔見世」というところか。米国史上初の黒人大統領が継続を果たした歴史的意義にはどうやら気付かなかったようだ。

 アメリカが変化球を投げ始めたということを理解して、この際、国際連合の対日敵国条項などを取り下げるよう訴えるべきではないだろうか。1970年頃まで公民権を付与されていなかった黒人の血をひいているオバマなら理解できると思う。

 

 ロシアへ行った森元総理はプーチンとは長い付き合いとかで、今度で12度目の訪ロだそうだが、やはり「四島返還」への道は厳しいようだ。

 日本兵のシベリヤ抑留(実は強制連行)問題をもっとカードとして使うべきではないか。稀に見る多数の捕虜虐待があったにもかかわらず、ほとんど不問に付している現状は情けない。

 韓国では元大統領2世とはいえ、女性初の大統領が出現した。比較的対日感情は良好と思われていたが、ちょうど時期的に重なった「3・1独立運動」の手前だろうか、従軍慰安婦問題、植民地問題など定番の非難事項を言い募って来たようだ。

 麻生元総理はたまたま副総理だったから参列したわけで、「あ、そう」と口をへの字に曲げたに違いない。日韓併合については朝鮮半島にロシアの権益が及んで来そうになったので、併合した方が東アジアの安定のためになるとの戦略(というときつく聞こえるが)のもとに、朝鮮側のかなりの期待感もあって併合したといのが、世界史的な見方である。

 結局は日本が太平洋戦争に負けたので、日韓併合もチャラになってしまった。自分などは惜しい併合解消だったなどと思っている。

 勝ち戦さなら従軍慰安婦も英雄視されただろうが、負けたために「バカな戦争の片棒を担いだ愚かな金目当ての売春婦」というように蔑まされるようになったのだが、それを韓国では「挺身隊の美名のもとに、騙されて売春させられたのだ。日本はけしからん。」と言い募っている。

 しかし募集には格別に軍による「強制連行」のようなものはなく、ほとんどが家族の同意のもとに(貧しいがゆえに泣く泣く就業した女性も多かっただろうが)、就業しているのだ。

 日本ではまだ「赤線地帯」つまり売春宿が許可事業の一つとして営業され、おそらく朝鮮半島でも事態は変わらなかったはずで、従軍慰安婦はその戦地版であり、当然のこと「危険手当」が付加され、かなりの高級だったのである。

 そのような歴史的背景を見ずして、いまだに従軍慰安婦に謝罪せよの一点張りでは説得力がない。どうなることやら、日韓関係。北朝鮮の核とミサイルの方がやっかいだが・・・。

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