福岡・佐賀歴史探訪(1)
3月21日から23日まで福岡と佐賀一帯を回った。目的は九州邪馬台国説の検証である。
21日は早朝6時半に家を出発。都城インターから九州道に乗り、えびの・人吉・熊本・鳥栖経由で大分自動車道の「甘木インターチェンジ」で降りた。ほぼ300キロを走った。
インターチェンジから北に向かって3,4キロも行くと朝倉市甘木町に入る。いくつかの大手スーパーが立ち並ぶ道を行くと、右手に小さな道路標示「卑弥呼の湯」が見えた。
―たぶんここだろう。
と思い、右折して行くと案の定、卑弥呼の湯と並んで「甘木歴史資料館」があった。 桜が映えた瀟洒な白塗り土塀に囲まれて、目指す資料館はあった。
今まさに桜が咲き誇っていた。ここでもやはり早いようで、たいていこの時期はどこに行っても「○○桜まつり」などという看板が立っているものだが、こう早く咲いてしまっては準備が追い付かないのだろう。 しっくい塗の資料館はこれまで見たことがないので気品を感じた。
ここ甘木は、邪馬台国論争で九州説の大御所・安本美典が、こここそ邪馬台国の所在地であると断定している場所である。
ここを邪馬台国とする 安本の論拠の大きな一つが大和地方と甘木の「地名の類似」である。その類似性にはさらに大きな特徴があり、類似した地名の地図上の並び方までが同じだという。
館長らしき人にその点を訪ねてみた。
「ええ、そう言いわれますよね。確かに似ているんですよ。」
―そうですか。でもその類似が三世紀の邪馬台国時代にすでにあったのですかねえ。疑問に思いますよ。
というのは、この朝倉地方は斉明天皇の時代に、唐・新羅連合軍と戦うためにわざわざ大和から朝廷を移した場所じゃないですか。女帝である斉明天皇が自らここへやって来て朝倉宮を建て、対新羅戦の陣頭指揮を執ったことは確かですよね。
その際に本宮のある大和地方の地名を行宮のこの朝倉・甘木地方に名付けて回った―というのが本当ではないですか?
「・・・・・」
というわけで、私見には答えてもらえなかった。
世界各地で移民とかやむを得ず故郷に別れを告げざるを得なかったような場合、移住先で故郷の名を付けるというのはありふれたことである。
このことを考えると、卑弥呼の時代にこちらから大和へ地名が遷移されたと考えるよりも、卑弥呼の時代より400年後の660年頃に、対唐・新羅戦争に向けて置かれた朝倉宮の存在感のほうに軍配が上がるはずである。
やや僅少な例かもしれないが、自分たち一家が足掛け8年ほどを過ごした肝属郡田代町(現在は大根占町と合併して錦江町田代地区)の高原地帯にある大原地区は、ここに平家の落人が住み着き、京都の大原に因んで大原と名付けられ、また近くのランドマーク的な山を嵐山に因んで「荒西(あらせ)山」と名付けたと聞いている。
ことほど左様に、平家のように落ちぶれて、あるいは斉明天皇のように繁栄の飛鳥京を離れて九州の片田舎に遷都したような場合、かって馴染んだ地名をそこここに名付けて昔日の栄華を忍ぶということはもっともな心理であろう。
したがって、私は邪馬台国がこの甘木にあり、東遷した先の大和に甘木の地名を名付けたのではなく、その反対に大和から遷都を余儀なくされた斉明天皇はじめ百官百寮の望郷の念が甘木一帯に大和の地名を名付けさせたと考える。
結論として、邪馬台国甘木説は成り立たないと見るのである。
資料館を辞して次に向かったのはいま話題になった「斉明天皇の行宮・朝倉橘広庭宮を訪れた。 甘木からは東南へ走る国道(日田往還)をほぼ一直線に行くこと7キロ、比良松というところから左折して丘陵地帯を目指すと1キロほどで目指す「橘広庭宮」跡に行き当たる。
ここには「長安寺」という古い寺もあったらしい(二本の桜の右手奥)。また赤御影石の上の奥に小さく鳥居が見えるが、あの神社は「朝闇(あさくら)神社」で、ここ朝倉地方の地名の語源という。 朝闇神社の横を登って岡の上に出ると、「橘広庭宮址」と刻まれた巨大な石碑が立っていた。表面の字は「橘広庭宮址」とある。昭和13年建立。
後ろはなだらかな丘に繋がっている。この辺りはナシの栽培が盛んなようで、あちこちにナシの樹園が広がっている。
朝倉宮はここではなく、今しがた通って来た丘陵の一角にあったというが、いずれにしても今でも畑以外何もないような土地柄であるから、1350年前の斉明天皇の当時はどんなにか辺鄙なさびしいところだったろうか。
こんなところに行宮が営まれたら、天皇はじめ大宮人たちの繁華な飛鳥の都への思慕はいかばかりか、想像するだにすさまじきものがある。遠い都を懐かしんで周辺の山々岡々に都の地名を付けて偲ぶよすがとしたであろうことは、心理的に極めてよく理解できる。
卑弥呼時代に安本が見出したような大和に共通する地名とその配列があったと考えるのであれば、まずはそれが三世紀の地名及びその配列であることが証明されなければなるまい。
さて近くのそば屋で昼食を摂ったあと、今度はひたすら北西を目指して走った。
二時半ごろ、次の目標である「奴国の丘歴史資料館」に到着。早速調べに入る。 歴史資料館にしてはモダンな建物であった。
明治32年(1899)、ここ須玖岡本遺跡からは王墓と思しき甕棺墓が見つかり、その内外に30面の銅鏡(舶載鏡)、ガラスの璧、銅剣、銅矛、銅戈、ガラス製勾玉・管玉等多数の副葬品が確認された。ことのほか丁寧に埋葬されていることから、この甕棺の主は「奴国王」と断定された。 ジオラマ展示。CGを使った分かり易い甕棺墓の中身。二つの巨大な甕を口合わせにし、合わせた部分を粘土で糊付けする。
甘木もここも、このあと二日目、三日目に回った糸島市でも吉野ヶ里遺跡でも、甕棺の盛行はすさまじいの一言に尽きる。弥生期の前期から後期まで(ほぼ弥生時代中)九州北部でも朝倉地方から筑紫野を経て玄界灘に面する一帯と背振山系を南に越えた佐賀平野一帯の弥生時代の墓として、なぜこのように甕棺墓が流行ったのか、実はよく分かっていない。どう焼いて作ったのかも窯跡が発見されていないので不明という。
こんなに白日の下にさらされた墳墓は少なく、その数3000から5000と言われているくらい発掘の事例があるのに、いまだに上のように謎だらけである。 資料館の広い庭の一部には二つのドーム形の建物があり、その中では甕棺墓の発掘の状況を再現している。このように密接して発見されるのは家族墓らしい。
弥生時代の甕棺墓の先行形態は縄文時代の「壺棺墓」だが、縄文時代は主に幼児用で、幼児の亡骸を壺に入れたあと家の敷地内の土の中に埋めた。それは幼児を母の子宮に似た壺に入れ家の地下に置くことにより、再生(生まれ変わり)をスムースに行うという意味があったようである。
そのことを敷衍すると、甕棺も壺棺と同様、遺体を子宮になぞらえた甕に入れて埋葬することで再生を願ったのだろうか。
奴国の丘を見学したあと、時間があったので宿泊先のホテルよりさらに西、翌日行く予定の糸島市に近いところにある「小戸」海岸まで行ってみた。 小戸海岸近くの丘の上には「小戸神社」があり、祭神はオオヒルメムチ。はて、ここは禊祓いをしたイザナギの聖地ではなかったか。なぜイザナギが祭られないのだろうか。ちょっと首をかしげる。
そんなことを考えながら、西向きの海岸まで行ってみた。少し待つと夕日が向うに沈んで行った。そうかこの太陽(オオヒルメムチ)こそ、イザナギの禊ぎにより生まれたのであった。だから小戸神社に祭られたのであろう。(第一日目終わり)
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