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福岡・佐賀歴史探訪(2)

 二日目の3月22日はいよいよ本命というべき探訪箇所・糸島市を訪れた。

 言わずと知れた魏志倭人伝上の「伊都国」の所在地(と邪馬台国研究者のほとんどの者がそう比定している地)である。

 7時半過ぎに福岡のホテルを出発し、唐津街道を東へ5キロほど走ると昨日の夕方来た小戸海岸を右手に見てさらに5キロ、周船寺という地区に入る。ここは「すせんじ」と読むが、本来は「主船司」であったろう。船を管理・取り締まる役所のことである。

 周船寺西という信号交差点を左折し、3キロ余り南へ行くと辺りはすっかり農村地帯である。やがて左手に「怡土城上り口」という標識を見る。

 そこを左折すると、すぐに小高い岡が立ちふさがるが、それを左に巻いた所に立派な看板が立っていた。向かいにはこぎれいなトイレもある。

 看板の説明を読むと、今いる所は史跡「怡土(いと)城」のある高祖(たかす)山麓の土塁の切れ目で、立ちふさがるような5,6メートルの高さの岡はその一部であった。また、高祖山の中腹には「高祖神社」が鎮座するとも書いてある。

 まずはトイレの横から岡に上がってみた。Cimg5036 上がった頂上には「皇紀2582年」(大正11年=1922年)建立の「怡土城址」碑が立つ。この真後ろに回ってみると、Cimg5041 平らになった土塁の上に結構な大木が建ち並び、その間は人が十分に歩ける広さで、行ってみると100㍍ほどは続いていた。右手には人家が立ち並ぶが、高さはちょうど2階建ての屋根くらいはある。敵の襲来を防ぐには十分だっただろう。

 この怡土城の築城は『続日本紀』の天平宝字8年(西暦756年)のこととして次のように記されている。

 六月甲辰(22日)、はじめて怡土城を築く。大宰大弐・吉備朝臣真備をして専らその事に当たらせしむ。>
 

 756年と言えばこの年の5月には聖武天皇が崩御している。世上やや不穏だったのだろうか。ところがそれから9年後の天平神護元年(765)3月にも、大宰大弐・佐伯宿祢今毛人に対して同様の命令が出されている。

 唐への留学生上がりで学者としても一流の吉備真備が最初に築城に取り掛かかったが、途中で都に昇進して行ったため完成を見ず、代わって同じ大宰府高官であった佐伯今毛人が監督することになったようである。

 怡土城はこの高祖山(416m)の山麓から山頂近くにかけて延々と土塁で囲うように築かれていて、とてもすぐに回れる所ではないが、200㍍ほど山域に進んだ所に高祖(たかす)神社があるので上がってみる。Cimg5048 駐車場に車を入れ、少し上るとどっしりした花崗岩製の鳥居がある。くぐって石段を登ると拝殿である。Cimg5046 拝殿は瓦葺だが本殿は茅葺である。
 創建の由来は不明だが、祭神は三座あり、中央が皇孫ヒコホホデミ尊・左座がタマヨリヒメ・右座はオキナガタラシヒメ(神功皇后)だそうである。古代から「怡土郡の一之宮」として崇敬されていた。

 正史『日本三代実録』の元慶元年(877)9月25日の条に

 正六位・高礒比売神の従五位下を授く。>

 と見え、「これはこの神社のことに違いないものの、ヒメ神としてあるのは不審だが、主祭神ホホデミの左右がタマヨリヒメ・タラシヒメとヒメ神である故、このように表記したものであろう」というふうに神社由緒看板には記してあった。

 たしかにそう思われはするが、しかし三代実録では「高礒比売神」(たかいそひめのかみ)とあり、「たかす」神社ではないのが、むしろ不審である。

 最初にこの神社名を見た時は「こうそ神社」と読むものと思っていたが、現地に来て「たかす」と読むことを知った。「こうそ(高祖)」ならこの地域における「天孫降臨伝承地」(聖地)に違いないと踏んでいたのである。

 それが「たかいそ」神社と言うならば、実はむしろ思い当たる節がある。

 というのは、この怡土郡の前代の名は発音は同じ「伊覩郡」であるが、仲哀天皇紀に伊覩県主・五十迹手(怡土の首長)が登場する。

 県主は仲哀天皇に恭順して貢などをするのだが、その様子を見た天皇が、「お前はたいそうまめまめしく・いそいそと恭順の様々な貢献をしてくれたので、お前の国を<伊蘇国>(いそのくに)と名付けよう。」と述べ、それ以来この地方を「伊蘇国」と呼んだ、という。

 また、筑前風土記逸文には同じような理由から怡土県主の五十迹手を称賛し、国名を<恪勤国>(いそしのくに)にせよと言ったと記す。

 以上の記事から、私見ではこの怡土郡の古名は「いそ国」であり、「いそ」を漢字で書けば「五十」であろうと考えていたが、現地の高祖神社の祭神が本来は「高比売神」(たかいそひめ)であるのなら、まさに記紀や風土記の記述と合致し、私見の正しさが証明されたように思う。(「五十」は10代崇神天皇と11代垂仁天皇の和風諡号に含まれる。)

 高祖神社から、今日の最大の目的地「伊都国歴史博物館」へはもと来た道をさらに南下し、右手に(西に)行った所にあった。約1キロほどである。Cimg5051 ちょっとした町役場ほどもある立派な博物館だ。後方に見えるのが「高祖山(416m)。

 3階まである博物館をじっくりと見て回る。途中からボランティア氏(男性)がずっと案内をしてくれた。

 原田大六という地元の民間考古学者が発掘した「平原弥生古墳」出土物が大量に展示されている。古墳と言えば4世紀以降のいわゆる前方後円墳を代表とする遺構の名称だが、原田はそれを承知であえて「弥生古墳」とした。(一般的に弥生時代の物は「墳丘墓」と呼ぶのがふつうである。)

 副葬されていた舶載の漢式鏡から弥生時代後期中葉(西暦100年代)頃の墳墓であるというう。この墳墓より前の王墓として「井原やりみぞ王墓」さらに古く「三雲南小路(みなみしょうじ)王墓」があるが、これはどちらも北部九州に大量に見られる「甕棺墓」であったのに対し、この平原弥生古墳は「割竹形木棺」であり、この形式は畿内の前期古墳と共通している。

 また、出土した鏡・玉・剣の三点セットも畿内の古墳に共通する副葬品であり、以上の理由から、平原王墓の主の次の代(2世紀後半)にはここから畿内へ東征を果たしと考えるのが順当だろうとした。

 したがって原田大六は、倭人伝の時代(3世紀前半)には、その5、60年前にここから東征を敢行して畿内に樹立した邪馬台国(という名の、のちの大和王朝の前身)に逆に支配される地域となり、それゆえ大和の邪馬台国から「一大率」を置かれて統治下に入っていたのだ―と考えている。(原田は邪馬台国畿内説をとる。)

 以上のように、原田大六は直径46.5センチもある八咫の鏡と同じ鏡を5面も副葬していた平原王墓の主は後の天皇家につながる人物で、剣が一振りしかなく巨大な大量の鏡と無数と言っていい玉(勾玉・管玉など)の副葬品を勘案すると、女王であるとする。

 原田はその主の名は「玉依姫」だろうとする。日向神話では、タマヨリヒメはウガヤフキアエズ尊の王妃であり、神武天皇の母である。この人物は神話上の創作された人物ではなく、現実に存在したのであり、その子である神武天皇も神武東征も史実であった。

 そこで平原弥生古墳について著した書に『実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」』と名付けたのである。戦後の記紀神話の冷遇を見事に吹き飛ばす著書と言っていいだろう。(ただ、相変わらず世上の史学は記紀神話をまともに取り上げないでいるが・・・。)

 博物館を出る直前に学芸員という人に質問をぶつけた。

―倭人伝では壱岐国からは船で末廬国(唐津)に上陸し、そのあと陸行で伊都国に来るとしている。もし伊都国がここだとしたら壱岐から唐津などに行くよりここへ直接船を着ければいいのではないか? 

「ここの船関係者の話では、糸島から壱岐に行くときは対馬海流に逆行する形になってしまうので、わざわざ唐津(呼子)まで行ってから対馬海峡を横断して壱岐に行くといいます。その方が最短距離で安全でもありますし・・・」

―なるほど、壱岐に行くときはそうしたらいいよね。じゃあ、その帰りはどうなるの? 倭人伝の記述はその帰り道と同じ<壱岐から本土>への道筋を書いているんだが。

「そうですね、帰りは・・・・・・。直接来れますよね・・・。」

 学芸員氏も、やゝしどろもどろになってきた。

 結論は出なかったものの、糸島から壱岐への航路は

 ①行きは糸島港(加布里湾)から船でまずは唐津湾を横断し、呼子辺りで風待ちをして一気に対馬海峡を横断する。

 ②帰りは壱岐から呼子を目指し、そこから加布里湾へ横断する。もしくは壱岐から直接加布里湾を目指す。

 というやり方であれば、唐津で船を捨てずに船のまま直接糸島へ到着することができる。Cimg5060(加布里漁港。向うの山は「可也(かや)山」(365m)で、糸島海人のランドマーク。加布里とは「かやふり」の略語だろう。)

 したがって、末廬国(唐津)から「東南へ陸行、500里で伊都国に到る」と記述されている「伊都国」は糸島ではない―という結論に達せざるを得ないのである。

 判然としない面持ちのうちに受付で図録など5冊を買い求め、土産品などの情報を得てから館を後にした。

 次に向かったのが、原田大六が精魂を傾けて発掘・整理・報告に陣頭指揮を執った平原弥生古墳だ。伊都国歴史博物館から西南2キロくらいに歴史公園として整備されていた。Cimg5059 堂々たる標柱石。Cimg5057 かなり広い公園の中央に復元された盛り土が弥生古墳である。東西14メートル、南北が10メートルというからそう大きなものではない。Cimg5058 副葬品の数々の写真をを特殊なタイルに焼き付けた、壁面。

 なにしろ鏡がすごい。国内最大の直径46.5センチの国産「内行八葉花文鏡」4枚は、もうこれだけで他の墳墓を圧倒する副葬品である。その他国産鏡1枚。他に舶載鏡(漢鏡)が35枚。剣は素環頭太刀(80センチ)が一本のみ。他にガラス製の勾玉・管玉・連玉、メノウ製管玉など装身具品が多数発掘された。

 ただ、埋納された鏡はほぼすべて埋納前に割られていたことが確実で、それが何を意味するのか謎が残っている。

 眺めまわしたところ、鹿屋の笠野原台地の半分くらいの面積と思われる怡土の地に、かくも巨大な痕跡を残した平原王墓の主とはいったい誰で、なぜ副葬の日本のどこにも無いような巨大な40面の鏡がことごとく割られて納められたのか、謎は尽きない。

 私見ではどうやら「五十王家」一族の殷賑の地かと思うのだが、課題が増えた。

 土産の「伊都の鏡」という最中を買い、次に向かったのが唐津。

 加布里湾を右手に道は海岸道路。二丈町と浜玉町のほとんどは海岸まで迫る山塊に押しつぶされそうな険路で、とてもじゃないが帯方郡使が歩けるような道ではない。やはり唐津から糸島へは船で行くほかないはずで、これも伊都国が糸島ではない証拠になる。Cimg5073 唐津市の「末廬館」という資料館を見学。ここは実は日本最古の水田跡が発見された「菜畑遺跡」の場所である。館内に入ると、この近くで見つかった唐津の王墓と言われる「桜馬場遺跡」の解説が目を引いた。Cimg5067 のちの末廬国国王家につながる王の墓(甕棺墓)だろう。

 唐津の古代の地図を見ると海域はかなり町の中まで広がっていたようだが、松浦川のもたらす堆積で陸域が押し返してきた。

 その松浦川河口の、昔は島だった小山の上に、唐津城が復元されて立っている。見事な眺めである。Cimg5063 さて、私見では末廬国(唐津)から、帯方郡の使者は東南へ陸行したとあるのは、松浦川沿いの道を行ったのだと考えているので、実際に松浦川を走ってみる。まさに東南に向かっている。

 川沿いの道は悪路にしても、飲み水には事欠かないし、確実に高度を稼ぎ、確実に峠を越え、迷わずに目的地に到達できる。それは今も昔も変わらないだろう。Cimg5076国道203号線にある「厳木(きゆらぎ)の里」。唐津から15キロ弱、休憩にはもってこいの山里の道の駅。左手に国道、国道のさらに左手には松浦川沿いに集落が広がっている。向こうへ行くと峠を越えて多久市に入る。Cimg5077ここで驚いたのが、巨大な石膏像だ。説明板によると「松浦佐用姫」で当地の出身だという。あれ、佐用姫は唐津の「領布(ひれ)振り峰」(鏡山)に登って、任那に船出した大伴狭手彦を慕って、いつまでも領布を振ってそのまま石になった―というから、てっきり港に近い唐津市内のヒメかと思っていたのだが・・・。

 肥前風土記「松浦郡」の項に出てくる話で、ここも当時松浦郡に属していたとあれば、まんざら作り話でもないのだろう。美女がこんな山中にいること、稀ではないのだから。

 面白いのは、この石膏像。時間とともにゆっくり回っているのである。最初見た時は後ろ向きだったのだが、今はほらこっちを向いてヒレを振っている。






















 

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