« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

アメリカ様への配慮!?

 NPT(核拡散防止条約)会議において、現地人の支配する「新生南アフリカ」が提出し70余国が賛成したという「核兵器不使用」決議に日本は賛成しなかった―という報道が28日にあった。(同じ日に「主権回復の日式典」が開催された。)

 その理由は<いかなる場合でも核兵器の使用はあってはならない>という部分が、「日本の安全保障上、そぐわないから賛同できない」のだそうだ。

 

 日本こそ率先して核兵器不使用を提議すべきもっとも期待される国家のはずである。それがこの頃の北朝鮮の核実験や核兵器保有への傾斜を受けて、アメリカの戦略に同調する方向へ向かったというのであろうか。

 バカもいい加減にせい!

 北朝鮮が核兵器を使用して他国を攻めたら、それが北朝鮮の終わりであることははっきりしている。それなのにアメリカはそれを受けて「お返しに核兵器をお見舞いして北朝鮮の息の根を止める」という最終戦略を考えているのだろうか。まともな考えではない。

 イラク戦争でやったように通常の兵器をピンポイント爆撃で北朝鮮の中枢部に集中砲火すれば、難なく北朝鮮指導部を粉砕できるではないか。「目には目を」で、やられたと同じ核兵器をぶち込まなければ済まない―というのであればあのイスラムの「ハンムラビ法典」と同じ過ちを繰り返すことになる。キリスト教国家アメリカが何もイスラムの教えに従うこともあるまい。

 そもそもアメリカのオバマ大統領はかの2008年の「プラハ宣言」で、核兵器廃絶を訴えていたではないか。その舌の根が乾かないうちに「北朝鮮が核兵器を使用するかもしれない」ことを理由に「北朝鮮があのような核兵器使用の脅しをかけてくる以上、こっちも核兵器不使用なんて言ってられない」と変心したのだろうか。

 オバマもペンタゴンのやる気満々に折れてしまったのか。

 この際、日本もアメリカとは手を切った方がいいな。このままずるずると「集団的自衛権が行使できる国家に」なんて言っているうちに、北朝鮮への核兵器使用を「致し方ない」「息の根を止めるために自衛隊を出兵する」となれば、日本はアメリカの完全な属国として世界から見捨てられる。

 日本は国連においてはいまだに英米(連合国)に敵対した「敵国条項国家」だが、ことを荒立てないために国連を脱退までする必要はない。アメリカ軍だけの駐留に代わり、堂々と真の「国連多国籍軍」(米・英・仏・露・中その他日本に勝った連合国軍)の駐留を受け入れたうえで、「日本はアメリカとの片務的な安全保障条約を廃棄し、代わって永世中立国を宣言する」と天皇陛下が直々に世界に向かって発表すればよい。

 こうなると世界のだれもが認めざるを得ないに違いない。国連の安全保障常任理事国(英・米・仏・露・中)は苦々しく思うだろうが、その他の世界180か国は「大賛成だ。日本こそが世界の安全弁なのだから」と諸手を挙げるだろう。中国共産党政府以外のアジア各国がしかり。1960年に植民地解放宣言を受けて次々に独立したアフリカ諸国もしかり。イスラムのほとんどの国もしかり。(今回、核兵器不使用を提議した南アフリカはマンデラ大統領が出現するに及んでこれまでの白人支配・人種差別=アパルトヘイト政策から解放された国で、日本の不採択には心底残念に思っているに違いない。だが、日本の永世中立には賛成するだろう。)

 「なぜ、日本は英米に敗れたとはいえ、いつまでもアメリカの属国のようになっているのか。もっと世界の平和・安全のために貢献して欲しいものだ。戦前に日本が立ち上がらなかったら、われわれ有色人種はいつまでも欧米の植民地であったのだ。日本こそ我々の目標だ。」

 こう思っているアジア・アフリカ・イスラム・ラテンアメリカの国々は多い。

 日本よ、目覚めよ! アメリカの属国から離れよ!

 世界はそれを期待している!

| | コメント (0)

彩雲?(鹿屋市池園町)

 一昨日の朝(4月26日)のことだが、いつものようにウメの散歩を終え、4月から再開したラジオ体操に取り掛かろうとして東を向いたら、太陽を隠す薄い雲に色がついているのに気付いた。Cimg5222東のテラスの柱で太陽を遮って写す。

 朝焼けの赤一色とは違い、様々な色が現れている。赤・オレンジ・薄紫・青緑・・・。Cimg5223ズームで見たところ。

 真ん中の帯状の朱色だけ見れば朝焼けとしても良いのだが、ブルー系が入っているので「彩雲」と言える現象に近い。

 以前、真昼の空に彩雲を見たことがあったが、あれは晴れ渡った中にぽつんとやや筋状に浮かんだ小さな白雲に虹のような色彩が現れていた。あの場合、おそらく白雲での太陽光の反射が、たまたま地上で見る角度により、虹のように見えたのだろう。

 でも、今度のは雲が太陽光を遮る形で起こっているので、棚引いている薄い白雲そのものがプリズムの役割をして見えているに違いない。

 朝焼けはよく見るが、こういうのは初めて見たように思う。Cimg5228それから5、6分ほど経つともう色彩は失せ始めた。Cimg5233さらに2、3分後。

 横に広がっている最上部の白雲の中に太陽がすっぽり入ったので、まともにカメラを向けてみた。

 また色彩が現れた。このあと1分もするといつものような太陽に変わり、まぶしい一日が始まった。やや、肌寒いが・・・。

 早朝の天空ショーはわずか10分で終わった。そんなこんなで、朝のラジオ体操をすっかり忘れてしまったのであった。いかん!










| | コメント (0)

山峡の田んぼ(鹿屋市吾平町大牟礼)

 ここ一週間くらい、先だって上梓した史談会の史論集『大隅』56号を投稿者に配ったり送ったり、また、今月29日に開催予定の役員会の資料を作ったりして忙しかったが、午前中には何とか終えた。

 ほっとして、郵便局に行ったついでに近くにある(といっても1、5キロは離れているが)そば屋「和楽」で昼食を摂った。ここは以前個人スーパーだったのを改廃してそば屋になった。かっての主人夫婦だけでやっている店で、週日にしてはまずまずの客の入りであった。

 しばらく四方山話をしてから店を出て家に帰ったが、部屋の中から外を見ると余りにも日和が良く、もったいないような気がして、デジカメを首にぶら下げミニバイクで外出した。

 どこもかしこももう陽春の息吹そのものであるが、吾平町方面の早期米はもう植え終ったかが気になり、行ってみることにした。Cimg52214キロ足らずで西目川路という集落の田んぼ地帯に入る。この地区は江戸後期に田園を求めて薩摩半島の指宿の川路から移住してきた人たちが拓いたと聞いている。

 すでに田植えは終えていて、人影はないように見えたが、農夫が一人、畦の草刈りをしていた(左から二本目の電柱のそば)。Cimg5217田んぼ沿いの道路から一段上の山道に上がると、山峡から流れてくる小流に沿ってゆるやかな段々田が展開して見えてくる。Cimg5215何十メートルか行けば、史跡案内の表示があり、右折して人家の間を行き、さらに田んぼへ下る道を右折してほんのわずか、右手の奥まった所に「タノカンサ―(田の神様)」が鎮座する。

 「大牟礼のタノカンサ―」で、江戸末期の作ということであった。Cimg5216_2左手にメシゲ(しゃもじ)、右手は神主などが持つ笏(しゃく)を握っている。大牟礼も指宿からの移住地区であるから、このタノカンサ―は指宿出身者が豊作への願いを込めて建立したものだろう。Cimg5213タノカンサ―のすぐ下の田んぼに降りてみる。ここなどは田植えしてからまだ一週間くらいだろうか、補植用の余り苗がまだ置かれている。Cimg5220それでも田んぼの水の中では新しい命の動きが・・・。どこからやって来るのか、ミズスマシやオタマジャクシ、ダボハゼの赤ん坊のような小魚などが見える。Cimg5219過疎地とはいえまだまだ頑張っている農家が多い。美しい田園はこのような人たちの手で守られているのだ。感謝。




















| | コメント (0)

『大隅56号』の発刊

 昨日(4月19日)、ついに『大隅56号』(大隅史談会発行)が出来上がった。Oosumi56gou_3表紙写真は3月3日に行われた<鹿児島神宮初午祭>に出場する神馬。

 昨年12月の理事会で編集会議をしたあと、原稿を打ち込んで仕上げ、最終的に印刷所に回したのが4月2日。1回だけ校正があり、その後は製本待ちであった。ほぼ予定通りの上梓となった。

 56号には23編(著者は16名)が集まった。B5版で総ページ183ページ。

 今年は大隅国が古日向国から分離独立してちょうど1300年目に当たることから、大隅を論じた投稿が多かった。以下に目次部分を掲げる。

 1、日本列島の倭人の起源について・・・松下高明

 2、神武誕生・・・武田悦孝

 3、邪馬台国九州説の諸相(2)・・・松下高明

 4、隠された大隅邪馬台国・・・妹尾和代

 5、大隅と朝鮮半島・・・新留俊幸

 6、大隅の国・・・江口主計

 7、大隅国分立前後に現れた人物群

      ―古代南九州人の系譜を探る―・・・松下高明

 8、島津庄と肝付氏庶流・・・隈元信一

 9、肝付氏とは・・・隈元信一

 10、肝付氏系譜への疑問点・・・竹之井 敏

 11、チダカの地名・・・福谷 平

 12、桂(かつら)山城守の墓塔・・・竹之井 敏

 13、前川筋の歴史・・・閏野志郎(遺稿)

 14、串間史から見た隠れ念仏・・・閏野志郎(遺稿)

 15、高山の野町今昔・・・竹之井 敏

 16、地名散歩(11)・・・中島勇三

 17、特別攻撃隊・・・日高幹子

 18、調所笑左衛門の梅とノブ(高山こぼれ話)・・・日高幹子

 19、笠木原開墾起工式余興写真詳報・・・橋口 満

 20、岸良の空襲・・・佐々木實然

 21、高須への進駐軍上陸・・・上原義史

 22、二股川の記憶・・・下田節子

 23、ロケットの歩み50周年に寄せて・・・牧 工

(※志布志市出身で寄稿を続けてこられた閏野志郎氏(鹿児島市紫原)が本の完成を見ずに亡くなられました。謹んで哀悼の意を捧げます。)

 読んでみたいという方は大隅史談会事務局へ、以下の要領で請求して下さい。

    誌代 2000円 (送料 サービス)

  郵便局から事務局の振替口座あてに郵便振替で上記金額をお送りください。入金確認の後、直ちに送付いたします。

 大隅史談会事務局 郵便振替:02000-2-11027

 〒893‐0042 鹿児島県鹿屋市池園町2245-5

     事務局(会長兼務) 松下高明

 


| | コメント (0)

カライモ畑のミステリー(鹿屋市池園町)

 仕事を辞めてから、愛犬ウメを、これまでの朝起きたての一回の散歩に加え、夕方の食事前にも一回と、二度連れ出すことにしている。

 連れ出すといっても本当はこちらのウォーキングを兼ねて引っ張り出しているので、ウメには迷惑千万・・・・・・なんてことはない。全くの杞憂。

 つまりは「Win-Win」の関係なのである。何といっても犬は散歩が一番好きだ。このごろはこれが当たり前になり、夕方の日暮れ時にはそわそわと落ち着きがなくなる。玄関と居間のある硝子戸の方を交互に見比べては、尻尾を立てたり項垂れたりしながら行ったり来たりするからおもしろい。

 いつものコースを、ウメは手綱を引っ張るようにして歩いて行く。それでも時どき地面に鼻を擦り付けんばかりに草むらに入って行く。とても道草が多い犬なのだ。モグラが通ったあとの膨らんだ地面があれば、そこに鼻を突っ込み、前足で土をシャベルよろしく掻き出していく。一度もモグラを捕まえたことはないが・・・。

 今日の夕方、1キロほどある畑の中のコースも半分に差しかかったとき、とある畑の畦に目が釘付けになった。「忘れ物かいな?」「それにしても裸足でどうやって帰ったのかな・・・」Cimg5209水色のサンダルがきちんと並べて畑の入り口の畦に置いてあるではないか。(ウメの散歩のあと、デジカメを手にし、引き返してきて撮影した。)Cimg5206サイズは女性用であろう。畦に咲くきれいな花々は、たぶんこのサンダルの持ち主が植えたのに違いない。Cimg5210黒いビニールでマルチングをした畝に真新しいカライモ(唐芋=さつまいも)の苗が植え込まれている。畑の土は湿っているがドロドロしているわけではないので、サンダルで作業をしたのだろうか。Cimg5207見渡す限りのカライモ畑。Cimg5211_2靴がそろえて置いてあると、誰かそこから身を投げたのだなどと言うが、後ろの大きな溝には誰もいなかった。

 昔むかし、天智天皇は山科の里へ馬に乗って狩りに出かけたまま帰らず、探しに行ったらそこに沓(くつ)だけがあった―という伝承があるが、それほどの大事ではないだろう。

 黄昏れゆく池園畑のミステリーはこれにて―。
















| | コメント (0)

福昌寺跡(鹿児島市池之上町)

 4月12日に指宿で義父の三年忌があり、一晩泊まって自分だけ早朝に出立、途中、鹿児島市の「福昌寺跡」を見学した。

 国道10号線の滑川交差点を左折し、西郷さんの眠る「南洲墓地入り口」を左に見て直進、500㍍ほどで池之上町の鹿児島市立玉龍高校(現在は中学校を併設している)に行き着く。Pt350093_2

正門から見たところ。この学校の裏手の傾斜地一帯が「玉龍山福昌寺」の跡である。学校の名称はこの「玉龍山」から採用されている。Pt350070

学校の左手の細い路地を入って行く(看板あり)と、ブラスバンドか何かの音楽部の使用する建物があり、その手前から右に入るとちょっとした駐車場がある。この石造りの塀の中がかっての寺院跡で、現在は島津宗家の墓地になっている。Pt350071_2

福昌寺跡の入り口。門扉に南京錠は無いのでおそらく閂を外せば中に入れると思うが、許可を得てからのことだろうと今回は無理に入らないことにした。Pt350073

右手の低い塀越しに中を覗く。綺麗な由緒ありげな宝篋印塔などが立ち並ぶが、さらに島津氏の墓域は上の段(木が繁っている段)まで続いている。塀の外には家臣(重臣)の墓塔が並んでいる。この中にはかなり著名な人物の墓があった。Pt350076

横山安武の墓。

 この人は森有礼の弟で、明治新政府に出仕していたが、新政府の役人連中の道徳心の低下(地位への執着。金や女への執着)に憤慨し、たしか参議の集会施設か何かの前で直訴状の様な物を携え、割腹自殺を遂げた人である。

 西郷さんはこれをいたく悲痛に思い、また、自身も不甲斐なく思っていた役人の行状に鑑み、横山への長い追悼文を書いている。このこともあり、また自分にも新政府への絶望があったため、参議及び陸軍大将の重職を弊履のごとく捨てさせ、郷里鹿児島へ隠棲させたのだとも言われている。

 そのほか珍しいと思ったのが、江戸後期の国学者で三国名勝図会より50年も前に鹿児島の地歴書『麑藩名勝考』を著した白尾国柱の墓である。やはり藩への相当な功労者なのだろう。

 またごく新しい墓塔があり、刻まれた字を見ると何と調所広郷のものであった。Pt350079_2

墓塔の裏と側面。平成13年に、子孫の方が連名で建立したものである。

 広郷は茶坊主だったが、28代当主・斉興の引き立てを受けて家老の地位まで登り、奄美の黒糖を一手に扱わせる条件で大阪商人に取引させ、またそれまで借りていた500万両(現在で250億円ほど)を250年賦で返済するという条件を呑ませた人物である。

 しかし幕府から薩摩藩への密貿易の嫌疑が上がると、責任を取って江戸藩邸で自害している(させられたといってよい)。Pt350080

その他にも「他藩人の墓」とか「琉球僧侶の墓」「旧琉球藩人の墓」などが目についた。Pt350089

島津宗家の墓域の上の方にはこの福昌寺歴代住持の墓塔群がある。入り口には「光明蔵」と刻まれたアーチ状の石の門がある。Pt350090

福昌寺開山・石屋真梁禅師の墓。「真梁は島津氏一族の伊集院忠国の子で貞和元年(1345年)の生れ。第8代当主・忠昌(恕翁公)の帰依を受けて法縁を結び福昌寺を創建した。藩で第一の巨刹であり、邦君累代の菩提所・・・」と『三国名勝図会』に書いてある。Pt350091_2

真梁禅師の墓の左手に並んだ墓塔群の中に一つだけ「15代忍室文勝和尚」と説明標柱のある墓。

 この住持(和尚)は天文18年(1549)8月、かのフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教を伝えようとした時の住持で、キリスト教と禅問答をしたことで有名である。

 最初はお互いにそれぞれの教理を学びあったようだが、教えとしてはキリスト教の方が凡人にも分かり易いため、1年ほど滞在している間に数百人という結構な数の信者が生まれたという。ある僧籍の者まで信者になったらしいのだ。そのため仏門側からの反発が強くなっていった。

 当時の島津当主・貴久も仏門側の要請や、布教のための土地を入手したいというザビエル側からの申し出などに躊躇せざるを得なくなり、やがて布教を禁止する方へと向かった。

 ザビエルは自由な布教のためには国王(天皇)の許可を得ることが大事と考え、京都に上ったのだが、会えずじまいで、その帰途、山口の大内氏に布教を認めさせることに成功し、しばらく滞在したようである。他に、豊後の大友氏なども布教を認めた大名であった。

 そのキリスト教徒の墓が福昌寺墓地のさらに上、ちょうど玉龍高校の屋上の高さくらいの斜面に広がっている。広さは30坪くらいだろうか。中に「1870年から1873年の間に長崎・浦上の(旧隠れ)キリシタンで、迫害された者たちがここへ逃れてきてここで亡くなった」と明刻された箱式石棺のような石墓もあり、珍しい。

 鹿児島ではキリスト教布教は禁止され、同じように禁止された真宗系仏教は「隠れ念仏」という形で脈々と伝え続けられてきた。そんな流れからすると「隠れキリシタン」もどこかで命脈を保っていたのかもしれない。































| | コメント (0)

花冷え・藤花二題(鹿屋市南町・吾平町)

 今朝は結構冷え込んだ。朝6時にいつものようにウメを散歩に連れて行くとき、ほとんど真冬と同じように着込んで外に出たほどだ。

 1キロほどの散歩コースの最後に、とある畑に来てみて驚いた。僅かばかりだが霜が降りていた。Cimg5188 他の畑には降りていないのに、この畑だけはうっすらと降りているではないか。Cimg5189 つい最近(昨日だろうと思う)耕したばかりの畑で、耕運ロータリーのガイドをする小さな車輪の通ったあとの少し高くなった稜線部分に、特に濃く降りている。

 ははあ、と思った。昨日のかなり強烈で冷たい西風に晒されてこの稜線部分がぐっと冷え込んだので、霜がそこだけ強く降りたに違いない。

 桜(ソメイヨシノ)が満開を迎えるころに気温が真冬並みに下がるのを「花冷え」というが、今年は満開どころかとっくに散ってしまっているので花冷えも空振りということになる。

 ソメイヨシノ以外の花々も今年は例年よりはるかに早く満開を迎えているが、藤も例外ではなく、もうあちこちで満開となっている。

 我が家から3キロほど東南に行った南町の路地を走っていると、民家のブロック塀に鉢巻のように長く伸ばしてある藤が見事だった。Cimg5191 道路沿いに8㍍ばかり、家の庭に向かって4㍍ほどがつながっている。合わせて12㍍は長さ十分である。ここまで仕立てる根気やいかに・・・。Cimg5195
白糸の滝か、ちょうど満開の見頃である。Cimg5201 次に目指したのが吾平町の玉泉寺公園の藤。右手のこんもりした巨大な椎の木の下に見える山藤もほぼ満開だ。Cimg5198 ここのは手前に根幹があり、そこから向こうへ一直線に14、5㍍ほど伸びている。Cimg5200 南町の民家のに比べて花色がやや赤い。それに葉がほとんどまだ出ていない。幹の太さも違う。優に三倍はあるだろう。

 どちらがどうということではない。花それぞれに趣があり、どちらも置かれた場所に風趣を添えていることに変わりはない。

 ありがとう、日本の春を楽しませてくれて。また自分も楽しんでくれよ―。
















| | コメント (0)

南大隅町の町長選挙(肝属郡南大隅町)

 根占町と佐多町が合併してできたのが「南大隅町」だが、今度の日曜日(4月14日)に町長選挙があると夕方の報道で知った。

 報道によれば二人が立候補しており、ひとりは現職で二期目を目指す森田俊彦氏。もうひとりは新人の肥後隆志氏。

 去年の秋に「南大隅町の過疎地に放射能汚染された土の処分場を誘致する」という問題をめぐって新人の肥後氏が絶対反対を表明したことが報じられたことがあった。

 現町長はそのとき旗幟を鮮明にしなかったようで、肥後氏との対立が深まり、今回の一騎討ちという構図になったもののようである。

 肥後氏は商工会の会長を長く勤めた実業家で、事業の原点であるガソリンスタンドの経営からビジネスホテル、農業(喜作ネギ)、ハマグリの養殖と事業を多角的に経営してきた人物である。

 実はわが家が隣りの錦江町田代から転居して来た時に空き家を紹介してもらっている。また一時ハマグリの養殖場に勤めたこともあり、根占にいる頃は何かとお世話になった人でもある。

 何年か前に出会ったときは、「私のおふくろの実家は山川で、河野家の繋がりなんですよ。今度長男が河野家を継ぎました。」とこともなげに話してくれた。

 河野家と言えば江戸時代、山川の廻船問屋(貿易商)で、遠く琉球まで船を走らせていた豪商である河野覚兵衛が有名で、少し後の指宿の豪商・浜崎太平次(第8代)より先に大海に乗り出していた。

 山川港には今でも河野覚兵衛家の墓域が残っている。(参照ブログ

 江戸時代だけでも12、3代を数えるのだから、現在までいったい何代続いているのだろうか。

 このような歴史を秘めた肥後氏の健闘が待たれる。南大隅町の発展を祈りつつ―。

| | コメント (0)

雄川の滝を訪ねて(肝属郡南大隅町根占牛牧)

 3月一杯で職場を退職し、ここ一週間で「福岡・佐賀歴史探訪」(ブログ)の更新をはじめ、溜まっていたホームページ「鴨着く島おおすみ」のおおすみ歴史講座の更新、それに「記紀を読む」の更新と立て続けに更新のオンパレードで、部屋に引きこもる状態が続いたので、今日はウォーキングを兼ね、かねてから訪ねたいと思っていた<雄川の滝>を見に行った。Cimg5185 根占のフェリー乗り場近くの信号を佐多方面に左折し、1、5キロほど行くと雄川橋だが、この橋の手前を左折する。この行き着く先は錦江町の田代だが、2キロほど行くとやや登りにかかるかという所、左手に「雄川の滝」への看板があるので、ここを右折する。

 約2キロで雄川発電所に到達。その近辺で思わぬ田園風景に出くわした。Cimg5184 渓谷沿いの数枚の田んぼが見え、田植えをしている人がいた。

 もう少し行くと、何とまあ!極小の田んぼがあった。昨日あたりに田植えを済ませたのだろう、か細い苗が植えられていた。Cimg5183 広さはせいぜい30坪という所だろうか、すぐ下には雄川の渓流が流れている。Cimg5181 全部で7枚の小さな田圃群が満々と水を湛えている。左手の岩は大き過ぎて除去できなかったのだろう、でも逆に田んぼに風趣を添えている。Cimg5179 岩の先に回ると、右手の岩の下には植え残した苗が置かれていた。それにしてもこの風景は何だ。この田んぼは、まさに芸術の域に達しているではないか。採算性なんぞ屁の河童、見事な田園芸術である。Cimg5154 芸術的田圃から山奥へ2キロ。「牛牧」という昔は人が住んでいた最奥部に到着。ここで車を降り、徒歩で約1、2キロにある「雄川の滝」を目指す。Cimg5157 すぐに森の中の道に入るが、道はコンクリート製でマウンテンバイクなら通行可能と見える。Cimg5174 大隅中央道路(農免道路)が雄川をまたぐ辺りから、道の左手に並行する渓谷がどんどん近くなる。とある淀みに降りて「瀧見大橋」を見上げた。橋から下の渓谷まで80㍍くらいはあるだろう。Cimg5175 川畔に見つけた「盆景」。凝灰岩の表面に苔とセキショウが生え、中の三つの窪みには白砂が詰まっている。河童の遊び場かもしれない。そう名付けておく。Cimg5165 なおも進むこと500メートル、ついに滝壺が見えた。

 ところが・・・・・、滝が落ちていない! それもそのはず、今は渇水期で雄川発電所用に水を取ってしまうと滝壺にはほとんど落ちてこないのだ。何だ、残念。期待外れだ。Cimg5177 そこで、出発点の牛牧に建てられていた説明看板にプリントされていた滝の姿をせめてもの慰めとして嵌め込んでみた。これが見られるのは豪雨のあとに限られる。

 高さ60m、幅10mほどの豪快な滝である。このような姿であれば鹿児島県本土では最高の滝だろう。(県全体では屋久島の千尋の滝が最も高く水量もあるようだ。)Cimg5167 滝の落ちる壁は左右に100㍍以上あるが、壁の下からそこここに小さな滝が落ちている。右手の小滝でも8㍍はあるだろう。

 また、青く澄んだ滝壺の下からも水は湧出しているのだろう。それでなければさっきの瀧見大橋を見上げた写真にあるような豊かな渓流があるはずがない。Cimg5172 滝壺に降りる途中にあった「竜安寺の庭」。白砂がきれいに掃かれたようになっているではないか。Cimg5173 この渓谷美は「なんちゅわならん!」(何とも言いようがない!)。

 このブログは雄川流域散策(1)にいれるべきもの。今頃になって追加するとは・・・。




































| | コメント (0)

福岡・佐賀歴史探訪(3)

 3月23日(土)、歴史探訪旅行の三日目。

 今日はもう帰宅する日だが、予定している箇所が3つあった。

 肥前国府址・与止日女神社・吉野ヶ里遺跡(歴史公園)

 だが、明日24日(日)は今年度最後の「おおすみ歴史講座」があるので、準備のため早目に帰っておかなければならず、ホテルを7時には出た。6時半から朝食が摂れるところだったのでその点は助かった。

 幸い投宿したホテルが佐賀市の北部近郊だったので、北に向かって車を走らせると15分くらいで最初の目的地「与止日女神社」に到着した。

 最初、入り口を通り過ぎ嘉瀬川に架かる橋を渡ってしまい、そのまま北に向かって上流に行きかけ、気付いてUターンする羽目になった。Cimg5088 佐賀市の母なる川「嘉瀬川」が山峡から平野に出る地点に井堰があり、その淀になった左岸にある与止日女神社。(通り過ぎた橋「淀姫橋」から写す。)Cimg5080 二の鳥居をくぐった右手には巨大な楠がある。樹齢1450年という大楠である。上の淀姫橋からの写真で全景の左端に見えているのがこの楠だが、根幹のコブなど只者ではない。恐ろしいほどだ。

 鹿児島の蒲生八幡神社の日本一の大楠や安楽山宮神社の大楠には及ばないが、肝付町の塚崎一号墳の大楠くらいな感じはある。Cimg5083 与止日女神社は肥前国の一之宮と言われ、由緒は割とはっきりしている。

 『延喜式』の「神祇」の部の神名帳に、<肥前国・佐嘉郡一座・名神小「輿止日女神社」>と記されており、延喜式編纂の延長5年(927)にはすでに建立されていた。

 また『肥前風土記』によると

<この川(嘉瀬川)の川上に石神あり。名を世田姫といふ。海の神、年常に逆流を潜り上りてこの神の所に到るに、海の底の小魚多く相従へり。或は人その魚を畏むものはまが無く、或は人捕り食へば死ぬこと有り。およそこの魚二,三日を経て還りて海に入る。>

 とあり、この「世田姫」は「与止日女」のことであろうから、風土記編纂の奈良時代前半にはすでに当地に「よどひめ」が祭られていたのは確実である。

 不思議なのは海の神との交流で、この神社の立地(嘉瀬川の作る扇状地の元)からすればむしろ山の神との交流を思いこそすれ、海との縁はないように思われるのだ。だが、この下流1キロ余りにある「肥前国府址」に行ってみて、疑問は氷解した。Cimg5093 肥前国府址に着いたのはまだ8時で、入り口は封鎖したあったので車を停めて歩いて入って行った。

 国衙の建物は復元されていないが、礎石と礎石跡、それから勘案した建物の地割り囲い石が整然と復元されていた。

 もう少し人家の建ち並ぶ地域かと思っていたが、全くの純農村地帯であるのには少々驚いた。しかし逆に言えば、復元はし易いだろうと思う。

 見学中に折よく管理者が現れたので、事情を話すと即座に資料館を開放してくれた。通常の開館時間は9時なのであったが・・・。Cimg5090 館内の復元想像図と解説によると、おおむね筑紫の大宰府政庁を真似て造営されたもののようである。所在地は現在でこそ佐賀市に属するが、かっては佐賀郡大和町であった。

 一通り見終えてからこう質問した。

―ここは一見すると純農村地帯に造営されたようですが、どうして現在の佐賀市近郊に造られなかったのですか?

「そうですね。ここは嘉瀬川に近いのと、昔は有明海がもっと内陸まで、そうこの南4,5キロの所まで海岸線が来ていたらしいです。だから物資の輸送には意外と便利な所なんですよ。」

 なるほどそうだったか。道理であの与止日女神社の伝承があるわけだ。有明海から嘉瀬川を遡れば国府は海からもっと近い場所にあるということになる。

 早く開けていただいたお礼を言い、ついでに「吉野ヶ里歴史公園」への近道を教えてもらって肥前国府址を後にした。Cimg5099 長崎自動車道に沿うように東へ走ると、途中に徐福ゆかりの「金立山公園」があったが、先を急ぐのでパスし、吉野ヶ里に着いたのが9時ちょうど。予定では夕方5時には帰宅したいので、ここを出る時間を11時と決め、約2時間を見学に当てることにした。

 開園が9時なのでぼちぼち親子連れなどが入り口ゲートに向かって行く。実にモダンなデザインだ。これも「国立公園」になったからだろう。(入園料は400円也。)

 1989年(14年前)に新聞で「弥生の王国・卑弥呼の邪馬台国か」などというセンセーショナルな報道があったとき早速来てみたが、その時はそれこそ工事現場に板囲いがしてある程度の殺風景な発掘現場だっただが、まるで隔世の感がある。Cimg5100 ゲートからすぐに田手川に架かる橋がある。幅5,6メートルの小流だが、この川の削り残した台地に吉野ヶ里遺跡が展開するから、母なる川だ。同時に天然の環濠でもある。Cimg5101 やや行くと、人工の環濠が現れ、鳥居の原型のような門柱を抜けて集落に入って行く。西部劇で言えばインディアン集落に入る感じかもしれない。Cimg5128 南内郭に建つ物見台と復元住居。ボランティアの案内人によると、内部では暖房・灯り用の火は焚くが調理はせず、調理は専用の小屋があってそこでするのだという。ずいぶん合理的な発想だ。Cimg5121 北の内郭には「政庁」らしき主屋が建つ。

 中に入ってみると、二階は集会の場。そして三階では「卑弥呼」がしたような「鬼道」(祭祀)が行われる所として人形で復元してあった。Cimg5125 今度の展示で目玉となったのが、北内郭のさらに北側にある「墳丘墓」である。

 墳丘墓の現場をドームで覆いほぼ発掘した時の状態が見られるのだ。Cimg5118 おそらく吉野ヶ里環濠集落の首長および一族の墓で、右下に見える一つの甕棺からは「有柄細形銅剣」一本と多数の瑠璃色の「ガラス製管玉」が見つかり、これこそが首長の墓であろうとされている。Cimg5109 墳丘墓のさらに北方には環濠集落人の甕棺が、それこそまさにゴロゴロと発掘されている。吉野ヶ里だけで約3,000基の甕棺墓が見つかっているというからすごいものだ。

 

 吉野ヶ里はほぼ弥生時代をカバーする700年ほど続いた一大環濠集落だが、弥生時代後期になると環濠は埋められ、弥生集落としての機能は失われる。

 それと並行して南内郭のある丘陵部付近に「前方後方墳」が築造され始め、近くには一辺が9メートルもある大型の竪穴住居がいくつか建てられたりするがそれはそれだけのこと。

 その後、古墳時代の後期に再び集落が復活(ただし環濠はない)するが、それまでの200年に、以前の吉野ヶ里人は離散したままなのか、帰って来たのか、どうなったのかは解明されていない。

 なんらかの戦乱を想定できはしないだろうか? 『後漢書』に言う「倭の大乱」の結果ではなかったか。吉野ヶ里人は敗れたので、どこかへ連行(遠流)されたのだろう。その行った先は私見では「出雲」である。南九州にも流されてきたかもしれない。

 ※そのあたりは『邪馬台国真論』に書いておいたが、まんざらいい加減な推理ではなかったと思う。

 さて、たっぷり時間を費やして吉野ヶ里遺跡を見て回って再びゲートに戻ってくるとちょうど11時。

 駐車場から出るとすぐ大通りにぶつかり、それを左折すれば一直線で「東背振インター」から高速道路に上ることができる。鳥栖ジャンクションで九州道に入り、一路南下して都城インターで降り、帰宅した。その間、桜前線にあちこちで遭遇したが、「美しい日本」を実感するドライブであった。
 



























| | コメント (0)

« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »