福岡・佐賀歴史探訪(3)
3月23日(土)、歴史探訪旅行の三日目。
今日はもう帰宅する日だが、予定している箇所が3つあった。
肥前国府址・与止日女神社・吉野ヶ里遺跡(歴史公園)
だが、明日24日(日)は今年度最後の「おおすみ歴史講座」があるので、準備のため早目に帰っておかなければならず、ホテルを7時には出た。6時半から朝食が摂れるところだったのでその点は助かった。
幸い投宿したホテルが佐賀市の北部近郊だったので、北に向かって車を走らせると15分くらいで最初の目的地「与止日女神社」に到着した。
最初、入り口を通り過ぎ嘉瀬川に架かる橋を渡ってしまい、そのまま北に向かって上流に行きかけ、気付いてUターンする羽目になった。 佐賀市の母なる川「嘉瀬川」が山峡から平野に出る地点に井堰があり、その淀になった左岸にある与止日女神社。(通り過ぎた橋「淀姫橋」から写す。)
二の鳥居をくぐった右手には巨大な楠がある。樹齢1450年という大楠である。上の淀姫橋からの写真で全景の左端に見えているのがこの楠だが、根幹のコブなど只者ではない。恐ろしいほどだ。
鹿児島の蒲生八幡神社の日本一の大楠や安楽山宮神社の大楠には及ばないが、肝付町の塚崎一号墳の大楠くらいな感じはある。 与止日女神社は肥前国の一之宮と言われ、由緒は割とはっきりしている。
『延喜式』の「神祇」の部の神名帳に、<肥前国・佐嘉郡一座・名神小「輿止日女神社」>と記されており、延喜式編纂の延長5年(927)にはすでに建立されていた。
また『肥前風土記』によると
<この川(嘉瀬川)の川上に石神あり。名を世田姫といふ。海の神、年常に逆流を潜り上りてこの神の所に到るに、海の底の小魚多く相従へり。或は人その魚を畏むものはまが無く、或は人捕り食へば死ぬこと有り。およそこの魚二,三日を経て還りて海に入る。>
とあり、この「世田姫」は「与止日女」のことであろうから、風土記編纂の奈良時代前半にはすでに当地に「よどひめ」が祭られていたのは確実である。
不思議なのは海の神との交流で、この神社の立地(嘉瀬川の作る扇状地の元)からすればむしろ山の神との交流を思いこそすれ、海との縁はないように思われるのだ。だが、この下流1キロ余りにある「肥前国府址」に行ってみて、疑問は氷解した。 肥前国府址に着いたのはまだ8時で、入り口は封鎖したあったので車を停めて歩いて入って行った。
国衙の建物は復元されていないが、礎石と礎石跡、それから勘案した建物の地割り囲い石が整然と復元されていた。
もう少し人家の建ち並ぶ地域かと思っていたが、全くの純農村地帯であるのには少々驚いた。しかし逆に言えば、復元はし易いだろうと思う。
見学中に折よく管理者が現れたので、事情を話すと即座に資料館を開放してくれた。通常の開館時間は9時なのであったが・・・。 館内の復元想像図と解説によると、おおむね筑紫の大宰府政庁を真似て造営されたもののようである。所在地は現在でこそ佐賀市に属するが、かっては佐賀郡大和町であった。
一通り見終えてからこう質問した。
―ここは一見すると純農村地帯に造営されたようですが、どうして現在の佐賀市近郊に造られなかったのですか?
「そうですね。ここは嘉瀬川に近いのと、昔は有明海がもっと内陸まで、そうこの南4,5キロの所まで海岸線が来ていたらしいです。だから物資の輸送には意外と便利な所なんですよ。」
なるほどそうだったか。道理であの与止日女神社の伝承があるわけだ。有明海から嘉瀬川を遡れば国府は海からもっと近い場所にあるということになる。
早く開けていただいたお礼を言い、ついでに「吉野ヶ里歴史公園」への近道を教えてもらって肥前国府址を後にした。 長崎自動車道に沿うように東へ走ると、途中に徐福ゆかりの「金立山公園」があったが、先を急ぐのでパスし、吉野ヶ里に着いたのが9時ちょうど。予定では夕方5時には帰宅したいので、ここを出る時間を11時と決め、約2時間を見学に当てることにした。
開園が9時なのでぼちぼち親子連れなどが入り口ゲートに向かって行く。実にモダンなデザインだ。これも「国立公園」になったからだろう。(入園料は400円也。)
1989年(14年前)に新聞で「弥生の王国・卑弥呼の邪馬台国か」などというセンセーショナルな報道があったとき早速来てみたが、その時はそれこそ工事現場に板囲いがしてある程度の殺風景な発掘現場だっただが、まるで隔世の感がある。 ゲートからすぐに田手川に架かる橋がある。幅5,6メートルの小流だが、この川の削り残した台地に吉野ヶ里遺跡が展開するから、母なる川だ。同時に天然の環濠でもある。
やや行くと、人工の環濠が現れ、鳥居の原型のような門柱を抜けて集落に入って行く。西部劇で言えばインディアン集落に入る感じかもしれない。
南内郭に建つ物見台と復元住居。ボランティアの案内人によると、内部では暖房・灯り用の火は焚くが調理はせず、調理は専用の小屋があってそこでするのだという。ずいぶん合理的な発想だ。
北の内郭には「政庁」らしき主屋が建つ。
中に入ってみると、二階は集会の場。そして三階では「卑弥呼」がしたような「鬼道」(祭祀)が行われる所として人形で復元してあった。 今度の展示で目玉となったのが、北内郭のさらに北側にある「墳丘墓」である。
墳丘墓の現場をドームで覆いほぼ発掘した時の状態が見られるのだ。 おそらく吉野ヶ里環濠集落の首長および一族の墓で、右下に見える一つの甕棺からは「有柄細形銅剣」一本と多数の瑠璃色の「ガラス製管玉」が見つかり、これこそが首長の墓であろうとされている。
墳丘墓のさらに北方には環濠集落人の甕棺が、それこそまさにゴロゴロと発掘されている。吉野ヶ里だけで約3,000基の甕棺墓が見つかっているというからすごいものだ。
吉野ヶ里はほぼ弥生時代をカバーする700年ほど続いた一大環濠集落だが、弥生時代後期になると環濠は埋められ、弥生集落としての機能は失われる。
それと並行して南内郭のある丘陵部付近に「前方後方墳」が築造され始め、近くには一辺が9メートルもある大型の竪穴住居がいくつか建てられたりするがそれはそれだけのこと。
その後、古墳時代の後期に再び集落が復活(ただし環濠はない)するが、それまでの200年に、以前の吉野ヶ里人は離散したままなのか、帰って来たのか、どうなったのかは解明されていない。
なんらかの戦乱を想定できはしないだろうか? 『後漢書』に言う「倭の大乱」の結果ではなかったか。吉野ヶ里人は敗れたので、どこかへ連行(遠流)されたのだろう。その行った先は私見では「出雲」である。南九州にも流されてきたかもしれない。
※そのあたりは『邪馬台国真論』に書いておいたが、まんざらいい加減な推理ではなかったと思う。
さて、たっぷり時間を費やして吉野ヶ里遺跡を見て回って再びゲートに戻ってくるとちょうど11時。
駐車場から出るとすぐ大通りにぶつかり、それを左折すれば一直線で「東背振インター」から高速道路に上ることができる。鳥栖ジャンクションで九州道に入り、一路南下して都城インターで降り、帰宅した。その間、桜前線にあちこちで遭遇したが、「美しい日本」を実感するドライブであった。
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