« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

梅雨入り(鹿屋市下堀町・田崎町)

 昨日、例年より3日早く梅雨入りしたという。ほぼ同時に北部九州から山口県までも梅雨入りとなった。

 梅雨と言えば似合う花が紫陽花だ。午前中、雨脚が途絶えたのを見計らい、近隣に紫陽花の開花を見てみようと出かけてみた。

 我が家から東方向に行くと、田崎ー西俣(南)道路に沿って点々と開花を見つけることができた。Cimg5443とある家の車庫の前に小ぶりながらほぼ満開の紫陽花を見つけた。Cimg5444田崎方面に向かって間もなく、やや左カーブの道路土手に、ポピュラーなタイプの紫陽花が。Cimg5441少し脇道に入った人家の垣根に、目立たないガクアジサイが顔をのぞかせていた。葉に斑が入っているのは珍しい。Cimg5438引き返してさらに田崎方面に向かう。直線道路の右側に文字通りの紫が目についた。日が当たるよりも曇り空に色彩が映える。Cimg5434下堀町から田崎に入り、ゆるやかな坂道を下る途中にあった紫陽花の群落。Cimg5435ここは実はゴミステーションの一角なのである。

 電柱の所からツツジが植え込まれ、ゴミカゴの向こうには南天、そしてカゴの後ろの杉の大木の後ろ側には沢山のツワブキが植栽されており、ちょっとした庭園のようだ。

 周りにゴミ屑もなければ、雑草一本生えていない。実に手入れの行き届いたゴミステーションだ。住民のマナーの良さが見て取れる。ゴミステーションを眺めて気分が爽やかになるなんて滅多にあるものではない。















| | コメント (0)

従軍慰安婦問題

 このところ日本維新の会の橋下代表の従軍慰安婦に関する発言が話題になり、今日は外国通信社の記者を集めての釈明会見が開かれた。

 夜7時のNHKテレビでもその様子をニュースとして流していた。

 橋下氏の「沖縄米軍の司令官にー風俗を活用したら、沖縄県民(女性)への暴行事件は防げるのではーと提案したのは、アメリカ国民に対する侮辱にもつながる発言であったので謝罪する」とのかねての反省を述べていた。

 その上で橋下氏は「どこの軍隊でも性の問題では慰安婦的な制度はあったのに、日本だけが突出してあったかのように言われるのはフェアーではない」との持論を堅持した。大いに支持する。

 これが政府あるいは政権与党の内部者の発言であったなら、マスコミにさんざん叩かれた挙句、間違いなく首を挿げ替えられ、「どうもすいませんでした」の一点張りで幕引きを図ったのだろうが、政権外の党首であればこその勇気ある発言にスカッとした人も多かったのではないか。

 会見が終わってぞろぞろと引き上げる外国人記者にNHK記者がインタビューしていた中で、アメリカのニューズウィークだったかニューヨークタイムスだったかどちらかは忘れたが、こう述べていたのにはカチンときた。

 ―どうでしたか、橋下氏の釈明は?

 「従軍慰安婦は人権侵害だ、と述べていたのはよかった。」

 おいおい、従軍慰安婦は人権侵害だが、アメリカ将兵の沖縄女性に対する暴行は人権侵害じゃないのかよ!!

 さらに言おう。

 日本軍は従軍慰安婦を戦争遂行のため、進出した先の異国の女性を暴行したりしないように慰安婦を職業人として必要としたのだが、米兵は軍人としての職業を遂行するために「婦女暴行を必要とした」とでも言うのかい? それに太平洋戦争の頃のアメリカでは黒人の人権など全くなかったではないか! 

 以上のことを忘れてはならぬ。

 2008年に大統領になったオバマ自身も就任演説で「ケニヤ出身の自分の父もアメリカでは自由にレストランに入ることもバスにも乗れなかった」と人権侵害があったことを率直に述べているが、これをどう釈明するのか聞きたいものだ。

 「今はそんなことはない。いつまでも言ってないで忘れろよ」だって? 上等だ! 日本も今は従軍慰安婦なんていないから忘れろよ!

 

| | コメント (0)

原田古墳(志布志市有明町原田)

 曽於郡大崎町に所用があり、ついでに田原川中流にある原田古墳を再訪した。この五月の連休に近くを通ったところ、円墳の頂上部の樹林がすっかりなくなっていたのに気付いたからである。

 田原川と持留川に挟まれた低い台地上にある大崎町の中心部の書店での用事を済ませ、そこから100㍍ほどの所にある大崎町役場に文化財センターを訪ねた。職員から原田古墳の情報を仕入れ、現地に赴く。Cimg5426_2志布志市有明町の原田小学校を過ぎてゆるやかな坂を上がるとシラス台地で、イモ畑の脇に原田古墳の標柱が立っている。志布志市に合併する前の有明町教育委員会が立てたもので、これによると

 「周囲125㍍、高さ5、6㍍。副葬品は盗掘されて現在は無い。県下でも円墳としては大きい方である。」

 ところが県下有数どころか、県で一番大きな円墳なのである。ここには直径は書いてないが、40㍍を数えるそうだ。(現在は志布志市教育委員会所轄。市指定文化財。)Cimg5424周りはすべて茶畑で、かって上部には鬱蒼とした樹林があり、そのため結構な高さに見えたのだが、こうしてすっかり丸裸になってみると高さは意外に低い。登ってみると・・・Cimg5423頂上部はかなり広い。しかも最高点に向かって次第に高さを増すかと思えばそれほどではないので、いっそうだだっ広く感じる。去年の調査で埋め込んだと思われる基点になる赤い杭が何か所か残されていた。Cimg5420最高点より5㍍くらい手前(南西)にきれいな板石が斜めに埋まっていた。さっきの標柱にあったが、盗掘された際に石棺か石槨の蓋石になっていたこの石がゴロンと取り除かれ、そのままここに打ち捨てられたのかもしれない。Cimg5419いまのクジラの頭のような石から1㍍余り離れて別の石がやはり半分土に埋もれて横たわっていた。どちらも同じ石質である。砂岩だろうか。中心部を少し掘り下げれば石棺または石槨が出現すると思うのだが・・・。Cimg5415比高で5㍍下は茶畑が広がる。すでに刈ったあとの茶樹と、今から刈り取るであろう新芽の鮮やかな茶樹との境界がくっきり見える。

 ここを降りて引き返し、原田小学校の道向かいにある「森神社」を訪れる。Cimg5427この原田辺りには物部守屋の亡命伝説があり、最初それを聞き、すぐ近くにこの森神社を見つけた時には「まさしく守屋を祀る神社があった」と思ったのだが、由緒書きの看板には祭神・用明天皇とある。Cimg5428<森神社由緒書>によれば、敏達天皇(第30代。在位572~585年)の代から崇仏か崇神かで蘇我馬子と争い始め、次の用明天皇(第31代。在位586~587年)の代についに崇神の守屋は滅ぼされたと思いきや、当地に逃れたという。そして守屋は神仏論争のやまぬ中、わずか2年で崩御した用明天皇を奉祀し続けたのがここ森神社なのだそうだ。

 最後のほうに「高井田のノンド丘円墳は物部氏の古墳であると言い伝えられている。」とあるが、高井田古墳群はこの神社から田原川に出て二キロほど上流に行った所にある。

 高井田の古墳群の方が物部氏のであるとすると、そこに守屋も眠っているのだろうか。そうなるとこの県下一の円墳の主は誰か?

 自分としては物部守屋であったら最も整合性があると思うのだ。

 というのはこの巨大円墳がなぜ平らな台地の中にぽつねんとしてあるのかを考えるとき、当時の状況では今現在茶畑に囲まれている所は純然たる鬱蒼とした樹林地帯であったことに思い至るからである。

 これだけの大きさの首長級古墳を築くなら、もともとあった丘陵の一部を利用するか、川沿いのちょっとしたピークを選んで造るのが普通だろう。そうすればだれの目にも映るはずだ。

 それなのにこの古墳は平らな樹林帯の中に造っている。わざと目立たないようにしたとしか思えない。その理由は、蘇我氏と並ぶ天下人から一転して「朝敵」のごとき立場に貶められた亡命者物部守屋の悲劇の表われと考えたらどうだろうか。思い込み過ぎか?

(この辺りの人たちの伝承では、原田古墳の主は<コノハナサクヤヒメ=都万神社の祭神>だそうである。)






















| | コメント (0)

甥からの贈呈本『寺山修司研究・6』

 去年に引き続き小田原の甥から寺山修司の研究本が送られてきた。

 一年に一度の発刊で、今号が第6号。Cimg5414『寺山修司研究・6』2013年4月20日発行。編者・国際寺山修司学会。文化書房博文社刊。

 表紙のデザインは天野天街といい、去年の5号と同じ人だ。大正浪漫を髣髴とさせる絵柄である。

 今号は「没後30年記念特集」と銘打っている。寺山修司は昭和58年5月4日に47歳という若さで逝去したという。

 甥は今号でエッセイ「スクリーンの中に寺山修司を見た」と「寺山版『生老病死』」というタイトルの二編を物している。

 ほとんどスクリーンには縁がないが、後者の方からは若干の情報を得た。

 それによると、寺山修司の生まれた同じ昭和10年に甥の父(義兄)が生まれている。また青森の寺山修司記念館の初代館長だった人は寺山のいとこで「寺山孝四郎」というが、甥の父の名も同じ「孝四郎」なのである。

 偶然とは思えない―と甥が感じるのも無理はない。寺山も、「必然ということばは社会的であり、偶然ということばは個人的である。」と書いているそうで、そう思うことは個人的には許される違いない。

 ついでにもう一つ偶然がある。自分の弟(甥から見れば叔父)の死は寺山と同じ昭和58年のことであったのだ。これも「個人的には」偶然とは思えない範疇に属するのかもしれない。

 

 寺山修司は死の一年前の昭和57年9月に「懐かしのわが家」という散文詩を発表している。(数字は算用数字に変えてある。)

       懐かしのわが家

    昭和10年12月10日に

    僕は不完全な死体として生まれ

    何十年かかゝって

    完全な死体となるのである

    そのときが来たら

    ぼくは思いあたるだろう

    青森市浦町字橋本の

    小さな陽あたりのいゝ家の庭で

    外に向かって育ちすぎた桜の木が

    内部から成長をはじめるときが来たことを

 

    子供の頃、ぼくは

    汽車の口真似が上手かった

    ぼくは

    世界の涯てが

    自分自身の夢のなかにしかないことを

    知っていたのだ

 甥はこの詩に「寺山修司の<生老病死>が凝縮されている気がする」と書き、医者らしい視点から寺山の病歴を解説したりしている。

 なるほど、「不完全な死体で生まれた」というのは生と病、「完全な死体になる」が老、そして「世界の涯て」は死ということか。

 「外に向かって育ちすぎた桜」とは寺山自身で、「内部から成長をはじめるときが来た」というのは自分の残した物(作品)が他者の内部に保存され拡散して行くということ意味しているのか。

 おのれ及びおのれの作品が他者の記憶の内部にインストールされ、いつまでも鑑賞者がいるということは、死んではいないということになるのであろう。

 この間の早朝、偶然、車の中で聴いた瀬戸内寂聴の法話(?)。

「死者への供養? それはね、忘れないでいてあげることなのよ、ね、それが供養!」

 例の甲高い声が耳に残っている。

 
 

| | コメント (0)

麦秋(鹿屋市池園町)

 早朝のウメとの散歩道。この間の夕方、一足のサンダルがきちんと並べられていた畑があったが、その隣りの麦畑は今朝通ると一部が刈り取られていた。Cimg5408畦道の向こう、送電線の塔の立つ右側が黄色っぽいが、そこに一枚の麦畑がある。Cimg5402麦を三列ばかり刈り取り、米と同じように掛け干しにしてある。Cimg5401完熟した麦。よく見ると縦に粒が二条になっている。二条オオムギだろう。背の高さは米とほとんど変わらず、6~70センチ位だ。ただ、完熟しても実が少ないため米のようには穂が垂れないので若干は高く見える。

 米であればこの状態は秋の姿だが、秋に蒔いて春の今頃、黄金色に熟すので「麦の秋」というわけで「麦秋(ばくしゅう)」と言い、俳句の季語にもなっている。Cimg5407オオムギは昔は米の裏作としてよく作られた。米の不足を補い混ぜて「麦飯」として食べられたが、今は健康食品的な意味で白米の御飯に少量混ぜて炊くーという使い方だ。白米よりビタミンB1が多いので脚気の予防になると聞く。

 明治の昔のことだが、戦地での食糧として当時としては貴重だった白米だけの御飯が食べられる―と召集兵たちは大いに喜んだものの、結果として脚気に罹り、多くの将兵が死んだという史実がある。その後海軍だけはきちっと麦飯を取り入れたため、脚気で死ぬようなことはなくなったそうである。

 日露戦争で、陸軍(乃木稀典司令官)は旅順総攻撃の数日で何万もの兵を失い、海軍(東郷平八郎司令官)は対馬沖で見事にロシア艦隊を殲滅したが、その差は白米食と麦飯の違いだったとするうがった見方もある。うがち過ぎだが・・・。そのくらい食べ物は大事だという一例である。
Cimg5406オオムギをはじめとする「五穀」はすでに3世紀の倭国では作られていた―と、魏志倭人伝にはある。

 古事記による五穀の起源はスサノオ命にある。

 高天原の天照大神の宮殿を荒したスサノオは、天の岩戸に隠れたアマテラスが再び出現したあと高天原を追い払われるのだが、出雲の肥の川上(鳥髪山)に降りる前にオオゲツヒメという女神に出会う。食物を乞われた女神は、鼻・口・尻から出した物を調進してスサノオに食べさせようとした。スサノオはその所行に怒り、オオゲツヒメを殺してしまう。

 そのオオゲツヒメの死体から五穀が生成したというのである。

 オオゲツヒメの頭には「蚕(かいこ)」、両目には「稲種」、両耳には「粟」、鼻には「小豆」、陰(ほと)には「麦」、尻には「大豆」がそれぞれ生まれたという。

 頭の蚕だけは食物ではないが、最も大切な頭から生まれたということは蚕がそれだけ貴重品だったということだろう。五穀ではやはり目から生まれた稲は大事なもののトップらしく、イザナギの禊ぎの時に左目からはアマテラス、右目からはツキヨミという高貴な神々が生まれたことを想い起こさせる。

 それに比べると麦は「ほと(陰部)」から生まれている。稲よりは格が落ちるのは致し方ない。ただ、この陰部は「局所」と見られているが、私見では「のど(咽喉)」とも取れると考えている。

 

 というのは、話は箸墓の造営説話にかかわる。箸墓に葬られたヤマトトトヒモモソヒメは三輪山の主が蛇であったのに驚き、手にしていた箸で「陰(ほと)を衝いて」死ぬのだが、これを通説では「局所を衝いて」としている。私は「のど」だと考えるのである。箸で局所を衝いて果たして死ねるものだろうか?「のど」なら出血多量・呼吸困難で死に至る可能性は格段に大きい。

 

 というわけで、私見では「陰(ほと)」は「のど(咽喉)」説である。

 

 となると、私見では麦は「のど」に生成したことになる。そう考えても頭(蚕)→両目(稲)→両耳(粟)→鼻(小豆)→咽喉(麦)→尻(大豆)という上からの順番は乱さない。それに「麦笛」というのがあるのも、「のど」説を後押ししてくれる。太く丈夫な麦の茎稈は空洞も大きく、ちょっとした笛になったのである。麦笛で遊んだであろう古代人は「麦は音も出す」ということから、「のど(陰)から生まれた」としたのではないだろうか。









| | コメント (0)

魏志倭人伝における行程(距離)表記

 2、3日前に大隅史談会会員から「いま朝鮮関係の本を読んでますが、朝鮮では10里で4キロというふうに書いてありますよ。倭人伝の距離もそれを基準にしているのではないですかね?」と電話があった。

 たしかに朝鮮(韓国)では、1里=400mの換算で今日でも通用しているし、中国では1里=500mだそうだ。ウィキペディアによると、いま中国で使われている1里=500mは紀元前の周王朝時代のそれに近いそうである。

―それじゃあ聞くがね、倭人伝によれば対馬海峡を渡る際の<狗邪韓国(金海市)-対馬>・<対馬―壱岐>・<壱岐ー末廬国(唐津)>の三つの区間すべてを同じ「千里」で表しているが、今の距離を当てはめるとどの区間も400kmもしくは500kmとなるが、そんなに距離があったかな?

 「そりゃないですよね・・・。」

―どの区間も同じ「千里」で表しているのもおかしいよね。最初の<狗邪韓国(金海市)-対馬>なんかは80キロはあるが、最後の<壱岐ー唐津>は40キロ程度でその差は40キロ、つまり一方は他方の2倍ほども距離が大きいにかかわらず同じ「千里」だ。そこをどう考える?

 「おかしいですよね・・・。」

ー同じ距離にしてあるということは「同じ日数がかかる」ということではないだろうか? では何日かかるのだろうか。それは一日である他ない。なぜなら海峡を漕いで渡っている手を休めて寝るわけにはいかないからだ。そうしたら最後、名にし負う玄界灘の荒波と早い黒潮の流れにどんどん日本海の方へ押し出されてしまうからね。

 だからこの海峡を渡る三区間はそれぞれ一日行程で、都合三日かかるということなんだよ。このことが分かったら次のことも分かる。すなわちその前のソウル付近の帯方郡から水行(船出)して朝鮮半島の西海岸から南部海岸を沿岸航法で狗邪韓国まで「水行7千里」とは、「7日の行程」であるということ。

 そうすると帯方郡から半島南部の狗邪韓国(金海市)までの「水行7千里」と、狗邪韓国から対馬海峡を渡って末廬国(唐津)までの「水行3千里」を合計するとちょうど「1万里」。かかった日数は10日と判明する。

 これと「郡から女王国(邪馬台国)までは1万2千里」という倭人伝の記事を重ね合わせると、1万2千里のうちの1万里は「帯方郡から末廬国(唐津)までは水行で10日かかる」ということを意味しており、残る2千里が末廬国から邪馬台国までの行程ということになる。

 さて、末廬国(唐津)からは伊都国へ「東南へ陸行500里」。さらに奴国へ陸行100里、不彌国へ陸行100里。(残りは1300里)

 通説ではこの不彌国から「南へ水行20日」で投馬国に至るとする。が、待てよ、この水行に上で求めた「水行千里=一日行程」を導入すると、投馬国は九州北部の不彌国から南へ2万里の所にあることになる。さっき帯方郡から狗邪韓国(金海市)を経て対馬海峡を渡り末廬国(唐津市)まで水行1万里であったから、投馬国は南へその2倍の距離の所にあることになる。そうなると投馬国は九州南部をはるかに超えて、奄美群島あたりまでに探さなくてはならないことになる。仮に奄美大島が投馬国だとしよう。

 通説ではこの投馬国からさらに「南へ水行10日、陸行1月(1ヶ月)」の所に邪馬台国がある。となると邪馬台国は奄美大島からさらに南へ1万里(10日)船行して陸地に着き、そこから徒歩で1ヶ月かかるところにあることになる。沖縄本島あたりが該当しよう。

 ところがこうあてはめてくると、おかしいことになる。なぜなら倭人伝には「郡(帯方郡)から女王国(邪馬台国)までは1万2千里」とあったのに、水行だけで<帯方郡ー末廬国>で南へ1万里、<不彌国ー投馬国>で南へ2万里、<投馬国ー女王国>で南へ1万里の合計4万里もかかっている。1万2千里をはるかに超えた距離になってしまうのである。

 このことは畿内説のように「南は東の誤認」とする見方を導入しても変わらない。上の文の「南へ」を「東へ」に入れ替えても齟齬矛盾に陥る事態は何ら変わらないのである。

 ではどう考えればよいのだろうか?

 それは上の太字且つ緑字にした「通説では」の箇所がおかしいことに気付かなければならないということである。それに気付いたら、さらに上の赤紫の文に戻って考えればよい。

 要するに帯方郡から邪馬台国までは1万2千里で、そのうちの「1万里は帯方郡から末廬国(唐津)までの水行1万里(10日行程)」であり、「残りの2千里が陸行1月(1ヶ月)」ということである。したがって通説で邪馬台国は「投馬国から南へ水行10日、陸行1月」とするのは誤りで、これは「帯方郡から南へ水行10日。陸行1月」ということだったのである。

 こう考えると「帯方郡からの水行1万里に10日、残りの2千里に陸行1月かかって到達する所に邪馬台国はある」となり、郡から水行10日で九州北岸の末廬国(唐津)に上陸したら、あとは東南方向に歩いて(陸行)1ヶ月で目的地邪馬台国に着くことになる。したがって畿内説の成り立つ余地は全くない。

 始めから距離表記で表現しないで所要日数だけで書いてくれていれば、後学の者がかくも苦労はしなかったのだが・・・。いずれにしても、さようなら、畿内説!

 といってその頃、畿内に大国がなかったわけではない。葛城王権・三輪王権・丹後王権・・・などなどかなりの勢力があった。ただ、当時、魏王朝との国交はなかったというだけに過ぎないのである。心配メサルナ。

 「・・・・・・・think。」

 

| | コメント (0)

かのやばら園・2013春祭り(鹿屋市浜田町)

 五月に入って最も上天気の今日、満開を迎えていると報道のあった<かのやばら園>を訪れた。Cimg5382午後3時に行ったのだが、まだこの人出。家族連れがとても多い。Cimg5383高台にある入り口ゲートをくぐると広々とした開放的な園内が見える。Cimg5384薄紫の花が満開だ。(品名は多すぎて記憶に残らない。4500種5万本とか・・・)Cimg5388ピンク・赤・白・・・満開。Cimg5387遊歩道を覆うアーチのつるバラも捨てがたい。なだらかに下る園内の向こうは鹿屋市南部の横尾岳山系の新緑が鮮やかだ。Cimg5390二年前から再整備が施されたイングリッシュ・ローズ。まだ若木なので見栄えはいまいちである。新緑の向こうに肝属山地が霞む。Cimg5392今日見た中では最高と思ったバラ。このバラの名前くらいは覚えておこうと園を出る間際までは記憶袋に保管していたのだが、出てすぐに売店で土産を物色している間にこぼれ出てしまった。「伊豆の踊子」だったかな・・・。Cimg539610年前に全国から名前を募集して「プリンセス・カノヤ」と命名された当地作出のバラ。他のどの花より開花が早かったらしく、おおむね盛りを過ぎていて対象を探すのに苦労した。小ぶりの一輪しかなかった。Cimg5398ちょっとがっかりして帰ろうと階段を上がると、階段脇の目立たない位置にどでかいバラが目に入った。

 直径15センチ以上のやゝ紫がかった赤いバラがひと節に何と三つも着いている。デラックスかつゴージャス。Cimg5394遊歩道そばの栴檀の木に絡み付いた赤いつるバラを撮影しているおじさんたちがいるなと思ったら、木の下の黄色いバラに並んで若い女性が・・・。

 手前の立っている人が持っているのは反射板で、光を調節している。本格的な人物撮影とみた。コンクールにでも出すのだろう。

 【かのやばら園の春祭り案内】

  4月29日~6月9日(日)

  期間中の入園料は、大人600円(シーズンオフは300円)

  交通は車が便利(日に2本、鹿児島・垂水方面から直行便があるが・・・)

 

 

  




























| | コメント (0)

出雲大社遷座祭(島根県出雲市)

 昨日5月10日は島根県出雲市の出雲大社で60年ぶりとなる遷座祭が執り行われた。

 今朝の7時前後のニュースでは7時前にある局が、7時過ぎには別の局がニュースとして取り上げていた。Cimg53627時前のある局のものは解説的な紹介だった。祭神は国譲りをしたオオクニヌシ命。Cimg5363一般の神社は二礼二拍手(かしわで)一礼で参拝するが、出雲大社では二礼四拍手(かしわで)一礼である。ただし、「拍手」は本来「柏手」とするのが正しい。Cimg5366今年のゴールデンウィークの観光客は去年のほぼ倍増となったそうだ。特に女性客が伸びたという。「縁結びの神様だから」ということらしい。
Cimg5364境内の説明。

 手前の青銅色の屋根が平成20年4月に遷座された拝殿(仮本殿となった)で、奥の檜皮葺の本殿が修築されている間、祭神オオクニヌシのご神体が仮に祀られていた。

 それから5年経った昨日5月10日の夜、遷座祭が斎行された。Cimg5375昨夜の7時から始まった「御遷座祭」。60年に一度なので前回は1953年(昭和28年)に行われた。しかしその前は1881年(明治14年)、前々回は1809年(文化6年)・・・と必ずしもきっかり60年というわけではない。アバウトな所が実は祭神のオオクニヌシ(大国さま)の包容力だろうか。Cimg5376あたりは闇に包まれてきた。見えぬように白幕を張り巡らせ、幕ごと修築なった本殿へ遷座。Cimg5378ご神体は本殿のある御垣内(みかきうち=内陣)へ厳かに粛々と移動して行く。

 ご神体は何か―に報道は触れていないが、おそらくオオクニヌシの別名でもある「八千矛(やちほこ)神」からして矛ではないかと思う。

 古事記によればオオクニヌシ命にはいま挙げた八千矛の他に「大穴牟遅(おおなむち)」「葦原色許男(あしはらしこお)」「宇都志国玉(うつしくにたま)」と多くの別名があるが、葦原中国を平定するのに最も有効だったのはやはり武器すなわち「矛」だったであろう。

 古事記に特によく伝承されている歌謡でも、八千矛はオオクニヌシの枕詞として何度も「八千矛の神の命・吾が大国主・・・」というふうに使われている。

 

 出雲大社の創建は垂仁天皇の時代にさかのぼるとされている。第11代垂仁天皇は4世紀の初めころの治世と考えられるから、そうなると1700年前の話になる。代々の宮司は千家が務めており、現在の宮司は84代目だそうである。一世代25年とすると2100年で紀元前のことになるが、それはいくらなんでも古すぎるだろう。

 日本書紀「斉明天皇紀」の5年(659年)の記事として、「この歳、出雲国造(名を闕けり)に命じて厳神之宮(いつがみのみや)を修めしむ。」とある。この出雲国造は出雲臣○○であり、「厳神之宮」とはのちの築杵大社(出雲大社)のことであるから、少なくとも1350年前には存在した大社であったろうことは間違いないはず。

 ここで注意を喚起したいのがこの斉明紀に登場する「厳神之宮(いつがみのみや)」で、私見ではこの「いつ(厳)」こそが「いづも(出雲)」の語源になっていると考えるのである。

 さらに本殿の中の主祭神であるオオクニヌシの座は、参拝者のいる南の方向ではなく西を向いていると言われていることと、創建の場所が「出雲の多芸志(たぎし=船舵)の小浜」であったことと考え合わせてみる。

 すると元来は九州北部の「伊都(いつ=厳)国」と言われる大国こそがオオクニヌシの本国であり、同じ北部の大国「大倭」に敗れた「伊都(いつ=厳)国」主オオクニヌシは「国譲り」をして九州から出雲地方に流され、上陸したところが「多芸志(たぎし=船舵)の小浜」であり、そこに御舎(みあらか)を創建した(古事記による)。

 であればこそ元の国である九州の「伊都(いつ=厳)国」を忘れまいと本殿から九州を望める西向きに座を設けているのではないか―というように筋が通ってくるのである。

 出雲大社は国譲り後の創建の際に「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と書かれているので、「ああ、大和から日の隅つまり西にあるからそう呼ばれたのだ」と思いがちだが、それは大和王権が大和に確定してからの話であり、創建時点での話ではないことに気付かなければならない。ここを心して読んで行かないとわけが分からなくなり、「記紀なんて矛盾だらけだ。読む気がしないっ」と放り出すことになる。ならぬ堪忍、するが堪忍!


















| | コメント (0)

岡山・香川の旅(3)

 5月4日の倉敷行きで、自分が倉敷考古館に入って見学していると、娘から「車のエアコンを点けても冷えてこないので、近くのガソリンスタンドで見てもらったらグリーンの液が漏れていた。」と携帯で連絡が来た。

 近くの自動車工場(マツダの販売会社でもあった)に行くと、「電動モーターファンが故障している。このままでは動かせない」とのことで、車を置いてくる羽目になってしまった。

 別の行楽地に行っていた嫁の両親に連絡を入れ、倉敷インターで降りてもらい、その日は息子一家の住む寮まで乗せてもらった。携帯電話の便利さを痛感することだった。

 次の日(5月5日)は都城まで嫁の両親の車で帰ることになった。

 9時に出るとのことだったので、いつも通りの6時に起きる身には待ち遠しい。そこで早く朝食を済ませ、浅口市中心部の北にある「かもがた町屋公園」と「鴨神社」に行ってみることにした。ホテルに事情を話すと、備え付けの自転車を貸してくれた。ありがたい。Cimg5349ホテルからはほぼ真北に1、5キロほど行くと、いくつかの瀟洒な町屋造りの建物が見えた。Cimg5351かもがた町屋公園の入り口。江戸時代の学問所の入り口といった雰囲気だ。

 ところが残念なことに着いたのが8時では入館は不可能であった。開館時間より1時間も早かったのだから仕方がない。まあ、雰囲気だけでよしとするか。Cimg5352そこで町屋公園の隣りにある「鴨神社」を参拝することにした。

 思いがけず、立派な花崗岩製の石の鳥居である。Cimg5353鳥居から30㍍で石段があり、登ると参道は右折し、さらに30㍍ほど。左手に今度は長い石段が現れる。

 上がり口の阿吽二対の狛犬も立派なら、石段と両脇の階段手摺りも豪華である。

 階段の上方、すぐ目に付くのが「脇侍門」だが、その前にもう一つ鳥居があるのには驚く。Cimg5357脇侍門をくぐるとまだ階段が続き、さらにもう一つの鳥居があって拝殿のある境内へ。

 拝殿の扁額は「加茂大明神」としてあった。神社の由緒書きを探すのだが、無い。Cimg5356参拝を済ませ、拝殿の右手に行くと、上に登る道が付いているので行ってみる。途中、稲荷社などいくつかの摂社があった。Cimg5354山頂(?)には大きな忠魂碑が立つ。

 普通の神社だと境内に由緒を書いた看板があるのだが、その類は一切なく、この頂上にも何の表示もない。かっての奥宮の址だろうか。

 忠魂の碑の左手、無線塔のような物との間に見える山は「鴨山」で、南北朝のころに築かれた「鴨山城」があった―とは、ホテルで貰った観光案内に書いてあった。

 もしかしたらあの鴨山城こそが築城前には奥宮があり、ここは鴨神社の旧社殿地ではなかったかなどと思ったりもする。見晴らしは非常に良い。Cimg5355南の方向を見る。手前の幹だけになってしまった立ち木の先端に見えるのが県立鴨方高校で、その先に浅口市役所がある。

 室町時代の頃まで、この市街地は山陽道にそって入り江だったらしい。冬期には北方から飛来する鴨の越冬地として適している芦葦の生えた汽水域が広がっていたのではないか。

 鴨方(かもがた)とはそのことから考えると「鴨潟」が語源だろう。「冬に北方からやって来る鴨の絶好の越冬地」という意味で名付けられたに違いない。

 また鴨神社(=加茂大明神:祭神は下鴨神社系であればカモタケツヌミと娘タマヨリヒメ、上賀茂神社系であればカモワケイカヅチ)が祀られているのは、鳥の鴨と同じく北方の朝鮮半島と行き来する航海民「鴨族」の存在があったからで、その根拠地であった可能性が高い。

 鳥の鴨と航海民の鴨族、いずれにしても彼らにとって非常に安住のできる潟(ラグーン)が広がっていた地域とみて間違いない。

 


















| | コメント (1)

岡山・香川の旅(2)

 二日目は「こんぴら参り」。

 もちろん香川(讃岐)の金刀比羅宮(ことひらぐう)への参拝で、一般的には「ことひら参り」とは言わず、こんぴら参りだ。なぜなら神仏習合の江戸時代までは「金毘羅大権現」と呼ばれる寺院だったからである。

 当時の正式名は「象頭山松尾寺金光院」で、れっきとした真言宗の寺だった。それが明治初期の廃仏毀釈で完全な神道系の神社として生まれ変わった。

 江戸時代まではお伊勢参りに並んで金毘羅参りは庶民の夢だったらしい。実は自分も夢だったので、今回初めて参拝となったわけである。

 調べてみると息子の住む浅口市から琴平までは車で約100キロほど、高速と瀬戸大橋自動車道を使えば1時間半で行けそうだ。朝の9時に息子家族の車と自分のと二台で出発。Cimg5292浅口インターから山陽道に乗り、倉敷ジャンクションで四国方面へ。最後の下津井インターを過ぎるといよいよ瀬戸大橋(正式には備讃瀬戸大橋)だ。途中、「与島展望所」に降り休憩を兼ねて写真を撮る。道路の下の段を走っているJRの線路を列車が通過していくのが見えたりした。Cimg5309金刀比羅宮の登り口近くのうどん屋の駐車場に車を置いて、さっそく歩き出す。(駐車料金は千円。帰りにうどんを2千円以上食べるとその千円は返ってくる。実際そうだった。)

 連休の中日とあって参拝客の多さには圧倒される。Cimg5313参道の階段を上がり始めて間もなく、土産物店を覗くと「森の石松」の股旅姿が・・・。石松は清水の次郎長親分の代参でやって来たと言われている。Cimg5315足の悪い参拝者には駕籠がある。本宮までの往復で6千円という。結構、頻繁に往復していた。Cimg5317大門前。ここまでで400段くらいか。一休みも二休みもしたいところだ。

 眺めが格段に良くなってきた。Cimg5318大門のすぐ下、左手には明治になって組織された「金刀比羅本教」という宗教法人の本部がある。Cimg5320大門を抜けるといよいよ境内だ。土産物店はなくなり、道はかえって平らになるのが面白い。Cimg5332大門と本宮との中間地点にある「旭社」。祭神はアメノミナカヌシ。ここは江戸時代まであった松尾寺の本堂で、二層の格式の高い立派な建物である。

 そそっかしい石松はこれを本宮と思い、ここだけ参拝して下りてしまったとか・・・。
Cimg5326最後の長い階段を上がると本宮だ。

 檜皮葺の荘厳な拝殿と本殿。参拝客の数は砂糖に群がるアリのようだ。

 祭神は大物主神。大和の三輪明神と同じ、国つ神のナンバーワンである。相殿には讃岐に流された崇徳上皇を祀っている。Cimg5325北東方向の展望は開けていて、山並みの中に讃岐富士(飯ノ山=422m)が霞んで見えた。Cimg5330金刀比羅宮は「海の神様」との伝承があり、航海安全を願う海運会社などの信仰が厚い。写真まん中の扁額は日本郵船の奉納したかなり新しい額。回りには江戸時代の物も多い。Cimg5331どの鳥居にも「笑顔でおまいり。こんぴらさん!!」というキャッチフレーズの横断幕が下がっていた。Cimg5336駐車させてもらったうどん店(本業は旅館)で少し遅い昼食を摂る。

 50年前にタイムスリップしたような店内の造作に懐かしさが漂う。黄色いのれんには「しあわせさん。こんぴらさん」という文字が入れてある。ごちそうさん!

 

 琴平を出たのは2時半過ぎ、次は帰り道にある倉敷の美観地区へ。

 ところが倉敷市内は混雑の上、駐車場も見つからないので、自分だけ降りて倉敷でどうしても立ち寄りたかった「倉敷考古館」に行くことにした。二台の車は倉敷市内の大型ショッピングモールへ。Cimg5346倉敷の美観地区にある掘割では、鬼の面をかぶった4,5人の乗った小舟が太鼓の演奏をしながらゆっくりと下って行く。何かの祭りかアトラクションだろう。霧島市の「九面太鼓」という鬼太鼓を思い出した。Cimg5347考古館は右手の蔵造りの建物で3階建てだ。Cimg5342中の遺物類の撮影は出来ないことはないが、ネットなどへの掲載は困る―ということで一つだけ許可をもらった「倉敷周辺の貝塚分布図」をここに載せさせ貰う。

 倉敷周辺は貝塚の宝庫と言ってもよいくらいだ。陸のかなり奥から海辺まで、万遍なく分布が見られる。

 自分が最も知りたいのは「船元貝塚」であり、そこから出土した船元式土器(縄文中期の指標土器)である。船元貝塚はこの地図の上では、「倉敷」とある箇所から右下(東南)へ向かって5キロほど、4つの赤い印が右斜めに並んだその一番左手の場所だ(と思う)。

 この貝塚から出土した「船元式土器」と同じ胎土(土器の原料粘土)で焼かれた土器が、鹿屋市の高須町の道路拡張工事の際に見つかったのである(榎原遺跡)。

 土器がひとりでに遠方まで行くことはないから、どちらか一方からその土器を持参した人物が出掛けて行った先で廃棄したわけで、では、どちらの人物がその手製の土器を運んだのだろうか―これが、疑問だったのである。

 つまり製作地はどちらで、廃棄地はどちらか―という問題である。貝塚は一般的には廃棄地なわけである。すると「廃棄地=船元貝塚、製作地=鹿屋市高須の榎原遺跡」ということになりはせぬか、と考えたのである。

 その疑問を考古館の館長(女性)にぶつけると、

 

 「縄文中期の土器づくりには上質の粘土は必要なく、そこらの粘土目の土なら何でも焼いて作ることができた。だから粘土を採取しにくい船元貝塚でも近辺を探せば土器製作に十分な粘土は見つかったはず・・・」

 

 と、どちらとも取れる答えをおっしゃった。うむむむ、はぐらかされたような・・・。

 

 というわけで、5月4日は一方(こんぴら参り)は宿願を果たし、他方(土器の製作地問題)は宿題として持ち越されることと相成り申した。









































| | コメント (0)

岡山・香川の旅(1)

 5月の連休に2泊3日で岡山と香川の金毘羅参りをしてきた。

 岡山県浅口市に息子一家が住んでいるので孫に会う目的もあり、家族三人珍しくゴールデンウィーク中の旅となった。

 

 5月3日は何と朝の2時過ぎに家を出、都城インターから高速に乗った。そんなに早かったのは道中の距離が長い(750キロ)のと、ゴールデンウィーク中の混雑を見越してのことだ。

 幸い、ほとんど渋滞することもなく快調に九州の端・関門海峡を望む「めかりPA」に10時頃には到着、小休止と展望を楽しむ。ここで都城からやって来た嫁の両親と再々会。

 あちらの両親は中国自動車道の鹿野インターで降りて津和野の観光をして岡山へ、自分たちは同じ道をひたすら走り、北房ジャンクションから南へ岡山道に入り、岡山総社インターで一般道へ。

 まずは関西以西では随一の規模を誇る「造山(つくりやま)古墳」を見物。

 総社市の東に足守川という小河川が流れているが、古墳は足守川の右岸(西)にある。小さな橋から500㍍ほどの田んぼの中にこんもりとした岡が見えてくる。Cimg5247このあたりの平野は普通作なのだろう、田んぼはきれいに鋤き返されているが水を張った田は一枚もない。その向こうの田んぼの主と思われる家々の裏手に丸っこい小山が見える。Cimg5250少し北に移動してアップしてみると、トラクターの向こうに確かに「造山古墳」と看板が立つ。Cimg5253元に戻り、田んぼの道を南西に進んで行くと「造山古墳公園駐車場」という案内板があるから右折すると、程なくトイレを備えた駐車場があった。

 ここから望むと人家が建ち並んでいるせいでさほど高くは見えないが、金色の人物像の頭の向こうが後円部で、左手になだらかに辿って木々のたくさん生えたあたりが前方部である。

 その長径350mで、全国の前方後円墳では4番目の規模だそうだ。一位は大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)、二位が誉田山古墳(伝・応神天皇陵)、三位がミサンザイ古墳(伝・履中天皇陵)、そしてこの造山古墳が第四位。

 さっそく登ってみることにする。国(宮内庁)の指定ではないので、誰でも自由に登れる天皇陵に匹敵する大古墳というのはここだけのようである。Cimg5254人家の間を抜けるようにして行くと、次第に上り坂になる。Cimg5255最後の人家は古墳の墳丘裾の中ほど近くに位置している。そのあたりからは階段が刻まれているので、まずは前方部に上がる。

 前方部の頂上には神社があり、その拝殿横の屋根掛けをした東屋の中に石棺が置いてある。Cimg5256長さ2メートル半ほどの文字通りの石のお棺が無造作に置かれていた。石質は「阿蘇溶結凝灰岩」ということであり、同じ種類のものが大阪の今城塚古墳(伝・継体天皇陵)でも使われており、九州との関係の深い被葬者であったろうとされているようだ。

 ただし、この石棺は後円部から掘り出されたらしいので、主墳に眠っていた被葬者のものではない。Cimg5260前方部を後にして後円部に上る。後円部頂上から前方部を振り返るとさっきの神社は樹林におおわれて見えない。

 距離にして160~170㍍は離れているだろう。鹿児島県曽於郡大崎町にある県では2番目に大きい「横瀬古墳」でも、この後円部と前方部の間にすっぽりと入ってしまう大きさである。Cimg5258後円部の頂上は残念ながら戦国時代末期のあの秀吉の「備中高松城攻防戦(水攻めで有名)」の時、毛利方の砦として使われたため、削平されてしまい、竪穴式石室はじめ埋納されていた資料など何一つ分からなくなってしまった。Cimg5259直径50㍍近くある後円部広場の周りには低いながらも土塁が残り、ところどころに小広い戦国当時の建物敷地跡を今も見ることができる。Cimg5262下の駐車場に降りていく途中で珍しい名の公民館を目にした。「造山公会堂」とある。瀟洒なたたずまいの建物であった。

 この造山古墳の被葬者は、雄略天皇紀に見える「吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみ・さきつや)」の祖父か父あたりではないだろうか。前津屋自身は雄略天皇に反逆したため、一族70人ともども殺されたとあり(雄略天皇7年=463年)、前津屋がいかに強大な勢力といえども反逆者ではこんな大墓は造れなかっただろう。

 2番目に訪れたのは弥生時代の墳丘墓としては大規模で有名な「楯築(たてつき)墳丘墓」。

 この遺跡は分かりづらいところにある。造山古墳からだとさっきの田んぼ道に戻り、そのまま南西方向への道を行くと古代の山陽道に出るからそれを突っ切って500㍍ほど行けば信号のある交差点。交差点の前方やや右手に見える丘の上にある。

 交差点を右折して300㍍、左折して新興住宅地的な街路を行くと信号があるので、また左折して行くと右手に上がって行く道が見え、案内表示もある。Cimg5265「王墓山歴史公園」入り口。Cimg5277入って行くとやや登りながら200㍍ほどで、墳丘頂に到る。花崗岩の板石が何を意味するのか分からないが、とにかく信仰的なモニュメントには違いない。「特殊器台」や「特殊文様」のある埴輪など吉備独特の遺物が見つかっている。

 ここは造山古墳以上に、墳丘の裾のかなり上まで住宅が建てられている。宅地開発が寸での所で止められた―というような感じの場所だが、墳丘頂の北東方向は空いていて下の平野を望むことができる。

 被葬者は先の大首長・下道臣前津屋一族の先祖ではないかと思う。

 3番目は「備中国分寺跡」。Cimg5281楯築墳丘墓から元の山陽道に戻り、左折して西方向へ。約1、5キロで秀麗な五重塔が右手に見えてくる。

 折しも「レンゲ祭り」なるものが行われており、かなりの人出であった。Cimg5283現在は「日照山国分寺」。

 山門の向こうでは今晩行われる五重塔のライトアップの際に演奏される「温羅(うら)太鼓」のリハーサルの最中だった。「温羅」は百済からここにやって来て住み着いたが、崇神天皇の代に四道将軍の一人・吉備津彦によって退治されたという伝説の人物で、地元では結構な人気を保持しているある意味でスーパースター的存在だそうだ。

 そして最後に見物したのが、造山古墳の弟分とも言うべき「作山(つくりやま)古墳」。

 おなじ「つくりやま」なので、地元では「ぞうざん」、「さくざん」と音読みをして区別していると聞いた。Cimg5289備中国分寺跡からさらに西に1キロ、この作山古墳もやはり田んぼの中にあった。写真に写っているのは後円部の方である。

 長径は280㍍を数え、造山古墳よりも小さいとはいえ、兄貴がとてつもなく大きいのでこの古墳も全国で14番目とか。やはり有数の規模を持つ。

 国分寺を挟んで東2キロ余りに造山古墳。西1キロにこの作山古墳。もしかしたら国分寺の建てられた丘陵も、もとはそれなりの古墳だったのかもしれない。

 弥生時代の楯築墳丘墓(王墓山古墳群)も、造山古墳も作山古墳も、そして備中国分寺も、すべて東の足守川と西の高梁川の挟まれた平野の丘陵部に散在する。散在するといっても、それぞれの遺跡が1キロから2キロ程度の距離を持つに過ぎない。

 

 この備中の勢力は平野つまり広大な田圃地帯の統治者であると同時に、瀬戸内海に通じる河港の支配者でもあった。当時の海岸線はかなり内陸に及んでいたのである。

 

 この海陸の両方の支配者となれたのが吉備地方の強みであったろう。「吉備王国」と言われるゆえんである。

 

 吉備はまた「真金(まがね)吹く吉備」とも言われるように、製鉄も鍛造技術も一流であった。

 

 雄略天皇代に下道臣前津屋と同じく吉備の上道臣田狭(かみつみちのおみ・たさ)という二人の大首長が没落するまで、吉備は弥生時代から古墳時代中期に至るまでの長きにわたり、畿内王権に匹敵する勢力を持っていただろうことは疑う余地がない。






































| | コメント (0)

「主権回復の日」を沖縄が喜べない理由

太平洋戦争が日本の降伏で終結し、その結果日本は連合国による支配を受けることになった。その長きにわたった占領政策に終止符を打ったのがサンフランシスコ講和条約で、昭和27年(1952年)4月28日に実施され、日本は連合国の占領から解放された。

 しかし、この解放が日本の津々浦々まで同時に行われれば、本当に祝祭するに値するのだが、沖縄県と奄美群島および大東島諸島は米軍の支配下に残された。

 日本全土が連合国の占領下から解放される条件として、以上の沖縄はじめ奄美・大東島は今度は連合国ではなくアメリカ単独の統治下に置かれたのである。

 なぜ米軍単独支配になったかと言えば、日本がアメリカと安全保障条約(という名の対日最大戦勝国アメリカによる軍事的支配)を結んだからである。10年という期限が設定され、二度の改定を経、それ以降は「自動延長」という形で今日まで来ているので、安全保障条約の存在すら表面化してこなくなってしまったのが、今日の現状である。

 この安全保障条約と日米地位協定により、多大の負担を強いられているのが沖縄であり、1972年の日本復帰もうれしさ半分悔しさ半分であっただろう。

 今頃になって「主権回復の日」もないだろう、というのが本土に住む自分の実感であり、沖縄に暮らす人たちにとってはなおさら、沖縄県の頭越しにサンフランシスコ講和が締結され、アメリカの施政権(支配)をそのまま押し付けられた情けない日に違いない。(何で戦争で一番血を流した沖縄県民が置き去りに・・・!?)

 昭和47年5月15日、沖縄の日本復帰を実現した―として当時の首相・佐藤栄作はノーベル平和賞を受賞したが、いつの日か沖縄の米軍基地と日本本土の米軍基地を撤去した首相がいたとしたら確実に二人目のノーベル平和賞を貰うであろう。

 もちろんその前提として日本は永世中立国宣言を出し、日米安全保障条約を廃棄し、代わって国連軍の査察部隊を駐留させねばならないが・・・。なぜそうしなければならないかと言えば、いまの国連を構成している安全保障理事会の常任理事国とは先の大戦においてすべて日本が敵に回した国だからである。

(逆に言うと、国際連合とは第二次世界大戦で英米仏蘭などによる反・枢軸国連合なのである。枢軸国とは日独伊などで、イタリア以外はいまだに国連憲章の「敵国条項国家」という地位にいる。したがってどう頑張っても日独は安全保障理事会の常任理事国にはなれない。)

 日本が通常兵器以外の「大量破壊兵器や核兵器」を保有していないことを内外に知らしめるために連合国軍の査察をオープンにすることで、念願の永世中立国を樹立したいものだ。

 その流れの中で、米軍単独の相互防衛という名の軍事支配は終わり、沖縄からも撤退ということになろう。ただし、先に触れたように、米軍に代わって国連軍(多国籍軍)の駐留は必要最小限度で認める必要がある。

 そうしないと、アメリカのブッシュのような大統領が出てきて「日本は大量破壊兵器を隠しもっている」とか「核弾頭をひそかに保有している」などと、イラクに難癖をつけたように日本に矛先を向けてこないとも限らない(これからはむしろ中国がそんな風にわめいてくるかもしれないがー)。

 その時こそ、沖縄の大部分の米軍基地は撤去され、人が癒される平和な観光王国沖縄が出現するに違いない。

 

| | コメント (0)

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »