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原田古墳(志布志市有明町原田)

 曽於郡大崎町に所用があり、ついでに田原川中流にある原田古墳を再訪した。この五月の連休に近くを通ったところ、円墳の頂上部の樹林がすっかりなくなっていたのに気付いたからである。

 田原川と持留川に挟まれた低い台地上にある大崎町の中心部の書店での用事を済ませ、そこから100㍍ほどの所にある大崎町役場に文化財センターを訪ねた。職員から原田古墳の情報を仕入れ、現地に赴く。Cimg5426_2志布志市有明町の原田小学校を過ぎてゆるやかな坂を上がるとシラス台地で、イモ畑の脇に原田古墳の標柱が立っている。志布志市に合併する前の有明町教育委員会が立てたもので、これによると

 「周囲125㍍、高さ5、6㍍。副葬品は盗掘されて現在は無い。県下でも円墳としては大きい方である。」

 ところが県下有数どころか、県で一番大きな円墳なのである。ここには直径は書いてないが、40㍍を数えるそうだ。(現在は志布志市教育委員会所轄。市指定文化財。)Cimg5424周りはすべて茶畑で、かって上部には鬱蒼とした樹林があり、そのため結構な高さに見えたのだが、こうしてすっかり丸裸になってみると高さは意外に低い。登ってみると・・・Cimg5423頂上部はかなり広い。しかも最高点に向かって次第に高さを増すかと思えばそれほどではないので、いっそうだだっ広く感じる。去年の調査で埋め込んだと思われる基点になる赤い杭が何か所か残されていた。Cimg5420最高点より5㍍くらい手前(南西)にきれいな板石が斜めに埋まっていた。さっきの標柱にあったが、盗掘された際に石棺か石槨の蓋石になっていたこの石がゴロンと取り除かれ、そのままここに打ち捨てられたのかもしれない。Cimg5419いまのクジラの頭のような石から1㍍余り離れて別の石がやはり半分土に埋もれて横たわっていた。どちらも同じ石質である。砂岩だろうか。中心部を少し掘り下げれば石棺または石槨が出現すると思うのだが・・・。Cimg5415比高で5㍍下は茶畑が広がる。すでに刈ったあとの茶樹と、今から刈り取るであろう新芽の鮮やかな茶樹との境界がくっきり見える。

 ここを降りて引き返し、原田小学校の道向かいにある「森神社」を訪れる。Cimg5427この原田辺りには物部守屋の亡命伝説があり、最初それを聞き、すぐ近くにこの森神社を見つけた時には「まさしく守屋を祀る神社があった」と思ったのだが、由緒書きの看板には祭神・用明天皇とある。Cimg5428<森神社由緒書>によれば、敏達天皇(第30代。在位572~585年)の代から崇仏か崇神かで蘇我馬子と争い始め、次の用明天皇(第31代。在位586~587年)の代についに崇神の守屋は滅ぼされたと思いきや、当地に逃れたという。そして守屋は神仏論争のやまぬ中、わずか2年で崩御した用明天皇を奉祀し続けたのがここ森神社なのだそうだ。

 最後のほうに「高井田のノンド丘円墳は物部氏の古墳であると言い伝えられている。」とあるが、高井田古墳群はこの神社から田原川に出て二キロほど上流に行った所にある。

 高井田の古墳群の方が物部氏のであるとすると、そこに守屋も眠っているのだろうか。そうなるとこの県下一の円墳の主は誰か?

 自分としては物部守屋であったら最も整合性があると思うのだ。

 というのはこの巨大円墳がなぜ平らな台地の中にぽつねんとしてあるのかを考えるとき、当時の状況では今現在茶畑に囲まれている所は純然たる鬱蒼とした樹林地帯であったことに思い至るからである。

 これだけの大きさの首長級古墳を築くなら、もともとあった丘陵の一部を利用するか、川沿いのちょっとしたピークを選んで造るのが普通だろう。そうすればだれの目にも映るはずだ。

 それなのにこの古墳は平らな樹林帯の中に造っている。わざと目立たないようにしたとしか思えない。その理由は、蘇我氏と並ぶ天下人から一転して「朝敵」のごとき立場に貶められた亡命者物部守屋の悲劇の表われと考えたらどうだろうか。思い込み過ぎか?

(この辺りの人たちの伝承では、原田古墳の主は<コノハナサクヤヒメ=都万神社の祭神>だそうである。)






















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