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岡山・香川の旅(1)

 5月の連休に2泊3日で岡山と香川の金毘羅参りをしてきた。

 岡山県浅口市に息子一家が住んでいるので孫に会う目的もあり、家族三人珍しくゴールデンウィーク中の旅となった。

 

 5月3日は何と朝の2時過ぎに家を出、都城インターから高速に乗った。そんなに早かったのは道中の距離が長い(750キロ)のと、ゴールデンウィーク中の混雑を見越してのことだ。

 幸い、ほとんど渋滞することもなく快調に九州の端・関門海峡を望む「めかりPA」に10時頃には到着、小休止と展望を楽しむ。ここで都城からやって来た嫁の両親と再々会。

 あちらの両親は中国自動車道の鹿野インターで降りて津和野の観光をして岡山へ、自分たちは同じ道をひたすら走り、北房ジャンクションから南へ岡山道に入り、岡山総社インターで一般道へ。

 まずは関西以西では随一の規模を誇る「造山(つくりやま)古墳」を見物。

 総社市の東に足守川という小河川が流れているが、古墳は足守川の右岸(西)にある。小さな橋から500㍍ほどの田んぼの中にこんもりとした岡が見えてくる。Cimg5247このあたりの平野は普通作なのだろう、田んぼはきれいに鋤き返されているが水を張った田は一枚もない。その向こうの田んぼの主と思われる家々の裏手に丸っこい小山が見える。Cimg5250少し北に移動してアップしてみると、トラクターの向こうに確かに「造山古墳」と看板が立つ。Cimg5253元に戻り、田んぼの道を南西に進んで行くと「造山古墳公園駐車場」という案内板があるから右折すると、程なくトイレを備えた駐車場があった。

 ここから望むと人家が建ち並んでいるせいでさほど高くは見えないが、金色の人物像の頭の向こうが後円部で、左手になだらかに辿って木々のたくさん生えたあたりが前方部である。

 その長径350mで、全国の前方後円墳では4番目の規模だそうだ。一位は大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)、二位が誉田山古墳(伝・応神天皇陵)、三位がミサンザイ古墳(伝・履中天皇陵)、そしてこの造山古墳が第四位。

 さっそく登ってみることにする。国(宮内庁)の指定ではないので、誰でも自由に登れる天皇陵に匹敵する大古墳というのはここだけのようである。Cimg5254人家の間を抜けるようにして行くと、次第に上り坂になる。Cimg5255最後の人家は古墳の墳丘裾の中ほど近くに位置している。そのあたりからは階段が刻まれているので、まずは前方部に上がる。

 前方部の頂上には神社があり、その拝殿横の屋根掛けをした東屋の中に石棺が置いてある。Cimg5256長さ2メートル半ほどの文字通りの石のお棺が無造作に置かれていた。石質は「阿蘇溶結凝灰岩」ということであり、同じ種類のものが大阪の今城塚古墳(伝・継体天皇陵)でも使われており、九州との関係の深い被葬者であったろうとされているようだ。

 ただし、この石棺は後円部から掘り出されたらしいので、主墳に眠っていた被葬者のものではない。Cimg5260前方部を後にして後円部に上る。後円部頂上から前方部を振り返るとさっきの神社は樹林におおわれて見えない。

 距離にして160~170㍍は離れているだろう。鹿児島県曽於郡大崎町にある県では2番目に大きい「横瀬古墳」でも、この後円部と前方部の間にすっぽりと入ってしまう大きさである。Cimg5258後円部の頂上は残念ながら戦国時代末期のあの秀吉の「備中高松城攻防戦(水攻めで有名)」の時、毛利方の砦として使われたため、削平されてしまい、竪穴式石室はじめ埋納されていた資料など何一つ分からなくなってしまった。Cimg5259直径50㍍近くある後円部広場の周りには低いながらも土塁が残り、ところどころに小広い戦国当時の建物敷地跡を今も見ることができる。Cimg5262下の駐車場に降りていく途中で珍しい名の公民館を目にした。「造山公会堂」とある。瀟洒なたたずまいの建物であった。

 この造山古墳の被葬者は、雄略天皇紀に見える「吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみ・さきつや)」の祖父か父あたりではないだろうか。前津屋自身は雄略天皇に反逆したため、一族70人ともども殺されたとあり(雄略天皇7年=463年)、前津屋がいかに強大な勢力といえども反逆者ではこんな大墓は造れなかっただろう。

 2番目に訪れたのは弥生時代の墳丘墓としては大規模で有名な「楯築(たてつき)墳丘墓」。

 この遺跡は分かりづらいところにある。造山古墳からだとさっきの田んぼ道に戻り、そのまま南西方向への道を行くと古代の山陽道に出るからそれを突っ切って500㍍ほど行けば信号のある交差点。交差点の前方やや右手に見える丘の上にある。

 交差点を右折して300㍍、左折して新興住宅地的な街路を行くと信号があるので、また左折して行くと右手に上がって行く道が見え、案内表示もある。Cimg5265「王墓山歴史公園」入り口。Cimg5277入って行くとやや登りながら200㍍ほどで、墳丘頂に到る。花崗岩の板石が何を意味するのか分からないが、とにかく信仰的なモニュメントには違いない。「特殊器台」や「特殊文様」のある埴輪など吉備独特の遺物が見つかっている。

 ここは造山古墳以上に、墳丘の裾のかなり上まで住宅が建てられている。宅地開発が寸での所で止められた―というような感じの場所だが、墳丘頂の北東方向は空いていて下の平野を望むことができる。

 被葬者は先の大首長・下道臣前津屋一族の先祖ではないかと思う。

 3番目は「備中国分寺跡」。Cimg5281楯築墳丘墓から元の山陽道に戻り、左折して西方向へ。約1、5キロで秀麗な五重塔が右手に見えてくる。

 折しも「レンゲ祭り」なるものが行われており、かなりの人出であった。Cimg5283現在は「日照山国分寺」。

 山門の向こうでは今晩行われる五重塔のライトアップの際に演奏される「温羅(うら)太鼓」のリハーサルの最中だった。「温羅」は百済からここにやって来て住み着いたが、崇神天皇の代に四道将軍の一人・吉備津彦によって退治されたという伝説の人物で、地元では結構な人気を保持しているある意味でスーパースター的存在だそうだ。

 そして最後に見物したのが、造山古墳の弟分とも言うべき「作山(つくりやま)古墳」。

 おなじ「つくりやま」なので、地元では「ぞうざん」、「さくざん」と音読みをして区別していると聞いた。Cimg5289備中国分寺跡からさらに西に1キロ、この作山古墳もやはり田んぼの中にあった。写真に写っているのは後円部の方である。

 長径は280㍍を数え、造山古墳よりも小さいとはいえ、兄貴がとてつもなく大きいのでこの古墳も全国で14番目とか。やはり有数の規模を持つ。

 国分寺を挟んで東2キロ余りに造山古墳。西1キロにこの作山古墳。もしかしたら国分寺の建てられた丘陵も、もとはそれなりの古墳だったのかもしれない。

 弥生時代の楯築墳丘墓(王墓山古墳群)も、造山古墳も作山古墳も、そして備中国分寺も、すべて東の足守川と西の高梁川の挟まれた平野の丘陵部に散在する。散在するといっても、それぞれの遺跡が1キロから2キロ程度の距離を持つに過ぎない。

 

 この備中の勢力は平野つまり広大な田圃地帯の統治者であると同時に、瀬戸内海に通じる河港の支配者でもあった。当時の海岸線はかなり内陸に及んでいたのである。

 

 この海陸の両方の支配者となれたのが吉備地方の強みであったろう。「吉備王国」と言われるゆえんである。

 

 吉備はまた「真金(まがね)吹く吉備」とも言われるように、製鉄も鍛造技術も一流であった。

 

 雄略天皇代に下道臣前津屋と同じく吉備の上道臣田狭(かみつみちのおみ・たさ)という二人の大首長が没落するまで、吉備は弥生時代から古墳時代中期に至るまでの長きにわたり、畿内王権に匹敵する勢力を持っていただろうことは疑う余地がない。






































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