« かのやばら園・2013春祭り(鹿屋市浜田町) | トップページ | 麦秋(鹿屋市池園町) »

魏志倭人伝における行程(距離)表記

 2、3日前に大隅史談会会員から「いま朝鮮関係の本を読んでますが、朝鮮では10里で4キロというふうに書いてありますよ。倭人伝の距離もそれを基準にしているのではないですかね?」と電話があった。

 たしかに朝鮮(韓国)では、1里=400mの換算で今日でも通用しているし、中国では1里=500mだそうだ。ウィキペディアによると、いま中国で使われている1里=500mは紀元前の周王朝時代のそれに近いそうである。

―それじゃあ聞くがね、倭人伝によれば対馬海峡を渡る際の<狗邪韓国(金海市)-対馬>・<対馬―壱岐>・<壱岐ー末廬国(唐津)>の三つの区間すべてを同じ「千里」で表しているが、今の距離を当てはめるとどの区間も400kmもしくは500kmとなるが、そんなに距離があったかな?

 「そりゃないですよね・・・。」

―どの区間も同じ「千里」で表しているのもおかしいよね。最初の<狗邪韓国(金海市)-対馬>なんかは80キロはあるが、最後の<壱岐ー唐津>は40キロ程度でその差は40キロ、つまり一方は他方の2倍ほども距離が大きいにかかわらず同じ「千里」だ。そこをどう考える?

 「おかしいですよね・・・。」

ー同じ距離にしてあるということは「同じ日数がかかる」ということではないだろうか? では何日かかるのだろうか。それは一日である他ない。なぜなら海峡を漕いで渡っている手を休めて寝るわけにはいかないからだ。そうしたら最後、名にし負う玄界灘の荒波と早い黒潮の流れにどんどん日本海の方へ押し出されてしまうからね。

 だからこの海峡を渡る三区間はそれぞれ一日行程で、都合三日かかるということなんだよ。このことが分かったら次のことも分かる。すなわちその前のソウル付近の帯方郡から水行(船出)して朝鮮半島の西海岸から南部海岸を沿岸航法で狗邪韓国まで「水行7千里」とは、「7日の行程」であるということ。

 そうすると帯方郡から半島南部の狗邪韓国(金海市)までの「水行7千里」と、狗邪韓国から対馬海峡を渡って末廬国(唐津)までの「水行3千里」を合計するとちょうど「1万里」。かかった日数は10日と判明する。

 これと「郡から女王国(邪馬台国)までは1万2千里」という倭人伝の記事を重ね合わせると、1万2千里のうちの1万里は「帯方郡から末廬国(唐津)までは水行で10日かかる」ということを意味しており、残る2千里が末廬国から邪馬台国までの行程ということになる。

 さて、末廬国(唐津)からは伊都国へ「東南へ陸行500里」。さらに奴国へ陸行100里、不彌国へ陸行100里。(残りは1300里)

 通説ではこの不彌国から「南へ水行20日」で投馬国に至るとする。が、待てよ、この水行に上で求めた「水行千里=一日行程」を導入すると、投馬国は九州北部の不彌国から南へ2万里の所にあることになる。さっき帯方郡から狗邪韓国(金海市)を経て対馬海峡を渡り末廬国(唐津市)まで水行1万里であったから、投馬国は南へその2倍の距離の所にあることになる。そうなると投馬国は九州南部をはるかに超えて、奄美群島あたりまでに探さなくてはならないことになる。仮に奄美大島が投馬国だとしよう。

 通説ではこの投馬国からさらに「南へ水行10日、陸行1月(1ヶ月)」の所に邪馬台国がある。となると邪馬台国は奄美大島からさらに南へ1万里(10日)船行して陸地に着き、そこから徒歩で1ヶ月かかるところにあることになる。沖縄本島あたりが該当しよう。

 ところがこうあてはめてくると、おかしいことになる。なぜなら倭人伝には「郡(帯方郡)から女王国(邪馬台国)までは1万2千里」とあったのに、水行だけで<帯方郡ー末廬国>で南へ1万里、<不彌国ー投馬国>で南へ2万里、<投馬国ー女王国>で南へ1万里の合計4万里もかかっている。1万2千里をはるかに超えた距離になってしまうのである。

 このことは畿内説のように「南は東の誤認」とする見方を導入しても変わらない。上の文の「南へ」を「東へ」に入れ替えても齟齬矛盾に陥る事態は何ら変わらないのである。

 ではどう考えればよいのだろうか?

 それは上の太字且つ緑字にした「通説では」の箇所がおかしいことに気付かなければならないということである。それに気付いたら、さらに上の赤紫の文に戻って考えればよい。

 要するに帯方郡から邪馬台国までは1万2千里で、そのうちの「1万里は帯方郡から末廬国(唐津)までの水行1万里(10日行程)」であり、「残りの2千里が陸行1月(1ヶ月)」ということである。したがって通説で邪馬台国は「投馬国から南へ水行10日、陸行1月」とするのは誤りで、これは「帯方郡から南へ水行10日。陸行1月」ということだったのである。

 こう考えると「帯方郡からの水行1万里に10日、残りの2千里に陸行1月かかって到達する所に邪馬台国はある」となり、郡から水行10日で九州北岸の末廬国(唐津)に上陸したら、あとは東南方向に歩いて(陸行)1ヶ月で目的地邪馬台国に着くことになる。したがって畿内説の成り立つ余地は全くない。

 始めから距離表記で表現しないで所要日数だけで書いてくれていれば、後学の者がかくも苦労はしなかったのだが・・・。いずれにしても、さようなら、畿内説!

 といってその頃、畿内に大国がなかったわけではない。葛城王権・三輪王権・丹後王権・・・などなどかなりの勢力があった。ただ、当時、魏王朝との国交はなかったというだけに過ぎないのである。心配メサルナ。

 「・・・・・・・think。」

 

|

« かのやばら園・2013春祭り(鹿屋市浜田町) | トップページ | 麦秋(鹿屋市池園町) »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« かのやばら園・2013春祭り(鹿屋市浜田町) | トップページ | 麦秋(鹿屋市池園町) »