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敵(日本)の敵(中国)は恋人?

 韓国の女性大統領・朴槿恵が中国を公式訪問し、習近平総書記との蜜月を演出した。韓国指導者の外遊ではアメリカ訪問の次は日本と決まっていたのを敢えて今回は避けたのだそうである。

 日本と中国が尖閣諸島の問題をめぐってギクシャクしているのを幸いとばかり、頭越しに中国へ飛んだ朴大統領はやはり最後に「日本の歴史認識はだめだ」とダメを押すことを忘れなかった。向こうでは強気一点張りだ。

 今度の訪日回避は本当のところは、従軍慰安婦問題を再燃させて慰安婦の生き残り(韓国に言わせれば被害者)を訪日させたが、橋下大阪市長と対面する間際になってドタキャンしたことが問題視されるのを避けたためだろう。

 大東亜戦争ではどちらも日本にひどい目にあった―これが彼らの歴史認識で、この一点で「共通の敵日本」への侮りと偽証をやめない両国。しかしその歴史認識も日本で言えば明治維新からのロングスパンで考えれば「いつまでもそんなことを言っていていいのか」と危惧する。

 日本の韓国併合は韓国(大韓帝国)人すら支持するものも多かった。もし日本が併合していなければソ連が侵略し、おそらく日本と戦う羽目になっただろう。そうなれば朝鮮半島は戦後の朝鮮動乱以上の犠牲を払わなければならなかったはずである。日本の併合はそうならないための必要悪であったことになる。もちろん必要でも悪は悪だが、大韓帝国そのものが統合して立ち上がれなかったのだから仕方あるまい。

 日清戦争では日本はイギリスの悪辣なアヘン政策でへろへろになっていた清王朝つまり満州族による支配を打ち破り、結果として漢族による大陸支配すなわち中華民国独立に大きく貢献した。これに対して日本人は官民を挙げて後押しをしている。

 日本は韓国併合、台湾領有を含めて欧米列強が目指していた世界植民地分割抗争に立ち向かい、欧米との治外法権・関税自主権なし等の差別的国交を歯を食いしばって堪え凌いで立ちあがり、アジア・アフリカの有色人種国家で初めて欧米に伍し、これがまた植民地状態の有色人種国家群を勇気づけたのであった。

 日本は連合国(英米仏蘭等)と戦いそして敗れた。しかし戦後多くのアジア・アフリカの植民地は解放された。戦いには敗れたが、「人種の平等と植民地解放への戦い」の偉大な一里塚となったのである。聖戦とは言えぬまでも義戦ではあった。

 この辺りの時代認識を持てない指導者は本来失格である。だが、他国とあれば辞めさせるわけにもいかない。

 しかしひるがえって、彼ら(中国・韓国)の目から見れば、日本がいつまでもアメリカの傘の下にぶら下がってもごもごうじうじしているのを見るに堪えないのではないか。実を言うと上の太字で表した部分のような認識を本当は持っているのではなかろうか。持っている上でそんなことはおくびにも出さず「日本にはひどい目にあった」だけを言い募り、日本のマスコミを走らせ、いつまでも日本人を叩く材料として確保しているのだろう。

 その挙句に日本から準賠償金であるODAをたんまりと受け取ってきて知らん顔をしている。これは一種のゆすりだが、「日本軍は南京で30万人も殺したんだぜ」が、文字通り殺し文句になり、日本側を黙らせてきたわけである。韓国もそういった作戦に同調しつつあるのだろうか。

 今回の「蜜月報道」を見ていて、奇妙な感覚にとらわれた。というのはそもそも朝鮮動乱の共産圏側の侵略者は現在と同じ中国共産党政府であった。つまり朴大統領にとっては北朝鮮軍とともに韓国南部まで侵略し、韓国を焦土にした憎むべき敵が中国共産党なのである。

 しかも中国共産党政府の介入がなければ、アメリカを中心とする国連多国籍軍の反撃で金日成率いる北朝鮮軍は壊滅し、現在まで続く南北分断も金王朝もなく、朝鮮半島には統一政府が成立していた可能性が高かったのである。

 「朝鮮動乱の時は中国共産党軍にひどい目に遭いましたわ、私たち」―と朴大統領が習近平に直言し、謝罪を要求したかどうかは分からない。たぶんそう思っていても口には出さないに違いない。なにしろ「蜜月」なものですから・・・。

 

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天気晴朗なれど・・・

 昨日までの二日間は梅雨末期の豪雨を思わせ、当地方の雨量計のある「吉ケ別府」では日曜日からの4日間で総雨量が450ミリを超えた。6月の平均的な雨量の2倍くらいになっている。本格的な梅雨明けはまだ先で、梅雨前線は最低でももう一回は豪雨をもたらすに違いない。

 今日は夜明けとともに久しぶりに日がさして、風も全くなく穏やかな朝となった。今朝のさわやかさとは反対にここ2週間ばかり胃もたれがひどく、一昨日などは夜中に胃部の不快感で目を覚ますほどだった。

 そこでついに医者にかかることにした。胃癌は早期発見に限る―とは耳タコであったが、まさか自分がそんな状況に陥るとは考えてみなかった。昨日の昼頃、胃カメラ検査の予約を入れておこうと某病院に電話を入れたのだが、特に予約の必要はないそうで、「明日の朝は何も食べずに来てください。それに保険証を忘れずに・・・」で済んだ。

 今朝は水だけは飲んでいいということだったので、コップ一杯を胃に流し込んで出かけた。「胃もたれは胃だけではなく、胃の後ろにある膵臓がおかしくてもなりますよ―」との主治医の見立てでCTスキャンも撮影する羽目になったのは番狂わせだった。たまたま今日は他に2人も撮るというので、一緒に撮影室に行った。

 最近ではよく健康番組などでお目にかかる断層写真撮影装置。説明書きによると撮影した断層写真は電話回線で即時に東京にある画像診断会社に送られるという。その会社は有名なセキュリティ専門会社セコムの系列会社だったのにはびっくり。こんな所にまで業務を広げていたとは思いも寄らなかった。

 肝心の胃カメラはその後、ずいぶん待たされてから行われた。以前は口からカメラを入れていたのだが、この頃は鼻から入れるようになっていた。その方が嘔吐感が無く、また医師への言葉の応答も可能ということで移行してきたようである。

 今回が初めてだったので口からの挿入とは比べようがないが、たしかに楽であった。結果は「逆流性食道炎」。他に潰瘍、まして癌を想起させるようなものも見当たらないとの診断であった。まずはホッとした。一週間分の薬を処方され、再診する一週間後にはもう一つのCTスキャンの結果も分かるとのことであった。一週間後の運命やいかに・・・。

 朝一番で行ったので10時頃には帰れるだろうと思っていたのが、なんと帰途に就いたのがすでに12時半。帰りがけに寄ってみようと思っていた野里田んぼには、やはり予定通り行くことにした。Cimg5536野里田んぼ地帯の下半分を眺める。この間の土日を利用して植えたのだろう、幼苗がどこまでも並んでいる。Cimg5529今日まさに田植えをしている田んぼもあった。おそらく昨日か一昨日の植え付け予定だったのが大雨のため今日になったのだろう。4~5条植えの乗用田植え機を操るのは高齢者だ。この大きさまでだと後ろに見える軽トラックのの荷台に載せて自宅から楽々運ぶことができる。Cimg5533ここは今日これから田植えをするのだろう。青々と成長した苗箱が向こうと合わせて10枚。一反(300坪)に20枚必要だから、いま水を満々と湛えている田んぼの広さは5畝(150坪)ということになる。農道と畦道に挟まれたせいで、四角い田んぼではなく三角の田んぼになってしまったようだ。Cimg5537おっとこちらはもう間もなく田植えで、最後の均平作業に余念がない。田の隅の方はどうしても田床の凹凸が大きく、こうして手作業で均していく。この辺りでは最後の田植えになりそうだ。

 今年、野里田んぼの水利組合では、下半分は6月20日までに終え、その後上半分が田植えに掛かる―との取り決めだったそうだ。例年よりは10日くらい遅れているとのこと。梅雨に入ってからさほどの雨が降らずに水不足がちだったが、ここへ来てたっぷりの雨に恵まれたので、アグリン(農人)たちはホッとしていることだろう。










 

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沖縄「慰霊の日」

 今日6月23日は沖縄の日本軍が降伏したいわゆる「沖縄終戦記念日」で、摩文仁の丘に於いて「沖縄戦没者追悼式」が行われた。

 ニュースでは追悼式典の様子を中継で伝えていたが、沖縄県知事の追悼挨拶の後に立った小学生の発表は胸にしみた。

 何でも沖縄では毎年この追悼式に合わせて小学生から「平和について」という作文を募集しているのだが、今回は与那国島の小学一年生が最優秀ということで式典で自ら壇上に立って読み上げた。

 「平和ってなんだろうとぼくは考えた。すると兄弟が仲良く、家族が元気で・・・・・」と続けて「ヤギが歩いている。・・・海では魚や亀が泳いでいる。・・・」「そういうのが平和だと思う。これからも平和を守って行きたい。」

 安里○○くんだったが、言葉がはっきりしていて何ともかわいい子であった。

 

 日本の中で、住民が間近に戦闘に晒されたのは沖縄が最初で最後だった。沖縄市民のうち3人に一人が犠牲になったというあの沖縄戦。本土からは特攻機が1000機以上は飛び立って沖縄近海の米軍に攻撃を加えたが、焼け石に水という結果になった。

 6月23日に沖縄戦司令官・牛島満中将や長参謀長が自決して戦闘は終わったが、牛島中将は沖縄住民の誠実な戦いに感激し、次のような言葉を残した。

 <沖縄県民かく戦えり。願わくば後世、格別のご高配あらんことを!>

 アメリカの支配は確かに昭和47年に止んだ。しかし厖大な基地は残されたままだ。大多数の沖縄人は「何ということだ!」と思っている。余りにも牛島中将の<ご高配を!>とはかけ離れている。それは日本とアメリカが結んだ日米地位協定のためである。

 日本の一部である沖縄県がそれを廃棄することは不可能だろう。なら、いっそ沖縄は日本から独立して「琉球共和国」を形成し、事実上の「地位協定からの離脱」を図ったらどうだろうか―などと思ったりもする。

 或いはこうも考える。自分の理想は日本全土が「永世中立国(ただし武装)」となって世界に宣言することだが、それが一足飛びに行かないのであれば、まずは沖縄を「永世中立特区」とすればよい。沖縄の米軍基地を必要最小限にまで縮小し、しかもそこは米軍ではなく米軍を含む「国連多国籍軍」の駐留に置き換えるのだ。

 国連安全保障理事会も反対する理由は見当たらないだろう。

 牛島満中将の心からの叫びを無駄にしてはなるまい。小学一年生の安里○○くんが成人するまでに、安里くんが描いたような平和の島沖縄が実現していることを祈りたい。

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大隅邪馬台国説について

 一昨日、肝付町の温泉施設「やぶさめの湯」に入浴に行った時、受付のカウンターに何気なく5冊ほどの本が並べられているのに気付いた。

 よく見ると同じ本である。手に取ってみたら最近「大隅に邪馬台国がある」ということで話題の本だった。Cimg5525『予言 大隅邪馬台国』というタイトルで、著者は広島県在住の元高校教師だそうである(2008年刊、発売元・星雲社)。

 こちらの書店では結構売れているのだろうか、販売の手はこんな片田舎の集客施設にまで伸びてきたわけだ。

 なにしろ大隅というスンクジラ(隅っこ)をタイトルに入れるような出版物はまずないから、それだけでも当地の話題をさらうに十分である。もっとも「大隅」なら大隅史談会の60年の伝統を誇る会誌『大隅』があるが、残念ながら内容と活動のマンネリ化でさほどの読者は得ていない。知る人ぞ知るという所ではあるが・・・。

 風呂上りに買い求めて昨日今日と読みふけったが、この著者が大隅こそ邪馬台国―とひらめいたきっかけは昔、宮崎の西都原に旅行に来てそこが投馬国であると確信したら、その南にあるとされる邪馬台国は鹿児島県の大隅地域でしかないと感じたことから始まっている。

 西都市には投馬国そのものの妻という地名があり、そこから「南へ船で10日、歩いて一月」が邪馬台国の位置だから大隅半島であろうというものである。ただし、著者は「歩いて一月」を歩いて一日の誤記と考えている。

 私見ではその改変には賛成できない。なぜなら大隅半島を一月も歩いたら突き抜けてしまうので、そうなっては困るから「一日」に改変するというのでは、初めに「大隅半島の中心部こそが邪馬台国」ありき―の論法だからである。このような改変を許してしまうと、他の論者も待ってましたとばかり、自分のここだと思う邪馬台国へ距離なり方角なりどんどん改変しても文句は言えなくなる。これが「邪馬台国の比定地が論者の数だけある」と言われるゆえんであり、いまだに収拾の付かない惨状を呈しているゆえんなのである。

 しかしまあ、わが大隅半島と比定してくれたのだから、そこは暫時目をつぶるとして、著者の言い分に耳を傾けることにする。

 著者がもっとも強調するのが「卑弥呼の墓」である。東串良の唐仁大塚古墳こそが卑弥呼の墓で、卑弥呼の墓の規模「径百余歩」がまさしく該当する―というのである。そして、これは驚天動地というべきか、卑弥呼の墓であるこの大塚古墳は卑弥呼の死亡年代である240年頃の造営だという。

 大塚古墳は後円墳頂上に竪穴式石室を掘りそこに石棺を納めているので古いタイプではあるにしても畿内の同タイプの墳墓よりはあとの造営で、5世紀前半というのが定説である。5世紀前半は400年~450年の範囲であるから、卑弥呼の死より200年近く後ということになり、一般説とは全く時代が合わない。

 だが、著者は大塚古墳を発掘調査したら卑弥呼時代にさかのぼる可能性があるかもしれないと考えている。さらに、卑弥呼時代に大塚周辺にかなりの数の古墳が造られ、その後大隅邪馬台国は東征して大和に行ったのでこの大塚古墳は大和地方における前方後円墳の原型になったのではないか―とも言っている。

 さらなる驚天動地の考え方である。たしかに大和地方の箸墓を象徴とする初期巨大前方後円墳は一体どこから発生したのか―という疑問がある。九州が起源ではないかという考えがあって何らおかしくはない。

 いずれにしても大塚古墳の発掘調査が行われなければ結論は出ない。そこを著者はタイトルに「予言」と付け加えることによってうまく含みを持たせている。

 私見では大隅を含む「古日向」(鹿児島県と宮崎県)は戸数5万戸の「投馬国」と比定し、その王・弥弥(ミミ)こそが記紀に描かれた「神武東征」の主体であった―と考えているので、著者の考えとは相容れないが、大隅の歴史への興味を強く誘ってくれるこのような著作は大いに歓迎したい。(ちなみに私見の邪馬台国は末廬国=唐津から東南方向へ陸路一ヶ月の行程で達する福岡県八女市郡域である。)

 

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あじさい公園(都城市山之口町)

 都城の三股町の嫁の実家を訪ねたあと、隣り町の山之口町にある「あじさい公園」まで足をのばしてきた。

 この公園は旧三俣城(別名・松尾城)跡にあり、以前に仲間と歴史散歩で訪れている。そのときは真夏で花も何も咲いておらず、暑い盛りとあって人影はなかった(フクロウは居たが・・・)。Cimg5506石段を挟んで上下がボードウォークになっており、かなりの勾配の登りが続くので相方は左手へ。自分はそのまま上って行く。Cimg5504若干、花の着きが悪いように見えた。空梅雨だったせいだろうか。Cimg5505駐車場の隣りにある和風の休憩所の池に、ほとんど水がない。渇水の影響に違いない。それでも斜面一杯に広がる紫陽花は見応えがする。Cimg5509尾根筋まで来ると、ここらはなかなか良い風に咲いている。通路にこぼれ落ちそうになっているのもまた紫陽花ならではの姿だ。Cimg5508_2紫陽花と模擬天守閣。

 『三国名勝図会』によると、ここには山之口郷の三俣城があった。ただし、別名の「松尾城(松尾之)城」のほうが間違いがなくてよい。というのは、三俣城は隣り合った高城郷の方にあったし、そちらの方が古城だったようである。

 しかもそもそもどちらにも三俣城と名付けられたのは周辺一帯が島津庄の一部「三俣院」があったからである。三俣院は700町もあったというから、島津庄の中でも屈指の広さで、最大で1000町に達したこともあるという。

 このように肥沃な三俣院をめぐっては、南北朝時代以降、足利方(畠山氏)と宮方(菊池氏・三俣氏および肝付氏)、それに日向の伊東氏が入り混じって離合集散を繰り返した。しかし戦国末期に肝付氏が降りたのち、島津氏一族の北郷氏の所領となり、庄内の乱を経て島津藩の重要な一部となって明治維新を迎えた。

(この山之口郷の三俣城は、南北朝時代の延文年間(1356~1361)に足利方日向守護・畠山直顕の子が居城していたが、南朝方の雄・菊池武光が攻め落とした(『太平記』)という。菊池氏没落後は伊東氏の一党が入城したりしている。)

 Cimg5507天守閣の三階(最上階)から下を見下ろす。

 天守閣直下の紫陽花群はほとんど花を着けていない。頂上部分なのでとくに水分が足らないのだろう。地域全体が渇水とあってはここにまで水を補給するのを遠慮したのかもしれない。

 折しも三俣地方は今日あたり普通作の田植えの真っ盛りで、遠近の田ではいま一番水が欲しい時期なのである。

 ※この天守閣の中にフクロウを見た「都城歴史散歩」はこちら


 











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高天原を訪ねて②(志布志市田之浦地区吉原)

 去る2月1日に訪れた曽於市南之郷地区。桜谷・高山・低山(ひきやま)というイザナギ神話にちなんだ所で、最奥にはどうやら高天原があるらしいということで行ってみたが、雨にぬかるんだ山道ゆえにたどり着けなかった。

 6月13日は志布志に用事があり、行ったついでに志布志市側から行ってみることにした。 志布志中心街から田之浦地区方面へ。途中から安楽川沿いに都城方面に抜ける国道を走ると、道路の左手に田之浦小学校の子どもたちが描いた地域の紹介図があった。Cimg5491平成6年度の卒業生が記念に制作したものらしい。20年近く経つのに立派に役立っている。

 目指す吉原集落は田之浦小学校(この小学校の裏手から天智天皇の御廟があったという御在所岳に登る道がある)から「いこいの森」方面へ向かうと、そのすぐ手前に左折して行く道がある。Cimg5490それがこのUターン状に左へ降りて行く道だ。トラックの行く手は、いこいの森から都城へと抜ける国道。この先3キロほどで高岡に至り、直進すれば都城、左折すれば曽於市末吉町の南之郷地区だ。Cimg5485左折して100㍍も下ると、安楽川に架かる橋に出る。「吉原大橋」とあった。Cimg5486橋から下を見ると安楽川の渓谷だ。奇岩を縫って―と言いたいところだが、川床全体が阿多溶結凝灰岩の「一枚岩」なので、まるで人工的に刳り抜いた水路を激流が下っているかのようだ。ちょうどこの辺りの溶結度が特別高かったのだろう。渓谷美の一つである。

 右手の岸には細長い水田が川に沿って伸びている。米作りへの執念を思わせる。Cimg5478吉原大橋を渡るとすぐに一軒の家があり、さらに数百メートルで二軒目、三軒目と人家はぽつぽつと現れる程度で、昼なお暗いような道を行くこと2キロ余りで分岐に差しかかる。

 左手へをとれば「吉原たたら山跡」に至るらしい。少し行ってみたが小さな川を渡ると道はさらに狭くなり、途中で引き返した。「たたら」と言うからには「鉄」関連の施設のあとだろう。このような場所に鉄鉱石が出るはずはないから、おそらく海岸で採取した砂鉄を持ち込んでこの界隈の豊富な木炭で製鉄を行っていたに違いない。幕末の薩摩藩では幕府の目を盗んで製鉄から鉄砲・大砲の製造まで行っていたという記録があり、大隅半島では田代町(現・錦江町)の山中でも行われていた。Cimg5475分岐から右手を少し上って行くと人家が2軒あった。一軒の庭に防風ネットに囲まれた稲の苗床が見える。普通作の田植え用だろう。Cimg5473人家から200㍍ほども上がって行くと、今の農家の田んぼだろうか、植えられてまだ間もない若田が結構な枚数で広がっている。Cimg5469さらに200㍍山道を上がると、人の姿が見えたので単車から下りて行ってみる。

 最初は老夫婦かと思ったが、老母とその息子のようだった。たった今しがた田植え機で植え終え、水の調整をし、苗箱を洗って引き上げるところだったが、この地区の伝承を聞いてみる。

―この山の上の方に「高天原」っていう場所がありませんか。

「いや、聞いていないですよ。」「何とか城の跡とかいう標柱があったような気もするね。」

「だけど、高天原とは違うよ」

―この先の山道は山向うの南之郷に抜けるんでしょ?行けますかね。

「道路が崩れていて無理だよ。」「昔は普通に使っていたのにね。」

―そうですか・・・。吉原集落は何戸あるんですか?

「今はね、8戸だよ。以前は倍の16戸だった・・・。」Cimg5471礼を言って別れ、行けるところまで行ってみようと、山道を上がってみたが、150㍍ほどでちょっとした広場(車のUターン場所)に着き、それから先は草が生い茂っていて行くことができない。左手の段々田はもう耕作しないのか、草に埋もれている。Cimg5472先ほどの親子が今日植えた最奥の田んぼ。稲がそよぐ頃になるとイノシシ除けに高圧電線を田んぼの周りに張り巡らすというから大変だ。

 だが、この風景を見てふと思った。―この狭い田は天照大神が高天原で作っていたという「天の狭名田(さなだ)」そのものではないかーと。これが天の狭名田なら、この辺りの山こそ「高天原」というにふさわしいのではないか。

 

 言葉はちと悪いが、こんな源流のドン詰まりのような集落に住み、ドン詰まりの田を拓き、米を作る。これより上はもう田は作れず、天からの恵みである沢の水、それを生み出す山々があるだけ。

 そんな他者と比べようのない隔絶した環境に暮らせば、水をもたらす山々は神々の舞台でなければならず、その住処は「高天原」でもあるから、自然と人々はここを高天原と見立てるようになったのではないだろうか。「ここはおらが高天原。それでいいのだ―」と。

 一応そんな思いを得てさっきの親子にも別れを言い下って来ると、上って来るときには気付かなかった墓が正面に見えた。スピードを落として墓石に刻まれた文字を見ると何と「肝付家之墓」ではないか。―はて、肝付家が何でここに?

 単車を道の端に停め、墓前まで行ってみる。Cimg5484墓塔の表面はさっきの数軒と田んぼのある地帯に向いている。あの何軒かのうちの一軒が肝付家だったのだろう。

 それにしてもこんな人里離れた落人集落のような吉原(あの親子は平家の落人ではないと言っていた)に肝付家とは思いも寄らなかった。「霊標」に刻まれた名前を見ると、Cimg5483「先祖四柱合祀」とあり、大保氏と肝付氏の名が刻まれている。うち最も古いのは「肝付宗吉」で「文政八年七月十日」とあるから、肝付家が江戸時代の後期にはここに暮らしていたことが分かる。

 江戸時代の肝付家は、あの小松帯刀こと肝付尚五郎を生んだ一所持格の高級藩士家の肝付氏の他は高山の肝付氏本流で阿多に流された肝付氏の二系統しかないはずだが、こちらは阿多の肝付氏の流れなのだろうか。

 宗吉の跡に「兼則」さんや「兼弘」さんが出ているので、本流に近い分流であることは間違いないと思うが・・・。いずれ調べてみたい。















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憲法改正論議

 安倍内閣になってから憲法改正への論議が高まってきた。

 改正の法的前提条件としての96条が取り上げられ、「国会議員の半数以上の賛成で改正を俎上に載せることができるようにしたい」との主旨で、「3分の2以上要件」を緩和するところから切り込んで行くようである。

 たしかに現憲法に則って改正を行うのであればそこがまず第一の関門で、96条では衆参両院でそれぞれ全議員の3分の2以上の賛成を得なければならないとしてあり、それに基づいて国民投票を実施して賛成過半数であれば改正が成立するわけだが、両議院でそれぞれ3分の2以上の賛成という機会はそうざらにあるものではない。そこで自民党としては「国民投票では過半数でよいとしてあるのだから、国会も同じであってよい」とハードルを下げようとしているのだろう。

 自分もそっちの方に整合性があると思うので自民党の意見に賛成だが、問題はどこをどう変えるかにある。

 自民党の改正ポイントは<第9条の2項「戦力の不保持」を「保持」に変える>・<日の丸を国旗に、君が代を国歌として条文化する>・<国民の権利のうち個人的権利を公共の利益の下位に置く>が主たるもので、どれも常識的な発想である。

 第9条は特に戦後の「憲法を1ミリとて変えるな」を金科玉条とする革新勢力の「核心的利益」であったが、これは日本の軍国主義の復活反対などと声高にわめく中国共産党政府の考えとシンクロしており、やはり中共の大きな影響力のもとに仕組まれて来たのかなとの思いを深くする。

 というのも昨日の関口宏の番組『サンデーモーニング』の中で、上にあげた最後の<国民の権利・・・>を話題に取り上げていたのだが、3人の識者をインタビューした中で1名は賛成、2名は反対の意見を述べていた。このうち元朝日新聞記者のむの・たけじ(98歳)という人物が「戦争への準備にまず国民の権利を奪って行くという常套手段。太平洋戦争への途上では個人の権利などどんどん奪われ、挙句の果てに酷い惨禍に巻き込まれた。断固反対だ。」というような意見を強く述べていた。

 このような人物の太平洋戦争史観が革新勢力の全盛時代では普通だったが、青年期の自分など、ずいぶん惑わされたものである。<酷い目にあった戦争=無意味な戦争>であり、したがって戦力の放棄こそが正しい生き方だ、ということで、「じゃあ何のために戦争をしたのか?」という素朴な疑問には誰も答えてくれなかったのである。

 その背景にあるのが「敗戦史観」であり、「戦前暗黒時代史観」である。すべては敗戦に至る「軍靴の音が高くなって来た暗い時代」としてのみ取り上げられ、<なぜ戦争をしたのか>という歴史を振り返る根本要件は斬り捨てられた。

 自分のように自国の戦争時代を知らないものは、かなりの程度戦争への道を客観的に見ることができる。勝った負けたの戦争観ではなく、「なぜ、戦争に至ったのか」を冷静に眺めることができる。西洋列強の植民地獲得という膨張主義に拮抗したのが有色人種ではただ一つの国日本であり、その流れの中で衝突したのが太平洋戦争である―という世界史の流れで見なければならないのである。

 トインビーの言う「文明間の挑戦と応戦」と見てもよい。挑戦に対する応戦は必ずしも戦争とは限らないが、話し合いが続けられたにもかかわらずついに武力の衝突となってしまった。このことについて敗戦後に日本に占領軍最高司令官として足掛け6年滞在したマッカーサー自身が、司令官解任後にアメリカ議会内の外交委員会で「あれは追い詰められた日本の自衛戦争であった」という旨の発言をしているくらだから、「日本の向う見ずな軍国主義者どもが勝手に国民を戦争に駆り出し、日本国民のみならずアジアの到る所で諸国民に犠牲を強いた」というような見方は全くの一方的な史観で、アジアではむしろ日本軍の進出を<植民地解放の先駆け>として歓迎してさえいたのである。(結局は負けたので、そんなことはおくびにも出さないが・・・。だが、アジア・アフリカはその後1960年頃までに次々に植民地から解放された。)

 先の元朝日新聞記者などはこういった点には見向きもせず、ただ「暗い戦争の時代に・・・云々」という敗戦史観に浸かり、これでもかこれでもかと「日本軍の蛮行」のあることないことをこき交ぜて戦後の論調をリードしていた(というか煽り立てていた)。

 太平洋戦時に個人の権利が著しく制限されたのはやむを得なかったのであり、国民もそれによく耐え、「聖戦」とまでは言えないにしても、西洋植民地主義からのアジアの解放を旗印にした「義戦」に奉仕したのだと思う。

 元朝日新聞記者の「国民の権利に制限を課すのは全体主義つまり戦争への傾斜につながるから大反対」はそっくりそのまま今の中国に言ってやったらどうか。中国政府からは拘束されるかもしれないが、中国人民は大いに歓迎するだろうよ。

 

 

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田崎池親水公園(鹿屋市田崎町)

 梅雨の合間、今の時期になると「大賀ハス」の咲く田崎池に行ってみた。

 昼休みなのに公園内の東屋には誰も憩うていない。もったいないと言えばもったいないが、写真を撮る身にはラッキーである。ただし、向うの緑陰には多くの車が休憩中だ。Cimg5460東屋の側から10メートル四方に広がって来た大賀ハスの群落。Cimg5457去年は右手の葉っぱの影に見える大賀ハスという説明板がもう少し大き目に見えたのだが、一年で群落が密になってきたようだ。Cimg5459直径30メートルはある丸い田崎池だが、昔はもっと水が澄んでいたと聞く。右手の丘が湧水の供給台地なのだが、都市化の影響で湧水量そのものが減っているのかもしれない。Cimg5461池の水が流れ出る部分に木の橋があるが、その中にハスとは別の群落がある。Cimg5464睡蓮だが、えらく葉が多いのには驚く。そのせいか花はポツポツしか咲いていない。Cimg5465睡蓮の傍にはパピルス(だと思う)。昔、田代町で農業をしていた頃、借りた家の庭に、同じようにひとかたまりで群生していたのを思い出す。このような水生が本来の姿か・・・。Cimg5466池の向こうには、市街地の頭越しに高隅連山が見える。一番高いピークが御岳(1182㍍)だ。・・・と、周回道路にまで後ずさりしてくると、おっと、藪の中に・・・。Cimg5467タノカンサ―(田の神さま)と水神さあが、おいやった。

 昔むかし、この池の水は田んぼに引かれて稲の実りをもたらして下さったそうじゃ。ありがたや・・・・・。




















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アフリカ開発会議(6月1日~3日)

 横浜市で開かれたアフリカ開発会議(TICAD)が盛会の内に終わった。この会議は1993年から5年ごとに行われ、今回が5回目ということである。アフリカ全体54か国のうち51か国の参加があったというから大変なものである。Cimg5453終了後の記者会見(NHKテレビ放送より)
 あのノーベル平和賞を貰ったワンガリ・マータイさんが生きていたら国賓待遇で招待されただろうに。日本の「もったいない」を世界の言葉にした(というにはもっと長生きしてほしかった)女性社会運動家である。

 それでも安倍首相のイニシアチブのもとで、多くのアフリカ人指導者がともに横浜で過ごした3日間は大きな影響を持つだろう。

 日本は今後5年間で官民合わせて3兆2千億円の投資を行うという。Cimg5452その主たる目的は「技術移転」だそうだ。アフリカ人に日本の技術を修得してもらい、長い目でお互いの交易交流関係を築き上げようというものだ。

 それにしても何とも大盤振る舞いだが、記者会見ではこのところの株価の急落に関する質問が取り上げられ、若干危惧するようなニュアンスも感じられた。アフリカ各国の首脳も心配に違いない。Cimg5456それに対してはいつもの「日銀主導だが、市場の動向には細心の注意を払っている。アベノミクス効果が表れれば、株の乱高下も落ち着いてくるはず―」を繰り返していた。

 同じように対アフリカ戦略を着々と進めている中国がさっそく茶々を入れてきた。

 曰く「日本は国連安保理の常任理事国という地位を手に入れるために、国数の多いアフリカ諸国の同意を取り付けようという腹だ。しかしそれは無理なことだ・・・」云々。

 たしかにそれは無理なことだ。何しろ反日連合国の一員であった中華民国に代わって国連安保理にスライドし、そのまま常任理事国として居座ってしまった中国共産党政府様の反対(拒否権行使)があれば日本はどう頑張っても常任理事国にはなれないのである。

 常任理事国の権力は強大なのである。日本がどんなに国連分担金を払おうが、世界の平和に寄与しようが、今の国連(という名の反枢軸国連合)安保理の常任理事国には逆立ちしてもなれない仕組みなのだからしょうがない。

 とにかく英・米・仏・中(本当の中は中華民国)・露(本当はソ連)の五か国のみが常任理事国なのであって、それらの国はすべて第二次世界大戦の反枢軸国(枢軸国とは日・独・伊・ブルガリアなど)、つまりは戦勝国であり、これらの国々は安保理の議決に於いて一国でも拒否権を発動すれば議事は否決されてしまう。

 もし仮に「日本を安保理の常任理事国にしよう」という議事が提議され、国連加盟国の99パーセントが賛成し、安保理の常任理事国5か国のうち4か国が賛成しても、中国一国が反対(拒否権発動)したらおじゃんになるのだ。

 こんな国連など出てしまえ!とケツをまくりたい気分になるが、今の国連が今のままである以上、日本は永久に常任理事国にはなれない。

 

 私見では脱退する必要はなく、「永世中立国」(ただし武装はする)を宣言し、事実上今の国連からは身を退き、平和政策に徹して国際関係を継続して行く方策がベストだと考える。アメリカの世界戦略のお先棒に乗る「集団的自衛権の発動」なんていうのも御免蒙る。

 知人にこんな話をすると「それじゃ、誰も守ってくれないから国民みんなが、家々にスイスのように武器を持ち、核シェルターのような設備を備えるようになるでしょうね。でも中国が攻めて来たらどっちみち終わりですよ。やはりアメリカに守ってもらわないと―」などと言いかえされる。

 中国は確かに脅威だが、しかし今時日本に攻めてくる理由があるのかね。日本が大東亜戦争中に中国を蹂躙したから仕返しだって?馬鹿馬鹿しい。何のためのサンフランシスコ講和条約であり日中平和友好条約だったんだい。

 いくら捏造と反日暴言の中国共産党だからといって、そんなことをしたら世界中から袋叩きに合うよ。そんなこと許される道理はなかろう。まず、国連安保理常任理事国の英米仏は反対するはずで、その反対を押し切ってまで日本を攻撃したとすれば、中国共産党政府は分裂か下手をすると「革命」が起きてつぶれるかもしれない。(自分としてはつぶれて旧中華民国型国家になってくれればいいと思っているが。)

 中国ついでに言うと、中国要人の中には「ポツダム宣言では日本の領土は本州・九州・四国・北海道の4島に限られるーとしてあるから、沖縄は日本ではない。かって沖縄は中国への朝貢国つまり属国であったから、沖縄は日本ではなく中国に帰属させるべきだ」と、暴言というか狂言を吐く者がいる。

 江戸時代、琉球は確かに清朝への朝貢国であった。しかし実際は薩摩藩にも帰属していた。そして明治になって明治政府が琉球国を解体して沖縄県として再編し、ここに名実ともに日本の一部となったのである(いわゆる琉球処分)。これについて当時の清朝は抗議をしただろうか、世界に訴えただろうか、武力を持って攻めて来ただろか。いずれも「否!」である。日本の一部であることが明確だったからだ。

 尖閣諸島も、1895年(明治28年)、日本の一県となった沖縄県に帰属する―と明治政府が閣議決定し、間もなく国標を設置し、福岡県の商人(事業家)に貸し出している。こういうのを「実効支配」というのである。ただ、国有化(国有地として登記)はしていなかったので、<土地はすべて国有地>という共産主義中国の建前からすると、日本の領土ではないと見て構わないと思ったのだろう。

 さらに尖閣諸島の近海に海底資源が発見されるに及んで、「しめしめ国有地ではないから、分捕れるぞ」との欲心を起こさせる元になったわけである。

 だが、民主党政権である野田内閣が土地の所有者から島を買い取って国有化してしまったので、地団太踏んで悔しがり、あの手この手で日本の暴発を誘おうと領海侵犯を繰り返しているのが現状である。中国のそんな汚い手に乗ってはいけない。

 (民主党政権だったから国有化できたことで、自民党政府ではできなかっただろう。今日の午後のニュースで当時の自民党要人であった人物が「私は日中共同宣言発表当時の当事者として明確にしておきたい。尖閣諸島をめぐる領有権問題は棚上げにしようとなったのですよ。これをはっきり今ここで申し上げておく」と記者会見で述べていたが、完全に向うのペースにはまっていたのである。棚上げなどできない。あそこはすでに沖縄県に帰属していた―などと反論したら、共同宣言そのものが廃棄されるという不安が心の底にあったに違いない。あるいは中国側からそう釘を刺されていたのかもしれない。)

 尖閣問題についてはここが大変参考になる。

 上の二つの条約でとっくに片が付いている日本の戦争責任だ何だのと言っていないで、チベットを早くチベット人に返せよ、中国!!

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大隅史談会創刊号を見る

 先日、史談会副会長の隈元氏から「Iさんの家にまだこんな古い『大隅』があった」と、我が家に大隅史談会の創刊号から6号までと、15号、20号の合計8冊を持って来てくれた。

 昔、といっても50号を編集した際のことだから7年前の初夏のころ、鹿屋市立図書館に行って手元に無かった創刊号から30号くらいまでの目次をコピーさせてもらったことがあった。

 執筆者の名前と執筆者ごとの発表論文(歴史小説や短歌・俳句も含めて)をリストアップしようと、そのコピーと手元にある49号までの旧号の目次からまず執筆者をアイウエオ順に並べ、その人が何というタイトルの論文を書いたかを一目でわかるように集積したのである。

 (その結果は第50号の巻末に付録として載せたが、好評を得たと思っている。それによると投稿者数は226名で、延べテーマ数は989編であった。最多は故・神田三男氏の41編であり、現役では竹之井先生の39編であった。竹之井先生はそれ以後も一号あたり2編は書いているので最新の56号まででもう50篇は超えたはずである。功労賞ものである。)

 しばらく貸してくれるというので、まずはページ落ちのしそうな号について、大きめのホッチキスで止めたあと、背に透明テープを張って補強した。さらに破けそうな箇所も補強をしておいた。

 これで少しはページをめくるたびにハラハラしないで済むようになり、少しずつ読み始めたところである。Cimg5446_2創刊号は『大隅史談会誌』とあった。

奥付を見ると、昭和29年(1954)10月25日の発行である。編集者・発行人は永井彦熊(肝属郡牛根村麓)。印刷所は南日本新聞鹿屋支社。発行所を大隅史談会としてある。Cimg5447『大隅史談会誌』第2号。昭和30年9月20日発行。Cimg5448第3号はハッとするようなデザイン。昭和32年4月1日発行。タイトルは今日と同じ『大隅』になっている。大隅という楷書を揮毫したのは平泉澄・東大名誉教授。以後ずっとこれを踏襲してきた。

 サブタイトルに「航空博覧会 郷土館記念号」とあるのは、前年の昭和31年に開催された鹿屋海上自衛隊航空基地を主会場とする航空博覧会を受けてのことで、郷土館も設置されたらしい。この郷土館が単なるパビリオンで終わってしまったのは残念至極である。10万都市で歴史(郷土)資料館がないのは鹿屋市だけかもしれない。(もっと言えば、これははっきりしているのだが、10万都市で鉄道が通っていないのは鹿屋市だけである。昭和62年まではあったのだが・・・)

 さて、せっかく創刊号が手に取って読めるのだから、大隅史談会と会誌の創刊のいきさつを調べてみる。それには当たり前だが創刊号が情報を提供してくれている。

 会誌『大隅』の創刊は上述の通り昭和29年だが、実は大隅史談会そのものは昭和26年10月13日に始まっている。これについては創刊号の92ページ以下「発会までの経緯及び行事年譜」に詳しい。<発会までの経緯>(永井彦熊)にはこう書かれている。

 

 失神していた者が息を吹き返す様に、敗戦後虚脱状態であった国民が、漸く民族意識を取り戻し、全国的に郷土史研究が澎湃として起こって来た。

 古代文化の尖端を行っていた大隅が、又もや社会に取り残されるのかと遂に意を決し、当時の迫地肝付地方事務所長へ手紙を書いた。折り返し同感の返事があったので、茲に於いて各市町村長に対し、郷土史研究者の推薦方を依頼した(後略)。


 この郷土史への熱烈な取り組みは、創刊号の永井彦熊会長の「巻頭言」にも切々と謳われており、当時の皇国史観の完全否定による心身虚脱から立ち上がろうとする意気込みが垣間見える。

 行事年譜を見ると、昭和26年10月13日に発会式が肝属郡教育会館で行われており、出席者は当時の鹿屋市長・永田良吉をはじめ、各市町村長が勢揃いをしていて壮観なものである。どうやらこの会は戦前は「請願代議士」とも「ヒコーキ代議士」(大場昇著『評伝・永田良吉』2010年刊より)と異名をとった永田良吉鹿屋市長の肝いりのようで、会長は永田良吉とある。

 その後、永田良吉は名誉会長になり、会長は民間の永井彦熊が就任した。これだけ行政色が強いのであれば永田本人が当分会長職にあってもよさそうであるが、戦後公職追放になった経緯もあってすぐに辞任したのかもしれない。(永井彦熊は垂水市牛根麓の出身で、長らく高校教員をしたあと、年譜からは54、5歳の頃に史談会の発会責任者になったようである。上記昭和29年の創刊号「発会の経緯」を書いた時には会長になっていた。)

 かくて大隅史談会は発足した。

 (まだまだ興味ある記事など多いが、おいおい紹介して行きたい。)

 

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