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あじさい公園(都城市山之口町)

 都城の三股町の嫁の実家を訪ねたあと、隣り町の山之口町にある「あじさい公園」まで足をのばしてきた。

 この公園は旧三俣城(別名・松尾城)跡にあり、以前に仲間と歴史散歩で訪れている。そのときは真夏で花も何も咲いておらず、暑い盛りとあって人影はなかった(フクロウは居たが・・・)。Cimg5506石段を挟んで上下がボードウォークになっており、かなりの勾配の登りが続くので相方は左手へ。自分はそのまま上って行く。Cimg5504若干、花の着きが悪いように見えた。空梅雨だったせいだろうか。Cimg5505駐車場の隣りにある和風の休憩所の池に、ほとんど水がない。渇水の影響に違いない。それでも斜面一杯に広がる紫陽花は見応えがする。Cimg5509尾根筋まで来ると、ここらはなかなか良い風に咲いている。通路にこぼれ落ちそうになっているのもまた紫陽花ならではの姿だ。Cimg5508_2紫陽花と模擬天守閣。

 『三国名勝図会』によると、ここには山之口郷の三俣城があった。ただし、別名の「松尾城(松尾之)城」のほうが間違いがなくてよい。というのは、三俣城は隣り合った高城郷の方にあったし、そちらの方が古城だったようである。

 しかもそもそもどちらにも三俣城と名付けられたのは周辺一帯が島津庄の一部「三俣院」があったからである。三俣院は700町もあったというから、島津庄の中でも屈指の広さで、最大で1000町に達したこともあるという。

 このように肥沃な三俣院をめぐっては、南北朝時代以降、足利方(畠山氏)と宮方(菊池氏・三俣氏および肝付氏)、それに日向の伊東氏が入り混じって離合集散を繰り返した。しかし戦国末期に肝付氏が降りたのち、島津氏一族の北郷氏の所領となり、庄内の乱を経て島津藩の重要な一部となって明治維新を迎えた。

(この山之口郷の三俣城は、南北朝時代の延文年間(1356~1361)に足利方日向守護・畠山直顕の子が居城していたが、南朝方の雄・菊池武光が攻め落とした(『太平記』)という。菊池氏没落後は伊東氏の一党が入城したりしている。)

 Cimg5507天守閣の三階(最上階)から下を見下ろす。

 天守閣直下の紫陽花群はほとんど花を着けていない。頂上部分なのでとくに水分が足らないのだろう。地域全体が渇水とあってはここにまで水を補給するのを遠慮したのかもしれない。

 折しも三俣地方は今日あたり普通作の田植えの真っ盛りで、遠近の田ではいま一番水が欲しい時期なのである。

 ※この天守閣の中にフクロウを見た「都城歴史散歩」はこちら


 











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