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大隅邪馬台国説について

 一昨日、肝付町の温泉施設「やぶさめの湯」に入浴に行った時、受付のカウンターに何気なく5冊ほどの本が並べられているのに気付いた。

 よく見ると同じ本である。手に取ってみたら最近「大隅に邪馬台国がある」ということで話題の本だった。Cimg5525『予言 大隅邪馬台国』というタイトルで、著者は広島県在住の元高校教師だそうである(2008年刊、発売元・星雲社)。

 こちらの書店では結構売れているのだろうか、販売の手はこんな片田舎の集客施設にまで伸びてきたわけだ。

 なにしろ大隅というスンクジラ(隅っこ)をタイトルに入れるような出版物はまずないから、それだけでも当地の話題をさらうに十分である。もっとも「大隅」なら大隅史談会の60年の伝統を誇る会誌『大隅』があるが、残念ながら内容と活動のマンネリ化でさほどの読者は得ていない。知る人ぞ知るという所ではあるが・・・。

 風呂上りに買い求めて昨日今日と読みふけったが、この著者が大隅こそ邪馬台国―とひらめいたきっかけは昔、宮崎の西都原に旅行に来てそこが投馬国であると確信したら、その南にあるとされる邪馬台国は鹿児島県の大隅地域でしかないと感じたことから始まっている。

 西都市には投馬国そのものの妻という地名があり、そこから「南へ船で10日、歩いて一月」が邪馬台国の位置だから大隅半島であろうというものである。ただし、著者は「歩いて一月」を歩いて一日の誤記と考えている。

 私見ではその改変には賛成できない。なぜなら大隅半島を一月も歩いたら突き抜けてしまうので、そうなっては困るから「一日」に改変するというのでは、初めに「大隅半島の中心部こそが邪馬台国」ありき―の論法だからである。このような改変を許してしまうと、他の論者も待ってましたとばかり、自分のここだと思う邪馬台国へ距離なり方角なりどんどん改変しても文句は言えなくなる。これが「邪馬台国の比定地が論者の数だけある」と言われるゆえんであり、いまだに収拾の付かない惨状を呈しているゆえんなのである。

 しかしまあ、わが大隅半島と比定してくれたのだから、そこは暫時目をつぶるとして、著者の言い分に耳を傾けることにする。

 著者がもっとも強調するのが「卑弥呼の墓」である。東串良の唐仁大塚古墳こそが卑弥呼の墓で、卑弥呼の墓の規模「径百余歩」がまさしく該当する―というのである。そして、これは驚天動地というべきか、卑弥呼の墓であるこの大塚古墳は卑弥呼の死亡年代である240年頃の造営だという。

 大塚古墳は後円墳頂上に竪穴式石室を掘りそこに石棺を納めているので古いタイプではあるにしても畿内の同タイプの墳墓よりはあとの造営で、5世紀前半というのが定説である。5世紀前半は400年~450年の範囲であるから、卑弥呼の死より200年近く後ということになり、一般説とは全く時代が合わない。

 だが、著者は大塚古墳を発掘調査したら卑弥呼時代にさかのぼる可能性があるかもしれないと考えている。さらに、卑弥呼時代に大塚周辺にかなりの数の古墳が造られ、その後大隅邪馬台国は東征して大和に行ったのでこの大塚古墳は大和地方における前方後円墳の原型になったのではないか―とも言っている。

 さらなる驚天動地の考え方である。たしかに大和地方の箸墓を象徴とする初期巨大前方後円墳は一体どこから発生したのか―という疑問がある。九州が起源ではないかという考えがあって何らおかしくはない。

 いずれにしても大塚古墳の発掘調査が行われなければ結論は出ない。そこを著者はタイトルに「予言」と付け加えることによってうまく含みを持たせている。

 私見では大隅を含む「古日向」(鹿児島県と宮崎県)は戸数5万戸の「投馬国」と比定し、その王・弥弥(ミミ)こそが記紀に描かれた「神武東征」の主体であった―と考えているので、著者の考えとは相容れないが、大隅の歴史への興味を強く誘ってくれるこのような著作は大いに歓迎したい。(ちなみに私見の邪馬台国は末廬国=唐津から東南方向へ陸路一ヶ月の行程で達する福岡県八女市郡域である。)

 

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