« 憲法改正論議 | トップページ | あじさい公園(都城市山之口町) »

高天原を訪ねて②(志布志市田之浦地区吉原)

 去る2月1日に訪れた曽於市南之郷地区。桜谷・高山・低山(ひきやま)というイザナギ神話にちなんだ所で、最奥にはどうやら高天原があるらしいということで行ってみたが、雨にぬかるんだ山道ゆえにたどり着けなかった。

 6月13日は志布志に用事があり、行ったついでに志布志市側から行ってみることにした。 志布志中心街から田之浦地区方面へ。途中から安楽川沿いに都城方面に抜ける国道を走ると、道路の左手に田之浦小学校の子どもたちが描いた地域の紹介図があった。Cimg5491平成6年度の卒業生が記念に制作したものらしい。20年近く経つのに立派に役立っている。

 目指す吉原集落は田之浦小学校(この小学校の裏手から天智天皇の御廟があったという御在所岳に登る道がある)から「いこいの森」方面へ向かうと、そのすぐ手前に左折して行く道がある。Cimg5490それがこのUターン状に左へ降りて行く道だ。トラックの行く手は、いこいの森から都城へと抜ける国道。この先3キロほどで高岡に至り、直進すれば都城、左折すれば曽於市末吉町の南之郷地区だ。Cimg5485左折して100㍍も下ると、安楽川に架かる橋に出る。「吉原大橋」とあった。Cimg5486橋から下を見ると安楽川の渓谷だ。奇岩を縫って―と言いたいところだが、川床全体が阿多溶結凝灰岩の「一枚岩」なので、まるで人工的に刳り抜いた水路を激流が下っているかのようだ。ちょうどこの辺りの溶結度が特別高かったのだろう。渓谷美の一つである。

 右手の岸には細長い水田が川に沿って伸びている。米作りへの執念を思わせる。Cimg5478吉原大橋を渡るとすぐに一軒の家があり、さらに数百メートルで二軒目、三軒目と人家はぽつぽつと現れる程度で、昼なお暗いような道を行くこと2キロ余りで分岐に差しかかる。

 左手へをとれば「吉原たたら山跡」に至るらしい。少し行ってみたが小さな川を渡ると道はさらに狭くなり、途中で引き返した。「たたら」と言うからには「鉄」関連の施設のあとだろう。このような場所に鉄鉱石が出るはずはないから、おそらく海岸で採取した砂鉄を持ち込んでこの界隈の豊富な木炭で製鉄を行っていたに違いない。幕末の薩摩藩では幕府の目を盗んで製鉄から鉄砲・大砲の製造まで行っていたという記録があり、大隅半島では田代町(現・錦江町)の山中でも行われていた。Cimg5475分岐から右手を少し上って行くと人家が2軒あった。一軒の庭に防風ネットに囲まれた稲の苗床が見える。普通作の田植え用だろう。Cimg5473人家から200㍍ほども上がって行くと、今の農家の田んぼだろうか、植えられてまだ間もない若田が結構な枚数で広がっている。Cimg5469さらに200㍍山道を上がると、人の姿が見えたので単車から下りて行ってみる。

 最初は老夫婦かと思ったが、老母とその息子のようだった。たった今しがた田植え機で植え終え、水の調整をし、苗箱を洗って引き上げるところだったが、この地区の伝承を聞いてみる。

―この山の上の方に「高天原」っていう場所がありませんか。

「いや、聞いていないですよ。」「何とか城の跡とかいう標柱があったような気もするね。」

「だけど、高天原とは違うよ」

―この先の山道は山向うの南之郷に抜けるんでしょ?行けますかね。

「道路が崩れていて無理だよ。」「昔は普通に使っていたのにね。」

―そうですか・・・。吉原集落は何戸あるんですか?

「今はね、8戸だよ。以前は倍の16戸だった・・・。」Cimg5471礼を言って別れ、行けるところまで行ってみようと、山道を上がってみたが、150㍍ほどでちょっとした広場(車のUターン場所)に着き、それから先は草が生い茂っていて行くことができない。左手の段々田はもう耕作しないのか、草に埋もれている。Cimg5472先ほどの親子が今日植えた最奥の田んぼ。稲がそよぐ頃になるとイノシシ除けに高圧電線を田んぼの周りに張り巡らすというから大変だ。

 だが、この風景を見てふと思った。―この狭い田は天照大神が高天原で作っていたという「天の狭名田(さなだ)」そのものではないかーと。これが天の狭名田なら、この辺りの山こそ「高天原」というにふさわしいのではないか。

 

 言葉はちと悪いが、こんな源流のドン詰まりのような集落に住み、ドン詰まりの田を拓き、米を作る。これより上はもう田は作れず、天からの恵みである沢の水、それを生み出す山々があるだけ。

 そんな他者と比べようのない隔絶した環境に暮らせば、水をもたらす山々は神々の舞台でなければならず、その住処は「高天原」でもあるから、自然と人々はここを高天原と見立てるようになったのではないだろうか。「ここはおらが高天原。それでいいのだ―」と。

 一応そんな思いを得てさっきの親子にも別れを言い下って来ると、上って来るときには気付かなかった墓が正面に見えた。スピードを落として墓石に刻まれた文字を見ると何と「肝付家之墓」ではないか。―はて、肝付家が何でここに?

 単車を道の端に停め、墓前まで行ってみる。Cimg5484墓塔の表面はさっきの数軒と田んぼのある地帯に向いている。あの何軒かのうちの一軒が肝付家だったのだろう。

 それにしてもこんな人里離れた落人集落のような吉原(あの親子は平家の落人ではないと言っていた)に肝付家とは思いも寄らなかった。「霊標」に刻まれた名前を見ると、Cimg5483「先祖四柱合祀」とあり、大保氏と肝付氏の名が刻まれている。うち最も古いのは「肝付宗吉」で「文政八年七月十日」とあるから、肝付家が江戸時代の後期にはここに暮らしていたことが分かる。

 江戸時代の肝付家は、あの小松帯刀こと肝付尚五郎を生んだ一所持格の高級藩士家の肝付氏の他は高山の肝付氏本流で阿多に流された肝付氏の二系統しかないはずだが、こちらは阿多の肝付氏の流れなのだろうか。

 宗吉の跡に「兼則」さんや「兼弘」さんが出ているので、本流に近い分流であることは間違いないと思うが・・・。いずれ調べてみたい。















|

« 憲法改正論議 | トップページ | あじさい公園(都城市山之口町) »

おおすみウォッチング」カテゴリの記事

コメント

こちらの子孫の方のブログ?を読んだことがあります。色々なお話が とても勉強になりました。

投稿: hanaori | 2014年3月 6日 (木) 12時35分

hanaoriさん、22日土曜日に再び「高天原」に行くことになりましたよ。
 北九州の人からどうしても案内を、ということです。

投稿: kamodoku | 2014年3月14日 (金) 21時50分

暖かい日になると良いですね。近隣の山には山桜が咲き とても綺麗です。春の高天原は 昨年とはまた違う景色になっているのかな と思っております。
気をつけて行ってきてください。

投稿: hanaori | 2014年3月18日 (火) 22時24分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 憲法改正論議 | トップページ | あじさい公園(都城市山之口町) »