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猛暑に咲く(鹿屋市池園町)

 今年もテッポウユリの咲く時期になった。

 四月ごろから茎を伸ばし始めて3ヶ月余り、ようやく純白の花を開く。Cimg5763ウッドデッキの前に今年は7,8本のテッポウユリが生えている。どれも自生だが、どれが一昨年からの物かは掘ってみないとわからない。最初の一本から後は、種子で殖えてきている。Cimg5762これは間違いなく今年初めて伸びて来たもの。背丈は50センチに満たない。花も一つだけだが、堂々たる咲きっぷり。周りのセロシアも遠慮してか、矮小のままだ。Cimg5765去年まで我が家の庭の最南部にあった叢生のユリ。四月にリビングから見えやすい東側に移植したのだが、移植の影響か、今年の高温干ばつ状態の天気のせいか、背丈が1㍍ほどで咲き始めた。去年は1、2㍍はあった。Cimg5766一株ごとの花数も平均二つで、去年より一つ少ない。でもまあ、見応えはある。Cimg5772毎年、庭のあちこちに顔を出すセロシア。日陰の一切ない庭の真ん中の群落は枝葉を大きく張ることなく、ツンツンと穂花を伸ばして来た。細身でうらやましいが明らかに水分不足だ。梅雨明け後の7月10日頃からは夕方の毎日の水掛けは欠かさなかったのだが・・・。

 なにしろ今3時過ぎだが、写している10分間で背中がジリジリしてくる暑さであるから仕方あるまい。玄関口の温度計はまだ33℃を示している。Cimg5768ウッドデッキの前にも群落があるが、この花、今年は仕事から解放されて暇を得てせっせと草取りに励んだら見事な群生となった。

 これまでは雑草に押されて今頃は気息奄々とし、思い出したように薄紫と純白のぽちっと咲かせるくらいだったのに、今年は高温にもめげず次々に花を咲かせ続けている。

 最初は薄紫のだけだったのだが、3年後くらいから白が交じるようになった。突然変異だろうがよく分からない。土質を選ばない強い花である。

 それにしても暑い!!

 昨日の天気予報だったか、この7月、西日本はどこも平年気温を1~2℃上回ることになるという。こんなことは数年前から毎年言われているので、鹿児島が奄美くらいになり、福岡あたりが鹿児島並みになったということだろう。

 今年は鹿児島の8.6水害から20年目だが、東北の集中豪雨にしろ、山口や北陸のゲリラ豪雨にしろ、この20年で梅雨末期のいわゆる「人がけ死まんと、なげし(梅雨)が上がらん」という鹿児島特有の風土(風物)が確実に北上したことを示している。なんちゅわならん!

 




 





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太陽光発電所(肝付町前田)

 太陽光発電パネルを使った大規模な発電所が肝付町に完成していた。

 今日の午後、肝付町の温泉ドームに入浴に行く途中、近道をしようといつもの交差点より手前の脇道に入って行ったら、思いがけないものに出くわした。

 太陽光パネルによる発電所だった。Cimg5706工事用の看板を見ると、発注者は何と自宅のある鹿屋市大姶良地区の事業者である。

 7月16日が工期の完了日だが、まだ営業はしていない。Cimg5708ずらりと並んだパネルの集合体。Cimg5709金網で仕切られた発電所の横の長さは約100㍍。奥行もそんなものか。Cimg5710一枚の集合体は横40枚、縦4枚、合計160枚のパネルで成り立っている。奥行には集合体が15行だから、この発電所の半分で2400枚。合計では4800枚のパネルがあることになる。

 一般家庭で電気を賄うとすれば最低でもパネル20枚が必要であるから、ここの発電所は約240戸の家庭に必要な電気を発電することになる。

 仮に一般家庭の毎月の電気料金が1万円とすると、毎月240万円、年に2880万円の電気を売ることになる。そうすると10年で2億8800万円となるからそれで元がとれる計算だろうか。捕らぬ狸の皮算用にならなければよいが・・・。

 それでもこれ以上危険かつ廃棄物処理の目途の立たない原発への依存から自由になるための第一歩として期待をしたいものだ。

 Cimg5713帰る途中、吾平町で見た早期米の収穫。

 もう人はいなかったが、例年よりほんの少し遅れたくらいで刈り取りが始まったようだ。この3週間のカンカン照りで光合成が最大限に進んだのではないだろうか。豊作が期待できる。Cimg5715_2

田んぼは見方によっては太陽光パネルと言ってよい。ただ電気エネルギーを生産する代わりに光合成によってでんぷんを生産し、食料となってわれわれの活動エネルギーになるだけの違いに過ぎない。













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桜島の古地図

 鹿児島の地図専門店に頼んでおいた鹿児島・桜島周辺の古地図が到来した。

 明治35年(1902)に「大日本帝國陸地測量部」(所属は内務省か)が測量し、38年に製版、同42年(1909)7月20日に発行した五万分の一ものである。

 明治年間であるから当然のこと、桜島は純然たる島であり、大隅半島にはくっついていない。大正3年1月12日に大噴火を起こした際の溶岩は四方に流れ出たが、特に垂水側の瀬戸へは強く流れ、約3週間後の2月1日にとうとう陸続きにしてしまった。Cimg5704国土地理院による原本照合認証(H25.7.18付)済みの写本。写真右下が大隅半島で、瀬戸(海峡)は「早崎の瀬戸」と言ったと思うが、最も狭いところで400㍍ほどである。左の色の濃い部分が鹿児島市街地で、こちらの海峡の幅は4キロ近くある。Cimg5705上記写本の拡大図。桜島側で早崎の瀬戸に一番近い集落が「瀬戸」集落であったが、ここは溶岩流によって完全に埋没してしまった。(瀬戸集落の左手に現在は展望所として観光客を集める有村地区、北には「埋没鳥居」で有名な黒神地区、そして海峡を挟んで東方には垂水市の牛根麓地区が見えるが、どれも壊滅は免れている。)

 大正大噴火による死者・行方不明者の数は58人ということだが、行方不明者の大部分はこの集落の人ではなかったか。

 噴火の前日は地震が頻発し、真冬なのにヘビやカエルが這い出し、ニワトリが昼間から鳴くという前兆現象があったようで、恐れおののいた人々は鹿児島測候所に噴火の前触れではないかと問いただしたが、当時の所長は大噴火を否定した。

 しかし翌日の10時ごろ、大噴火が起こり、島民は取るものもとりあえず避難を開始した。だが、50名を超える死者・不明者を出してしまったのであった。

 測候所の判断の誤り(遅さ)が、失わないで済んだはずの人を死に至らしめたという島民の無念さが10年後の大正13年、現・鹿児島市立東桜島小学校入り口に「・・・住民は理論を信頼せず、異変を認知するときは、未然に避難の用意、もっとも肝要とし・・・」という有名な碑を建てさせている。(以上は『かごしま世相百年』南日本新聞社刊を参照した。)

 

 鹿児島での「国際火山学会」は昨日で終わったが、梅雨明け後の桜島の異常な動きについては特に取り上げられなかったようで、ここ2週間の最近にない活発な活動が収束へ向かうのか、はたまたもっと活発になり、やがて大噴火を起こすのかについての知見は得られなかった。

 それにしても気温が高い。今日の1時半頃に家の外の玄関口にある温度計は何と37℃を指していた。玄関には屋根がかかっているのだが、南向きのため太陽熱がこもることは籠る。しかも昨日の少雨のせいか、蒸し蒸ししており、これまでにない暑さである。
 

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桜島の異常な活動

 ここのところ桜島の爆発・噴火が異常に多くなっている。

 気象庁の鹿児島観測所の発表によると、6月の回数は36回だが、今月に入ってからは22日の時点で160回を超えた。

 しかも7日までの一週間はわずか2回であったから、梅雨明け宣言の8日以降の15日間だけでこの回数がカウントされたことになる。一日当たりに直すと10.6回である。6月と7月の最初の週までの回数が平均1回だから、8日以降の増え方は異常と考える他ない。

 しかし折りも折り、鹿児島では「国際火山学会」が開催されており(開催期間:7月20日~24日)、世界でも稀な「50万都市のすぐ目の前にあり、人と共存している活火山」桜島は、やはり火山学者たちへの大サービスを忘れなかった。さすがだ。Cimg5696 今度の学会は日本では30年ぶりの開催で、鹿児島が会場になったのは、桜島の大正大噴火が来年1月で100周年を迎える節目だからだそうである。Cimg5691 鹿児島からは京大の桜島観測所に長年勤務していた教授が壇上に立った。Cimg5693 大噴火時の人の非難については、下駄を預けた格好だ。Cimg5699 今日(22日)の午後4時40分頃、今月に入ってから6回目の3千㍍級の噴煙が上がったとのニュースがあった。

 梅雨明け(8日)直後の10日に3400㍍という観測史上3番目の高さに上がったのを皮切りに、噴く回数も大きさもウナギのぼりで、19日には1日に二度も3000㍍まで噴き上げ、真夏なのに西寄りの風に乗って大隅半島各地に降灰があったばかりだ。

 異常な暑さとの関連は基本的には無いと思う(事実、大正噴火は真冬の1月12日だった)が、6月に比べて極端に噴火回数が増え、かつ噴火の大きさも増大してきているのは、もはや「ガス抜き」理論では説明できず、近々とてつもない噴火が起きないという保証はない。

 桜島の活動が異常を示しているのは明らかだと思うが、仮に大噴火が起きたとき京大教授の言うように「非難するしないは、本人の判断に任せる」というのであれば、個人が避難ルートを確保しておかなければなるまい。大変だなァ。










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猛暑が続く(鹿屋市池園町)

 7月8日の梅雨明け宣言以来、こちらでは一滴の雨も降らない。正確に言うと7日の日曜日からだから、今日でもう13日間の降雨無しが続いていることになる。

 梅雨明け後は晴れる日が多いのは当たり前だが、今年は例年より梅雨明けが早かったうえに連日の晴天で、しかも毎日が33、4℃という気温の高さも鹿屋に住んでから初めての経験だ。

 鹿屋は意外と気温が低く、鹿児島市内より2℃ほど夏も冬も気温が低めなのである。

 冬と言えば、今年の冬はとにかく寒く、降霜や低温の日がかなりあった。冬のブログでも書いたが、やはりこれまで経験のない寒い冬だった。

 今年は寒さ一入の冬と、暑さ尋常ならざる夏が同時にやって来たわけだ。Cimg5683 暑さにはめっぽう強いはずのセロシアが、カンカン照りにうなだれている。午後1時過ぎの気温が玄関前で34℃あったので、我が家に毎年自生して花を咲かせる彼らも、「経験のない暑さだべ・・・」と観念しているのだろう。Cimg5684 クリーム系のセロシアもかくの如し。Cimg5685 半日陰に生えている大型のも、葉っぱだけは垂らしている。よほど暑いのだろう。Cimg5689 梅雨明けと同時に冬毛が抜け切ったウメ。

 夏の時期は一日に数時間しか日の当たらない場所に繋ぎ替えているので、涼しい顔をしている(と思う)が、それでも舌を出して体熱を発散させるのを止めない。

 毛皮のコートを脱ぐか、ウメ!

 夏の入り口だというのにこの暑さでは先が思いやられる。日本各地では一方でゲリラ豪雨、他方でカラカラ天気と、すでに緊急的な事態が発生している。また桜島はこの数日で3000m級の噴煙を3度も吹き上げた。今年は何か異変が起きそうな気がしてならない。杞憂ならよいが・・・。

※追録・・・今日(23日)の夕方のニュースによると、奄美大島では7月1日の梅雨明け以降、今日で23日間降雨量ゼロが続いているそうだ。

 サトウキビ農家が写っていたが、渇水対策をしなければ「ウギ」(さとうきび=沖縄ではウージ)の収穫は不可能になるかもしれない―とのことであった。大変な事態がもうそこに迫っている。









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海の日(鹿屋市浜田海水浴場)

 7月15日は海の日。7月の第3月曜日だから―と言われてもピンと来ない。最初の制定では7月20日の旧「海の記念日」を復活し、月日は固定していたのだが、その後「ハッピーマンデー法」とやらで7月の第3月曜日に持って来て、土・日との三連休にした。今年の7月の第3月曜日が15日だったというわけである。

 ハッピーマンデー法により、他にも3つ、固定していた祝日が動くようになったのが、成人の日・敬老の日と体育の日だ。祝祭日というのはその日にいわれがあって決められたのであり、勝手に動かしていいものか―という疑問がずーっとあって、そのせいか国旗を掲揚するのを忘れてしまうことが多い。

 限りなく老いの繰り言に似てきた文句を並べても始まらない―ということで夕方になってから浜田海岸に海を見に行った。鹿屋市に二つある海水浴場の一つで、我が家から西へ6キロばかりの所にある。Cimg5634国道269号と海に挟まれた砂浜一帯が海水浴場で、かってはどこの海岸にも見られたクロマツ林が残っていることでも知られている。(駐車場は国道の反対側にある。普通車300円)

 6時半を回っていたので海水浴客は数えるほどだが、海に向かって左手の砂浜では若いグループが大いにはしゃいでいた。Cimg5654Cimg5655砂浜めがけて走り、飛び込んで(?)いた。砂まみれだ。元気なものである。Cimg5637ひと泳ぎしてくると、もう太陽が水平線に掛かりはじめている。Cimg5653飽きずに西の空と海を眺めていると、老夫婦が、孫らしい小学校低学年の女の子とともにやって来て、海に入って行った。日没までの15分間、夕日を浴びながら海水浴を楽しもうというのだろう。子供にはいい思い出になるに違いない。Cimg5659帰宅途中の「瀬筒峠」(74m)付近からの錦江湾の眺め。ほぼ日没時間で、浜田海水浴場の松たちが思い思いにシルエットを浮かべている。Cimg5660同じ場所からは、北に桜島が茫洋たる姿を見せていた。

















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弓張城址(肝付町高山新富)

 肝付町に南北朝時代の南朝方武将・楡井頼仲(にれいよりなか)が築いたという弓張城があった。高山町役場(現・肝付町役場)の南東に聳える城山山塊全体がそれである。

 暑い最中であったが、高山に用事があったので登ってみた。Cimg5627 城山遊歩道案内図。

 登山口は4か所あり、これまで北東側の四十九所神社横からのコースからは2回ほど上ったことがあるので、今回は高山川の流れに近い「高山川口」からのコースをとることにした。Cimg5632旧高山町役場から南へ向かうとじきに高山川に行き当たる。そこに架かる「屋治橋」から城山山塊を眺める。

 標高は104m。手前からがいきなり高く、そのまま400㍍ほど標高を維持し、最高点が104mである。そして南東に行くにしたがって少しずつ低くなっていく(遊歩道図参照)。

 向こう(上流側)の土手に排水路調節用の建屋があるが、そのすぐ左手に人家らしき屋根が見えている。それが国指定の「二階堂家住宅」。故・二階堂自民党副総裁の実家である。

 遊歩道の高山川口は橋を戻り、高山川に沿って二階堂家住宅に向かって行くと、むき出しの手摺りがまるで梯子のように見えるので分かる。かなりの勾配だ。Cimg5604 急な階段だけあって登ってすぐに良好な景色が得られるのがいい。Cimg5606高山川の眺め。

 階段の真下の道路際に三人の高齢男性が腰を下ろしているが、この人たちはサイクリングの途中で、自分が登山道入り口の写真を撮っているときに出会った。「登りは暑いが、上に行ったら木が生い茂っているので涼しいかも」と言われたが、その通りだった。Cimg5608_2 ところがどっこい。その樹林帯に入る手前が難儀だった。ご覧の通りの孟宗竹の御乱行である。幸い枯れ切っているので軽く、よけるのにさほどの力はいらなかったにしても・・・。階段は途中で数えるのを忘れたが、150段くらいはあったような気がする。Cimg5609 最初のピークらしき場所。ここは見張り台のような建物があったかもしれない。向こうに見える道しるべの左手からは北入口(四十九所神社口)からの登山道が合流する。

 南朝方楡井氏の最大の敵は、足利方の島津氏である。当地の古豪・肝付氏が島津貞久・氏久親子に押されがちだった中、楡井氏の奮闘は光る。Cimg5611 やがて100mラインの稜線上を歩くようになり、二番目のピークには石の配列が見られる。何のためか。Cimg5612さらに進むとまたもやこんな石組が広がる。石垣の一部かもしれない。Cimg5616最高点に上る直前の階段口は幅2㍍くらいの抉れが左右の谷へ延びて落ちている。空堀だろうか。Cimg5619 最高点に到達。理屈で言えばここが本丸跡なのだろうが、それにしては狭すぎる。

 左手にちょっとした崖があり、そこを石垣が抑えているが、これは何時のものなのか。南北朝時代の物ではあるまい。遊歩道整備の時のだろう。Cimg5620 ここにも高さ1㍍ほどの大岩の石組が・・・。築城とは関係ないだろうな、と首をかしげつつ、最後のぽつんと離れたピーク(遊歩道案内図では県果樹試験場・大隅支場園地の右手の小さなピーク)に初めて行ってみて驚いた。Cimg5625八幡神社口(東口)への分岐路を左に見てそのまま階段を上がる。
 この20段余りの階段の先は小広いなだらかなピークで100㍍以上進んだ先は「遊歩道終点」となっており、その脇がすごいことになっていた。Cimg5624巨岩が溢れかえっている光景にちょっとびっくり。人の二抱えはある石がまるでここに集められたかのようにゴロゴロしているではないか。Cimg5621最上部の岩は手前に置いた長さ60㌢のタオルで判断すると、高さは150㌢、幅は3㍍近いおむすび岩である。下に埋まっている部分がどれほどか分からないが、この100㍍×30㍍ほどの広さのゆるやかなピークに、これらの他に大きな石組などは見当たらないので、やはり「集めた」としか言いようがない。

 「誰が何のために?」―何らかの(超)古代人が造った宗教的なモニュメントか、墓か、パワースポットか・・・。

※楡井頼仲・・・南北朝時代の中頃(1350年代)に南朝方として肝付兼重とともに大隅を転戦した。高山弓張城と高隅の松尾城を築城し、兼重亡き後、宮方勇将として活躍した。しかし正平12年(1357)に足利方日向守護・畠山直顕に敗れ、自ら創建した志布志の大慈寺で自害している。




































 

 

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肝付氏の揺籃の地(下伊敷・玉里界隈)

 旧高山町(肝属郡)を本拠地とした古族「肝付氏」の先祖・伴兼行が冷泉天皇の安和元年(969年)に「薩摩国総追捕使」を命じられ、翌二年八月に鹿児島郡「神食村」に着任して建てたのが「伴掾館(ばんじょうのやかた)」であった。

 それが今のどこにあるのか知りたくて、鹿児島市内に所用方々行ってみた。

 下伊敷町から玉里町にかけて100mに満たない小山が、町の東側を北北西から南南東に向かって伸びている。鹿児島市の観光課がインターネットで公開している史跡案内によると、どうもそれの中腹か稜線にあるようである。

 観光案内では下伊敷町側から「伊邇色神社(いにしきじんじゃ)」「伴掾館」「お由羅屋敷跡」「玉里邸跡・玉里庭園」「鹿児島神社(宇治瀬大明神)」が史跡として挙げられており、その順番で回ってみることにした。Cimg5603下伊敷・玉里・草牟田界隈の地勢図(地形の高低などが分かる)。

 赤字で示したのは左上から「伊邇色神社」「a館」「a寺」「お由羅屋敷」「b館」「b寺」「玉里邸」「鹿児島神社」。なぜ「a」とか「b」とか冠してあるのかと言えば、「伴掾館ー妙谷寺」というセットで在り処を考えなければならないからである。

 というのも『三国名勝図会』(天保13年・薩摩藩が完成させた地理歴史書)の「妙谷寺図(絵)」によると、寺の後ろ山の上辺りに「伴氏館址」と記入してあるからである。したがってまず妙谷寺の場所が分かったら、伴掾館はそのすぐ後ろの山の上にあることになる。

 ところがこの妙谷寺跡がよく分からないのである。このことは後で触れるとして回った順番に見て行く。妙谷寺の後ろ山を仮に「妙谷寺山」として記述して行くことにする。

 まずは、草牟田の北西に位置する「下伊敷交差点」を右折し(208号線)、200㍍弱で信号を右折し、玉里邸方面への妙谷寺山の麓道をとる。100㍍も行くと左手に看板は小さいが「伊邇色神社へ」と矢印がある。Cimg5589ここを左折すると次第に登り坂となり、人家への入り道と間違えそうになりながらも道成りに行けば神社に到達する。標高差で言えば20㍍ほども上がっただろうか。Cimg5592軽自動車なら無理なく鳥居をくぐって境内に入ることができる。自動車の無い時代であれば鳥居の手前は石段であった思われる。深い山懐に入った感じがするお宮である。Cimg5591社殿の柱に「旧県社 伊邇色神社」とある。小さいながらも小奇麗なお社である。祭神は<五十瓊敷入彦(いそにしきいりひこ)>および春日神社の祭神群(アメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシなど)。ここが元の県社とは恐れ入ると思いがちだが、いわれがあるのだ。Cimg5590書くより由来記の看板を見てもらったほうが早い。

 『三代実録』(正式には日本三代実録)の貞観2年(860年)3月20日条に「薩摩国 正六位上 伊迩色神 に従五位下を授く」とあり、この「伊迩色神」が伊邇色神社のことを指しているのは間違いないことから、かくも古くから祭られていた神社であることが公認されているのである。

 この神社は最初の地勢図に記したとおりの場所である。祭神の五十瓊敷入彦からこの辺りが伊敷(町)と転訛されて呼ばれるようになったというのが定説であるが、同祭神は垂仁天皇の長男であり王位継承権で言うと当然第一番目で(実際には二男の大足彦皇子(のちの景行天皇)が継承しているが)、そんな高貴な皇子をなぜここに祭ってあるのか不思議である。

 いずれにしても、伊敷という名称が相当古いことは確かであろう。

 次は妙谷寺跡だが、同じ道をさっきの麓道にもどり、玉里方面へ。Cimg5595 150㍍くらい行くと見るからに旧家とわかる家があった。もしかしたらここが妙谷寺跡か。そうだとしたらその後ろの山「妙谷寺山」のあの稜線上に伴掾館があったのか・・・。これだと「a」の組み合わせが正しいようである。

 たまたま近くを高齢の婦人が通りかかったので訪ねてみた。するとよく分からないとのこと。そのまま先に行くとまた同じような女性を見かけたので訪ねると

「あのSさんの家の所は昔はお寺だと聞いたことがある。」とのこと。また、「伊敷病院の裏手にはお由羅さんの屋敷があって、病院が買い取ったって話ですよ・・・」

 ありがたい、聞きもしなかったお由羅屋敷がたちどころに分かってしまった。Cimg5594病院の裏は患者や職員の駐車場になっており、その横続きに目指すお由羅屋敷跡があった。

 民家は後世の物に違いないが、前面の庭と一段下の池水庭園は当時の面影のままだろう。Cimg5593 豊かな水が湧いているようだ。コイがゆったりと泳いでいる。江戸の昔ならきれいな飲料水であり、田んぼへの用水池でもあったろう。Cimg5597お由羅屋敷(お由羅は27代藩主斉興の江戸生まれの側室。子の久光は藩主にはなれなかったが、28代斉彬の後継に久光の子の忠義が就任した。)の次は玉里邸だがここは現在の鹿児島女子高であり、土日以外は見学がむつかしいのでパス。

 この写真の門は黒門といい、明治20年に久光が死んだとき国葬になったので、新たにこの黒門を造作し、ここから遺体を運び出し、これまた国葬用に真っ直ぐに作った道路(国葬道路)に儀仗兵をいかめしく並べて葬送の列を作ったという。Cimg5598 鹿児島神社社頭。

 鹿児島神社は『三国名勝図会』では「宇治瀬大明神」としてある。そして鹿児島の地主神とする。祭神は豊玉彦とトヨタマヒメで、竜宮の父と娘。神話では娘が天孫二代目のホホデミと恋仲になり、ウガヤフキアエズを生んだとされる。

 Cimg5599華表(かひょう。鳥居のこと)には立派な扁額が架かり、古名の「宇治瀬大明神」としてある。Cimg5601駐車場から見た宇治瀬大明神。

 宇治瀬の意味は「うず(渦)さ」で、『三国名勝図会』には、

 「2月と10月(旧暦)の17日の夜になると桜島の穂尾崎の近海を通過しようとする船はどうしても進めなくなる。しかもこの夜は宇治瀬川(甲突川)が海からの逆流が激しく起こる。海童(海神)が宇治瀬神社に参詣するからという。」

 とあり、逆巻いて渦潮が起こるから「うず(渦)さ」なのだと説明している。

(同じような現象が佐賀県の大和町にある「与止日女神社」(よどひめ神社=世田姫ともいう)でも起こるというのを読んだことがあるが、あそこでは「よど」が「淀」から来ているという説明だった。)

 宮司さんに「なぜここに海の神である豊玉彦を祀るのか」と伺うと、この神社はもとは桜島の小島に鎮座していたが噴火の影響を避けて当地に遷座した―というお話であった。しかしその史料等は無いようである。

 また、ここも『三代実録』貞観2年3月20日の条で「薩摩国 従五位下 鹿児島神 に従五位上を授く」とあり、こちらの方が先の伊邇色神社より一ランク上の神階を得ているので、由緒はさらに古いのかもしれない。

 いずれにしても海神・豊玉彦を祭る社が「鹿児島の地主神」というのを信じれば、やはり鹿児島は海人族の故郷ということであろう。私見ではその海人族を朝鮮半島にまで頻繁に往来する「鴨族」と考えるのだが、いかに・・・。

 ところで、伴掾館について宮司さんから思いがけない言葉が出た。伴掾館の跡は玉里邸の裏手に当たる山中だというのである。

 御礼を言って神社を出、もと来た道を玉里邸に向かい、その裏手の「玉里福祉館」のすぐ横から右手に入って行くと確かに左右の谷間に人家がたくさん並び、徐々に急坂になって行く。

 この谷を埋め尽くすあたり一面が妙谷寺跡か。そうなると最初の地図上の「b」セットが正しいことになる。それらしい標柱などがあれば問題ないのだが、全く見当たらないので決めようがない。

 どちらにしても、大隅の古族・肝付氏の始祖「伴兼行」の鹿児島への最初の基点「神食の伴掾館」は微小山地<妙谷寺山>の中腹か稜線かに営まれたことは確かであろう。

 まだ甲突川が管理河川化する前の豊穣な川(宇治瀬川)が近くを流れ、それと東北から流れ込む小川との合流点である下伊敷辺りは、田を拓くに都合の良い最上の土地柄であったに違いない。妙谷寺山から湧き出る泉もまた古代人を虜にしたことだろう。

















 


 








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梅雨の晴れ間(鹿屋市池園町)

 4日前だったか、奄美地方では平年より三日ほど遅れて梅雨が明けた。

 ちょうどその頃、こちらでは強い西の風が連日のように吹き、時折り激しい雨を降らせたが、昨日あたりから晴れ間がのぞくようになった。

 今朝は朝から晴れ間が広がり、気持ちがいいにはいいが、日の出直後の6時のウメの散歩の時はもう暑さを感じるほどで、案の定、10時になると玄関先の寒暖計で29℃を指すまでになっていた。

 ちょっと庭仕事をしただけで汗が噴き出してくる。汗だくになる前に止めて日陰で涼みながら空を見ると、ようやく夏空が顔をのぞかせた。Cimg5546去年よりは少し早いかもしれない。何と言ってもこの青さと雲の白さが夏空だ。Cimg5547この雲はもう積乱雲になりかかっている。こんな雲と青空から連想するのが夏山登り。千メートル以上だと山頂は5~6度は低い。途中までは地獄だが、山頂の絶景が待っている。

 ただし、沢のある山でないと水分不足と炎熱に悩まされっぱなしで危険である。もう年も年だし、思い立ったが吉日というわけには行かない。しかも・・・・・・。

 先週受けた胃カメラ検査の結果が「逆流性食道炎」。胃の入り口にある関門が緩んでいたらしく、胃もたれが酷かった。「アルコールは止めておいた方がいいですよ」と医師に宣告されたが、5日目からビールを再開した。いや、ビールに「再会」した。さらに10日目には焼酎にもお付き合いを願った。ともに喜んだが、焼酎にはまだ再会が早かったような気も・・・。

 というわけで山登りは当分無理だろう。

 

 庭から家に入り、居間に行くと何かが伸びている。Cimg5543モモが床の上に伸びをした形で横たわっていた。前足の肉球がほてっているのか、ソファの金属製の脚に付けている。夏毛になって涼しいはずだが・・・。Cimg5544catあらら、お帰り。

 え、夏毛になって涼しかろうって? アタイも朝早くから外で仕事をして暑かったのよ。何の仕事って? そりゃ、屋敷内の見回りと、しっことうんこよ。

 ―そうかい、ごくろうさん。でも、お前には「逆流性食道炎」なんてないからお気楽だよな。寝転んでりゃいいんだから。

 catそう、それで寝子(ねこ)っていうわけよ。

 ―そうだったな。

 ※(追記)翌日の7月8日、九州南部は梅雨明けしたそうな・・・。

 

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憲法改正論議(続)

 先月(6月)の10日に「憲法改正論議」を書いてみたが、今回は自説をー。

 自民党の安倍政権が主張するように憲法96条を「両議院議員の過半数で議題にできる(改正案を提議できる)。賛成は過半数でよい。」と改正する案には賛成する。憲法は占領軍政府の押しつけでもいけないし、欽定憲法も時代遅れであり、国民一般の論議を重ねるきっかけにもなる。

 問題は中身だろう。

 自説では、前文の最後、第4項のあとに5項を設けて、「日本国は以上の条項を完全に履行するため、永世中立国となり、この立場から世界全体の平和に寄与する。」を入れる。これが最大にして最小の改正成案である。

 第5項は必ずしも新設せず4項の続きにしてもよいが、改正したことを明確に示すためには新たに項を設けた方がよいと思う。

 次に、自説での永世中立国は自衛のため戦力は持つから、第9条の第2項「戦力不保持と交戦権の放棄」は抹消する。

 以上が自説の核心であり、以上でも以下でもない。改正としては微々たるものである。

 ただし、中身は濃いと思う。

 前者について、「永世中立国」(ただし武装)は勝手に自国の憲法に採り入れてよいのかと言われるかもしれないが、他国の例ではないことはない。世に「自称・・・だ。」というおたく的な用語があるが、それで構わない。自国の憲法だからだ。

 他国や自国内の勢力が明らかに不利になるとか、挑発的な条項では世界の承認は得られまいが、<平和主義に徹する>という「崇高な理念」(現憲法の前文第2項)であれば、誰も文句のつけようがあるまい。

 単純なものほど論議も多く、風圧も強いだろうが、自分の目の黒いうちに「永世中立国」論が議題にされ、過半数の議員諸侯・国民の賛成を得、国会において国民の象徴たる天皇が内外に宣言されることを夢見る。

 それと同時に「終戦の玉音放送」ならぬ「永世中立国宣言へのお言葉」が国民の前で放映されることを大いに期待する。

 そのとき、日本から米軍基地が払拭されて一番がっかりするのはアメリカだろうが、国連多国籍軍の中心として日本に再駐留(米軍の残した基地の一部が再利用されると思う)するわけだから、太平洋地域の防衛に支障をきたすわけではない。

 一般論で言えば、怖いのは中国共産党政府だが、彼らも国連の五つしかない安全保障常任理事国の一国である以上、日本へ一方的に手出しは出来まい。もし武力侵攻してきたら安全保障理事国の地位はなくなり、世界から轟々たる非難が寄せられるはずである。おそらく共産党政府は瓦解するだろう。

 自分としてはその成立には日本も大いに肩入れした「中華民国」に戻って欲しいが・・・。

 ※中国共産党政府はチベットをチベット人に帰せ!!!―に追加。

  「新疆ウィイグルもウィグル人に帰せ!!!」

 

 

 

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「国司城址」の碑があらわに―。

 2月に鹿屋市役所近くを単車で走っていると、人家の入り口に何やらいわくありげな石碑が立っているのに気付いた。降りて確かめようとしたが、石碑の前面を黄色のマサキが覆い尽くしていた。仕方なく頭を突っ込んで彫り込まれた字を確認しようとしたが、どうにも完全には読めない。

 幸い石碑の後ろ側に建立者の名前と年代が彫られていたので、「ああ、ここがあの国司城というやつだな」と確信したのだった。以上のことは2月のブログに書いておいた(こちら)。

 その後、たしか5月の連休明けだったが、またここを通り過ぎようとして、今度はその人家の主らしき人が屋敷内に車を停めていたので、訪ねてみた。

 ご主人は鹿児島に住んでいてたまに帰郷して残された実家の掃除などをしているという。またもう一人の女性は奥さんかと思ったのだが、妹さんで神奈川県に住んでいるとのこと。

―国司城址というあの石碑ですがね・・・、垣根になっているマサキが覆っていて見えないもんですから、もう何年も気にはしていたんですが、分からなくて、この間、といっても2月の頃にようやく私なりに発見しましてね・・・。

「いやあ、そうですか。国司城と言っても私にはピンときませんが、ああ、この家の裏手にあったという岡ですな、うーん、そんなに大きなものではなかったと思うけれど・・・。」

「でも、登る道はあって行ったことはあるのよ。」

 兄さんと妹さんの話によると、どうもいわゆる城址というような大きなものではなく、ちょっとした小丘でしかなかったそうである。

 それは、旧五万分の一地形図からもうかがえるところで、割ときれいな円形のその小丘は直径が50㍍までもないような大きさである。とても城を営める場所ではない。見張り用の砦なら築くことができるかもしれないが。

 今日の午前中、所用があって中心部へ行く道すがら、信号待ちしていて何気なく件の人家を眺めて驚いた。石碑があらわになっているではないか。Cimg5542信号から横道に折れて近くに行ってみる。カラオケ店の広い駐車場越しに見る石碑。(ちょうど真ん中あたり)Cimg5541人家の前まで来ると前面を覆っていた黄色のマサキがカットされ、すっかり見えるようになっていた。一月余り前の人家の主への一言が利いたものか。有り難い。Cimg5539文句なく「国司城址」(こくしじょうし。または、こくしじょうあと)だ。人家の所有者Oさん、ありがとう。Cimg5540建立者は戦前戦後の長きにわたって国会議員を務め、戦後は一時公職追放に遭い、復帰後は鹿屋市長として采配を振るった永田良吉で、永田家の祀る「国司塚」との関連を思わせる。

 国司城は最初の写真で言えば、この人家の裏手にちょっとした高さ、おそらく15~20㍍くらいで聳えていたようである。形から見ると円墳のようでもあるから、そう考えてみても悪くはないだろう。

 国司城なら誰が支配者だったのか。円墳なら誰が埋葬されていたのか、興味あるところだ。

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