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肝付氏の揺籃の地(下伊敷・玉里界隈)

 旧高山町(肝属郡)を本拠地とした古族「肝付氏」の先祖・伴兼行が冷泉天皇の安和元年(969年)に「薩摩国総追捕使」を命じられ、翌二年八月に鹿児島郡「神食村」に着任して建てたのが「伴掾館(ばんじょうのやかた)」であった。

 それが今のどこにあるのか知りたくて、鹿児島市内に所用方々行ってみた。

 下伊敷町から玉里町にかけて100mに満たない小山が、町の東側を北北西から南南東に向かって伸びている。鹿児島市の観光課がインターネットで公開している史跡案内によると、どうもそれの中腹か稜線にあるようである。

 観光案内では下伊敷町側から「伊邇色神社(いにしきじんじゃ)」「伴掾館」「お由羅屋敷跡」「玉里邸跡・玉里庭園」「鹿児島神社(宇治瀬大明神)」が史跡として挙げられており、その順番で回ってみることにした。Cimg5603下伊敷・玉里・草牟田界隈の地勢図(地形の高低などが分かる)。

 赤字で示したのは左上から「伊邇色神社」「a館」「a寺」「お由羅屋敷」「b館」「b寺」「玉里邸」「鹿児島神社」。なぜ「a」とか「b」とか冠してあるのかと言えば、「伴掾館ー妙谷寺」というセットで在り処を考えなければならないからである。

 というのも『三国名勝図会』(天保13年・薩摩藩が完成させた地理歴史書)の「妙谷寺図(絵)」によると、寺の後ろ山の上辺りに「伴氏館址」と記入してあるからである。したがってまず妙谷寺の場所が分かったら、伴掾館はそのすぐ後ろの山の上にあることになる。

 ところがこの妙谷寺跡がよく分からないのである。このことは後で触れるとして回った順番に見て行く。妙谷寺の後ろ山を仮に「妙谷寺山」として記述して行くことにする。

 まずは、草牟田の北西に位置する「下伊敷交差点」を右折し(208号線)、200㍍弱で信号を右折し、玉里邸方面への妙谷寺山の麓道をとる。100㍍も行くと左手に看板は小さいが「伊邇色神社へ」と矢印がある。Cimg5589ここを左折すると次第に登り坂となり、人家への入り道と間違えそうになりながらも道成りに行けば神社に到達する。標高差で言えば20㍍ほども上がっただろうか。Cimg5592軽自動車なら無理なく鳥居をくぐって境内に入ることができる。自動車の無い時代であれば鳥居の手前は石段であった思われる。深い山懐に入った感じがするお宮である。Cimg5591社殿の柱に「旧県社 伊邇色神社」とある。小さいながらも小奇麗なお社である。祭神は<五十瓊敷入彦(いそにしきいりひこ)>および春日神社の祭神群(アメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシなど)。ここが元の県社とは恐れ入ると思いがちだが、いわれがあるのだ。Cimg5590書くより由来記の看板を見てもらったほうが早い。

 『三代実録』(正式には日本三代実録)の貞観2年(860年)3月20日条に「薩摩国 正六位上 伊迩色神 に従五位下を授く」とあり、この「伊迩色神」が伊邇色神社のことを指しているのは間違いないことから、かくも古くから祭られていた神社であることが公認されているのである。

 この神社は最初の地勢図に記したとおりの場所である。祭神の五十瓊敷入彦からこの辺りが伊敷(町)と転訛されて呼ばれるようになったというのが定説であるが、同祭神は垂仁天皇の長男であり王位継承権で言うと当然第一番目で(実際には二男の大足彦皇子(のちの景行天皇)が継承しているが)、そんな高貴な皇子をなぜここに祭ってあるのか不思議である。

 いずれにしても、伊敷という名称が相当古いことは確かであろう。

 次は妙谷寺跡だが、同じ道をさっきの麓道にもどり、玉里方面へ。Cimg5595 150㍍くらい行くと見るからに旧家とわかる家があった。もしかしたらここが妙谷寺跡か。そうだとしたらその後ろの山「妙谷寺山」のあの稜線上に伴掾館があったのか・・・。これだと「a」の組み合わせが正しいようである。

 たまたま近くを高齢の婦人が通りかかったので訪ねてみた。するとよく分からないとのこと。そのまま先に行くとまた同じような女性を見かけたので訪ねると

「あのSさんの家の所は昔はお寺だと聞いたことがある。」とのこと。また、「伊敷病院の裏手にはお由羅さんの屋敷があって、病院が買い取ったって話ですよ・・・」

 ありがたい、聞きもしなかったお由羅屋敷がたちどころに分かってしまった。Cimg5594病院の裏は患者や職員の駐車場になっており、その横続きに目指すお由羅屋敷跡があった。

 民家は後世の物に違いないが、前面の庭と一段下の池水庭園は当時の面影のままだろう。Cimg5593 豊かな水が湧いているようだ。コイがゆったりと泳いでいる。江戸の昔ならきれいな飲料水であり、田んぼへの用水池でもあったろう。Cimg5597お由羅屋敷(お由羅は27代藩主斉興の江戸生まれの側室。子の久光は藩主にはなれなかったが、28代斉彬の後継に久光の子の忠義が就任した。)の次は玉里邸だがここは現在の鹿児島女子高であり、土日以外は見学がむつかしいのでパス。

 この写真の門は黒門といい、明治20年に久光が死んだとき国葬になったので、新たにこの黒門を造作し、ここから遺体を運び出し、これまた国葬用に真っ直ぐに作った道路(国葬道路)に儀仗兵をいかめしく並べて葬送の列を作ったという。Cimg5598 鹿児島神社社頭。

 鹿児島神社は『三国名勝図会』では「宇治瀬大明神」としてある。そして鹿児島の地主神とする。祭神は豊玉彦とトヨタマヒメで、竜宮の父と娘。神話では娘が天孫二代目のホホデミと恋仲になり、ウガヤフキアエズを生んだとされる。

 Cimg5599華表(かひょう。鳥居のこと)には立派な扁額が架かり、古名の「宇治瀬大明神」としてある。Cimg5601駐車場から見た宇治瀬大明神。

 宇治瀬の意味は「うず(渦)さ」で、『三国名勝図会』には、

 「2月と10月(旧暦)の17日の夜になると桜島の穂尾崎の近海を通過しようとする船はどうしても進めなくなる。しかもこの夜は宇治瀬川(甲突川)が海からの逆流が激しく起こる。海童(海神)が宇治瀬神社に参詣するからという。」

 とあり、逆巻いて渦潮が起こるから「うず(渦)さ」なのだと説明している。

(同じような現象が佐賀県の大和町にある「与止日女神社」(よどひめ神社=世田姫ともいう)でも起こるというのを読んだことがあるが、あそこでは「よど」が「淀」から来ているという説明だった。)

 宮司さんに「なぜここに海の神である豊玉彦を祀るのか」と伺うと、この神社はもとは桜島の小島に鎮座していたが噴火の影響を避けて当地に遷座した―というお話であった。しかしその史料等は無いようである。

 また、ここも『三代実録』貞観2年3月20日の条で「薩摩国 従五位下 鹿児島神 に従五位上を授く」とあり、こちらの方が先の伊邇色神社より一ランク上の神階を得ているので、由緒はさらに古いのかもしれない。

 いずれにしても海神・豊玉彦を祭る社が「鹿児島の地主神」というのを信じれば、やはり鹿児島は海人族の故郷ということであろう。私見ではその海人族を朝鮮半島にまで頻繁に往来する「鴨族」と考えるのだが、いかに・・・。

 ところで、伴掾館について宮司さんから思いがけない言葉が出た。伴掾館の跡は玉里邸の裏手に当たる山中だというのである。

 御礼を言って神社を出、もと来た道を玉里邸に向かい、その裏手の「玉里福祉館」のすぐ横から右手に入って行くと確かに左右の谷間に人家がたくさん並び、徐々に急坂になって行く。

 この谷を埋め尽くすあたり一面が妙谷寺跡か。そうなると最初の地図上の「b」セットが正しいことになる。それらしい標柱などがあれば問題ないのだが、全く見当たらないので決めようがない。

 どちらにしても、大隅の古族・肝付氏の始祖「伴兼行」の鹿児島への最初の基点「神食の伴掾館」は微小山地<妙谷寺山>の中腹か稜線かに営まれたことは確かであろう。

 まだ甲突川が管理河川化する前の豊穣な川(宇治瀬川)が近くを流れ、それと東北から流れ込む小川との合流点である下伊敷辺りは、田を拓くに都合の良い最上の土地柄であったに違いない。妙谷寺山から湧き出る泉もまた古代人を虜にしたことだろう。

















 


 








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コメント

これ,2013年の情報でしょうか?
だとすると既に「玉里邸だがここは現在の鹿児島女子高であり、土日以外は見学がむつかしい」ではなくなっていたはずです。 http://www.tamazatotei-teien.jp/

投稿: もちづき | 2014年11月24日 (月) 00時17分

「平成23年の春から」という案内板が立っています。2011年からですね。ただし火曜日は定休日です。

投稿: もちづき | 2014年11月24日 (月) 10時00分

もちづきさん、コメントありがとう。
 7月25日に15名で訪れた時(HP鴨着く島おおすみ「歴史講座」に記載あり)は玉里庭園を見学しています。7月10日のブログ記事(下見)の時は時間の制約上いけなかったのかと思い出しています。
 また、妙谷寺跡は伊敷病院の裏手(北西)にあったことも7月25日に案内してくれた地元の人に教えてもらいました。

投稿: kamodoku | 2014年11月29日 (土) 23時53分

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