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桜島の古地図

 鹿児島の地図専門店に頼んでおいた鹿児島・桜島周辺の古地図が到来した。

 明治35年(1902)に「大日本帝國陸地測量部」(所属は内務省か)が測量し、38年に製版、同42年(1909)7月20日に発行した五万分の一ものである。

 明治年間であるから当然のこと、桜島は純然たる島であり、大隅半島にはくっついていない。大正3年1月12日に大噴火を起こした際の溶岩は四方に流れ出たが、特に垂水側の瀬戸へは強く流れ、約3週間後の2月1日にとうとう陸続きにしてしまった。Cimg5704国土地理院による原本照合認証(H25.7.18付)済みの写本。写真右下が大隅半島で、瀬戸(海峡)は「早崎の瀬戸」と言ったと思うが、最も狭いところで400㍍ほどである。左の色の濃い部分が鹿児島市街地で、こちらの海峡の幅は4キロ近くある。Cimg5705上記写本の拡大図。桜島側で早崎の瀬戸に一番近い集落が「瀬戸」集落であったが、ここは溶岩流によって完全に埋没してしまった。(瀬戸集落の左手に現在は展望所として観光客を集める有村地区、北には「埋没鳥居」で有名な黒神地区、そして海峡を挟んで東方には垂水市の牛根麓地区が見えるが、どれも壊滅は免れている。)

 大正大噴火による死者・行方不明者の数は58人ということだが、行方不明者の大部分はこの集落の人ではなかったか。

 噴火の前日は地震が頻発し、真冬なのにヘビやカエルが這い出し、ニワトリが昼間から鳴くという前兆現象があったようで、恐れおののいた人々は鹿児島測候所に噴火の前触れではないかと問いただしたが、当時の所長は大噴火を否定した。

 しかし翌日の10時ごろ、大噴火が起こり、島民は取るものもとりあえず避難を開始した。だが、50名を超える死者・不明者を出してしまったのであった。

 測候所の判断の誤り(遅さ)が、失わないで済んだはずの人を死に至らしめたという島民の無念さが10年後の大正13年、現・鹿児島市立東桜島小学校入り口に「・・・住民は理論を信頼せず、異変を認知するときは、未然に避難の用意、もっとも肝要とし・・・」という有名な碑を建てさせている。(以上は『かごしま世相百年』南日本新聞社刊を参照した。)

 

 鹿児島での「国際火山学会」は昨日で終わったが、梅雨明け後の桜島の異常な動きについては特に取り上げられなかったようで、ここ2週間の最近にない活発な活動が収束へ向かうのか、はたまたもっと活発になり、やがて大噴火を起こすのかについての知見は得られなかった。

 それにしても気温が高い。今日の1時半頃に家の外の玄関口にある温度計は何と37℃を指していた。玄関には屋根がかかっているのだが、南向きのため太陽熱がこもることは籠る。しかも昨日の少雨のせいか、蒸し蒸ししており、これまでにない暑さである。
 

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