« 「隼人舞の共演」を観る(霧島市市民会館) | トップページ | ようやく本降りに・・・(鹿屋市池園町) »

「風の森」「気色の神叢」を訪ねる(霧島市国分府中)

 一昨日は霧島市民会館で「隼人舞の共演」を観覧したが、そのあと去年の国分歴史探訪で訪れていなかった「風の森」(こがのもり)と「気色の神叢」(けしきのもり)を見て回った。

 幸い市民会館のロビーに国分界隈の歴史資料の展示があり、その中に名勝地の案内図があった。Cimg6090表示では「風の社」「気色の社」となっているが、読み方は同じである。上で使った「風の森」「気色の神叢」のほうは出典の『三国名勝図会』のを採用した。

 まずは風の森へ。国分駅の前を北上して祓戸神社(守公神社とも言い、大隅国国衙の一角にあったとされる古社。大隅国の国衙は祓戸神社とでかでかと書かれた下のあたり一帯にあった)の前を通り、右折して手篭川の橋を渡って200㍍くらい行った所にある。Cimg6095『三国名勝図会』の記述通り、「水田の中に一叢林があり、広さ二畝ほどで、古樟樹(樟の大木)がある」。

 この写真は北側に行き過ぎて撮影したので、大木の下、遥か南に桜島が見える。また右手の白っぽい10数階建ての建物は京セラホテルだ。Cimg6092道路からは少し下るが、田んぼの面より1メートルは高い。『図会』の記述ではクスの大木を、「この樟、いま根幹三つに分かれ、その幹本は周囲8丈2尺(24、6m)あり」と記すが、そんなに大きいものではない。せいぜい直径は1,5m、したがって周囲は5メートルほどだ。何代目かのヒコバエなんだろう。

 さらに『図会』の記述。

「村びと古賀の森という。久我大臣といえる人の塚木なり、といい伝う。または木嵐(こがらし)の森とも、あるいは古歌あるがゆえに古歌の森とも呼ぶと言えり。その是非定めがたし。ー(中略)―大原貞以の名所旧跡を記した書に、風の森は気色の森近辺にあり、と見えたり。云々」

 古歌が記載されている。『夫木集』にある和歌で詠み手は「按察」となっているが、誰のことか不明・・・

  恨みじな風の森なる桜花 さこそあだなる色に咲くらめ

(愚訳)桜が咲くにしても「風の森」ではすぐ散ってしまう。だから咲くならよほど色香の強い花(個性も色気も強烈な女)でないと駄目だろうな・・・。

 これは古歌にしては歴史の重みを感じさせるものではない。「こが」が「こか(古歌)」から来ているというのは誤りだろう。そうすると「久我大臣の墓標樹」説の方に軍配が上がると思われる。久我大臣とは誰を指すのだろうか―。

 さて次は「気色の神叢」。『図会』で風の森の解説の中にあったように、ここからは近い。さっきの手篭川の橋まで戻って渡り、右折して祓戸神社ー鹿児島神宮への道に入り、約200㍍先を左折すると右手になだらかな微高地が見える。それが「気色の神叢」である。Cimg6100通り過ぎて逆方向から見たところ。通り過ぎた側からだと説明板の立っているのが見える。

 中に入るとやや荒れが目立つ。もう少し整備されているとよいが・・・。Cimg6097小高いちょっとした広場に「史碑」が立つ。説明板によると、昔はもっと大きな岡だったが、水害を復旧するときにだいぶ削られたようである。

 『三国名称図会』の記述。(意訳してある)

「千載集・歌枕では気色社と書く。松・杉・樟・櫨などの中に祠がある。祭神は天満自在天神である。・・・この気色の神叢は初め鼻面川(天降川)の隈にあったのを、寛永2年(1625)の4月頃、大水が出て岸が崩れ、叢・社ともに流された。時の地頭・喜入久加は社壇を今の地に新建して天満天神の木像を安置したそうだ。神叢の源処は今の社頭より東南に1町ばかりにあって、上川原の木堀という字名の田んぼにその跡が残っている。

 鼻面川(天降川)は享保年中(1716~1736)に川筋を移したので旧川道は田となり、今でも田の底から神叢の樹木の折れたのなどが見つかることがある。

 あるいは、この気色の社は原天子とて蛭児神を祀っていたのを、後世誤って天満宮を創って祀ったのだとも言う」

 最後の段落が正しいようで、この神叢は日当山にある奈毛木(なげき=嘆き)の森の大樹が水に流されてここへ漂着したというのが本当らしい。寛永時代の頃の地頭の喜入久加(ひさます)は何を根拠に天満天神を祀ったのだろうか。

 鼻面川(天降川)水運を古代の要路と考えると、この気色の森と日当山の奈毛木の森とは一直線でつながっている。川筋を直さない前はもっと近かった。そのような水運を考えさせてくれる気色の神叢の存在である。

※霧島市からの帰りに「道の駅・たるみず」に立ち寄って桜島を眺望。Cimg6107しばらく眺めていると同じように写真を撮っていた70代の男性に声を掛けられた。

 「私はちょうど三年前にもここから桜島を眺めたのですがね、あの時は昭和火口なんて本当にてっぺんからちょっと下がったあたりに、もやもやと白い煙が上がっているくらいだったんですよ。今度見て驚いたな。火口がずいぶん下の方まで大きくなっているもの・・・」

 聞けば大分からの来訪者。一昨日(8月18日)の5000m級の噴煙を上げた大噴火が火口を大きくしたに違いない。3年も時間を置くと、その違いは一目瞭然らしい。

―2008年に再噴火を開始して以来、年々噴火回数も噴煙の高さも大きくなっていますが、気象台は今度の大噴火は大大噴火には繋がらないと言ってますよ。そうかなあと疑問です。

 先方もうなずいていたが、「年々大きくなるガス抜き噴火」なんて矛盾していないだろうか?Cimg6110黒神瀬戸大橋方面から見た昭和火口。噴煙の右手にぽっかりと大きなエグレが丸見えだ。






|

« 「隼人舞の共演」を観る(霧島市市民会館) | トップページ | ようやく本降りに・・・(鹿屋市池園町) »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「隼人舞の共演」を観る(霧島市市民会館) | トップページ | ようやく本降りに・・・(鹿屋市池園町) »