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秋季大運動会(鹿屋市南部)

 秋季大運動会がたけなわを迎えている。

 鹿屋市の南部地区にある小学校では今日あちらこちらで運動会が行われた。

 まずは我が家から東へ2キロほどにある西俣小学校。Cimg6483 学校創立91周年と銘をうつ杉門。ここのは低目だがいつも杉をごってりと飾り付ける。Cimg6485 全校生徒は100名ほど。各学年15,6名だが、規模的にはちょうどいいかもしれない。かけっこに出場する選手名を「○○君」と名前で呼んでいたが、これがいい。

 次に行ったのが吾平小学校。Cimg6486 校門前に露店が出ていたのにはちょっと驚いた。まるで縁日だ。そうかもしれない。地方の学校では小学校の様々な行事は地区民総出のイベントなのだ。

 次は、戻りながらやや南側にあるその名も南小学校を訪ねた。Cimg6490 ここの杉門は実は「藁門」である。早期米の稲わらを残しておいてここに使ったのだが、実にユニークだ。そこには「実りの秋大運動会」と掲げてある。Cimg6491 生徒数が少ないので地区民の参加が多い。これが大いなる楽しみの一つで、ボールを転がしてペットボトルを倒す協議の真っ最中だった。Cimg6493 さらに西へ走って錦江湾に面する浜田海岸の近くの浜田小学校。ここの杉門が標準的なタイプである。Cimg6502 最後にやって来たのが我が家の西2キロにある大姶良小学校。Cimg6504 校庭の真ん中に直径1メートルはあろうかという栴檀の木。その周りを子供たちが走って行く。

 今日は昨日ほどではないが、気温も日中29℃くらいで風もあり、しのぎやすい一日だった。時々小雨も降ったが歓声を冷ましてしまうほどではなかったのが幸いである。

 昔はどこでも稲刈りの終わった11月に秋の大運動会があったと聞くが、早期米が普通になってからは秋もまだ序の口という9月にやってしまうところがほとんどである。夏期の高温がますます大きくなって行くこの頃にあって若干違和感がないではないが、時代のしからしむるところなのだろう。

 それでも田園はもう秋たけなわの風景を見せてくれていた。Cimg6500 大姶良東地区の大姶良川畔にて。昔ながらの掛け干しの最中。Cimg6495 大姶良西地区、瀬筒峠に近い田んぼ。畦の一角に残された彼岸花と黄金色の田。

 肌に心地よい風がさわさわと穂を揺らし、渡って行く秋の訪れ。

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岡田英弘『倭国』を読む(続)

 著者がこの書で、倭国が日本に変わったターニングポイントとして「白村江の敗戦」を挙げ、その甚大な影響を指摘したことを引用したが、まさに正鵠を射ていると思う。

 ただ、これはおそらく著者だけの用語かと思われるが、近代に南中国から南方の地域へ移住し、そこの経済の実権を握ったと言われているのが華僑だが、その用語を弥生時代以降の朝鮮半島及び日本列島の動向にも当てはめている。若干疑問に思う用語だが、「華僑」という用語を使うことでより一層読者の想像力を引き出すーという修辞法と考えればそれなりに納得はできる。

 その「華僑」だが、現在はほとんどが「華人」に置き換えられているので、若者が読んだ時にはかなりの違和感を抱くかもしれないが、こういうことも歴史を学ぶ際にはかえって重要なことではないかとも思う。

 さて、著者はどのような状況を指して「華僑」が朝鮮半島や日本列島に渡来したかについて、次のように想定し、指摘している。(カッコ内は引用者の注記である。)

<・・・この地方(注:楽浪郡・帯方郡)には前108~前82年の26年間、真番郡の15県が置かれていて、万をもって数えられる中国人が入植したのである。真番郡が廃止されたあとも、楽浪郡の南端の含資県から中国商人は絶えずこの地方に来ていたはずで、それが王莽(注:前漢と後漢の間に存在した新王朝の創始者)から後漢の初めへかけての混乱時代に、多数の中国人がこの地方に流れ込んで定住する因縁になったと思う。こうした華僑が入植地に築き上げた都市文明が、辰韓・弁辰24国になったのである。>・・・同書・98~9ページ

<さて、辰韓・弁辰の城郭都市の市民の中核をなす華僑は、もちろん商業と手工業を専門とし、朝鮮半島と日本列島の両方にまたがる商業網を握って繁栄していた。「東夷伝」は言う。「国には鉄が出るが、韓、濊、倭はみな従ってこれを取る。あらゆる市買にはみな鉄を用いることは、中国で銭を用いるがごとくであり、またこれを二郡にも供給する」。つまり鉄の地金が、国際貿易の決済に使われていたわけで、辰韓・弁辰の24都市は、その仲介者として機能していたのである。>・・・同書・99ページ

 朝鮮半島周辺に漢王朝の侵攻によって4郡(玄兎・臨邨・楽浪・真番)が置かれて支配下に入った時に大陸方面からの中国人が入ってきたことは間違いないが、二番目の引用のように東夷伝の解釈として、「華僑が商工業のすべてを掌握し、辰韓・弁辰24国を支配していた」と捉えきれるものか疑問が湧く。

 というのも24国の住民の多くは文身、つまり航海民特有の入れ墨を施していたのである。この民がおればこそ大陸から半島・日本列島への交易圏が確保されていたわけで、このことについては著者の論及は無い。それに中国商人たる華僑であれば決済には鉄の地金などという重いものに代えて中国で普通に使われている軽い「銭(銅銭)」をなぜ使わなかったのか、これも不審である。

 そしていよいよ日本列島にもそれらの華僑がやって来て経済の実権を握ったとする。

<そもそも前108年に前漢が洛東江の渓谷に真番郡を置いたのが、朝鮮海峡のかなたの日本列島の市場に独占を狙ったものであった。前82年に小白山脈の北に後退してからも、鳥嶺の南麓には霅陽鄣(トウヨウショウ)が置かれ、洛東江を下って日本列島に通ずる貿易ルートを守った。 (中略) それほどこのルートは経済上重要だったのであり、その線上に辰韓・弁辰の諸都市が成長したのであった。ということは、日本列島の倭人の諸国の経済の実権を握ったのは、辰韓・弁辰系の華僑だったことを意味する。>・・・同書・100ページ

 邪馬台国に関する倭人伝の記述の中に登場する「大倭」について、著者は次のように捉えている。

<・・・「国々には市があって有無を交易し、大倭をしてこれを監せしめる」と言っている。この「大倭」が重要なヒントである。市場監督が倭人であることをわざわざ断っているのは、市場に店を出しているのが倭人ではない、つまり華僑であることを雄弁に物語っている。朝鮮半島で見られたように、日本列島でも、商業経済と都市文明を持ち込んだのは中国人だった。その大多数は、おそらく辰韓・弁辰系の華僑であろう。

 前にも言ったとおり、黄巾の乱の余波で漢委奴国王の権威が失墜したあと、混乱に陥った倭人の諸国の間を調停して、鬼道に事える巫女・卑弥呼を名目上の盟主とするアムフィクチュオニア(注:隣保同盟)を作り上げたものは、諸国の市場を支配してたがいに連絡を取り合っている華僑の組織の力であったと考えなければ説明がつかない。ほかにそうした超政治的な力を持つものは考えられないからである。卑弥呼の即位は、中国皇帝の権威が消滅した時期に起こったことで、その点、倭人の自主的な政治的統一への第一歩であり、歴史的な意義が大きいが、それを可能にしたのは華僑であった。げに華僑こそは日本の建国者の先駆である。>・・・同書・104~5ページ

 ここまで華僑という弥生時代の外来勢力の大きさを極めつけられると付いていけないが、まず「大倭」の解釈で、大倭が倭人であることはいいとしても、その監督下に交易(商業経済)を営んでいるのはすべて華僑であるーとする根拠が分からない。華僑経済が列島を取り仕切っていたのであれば監督者も華僑が就任するはずであろう。

 監督者をわざわざ「大倭」(倭人)と断ったのは、その下で店を出しているのはすべて華僑だからだーとは論理の飛躍もいいところだ。(私見では、この大倭は「北部九州倭人国家同盟」のことで、勢力下に置いた邪馬台国連盟に対して市場監督(植民地時代の総督=倭語では「伊支馬(生目)」)を置いた、と考えている。)

 二番目の引用では、卑弥呼を祭り上げて隣保同盟の盟主にしたのは華僑の力であり、そのように華僑は日本建国の原動力となった―というのだが、ここでも疑問が湧くのは言葉の問題である。華僑がそれだけの力を持っていたのなら、なぜ半島及び列島人の言語を中国語にしなかったのであろうか?

 文書上はたしかに漢語(漢文)が採用されて、のちの日本人は実に江戸時代まで公文書を初め諸文書は漢文でしたためるようになったが、話し言葉は漢語導入以前のいわゆる膠着語のままである。この矛盾にどう答えるのか、著者は明確にしてはいない。

 やはり、弥生時代に華僑が半島や列島に渡来し、半島及び列島の経済やもろもろの実権を握り、国家の動向を左右した―と考えることに無理があるのではないか。もちろん半島に紀元前から相当数の中国人が渡来してきたのは史実であるし、その一部が列島に流れて来たのも史実である。

 だが、日本建国の原動力になったとは認めがたく、やはり土着倭人の力なくしてはあり得ない話だろう。卑弥呼の「鬼道」を信奉する倭人のある種の宗教的ファナテイズムの力を侮ってはいけないと思う。

 私見では、紀元後57年に倭の奴国王の朝貢や、その50年後の倭人の王・帥升の遣使などにより漢王朝の統一王権の姿などから様々に学んで、それを半島と」列島の倭人諸王権の離合集散の後に、次第次第に大きなうねりとなって古墳時代を迎えたのではないかと考えている。

 それにしても著者の中国史に関する該博な知識・論考には裨益されるところが多く、「華僑」論以外は、参考になること多々である。

 なお、卑弥呼の邪馬台国について、著者は畿内説である。

<・・・残念なことに、かんじんの邪馬台国の位置は、親魏倭王をめぐる中国の内部事情のおかげで、「東夷伝」の方向も里程も意図的に歪曲されているので、北九州の末廬、伊都、奴、不彌の諸国から、さらに海路を航行した先にあるとしか言えない。 (中略) ・・・『日本書紀』のなかで、もっとも古い層に属する伝承では、最初の倭国大王は河内を本拠としている(注:仁徳天皇のこと)。邪馬台国も、瀬戸内海の東端の、畿内のどこかと考えるのが穏当であろう。>・・・同書・105ページ

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岡田英弘著『倭国』を読む

 日本列島が弥生時代と言われる頃、朝鮮半島や中国大陸がどのような状態であり、またどのような交流があったのかを知ることは日本の歴史を考えるうえで非常に重要であり、少なくとも朝鮮半島の動向を考慮しなければ弥生時代の日本(倭国)の歴史の謎は解けない―これが自分の古代史以前(倭人・倭国)の歴史解明の基本的スタンスである。

 同時にまた日本側の文献として最も古くかつ詳細に記されている『古事記』『日本書紀』も、複数存在した古文献を編集してまとめる際に、大和王権の要求に沿った改変や削除・潤色は多々あるにせよ無下に否定すべきではない。極めて重要な文献である―これも自分流歴史解明の第二の基本的スタンスである。

 以上の観点から中国古代史や朝鮮古代史、それに記紀などを鋭意読み進めて大隅史談会会報『大隅』やホームページ『鴨着く島おおすみ』、ブログ『鴨着く島』に発表してきた。

 しかし朝鮮半島の紀元前から4世紀くらいまでの歴史についてはさほど史料は多くなく(ほとんどは中国側の文献による記述)、それなりに時間軸の筋道を掴むのは比較的容易であるが、中国史となると時間軸が長いうえに王朝の興廃や分裂・成立が数多あり、とても一筋縄では理解しがたい。

 そこで高名な学者の書いた解説書などが必須となってくる。今回参考にさせてもらったのは『倭国』という本で、著者は岡田英弘・東京外国語大学名誉教授。1977年に初版(中公新書)が出たが1993年の第22版を参照した。

 この本で特にありがたいのが最後に付録として付けられた「倭国史年表」である。これは中国大陸・朝鮮半島・日本列島と三項目に分けてあり、年代は紀元前473年に中国大陸の項「越が呉を滅ぼし、都を琅邪に移す」から、紀元後の724年の日本列島の項「元正天皇の譲位。聖武天皇(首皇太子)の即位」までを新書版で10ページにわたって一覧できるようになっている。

 さて、ここはブログなので、手早く「結語」を書いておく。著者が「結語」という項目を立てたわけではないが、著者の論考の結論部分―「倭国」がどのように終焉し、「日本」が始まったか―を抜書き的にまとめて記すことにする。(※漢数字はアラビア数字へ、旧字体は新字体に変え、若干の注記も施してある。)

<7世紀までの日本列島の実情は、倭人の集落と秦人、漢人、高句麗人、百済人、新羅人、加羅人など、雑多な系統の移民の集落が飛び飛びに散在する、文化のモザイクのような地帯で、倭国といっても純然たる国境を持つ国家ではなく、倭王があちこちに所有する直轄地というか私領の総和が倭国なのである。つまり倭王というものが先にあって、その支配下にある土地と人民が倭国なのである。倭国という国家(注:国境)があってそれを治めるものが倭王だったというわけではない。こういう状態のまま、日本列島の住民たちは、663年の白村江の敗戦を迎えたのであった。>・・・同書・195ページ

<白村江の戦いの意義は、今日では想像できないほど大きなものだった。第一に、これは国際関係のルールがすっかり変わったことの象徴である。3世紀末に中国の人口が10分の1に激減してから、長い長いあいだ中国は分裂状態が続き、周囲の諸民族に対して影響を及ぼすほどの政治力、軍事力を持たなかった。それが唐朝の初期の7世紀半ばには、中国の統一の回復と戦乱の終結のおかげで、人口は3世紀の水準にほぼ近い5千万人弱まで増加して、再び中国は周囲の諸民族に対して圧倒的な優位に立つことになった。>・・・同書・195~6ページ

<日本列島の住民にとっては、660年の百済の滅亡、663年の白村江の敗戦、668年の高句麗の滅亡、それに引き続く新羅の半島統一という、国際環境の急激な変化の衝撃は深刻であった。倭国が百済と結んで唐と新羅を敵に回し、しかも敗れたという事態は、日本列島が中国大陸・朝鮮半島から政治的に絶縁したことを意味した。当時の日本列島の住民にとって、事実上、中国と朝鮮だけが世界だったから、倭国は文字通り世界の孤児となってしまったのである。

 心理的な衝撃だけではない。経済上の問題はさらに大きかった。紀元前4世紀に燕人がはじめて朝鮮半島の南部の真番の地に達し、ここに拠点を築いてから千年のあいだ、日本列島の開発は、まったく半島経由で流れ込む中国の人口と物資と技術に頼り続けた。さらにこの千年の後半期には、倭人のほうからも積極的に半島に進出し、新しい文明を吸収してきた。それが今や唐朝のもとで生まれ変わった中国の巨大な実力と敵対関係に立つことになった・・・。(中略)

 南北朝の分裂と隋末の群雄割拠を克服した中国、その中国の支配をはねのけて、百済・高句麗の遺民を中央集権の王国に統合した新羅のように、日本列島の住民も、一つの国家、一つの民族、一つの文化に統合されなければまらない。これが北九州の大本営の天智天皇が直面した課題であった。>・・・同書・197~8ページ

 こうした大きなうねりの中で天武天皇時代に記紀の編纂が開始されるのであるが、著者は

<実は、白村江の敗戦のあとで天智天皇が実施した大規模な改革の内容は、『日本書紀』では年代を繰り上げて「孝徳天皇紀」に入れ、645年のいわゆる大化の改新の記事にしてしまっているのである。>・・・同書・198~9ページ

 とし、その理由を

<どうして『日本書紀』がそんなことをしたかというと、理由は、『日本書紀』は天武天皇が着手した歴史編集事業の成果だからである。天武天皇は壬申の乱で、兄の天智天皇の子の大友皇子を倒して政権を奪ったのである。だから天智天皇の業績をあまり持ち上げては、現政権に憚りがある。しかし一方、天武天皇の皇后の持統天皇、その腹に生まれた草壁皇太子の妃の元明天皇は、いずれも天智天皇の娘で、天智天皇の仕事をまったく黙殺するわけにもいかない。そこで天智天皇が孝徳天皇の皇太子となって、はじめて国政に発言権を持つようになった645年に『近江令』の内容を繰り上げてしまった。こうすれば、一つには天智天皇の改革が、孝徳天皇の手柄になって、その意義が薄まる。二つには、何も白村江の敗戦の結果、あわてて改革を実施したのではなく、その20年ほど前からすでにやっていたことだ、ということになって、プライドが傷つかずにすむ。そういう性質の歪曲である。>・・・同書・199~200ページ

 と記す。これは『日本書紀』の記述に見える改変の一例であると著者は言い、さらに倭国に変わって登場した「日本人としてのアイデンティティ」を創出しなければならないという当時の背景の下で、強引に、まず歴史の統合、次に言語の統一が行われたという。

 まず歴史の統合、すなわち国史の編修については、

<『日本書紀』の筋書きは、まったく日本列島を中心にして出来上がっている。天孫が天上から日向の高千穂に降臨するのは、皇室はこの日本列島に自生のもので、外国とは関係ないんだ、という主張である。これは白村江以後、九州が国防の第一線となって、未開拓の南九州を確保する必要上、皇室と隼人とを同祖、したがって同じ日本民族と主張するために作られた話で、きわめて起源が新しい。

 神武天皇に至っては、『日本書紀』の「天武天皇紀上」に明記されている通り、壬申の乱の最中、天武天皇側に加護を与える神霊として、はじめて人間界に出現したもので、それ以前には名前さえ知られていなかった。そして仲哀天皇・神功皇后は、白村江の敗戦が作り出した神々である。>・・・同書・201ページ

 と、断定している。 次の日本語の成立については、

<天智天皇の日本建国の当時、独自のアイデンティティを保つためには、中国語系の言語も採用できなければ、新羅と共通の要素の多い百済、任那系の言語も採用できなかった。残る選択は倭人の言語だが、倭人はこれまで都市生活と縁が薄く、したがって文字の使用にも習熟していなかった。新しい国語の創造を担当したのは、これまで倭国の政治、経済の実務にたずさわってきた華僑である。彼らの言語は朝鮮半島の土着民の中国語である。

 それが自分たちの言語を基礎として、単語を倭人の土語で置き換えて、日本語が作り出された。日本語が作り出された。日本語の統辞法が韓国語に似ていながら、語彙の上ではほとんどまったく共通なものがないのはこのためであり、また日本語に漢語が絶無に近いのもこれが原因である。日本語はこうして作られた、人工的な言語であった。倭人の言葉とは、おそらく非常に違っているのであろう。

 『万葉集』の歌人のなかで、確かにその歌の作者と認められる最古の人は舒明天皇で、天智・天武兄弟の父である。この人の時代から、多くの歌人が輩出するが、そのうちの大きな部分がいわゆる帰化人であることが知られている。これを従来は、外国人がいかに速やかに固有の日本文化に同化したかを示すものだと考えがちだったが、事実はその反対だったろう。すなわち固有の日本文化というものはなかった。日本の建国運動を推進した華僑たちこそが、新しい日本文化を作り出したのであった。すべては7世紀の国際環境の産物である。

 こうして倭国の時代は終わり、日本の時代が始まった。今から1300年前のことである。>…同書・204~5ページ

 以上のように著者は考えている。

 その骨子は 

① 『日本書紀』は、天武天皇時代に強く志向された列島内統一王権の正当性を主張するもので、統一王権は大陸および半島の関与なしに列島内で自生的に発展して生まれたものであることを正史として書き記したものに過ぎないので、改変や造作が多い。(だから、史書としては信用できない。)

 とくに天孫降臨に関しては、百済救援のために北部九州に遷都した際に、当時、王権(斉明朝)に組み込まれていなかった南九州人(隼人)を国防の一員として確保しようとし、そのために隼人の出自と天皇の出自を近いものとして描いたに過ぎず、まったくの造作である。

② 日本語が作出されたのも同じ頃で、基礎になったのは当時の土着倭人語であろうが、実務者として列島に帰化(土着化)していた朝鮮半島からの渡来商人(華僑)が、朝鮮半島で使われていた大陸由来の言葉を被せて作ったものである。朝鮮語とは統辞法(文法)は同じだが、単語が違い、また漢語は朝鮮半島で土着朝鮮語に置き換えられたので、当時の日本語に漢語がほとんどないのもそのためである。

 というものだ。

 ①に関して言うと、青字にした二段落の内容は今日の学説とだいたい同じである。南九州人と皇室の祖先は同じだとする記紀神話は、南九州人の反抗を鎮めるための造作である―というもので、戦前から歴史家・津田左右吉はー天孫の降りたのが日向だったのは、日向という地名が吉祥語だからであるーとして造作論を唱えてきたが、それを後押しするのがこの考えである。

 したがって当然緑字にあるように「神武天皇はそれまで知られておらず」まして、神武東征などはあり得ないーとなるわけだろうが、果たしてそうか。自分としてはあの説話のように華々しい統一王権樹立のための東征まではなかったにせよ、南九州からの移住・移民、その結果としての大和地方における南九州由来の王権の存在まで否定する必要はないと考えている。(緑字については「神武天皇の御陵に馬と兵器を奉納すれば大友皇子との戦いに勝つ」という託宣があったというもので、神武天皇の御陵に使いをやって奉納させたーとあり、御陵へはすんなりと奉納に行っている。著者は、神がかりによる託宣のことを誤解しているようだ。)

 一段落はおおむね賛成である。このブログの最初に書いたように古代以前の列島史を掴もうと思うと、『日本書紀』の列島内自生史観では掴み切れず、半島や大陸の歴史を並行的に捉えて行かないといけない。ただし、それがために記紀の記述をすべて葬り去る必要はなく、是々非々に参照し昧読しなければならないと思う。

 ②は著者特有というか、独断の見解を示しており、日本語の成立が大陸由来の半島華僑が列島に渡って来たのちに土着言語を基礎にして新たに共通語として作り上げたものだーというのであるが、一見すると我々の度肝を抜き、蒙を開かされる説である。

 しかし、もし中国大陸からの華僑なら、なぜ漢語の統辞法(文法)を捨ててしまったのかという疑問が起こる。文法はそのままにして単語だけを倭語にすれば、つまり折衷案にすれば華僑本人も、倭人も、ともにさして苦労することなく新しい言語になじんだのではないだろうか?

 その疑問に、著者は若干は注意を払っている。それは上で引用した中の赤字の部分で半島ではすでに「朝鮮半島の土着民の中国語」があり、それが共通語だったーというのである。

 半島には倭人でも中国人でもない半島土着民がいて、彼らが大陸から渡って来た華僑の中国語を学び、中国語を土着語化していた。その文法は倭人と同じ文法(膠着文法)だったーというわけだろうが、その際にもなぜ華僑という力のある勢力が彼らの文法を捨ててしまったのか、その理由が不明なままだ。

 漢語の文法の方が同じ文意を伝えるのに簡単明瞭なのに、である。

 古事記を撰修した太安万侶もその序文で「漢語を使えば簡略に表現できる。が、しかし倭語の真意が伝わらないので、わざわざ漢字の音だけを借りて倭語に当てはめたのでずいぶん単語が長ったらしくなっってしまった。古意を尊重したためであるから致し方ないこと」(要旨)と述べている。

 古事記は文章であるから漢語(漢文)が使われるのが、当時の主流であり、使わざるを得なかったのだが、言葉は漢語にはならなかった。漢語の方がより簡略に意思を疎通させられるのに取り入れられず、日本語はついに中国語に置き換えられなかった(朝鮮語も)。

 この点からして、「実務者としての華僑」が倭人の間で経済・政治・文化のすべてを取り仕切っていたのなら、話し言葉が漢語にならなかった理由は何だったのか、自分としては大いに疑問であり、著者に聞きたい所である。

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小ねぎのハウス栽培(鹿屋市池園町)

今朝6時半ごろ、ウメの散歩の帰りにいつもその前を通るビニールハウスの中が煙っている。よく見たら霧状の散布機によるハウス内の潅水だった。Cimg6406_3
こんなに朝早く水をやるのは珍しい。よほど乾燥がひどかったのだろうか。Cimg6409_2
その様子を撮っておこうと、散歩から帰ってすぐにデジカメを手にハウスの前まで戻ったが、その間約10分、潅水はまだ続けられていた。一部は水浸し状態になっている。

 写真のねぎは芽が出てまだ2週間くらいで、ネギはこのような幼苗の時には十分な水を欲しがる。つまり乾燥には大変に弱い。根が直根で水の吸収力が小さいためだ。

 序でにこのハウス群の周年栽培の様子を見て回った。まずはハウス内での土壌消毒の様子。Cimg6426ハウス内をトラクターなどで耕したあと、このようにビニール(ハウス栽培で使い古しの物)で覆う。ハウス全体もビニールで覆ってあるので内部は5、60℃にもなるから、農薬による燻蒸消毒はしない。この無農薬・無消毒栽培がこのハウスの「売り」になっている。Cimg6424ビニールを取り除いたら再度耕運して、種まきをする。このハウスはつい何日か前に種をまいている。筋状に蒔いたあと、畝を鎮圧するので凹んで見える。Cimg6419ここは種まきしてから約1週間ほど、きれいに芽が出揃っている。Cimg6421さっき潅水していた生育の時期をさらに2週間くらいでこのように緑の濃い、見るからに柔らかそうな若ねぎに成長する。この時期は害虫に狙われやすいのか、ハウスの腰に赤い色のネットを張って害虫の侵入を防いでいる。Cimg6422そしてさらに2週間ほどで出荷に適する3~40センチの小ねぎとなる。夏場は播種してから1ヶ月半くらいで出荷となるが冬はたっぷり2ヶ月はかかる。Cimg6423夏場は早朝の6時頃から収穫をし、水圧用のコンプレッサーを備えたちょっとした工場で根を洗い、それを500グラムの束にして契約先に送るのだが、日曜以外は毎日作業の人たちが来ている。そのほとんどが中・高齢者である。

 これを書いている途中で昼食を摂っていたら、NHK総合『あまちゃん』の放映中にテロップが出たので何だろうと注視すると<桜島の噴煙が4000mに上がったから降灰に注意>とあった。Cimg6432急いで玄関を出て近くの道路まで行ってみたら、確かに黒い雲が風に乗って西向きにやって来ていた。Cimg6433今朝の天気予報では桜島上空の風向きは北から北東向きだったが、途中で風向きが変わり、午後1時現在の風は弱い西風になっている。北西ではないのでここまでは飛んでこないが、それでも冬型の北西の風のシーズンまでもう1ヶ月くらいに迫っている。

 桜島の噴火が、この夏を境に大きくなっているのが気掛かりである。


























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稲刈りの風景(鹿屋市池園町)

 我が家の南側1キロ半には大姶良川が西から東へ流れ、川沿いには延々と美田が広がっている。昼過ぎにそこを通ると、あちこちで普通作の稲刈りが始まっていた。Cimg6401池園橋から眺める池園田んぼ。大姶良川の水が満々と湛えられて見えるが、この下流300㍍ほどに井堰があるためである。Cimg6400コンバインで刈っているところもあるが、一般的ではない。コンバインを持っていればだが、持たずに作業をJAなどに委託すると結構高くつく。Cimg6396別の田では掛け干しの準備をしていた。バインダーという刈り取りと結束を同時にやってくれる小型機械で刈ったあとの稲束を、「馬」と呼ばれる掛け棒に掛けて天日干しをするのだが、いまその「馬」を作っているところだ。

 作業中の人に聞くと、「今年のコメはよくできている」そうだ。夏の日照時間の長さが決め手になったのだろう。Cimg6399隣りの田ではすべて掛け終え、天に向いた切り株の端をビニールで覆う作業をしていた。こうしておけば雨が降っても稲稈の中に雨水が入らず、乾燥が早く済む。

 帽子をかぶった中学生がおじいさんの手伝いをして紐をビニールに巻いている。連休中日ということで家でも労力として期待しているのかもしれないが、ここが都会の子と違うところだ。Cimg63979月の内に刈るのは普通作としては早い方だと思う。やはり日照時間が長く気温が高かったせいだろうか。

 台風の被害もここ5,6年は皆無で、今年も豊作は間違いない。











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彼岸花園と辻岳(南大隅町)

 昨日は南大隅町根占のМ君の所に届け物があったついでに、辻岳山腹にある彼岸花園に行ってみた。

 国道269号線を佐多方面に向かい、根占の山本にある根占中学校の綺麗な校舎が見えたら手前の信号を左折し約4キロ、辻岳山腹の茶畑やミカン園のある一角に「彼岸花園」がある。Cimg6342左側の防風林に囲まれたのがミカン園で、彼岸花園はその奥にある。この辺りで標高は250㍍くらいだ。Cimg6345ミカン園を抜けたちょっとした栗林の下に彼岸花が咲いていた。Cimg6347やや遅かったか、黄色のはまだ見頃だが、赤とクリーム色のは盛りを過ぎている。Cimg6346彼岸花ほど律儀な花もそうは無いだろう。いつも決まって秋の彼岸頃になると花を咲かせる。

 しかし今年はちょっと早過ぎる。

 園のご主人によると――今年の猛暑と乾燥の影響というよりも、9月に入って急に朝晩が冷えて程よい降雨の時期があり、それによって花芽が目覚めた後、ふたたび猛暑に戻ってしまったので目覚めた勢いが強く、そのまま花芽(茎)がずんずん伸びて行ったため、開花が早まってしまったのだろう――とのことであった。

 早いのは10日以上前に満開となり、全体の見頃は一週間前の15日ごろだったそうである。残念だが、まあ自然の営みに任せるしかないのが風流というものだろう。

 というわけで、観賞を早く切り上げ、園内から望まれた辻岳まで足をのばすことにした。Cimg6344辻岳は根占富士とも呼ばれ標高は770㍍とさほど高い山ではないが、見晴らしはよい。Cimg6351辻岳の東側にある登山口から登ることにした。登山口の標高は630㍍だから標高差140㍍。20分ほどの登りだ。

 山頂直下の馬頭観音を祀る岩。岩自体がご神体というわけで祠は無い。ただし鳥居は立派なのが立っている。以前来た時は白木のボロボロだった気がするが、結構なことだ。Cimg6352辻岳山頂。南の野首岳(897m)方面を望むが、まだ陽はあるのに雲とガスで眺望はよくない。Cimg6353馬頭観音の岩の上から田代方面の稲尾岳(959m)を望むが、こちらは雲で完全に覆われていた。

 帰りに山腹にある西原台展望所に立ち寄った。近くにはパラグライダー出発点があるところだ。Cimg6367薩摩半島最南部の開聞岳(922m)がかすかに望まれる。真上の空はよく晴れているのに半島の陸上部がガスっているのは桜島の火山灰のためだろう。Cimg6359北北東の根占市街地を見下ろすが、やはりガスがかかっている。真ん中に光るのは雄川の流れで、右手の山間から流れてきて左手の海に注いでいる。夕方ということもあるが海の青さが全く分からない。Cimg6364展望台のすぐ下に見える集落は大浜地区で白い建物は宮田小学校。ここからは見下ろせないが小学校の南200㍍くらいにある大浜海岸がパラグライダーの到着点である。(向こうに霞んで指宿の魚見岳、その右手には陸繋島で有名な知林ヶ島がかろうじて見える。秋晴れの日を選んでもう一度来てみないことには・・・。)

 ネッピー館の根占ネッピー温泉に入って汗を流して帰ったこと、言うまでもない。





























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福島第一原発の廃炉決定か

 夕方6時のNHK総合テレビのニュースは衝撃的だった。Cimg6333福島第一原発を視察に行った安倍首相が、その現場で東京電力に対して、停止中の5,6号機を廃炉にしてもらうよう要請したというのである。

 大震災で無事だったこの2基までも廃炉にするということは、福島第一原発の廃止を意味する。画期的な判断である。Cimg6336東電はすでに福島第一原発の事故処理に1兆円を注ぎ込んでおり、もし廃炉にするとなると解体費用もろもろを含めてさらに1兆円が必要と考えている。

 政府が汚染水処理費用に470億円投入すると発表したが、たかだか汚染水の処理のためにそんなに必要なのかとふと思ったりもした。しかし総額2兆円からすれば2.3パーセントに過ぎず、いかに原発事故全体の後始末に金がかかるか呆然とするほかない。

 これで東電が潰れないのが不思議だ。世間でよく言われる「大き過ぎて潰せない」というやつで、エネルギーは国家経営の屋台骨を担当しているからだろう。Cimg6337とにかく安倍首相としてはオリンピック誘致のプレゼンテーションで、「福島原発事故の汚染水問題は、私が先頭に立って総力で解決に当たるから、東京には何の問題もない。安全である」と大見得を切った手前、汚染水処理はもとより、一歩進めて福島第一原発の廃止にまで踏み込み、世界の更なる信頼を得ようと必死なのに違いない。

 東京オリンピックまであと7年。その間に福島第一原発の廃止まで一気にやってしまおうというわけだ。瓢箪から出た駒か、目標をオリンピック開催時に合わせて世間を誘導して行こうというやり方はこれまでにない政治手法かもしれない。

 自分の知っている限りで、国際社会の会合の席上であんな大見得を切ったのは他に見当たらない。中曽根さんが首相の時、アメリカに行ってレーガン大統領に「あなたがロンなら、私はヤスだ。ヤスと呼んでくれ」「日本は不沈空母だ」などと見得を切ったが、あれは国際会議の席上ではなく二国間の内々のセリフだったから話の次元が違う。

 今度の大見得が見事成就されたら、「日本も言うことは言う、やることはやる国じゃないか」と大いに評価されるだろう。

 ところで、昨日話題になったのが「リニア鉄道」計画で、東京・名古屋間の駅の場所が決まったという。また世間的には東京ー名古屋間の営業が2028年、大阪までだと2045年の開業というのは時間がかかりすぎるから前倒しで造れないかーという声が多いそうだ。

 東京・名古屋間の全線開通は無理でも、着工しやすい一部区間を先に建設してオリンピックに間に合わせ、そこを試乗区間として観光客に乗ってもらうというアイデアも出されていたが、大賛成だ。東電が事故処理に使う総額2兆円もあれば、立派なリニア試乗区間ができるだろうに。

 ただ、東京の始発駅が品川で、在来線の品川駅の地下40㍍にできる駅だそうだが、とんでもない話で、地震が来たらひとたまりもないではないか。穴だらけの東京の地下にまた穴を掘るとはモグラじゃあるまいし、頼むから考え直してくれ。








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特別警報の発令(台風18号大雨)

 ついに初の気象庁「特別警報」が発令された。Cimg6315先月(8月)の30日に制定されてから初めての発令で、場所は意外にも京都を中心とする福井・滋賀地方であった。Cimg6320午前9時前後のNHK台風情報の画面。

 京都のほぼ全域が特別警報の中の「特別大雨警報」に指定された。福井・滋賀も全域である。この辺りは夏の高温・冬の寒さは厳しいところだが、大雨による特別警報の対象地域になるとはだれも予想しなかっただろう。しかも発令第一号というから唖然とする。

 雨の量そのものは24時間で400ミリほどと、今夏の北陸・東北ではすでに経験済みの雨量に過ぎない。過ぎないと言っても、もともとこんなに降る場所ではなかったからやはり一大事であろう。

 緊急の事態は別の放送局の画面に表れていた。Cimg6318テレビ朝日のニュース番組「モーニングバード」では開始早々、京都の嵐山渡月橋の状況をリアルタイムで映し出していたが、あの穏やかな流れで有名な桂川が今まさに渡月橋を呑みこもうとしている。

 京都に特別警報が出たわけがよく分かる。Cimg63258時過ぎにはこの桂川流域の6万世帯に避難指示が出た。

 そうこうしているうちに8時半、何と大阪の大和川流域の16万世帯にも避難指示が発令された。

 指示とは昔の慣用語では「命令」であり、指定されたら全世帯は避難所へ退避することになるが、30万近くの住民が一時に避難する場所が確保できるのだろうか。気になる。Cimg6312さて本体の台風18号は今朝早朝に愛知県豊橋市に上陸している。

 画面右下のレーダー観測では7時の時点で、京都や福井は雨雲の西の辺縁部であり、北風が吹きこんでいるはずである。ということは日本海の湿った大気が入り込んで雨をもたらしていることになる。これまでなら北寄りの冷風を運んでくれる恵みの「風台風」になるはずが、今夏の日本海の海水温が異常に高いせいで「雨台風」になってしまったわけだ。Cimg6323上陸して2時間半後の18号台風の勢力と進路。(NHK)

 一昨日のイプシロンロケット打ち上げの頃、台風18号は九州四国のはるか沖合に到達し、急激に方向を変えて北東方面へまっしぐぐらに向かって行き、ついに今朝早朝に東海地方に上陸したのだが、不思議なことに一昨日の時点では985ヘクトパカルであったものが、本土に近づくにつれて勢力を強め、昨日は975hPa、今朝の上陸直前では965hPaとなっていた。

 このことについて、テレビ朝日「モーニングバード」のレギュラーで気象予報士の石原良純が「こんなことは珍しいのですが、それだけ日本近海の海水温が高いっていうことですよ」と説明していた。

 こっちも珍現象なら、京都全域が特別大雨警報地域に指定され、6万世帯かそれ以上に避難指示が出されるのも珍現象で、ダブル珍現象つまり異常現象ということになる。今夏で思い知ったのが全国的にはすでにこうして異常現象が多発し、もう異常が当たり前のようになっていることである。

 実は20年前の鹿児島ではこれよりまだひどい長雨・大雨・台風の被害に遭っている。

 梅雨がなかなか明けずにずるずると8月まで続いた揚句に、あの「8・6水害」が発生。そのときの24時間雨量は1000ミリを超え、あちこちで洪水・崖崩れがあり、鹿児島の基幹道路である国道3号線が川と化しそこで人が溺れ死んだのはいまでも語り草となっている。

 その災害のあと片付けも終わらぬうちに今度は9月2日に13号台風が襲来。上陸間際の920hPaは実はもっと低かったという説もあるくらいで、何しろ町役場の屋上にあった風速計が70mを指したまま破壊されたというのだ。最大で80mはあったかもしれない。命からがら小学校の体育館に避難したら体育館の天井が一部吹き飛ばされ、急いで職員室前の廊下に移り、そこで一夜を明かしたのは記憶に新しい。

 今はやりの竜巻で言えば、直径30キロ以上の巨大な竜巻が襲って来たということもできるだろう。

 こんな経験をしているので、いま日本のあちこちで起きる大雨・台風・暴風のニュースを見ていると、鹿児島や高知で以前ならば珍しくはないこのような災害が、北へ北へと移動して行ったのだな―と実感される。

 海水温の高温化が大きな要因だと思うが、それが果たして地球全体の高温化(温暖化)と並行しているものなのかどうか、危惧は大きくなる一方だ。

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イプシロン打ち上げ成功(肝付町内之浦)

 先月27日に打ち上げ中止となったイプシロンロケットは、今日の午後1時45分に再打ち上げが行われた。

 早朝のテレビニュースでは打ち上げ現場の様子が映し出された。まだランチャーにロケットの姿は見えない。Cimg6287今日のニュースでも紹介されたが、この新型ロケットはこれまでの打ち上げコストを三分の一に減らした。廉価になったことによって発展途上国の人工衛星等の投入ロケットとして売り込めるという。38億円が途上国にとってどれくらいの巨費なのかは分からないが、欧米ロシアなどが武器を売り込む額も相当なものだろうから、日本が民生需要にしぼって供給を満たすことに徹すれば国際的評価は高まるにちがいない。

 それはそうとして、今日も8月27日同様、内之浦町の岸良海岸まで打ち上げ観測に出掛けて来た。Cimg6294発射前40分の岸良海岸の様子。相当な人出だ。駐車場も道路も車で溢れかえっていた。Cimg6300今か今かと多数の人が海の方を注視して待っている。

 ところが、発射予定時刻1時45分の20分前になって集落のスピーカー放送を通じて、「発射時間は都合により15分延びて2時ちょうどになります」―と来た。

 一瞬この前の打ち上げ中止が頭をよぎった。また何かのトラブル発生だろうか・・・。Cimg6309何しろ台風18号の接近で風が強いことは強い。そのせいなのだろうか・・・。平均して10㍍くらいの風が海の向こうから吹いている。花崗岩に打ち寄せる波しぶきは相当なものだ。

 待つこと30分。また放送で「3分前になりましたらカウントダウンを始めます」とあった。

―そうか、よかった、無事に上がるのか。Cimg6301カウントダウンがゼロを叫んでから皆がカメラを一斉に岬の方に向けた。ほんの数秒で山の稜線からオレンジ色のロケットが上がって来た。(ちょうど写真の真ん中、山の稜線近くに上がって来たが、白っぽく見えるだけでオレンジ色には見えていない。残念!)

 見えた途端、周りからは拍手と歓声が起こった。Cimg6302結構な音とともにロケットは雲を突き抜けてずんずん上がって行く。(下半分のもやもやっとした雲のすぐ上に小さな白いひっかき傷のように見えるが・・・。)Cimg6303白い航跡を描いて次の雲に入って行く。Cimg63052番目の雲に入ったあと出てくるかと思ったが出てこなかった。ちょうど雲に遮られた真東方面に飛んで行ったようである。

 この間わずか10秒ほど。

 この文字通り瞬間的なドラマを見るために、北は東北から南は沖縄まで、わざわざ足を運んでくる人たちの思いやいかに。

 近くに久留米から来たと言う高齢者夫婦がいた。昨日来て岸良に泊まったという。

 ただ見たい、その現場に立ち会いたい―というモチベーションが彼らを突き動かすわけだが、見たところで、また、現場に来たところで一銭の得にもならない。むしろ数万か十数万かを費やすのだが、彼らは損をしたとは思っていないはず(8月27日の中止の時は損をしたと若干は思ったかもしれないが)。

 こういうのを文化というのだろうし、彼らを文化人と言っていいのかもしれない。名もなく、好奇心にあふれ、損得抜きの純粋なこのような行動を起こせる人の多い国日本。庶民の文化的底力は途方もないと感じた。










 

 







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検見崎城址を訪ねる(肝付町検見崎)

 昼食後に庭いじりをして汗をたっぷりかき、上半身裸になってもなかなか汗がひかない。玄関前の寒暖計を見ると32℃を指していた。今年の酷熱の8月からすれば3℃ほど低いが、9月に入ってからは平年並みの降雨があって湿度が高くなっているのでこたえる。

 そこで温泉に行くことにした。肝付町高山の「高山温泉ドーム」(やぶさめの湯)がお気に入りで、月に2回は行くことにしている。単純泉だが一応は「温泉」で、成分のせいか石鹸の泡立ちがよく肌触りもよい温泉である。

 のんびり入ってから出たのが5時。まだ落日までにはたっぷりの時間があるので帰り道からちょっと入ったところにある「検見崎(けみざき)城址」を訪ねてみた。

 県道<高山ー吾平>線を高山側から行くと二本松信号(コンビニやミネサキ高山店がある)を吾平方面に直進し、150mくらい走ると「検見崎バス停」があるからそこを左折する(右手には老健施設がある)。左折後約200mで道が二手に分かれ、直進方向に白い屋根付きの看板が見える。その裏手一帯が検見崎城址だ。Cimg6270看板の説明書きは次の通り。Cimg6272検見崎城を築いたとされる検見崎氏は肝付氏初代・兼俊の4男・兼友である。長子の兼経が本家を継ぎ、二男・兼綱は救仁郷氏、三男・兼幸は北原氏にそれぞれなっている。

 2代目の兼経が高山麓地区に入ったかどうかは疑問とされるところで、兼経夫婦の巨大五輪塔(供養塔)が高山地区とは肝属川を挟んだ反対側の東串良町柏原の熊野神社横にあることから見て、入部地は東串良側であろうというのが現在の見方である。

 兼友を始祖とする検見崎氏の居城が、高山麓とは川筋の違う境川流域にあるのも、高山麓には別の土豪的な勢力が居たことを裏付けている。二男は大崎地区、三男は串良細山田地区という入部地だが、やはり高山麓地区を避けている。

 どんな勢力だったかは証拠になる文書などないので分からないが、大きな課題であろう。Cimg6276説明板の後ろ側を通って城内に入ると直径15メートルほどの空間がぽっかり空いている。城の地割り上、ここが何に当たるのかは全く分からないが、左手に坊さんの墓を含む5基が、真ん中やや西側に二本の石柱と宝塔が建っている。Cimg6277石柱二基のさらに右手(西)、竹藪から始まる崖のふちに4つの石造物がある。手前は「六地蔵塔」、真ん中は人物像だが不明(田の神ではない)。右手は五輪塔を彫り込んだ塔婆。後ろには小さな五輪塔が見える。それぞれ時代の違う物のようだが、廃仏毀釈の嵐の中で残ったものをこうして並べてあるのだろうか。Cimg6279空間の真ん中近くにあるこの宝塔は、説明看板によると「初代・兼友の供養塔」らしい。左側の灯篭らしい石柱の側面に「文化十年」の刻字が見えるので間違いない。

 これを建立したのは文化10年(1813)当時の検見崎家当主(第20代)だった検見崎大右衛門という人物で、この人は17年後の文政13年(天保元年=1830)に嫡男のいなくなった肝付本家(島津氏に敗れ、1580年に高山から阿多12町へ改易)27代を継ぎ、肝付兼明となっている。その時の石高は700石だったという。(『高山郷土誌』347ページ)

 天文の頃(1530~50年)に最大の10万石とも12万石とも言われる戦国大名であった肝付氏本家も落ちぶれてしまったものである。

 同祖の検見崎家は本家の阿多改易後もしばらくは高山に残っていたようだが、江戸時代の初めごろ末吉郷に移住し、その後の経緯は分からないが、文政13年に兼明が本家を継いだころは鹿児島城下に居たようである。

 検見崎城は城といっても南北朝期以降の山城といった造りでは全くなく、すぐ下を流れる境川に面した「領主館(やかた)」でしかなかったように思われる。それだけ防御態勢には向いておらず、むしろ古いタイプの城なのだろう。鎌倉初期の築造であれば兼友の時代に重なるので、築城主は兼友に違いない。Cimg6283説明看板の前の道を比高で20mほど下った所を流れる境川とそこに架かる「検見崎橋」。検見崎橋の向こうのなだらかな丘の一角が検見崎城址。Cimg6282境川が開析した田んぼ地帯。見える範囲で5~6町はありそうだ。検見崎氏はこの辺り一帯の田園を背景にして400年近く勢力を維持した。今もなお田んぼは孜々として営まれている。




















 

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2020オリンピック、東京開催に決定

 昨夜の報道では、IOC総会でオリンピック開催地決定の投票が行われて最終的に決まるのは日本時間の朝5時頃―とのことで5時に起きるつもりが5時20分であった。

 テレビをつけると各社が同じように「東京開催決定」の特番中で、どれも似たり寄ったりだったが、さすがに今回は東京が絡んでいるだけに各社とも総会地のブエノスアイレスはもとより競合都市のイスタンブールやマドリードまで特派員を送って現地の情景などを生で放送していた。Cimg6261(開催決定のあとの招致委員会メンバーの記者会見。ここには安倍首相も参加している)


 テレビ報道の機動性・即時性は、1964年(49年前)の東京オリンピックの時に比べるとまさに隔世の感がある。

 あの時自分は東京にいて中学校3年生だったと思うが、それ以前からもちろんテレビ放送は始まっており(1953年開始)、NHKほか数局(いくつあったか覚えていない)が放映されていたのだが、決定に至る過程など全くの埒外であったし、第一NHKさえ現地に報道陣を送ったかどうか定かでない。まして現地からの生放送(ライブ)など夢のまた夢であった。

 当時の体育科の教師が「新聞に載ったオリンピック報道関連はスクラップしておくように」とクラスに課題を出したのが、いまだに耳に残っている。社会科の教師ならまだしも体育科の教師がそんな課題を?・・・と驚いたのである。だが、驚いたのはそれだけではなかった。開会式はテレビで見たのだが、翌日の朝刊には一面に日本選手団の入場行進が何とカラー写真でデカデカと掲載されているではないか!

 その日からオリンピックが終わるまでの確か二週間、せっせとスクラップに励んだこと言うまでもない。良い記念であったが、今は手元にはなく、たぶん実家にも無いだろう。ぼくの頭の中の記憶にあるだけだが、それはそれでよい。

 今朝はいつも観るTBSのサンデーモーニングまでずっとこの報道で持ちきりだったが、司会者の関口宏が番組の中で、「祝勝パーティー」の途中だという安倍首相にインタビューを行っっている。Cimg6265 こんなこと自体も隔世の感を後押しするのだが、その中で月並みな応答より、個人的な感想を漏らした部分が面白かった。

 というのも関口が「64年の東京オリンピック開催決定時の首相は安倍さんのおじいさまの岸さんでしたが、今回は孫の安倍さんですから何か因縁がありますね」と問いかけると、安倍首相は、「そうですね、それもそうなんですが、実は総理大臣としてブエノスアイレスを訪問したのも祖父と今度の私だけなんです。そのこともあるんですよね」と答えているのだ。

 まさに二重の因縁ではないか。といってもそれは2020年の開催当時にまだ安倍さんが総理をしていればの話である。

 過去の例では、佐藤栄作首相が旧東京オリンピック開催の1964年から1972年沖縄返還の年までの約8年・三期を務めているから不可能とは言えないかもしれない。ところでこの佐藤さんは安倍さんの祖父・岸信介の弟であるから大叔父に当たるわけで、ここでも奇しき因縁を見ることができる。

 そこまで因縁がらみなら、安倍さんには「序でに」と言っては何だが、佐藤さんが三期目の仕上げとしてアメリカの占領下から沖縄を返還させたように、日本を永世中立国(武装はする)にし、アメリカの桎梏からの完全な自由を日本にもたらして欲しいものである。それを政治生命をかけた課題としてやり遂げれば、アメリカ以外の世界からは称賛を浴びるであろう。ノーベル賞受賞も間違いないだろう。

 この時、以前にもこのブログで何回か書いたが、国際連合から脱退する必要はなく、それどころか、

 「日本が現在の国際連合の<敵国条項>に入っているのは十分知っているが、そのことで脱退は考えない。もし必要とあらばわが国が敵対的な大量破壊兵器などを保有しているかどうかの国連監視部隊(ただし米軍に偏らない多国籍軍)を駐留させて構わない」

 と表明すればよい。日本は専守防衛以外の戦力を持たず、国際紛争には人道的支援に限定して参加することに徹すれば、これまた世界が称賛するに違いない。

 この話は「序でに」では済まない話なので、これ以上述べない。それよりもオリンピック開催の一件であった。

 自分としては日本で開催されるのは賛成だが、東京でとなると二の足を踏む。というのはやはり「地震」である。関口宏の安倍首相へのインタビューでも提示されたが、東京オリンピック開催へのクリヤーすべき課題が挙げられた中で「地震対策」について、何の言及もなかったのが気になる。Cimg6267オリンピック評論家が挙げたのは「震災復興・原発事故対策」「地震対策」「テロ対策」「スポーツ界の再編対策」であったが、投票日前日のプレスリリースにおける記者の質問で集中した感のある「原発事故による汚染水問題」は安倍さんが大見得を切ったことで鎮静した。だが大問題の「地震対策」はどうなるのか。

 関東周辺での大地震は目前に迫っているというのが、大方(特に海外の研究者・メディア)の見方であり、つい一昨日のどの番組か忘れたが「世界で危険な大都市ランキング」(?)というのが出た中で、東京および横浜が危険度ナンバーワンとされていた。確か2位の都市の4倍くらいの危険度と紹介されていたのである。東京の不動産なんかでも海外投資家が購入する際の保険金額はべらぼうに高く設定されているとも聞く。

 今からちょうど20年前の北海道南西沖地震(奥尻島への大津波)、17年前の阪神淡路大震災、8年前の中越大地震、そして2年前の東北大震災と、大量の人の亡くなる震災がここ20年ですぐに思い浮かぶほど多くなっているのに気付かないのだろうか?

 大地は揺れ始めているのである。

 今度の東京オリンピックではお台場とか夢の島とか海抜ほぼゼロメートル地帯を中心に開催されるプランのようだが、地震による揺れと津波に弱いところばかりをよくもまあ選んだものだ。早い時期に分都が必要だと考えている者にとってはおぞましく身の毛のよだつ選定に思われる。

 遠くの、たとえば那須地方とか松本地方などの完全な安全地帯での開催は「東京」と銘打っている以上不可能だろう。それなら同じ東京都内の八王子とか立川方面の奥武蔵地方でやればよいではないか。そこに副都心(副副副都心だろうか)を立ち上げるつもりで選手村を造り、競技施設を造れば開催後の分都の受け皿になろう。

 歳をとって来ると心配が先に立つ。心配の先に何もなければよいが・・・。

 

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唐仁古墳群の盟主「唐仁大塚」(肝属郡東串良町)

 鹿児島県下で最大の前方後円墳があるのが東串良町で、その名は通称「唐仁大塚」。正式名は「唐仁古墳群一号墳」である。

 この古墳については当ホームページの「史跡」案内のうち、東串良町の項に載せてあるので参照してもらいたいが、情報は微々たるものであった。しかし今度もっとくわしく書かれた本が手に入ったので概要を引用しておきたい。

 その本とは『南九州古代遺跡の考察』(諏訪昭千代・著 平成9年 南日本新聞開発センター刊)で、「まえがき」と「あとがき」によると1934年生まれの諏訪氏が退職後の仕事として、鹿児島県職員として文化財研究にかかわって来た数々の遺跡についての知見を纏めた労作である。

 氏の遺跡調査は遠くは沖ノ島(福岡県)や宮崎県のいくつかがあるが、主としてはもちろん鹿児島県内の遺跡で、成川遺跡・高橋貝塚・黒川洞穴遺跡・薩摩国分寺跡・上加世田遺跡など多種に及ぶ。大隅地区はやや少ないが、天子ヶ丘古墳(大崎町)などを手掛けている。

 当地の唐仁古墳群や塚崎古墳群などは実際に手掛けたわけではないが、文化財研究の一環として知見を持ち、この本に纏めて記載してある。

 氏の記述では成川遺跡などが自分としては興味津々であるが、ここでは大隅地区にしぼり、当地方に数ある前方後円墳の中でも最大の唐仁大塚(唐仁1号墳)についてだけ引用または概要を書くことにする。(引用箇所は適宜に改行を施した。またカッコは引用者が入れたものである。)

< 肝属川の左岸、志布志湾沿いの東串良新川西の内陸砂丘には円墳143基・前方後円墳6基の都合144基(まゝ)からなる唐仁古墳群が所在し、肝属川右岸の肝属郡高山町(現在は肝付町)塚崎古墳群と共に国の史跡指定になっている。唐仁古墳群は本県で最も数の多いことで知られているが、それ以上に大切なことは日本で古墳文化が発生し発展した南限に位置することである。

 

 その中の唐仁1号墳は、主軸185m・後円部高さ約10.9mの前方後円墳と云われている。それに次ぐのは100号墳(主軸約57m・後円部高さ約7m)、第3位は16号墳(主軸42m・後円部高さ約5.1m)、第4位は12号墳(主軸約16.5m・後円部高さ約3.3m)である。

 

 これらのうち1号墳は前方部が必ずしも明確ではないが、後円部は3段からなり墳丘は葺石で覆ってある。また、墳丘の各段に相当する位置には円筒埴輪が並列しているのが認められるので、それからすると本墳は円筒埴輪が墳丘を囲繞していることは確実であろう。

 

 墳丘頂部には須佐之男神の他3神を祀った大塚神社が鎮座している。その社殿を建てる時に墳丘を削平したことは間違いのないことであり、神殿と拝殿を結ぶ渡り廊下の下には主体の竪穴式石室の扁平の蓋石5枚が表出している。この蓋石は以前にコンクリートで密封したため、今日では内部を観ることは出来ない。また、拝殿の下には箱式石棺1基がこれまた表出している。墳丘は前方部と云われているところを除いて、幅約20mの浅い周濠を繞るように設けてある。 > (・・・同書215ページ)

 以上の第1号墳の外形の説明だけでは分かりにくいので、古墳の地形図を掲載しておく。これはどこかの資料から自分がコピーしたものだが、出典を記録しておかなかったので明示できない。好学の士のためにここに披露するのを許されたい。Cimg6259標高12.5mほどの後円部の頂上には大塚神社があり、拝殿と本殿を結ぶ渡り廊下(二つの建物の間のくびれ)がはっきりと分かる。その下に竪穴式石室の上を覆う蓋石が見えているのである。

 またこの図上の計測では、後円部の直径は78.5m、およそ80mというところである。周りにはかなり広い濠が巡っているのも明確であるが、左手に伸びたはっきりしない「前方部」の周囲にそれらしきものはない。しかも前方部は極めて低い。この辺りの標高は人家の立つ辺りを参考にすると3.2mほどなので、前方部の最高地点5.9m部分でさえ比高は2.7mとなる。

 これについては諏訪氏も「前方後円墳なのか?」と疑問を書いているところもあるが、一応通常の前方後円墳として論考を進めている。石室の内部については以下のようである。

< 1号墳はこれまで広く知られているところであり、外形及び内部主体の竪穴式石室の知見は既述(上の引用)のとりである。主体内部の状況については本県考古学の先達者の1人、山崎五十麿が昭和7年に石室に入り、第7図(省略)に示した貴重な記録を残してある。

 それによると石室は、長さ3.6m・幅約1.2m・深さ約0.85mで天井が割合に低い竪穴式石室である。石室の擁壁は割り石を整然と木口積みしたもののようで、本県では畿内地方の古墳時代前Ⅲ期頃まで盛行した古式古墳の築造技術を継承して造営したことが認められる数少ない古墳の一つである。

 石室内には舟形石棺が納めてある。この石棺は長さ約2.68m、中央部の幅約0.9m、身と蓋を合わせた高さは約0.87mである。先に触れたように石棺と石室の天井の間は約38㎝とかなり狭い。

 石棺は身・蓋ともに両端に縄掛突起がある。縄掛突起は径0.15mのものが身の南側北側の何れにも2個を設けてある。蓋の南側の縄掛突起は幅員0.64mのもの1個、北側の2個は径0.3mと0.27mである。

 舟形石棺は割竹形石棺についで畿内をはじめ各地の古墳時代前Ⅳ期頃までの古墳の遺体埋葬に多用された刳抜(くりぬき)石棺と云われているが、それを以って本1号墳の築造年代が古くなると見ることができないのは当然のことである。

 石室と石棺の北側の間には甲冑が納めてあった。その甲冑が鋲留・革綴の何れであるか横瀬古墳の場合と同様に必ずしも明らかでないものの本来挂甲は革綴じであるから、腐食すると殆ど原形をとどめないので、この副葬品の甲冑は示されている図(第7図=省略)から鋲留とされよう。

 畿内で甲を製作されるようになるのは、横瀬古墳の項でも触れたように西暦5世紀の第2・四半期の終末とされており、畿内地方の工人の手になった甲冑が当1号墳に埋納されるまでは多少の時間を必要とすることは改めて述べるまでもないことであろう。 > (・・・同書217ページ)

 上の引用の5段落目に筆者の1号墳築造年代への見解が一部披瀝されているが、古墳時代前期の竪穴式石室ならば普通は4世紀代からおそくとも5世紀半ばに比定されるのだが、筆者は当地方への畿内からの伝播には相当な年月がかかっているはずだから、5世紀半ば以前は考えられない―というスタンスを取っている。しかしここは疑問を感じる点である。

 そのことをもう一つの視点から裏付けようとしているのが、副葬品の「鋲留甲冑(短甲)」の制作年代にかかわる筆者の見解である(第7段落)。筆者はここでも畿内からの伝播の時間差を考慮して50年ほど遅らせ、最終的には

< ・・・当1号墳の築造年代は古墳時代前Ⅳ期の後半、つまり5世紀の第4・四半期の比定が可能であろう。 > (同書218ページ)

 と考えている。5世紀の第4・四半期とは西暦で言うと、475年から500年に当たるが、いくらなんでも新しすぎるのではないだろうか。ここはもう一つ疑問としておきたい。

 そして結論として以下のように述べている。

< 今日の鹿児島県曽於郡と肝属郡は古くに古代日向の国に属し、「諸の県」の南の「南諸県」と呼ばれた地域である。このことから筆者は唐仁1号墳について、

 ①従来の前方後円墳説は、前方後円墳と認めるに足る外形及び地形上の特徴を見出すことはできない。詳細な測量が行われていない今日、その結論は留保して今後に譲らざるを得ないものと考える。

 ②築造年代はこれまでの「古墳時代前Ⅳ期の5世紀後半」とする説に、「古墳時代前Ⅳ期、5世紀の第4・四半期」を加えることにしたい。

 ③築造に際しては西都原古墳群の男狭穂塚古墳を手本に地割りした可能性が想定される。

 ④被葬者はこれまで云われているように、「大隅(住)の直」の人名がある在地豪族の「大隅(住)直一族」の族長の先代を葬った可能性が極めて高い。

 と考える。 >

 ①については上記で触れたように、唐仁1号墳は前方後円墳ではない―とも考えてみたいが、前方部に対するきちんとした測量をし直さないと分からないと留保している。②については400年代末期に近いという結論で、これには疑問を感じる。

 興味深いのは③、④の論及で、特に③については同書218ページに「書陵部紀要36号から転載」として次の図を載せて論じている。Cimg6260左の典型的な前方後円墳が「女狭穂(めさほ)塚古墳」で墳長174mは九州で随一、右が「男狭穂(おさほ)塚古墳」で墳長219mは女狭穂塚より長いが、前方部に不審があるとして定型的な前方後円墳には入れられていない。

 しかしこの不審な形の塚とよく似ているのが唐仁1号墳なのである。筆者は「後円部の三段の段丘・明瞭でない前方部・前方部を囲繞しない周濠」などの酷似を挙げて、③のように結論付けたわけである。非常に示唆に富む見解であると思う。

 どちらも同じ旧日向国内部の古墳であるから、このような酷似は両者の間に政治的なつながりがあったことを想起させるに十分ではないだろうか。

 そして最後の④。筆者は唐仁1号墳の被葬者についても論及する。筆者は「大隅直」(おおすみのあたい)一族の先代(先祖)ではないかと考えている。大隅直は日本書紀の天武天皇紀・下の天武14年(685)6月20日の条に他の10氏とともに「忌寸」姓を与えられたとして登場する。いわゆる「八色の姓」の第4位の姓である。

 この時西暦685年であるから、筆者が比定する「唐仁1号墳の築造年代は475年から500年頃」が正しいとすれば、被葬者は忌寸姓を賜与されたこの大隅の豪族の8代くらい前の先祖であるということになろうか。

 あくまで筆者の述べる「築造者は大隅の豪族で大隅忌寸を賜姓された大隅直一族」が正しいとしてだが、築造したと考えられる被葬者の時代にはまだ「大隅国」も「大隅郡」も成立する前の事であるので、大隅姓は無く別の姓を名乗っていたと思われるのだが、その姓は何であっただろうか?

 我々はその点を考えなければならないし、また大隅地域から神武東征があったのが真実ならば、東征には参加せずに残された王妃「吾平津姫(あひらつひめ)」や皇子「岐須美美(きすみみ)」の後裔にも思いを致さなければなるまい。

 一方は大隅直(忌寸)から時代を遡上し、他方は神武東征後から時代を下らせるわけだが、どこかで交流点があるだろうか? 是非、見つけたいものである。

 

 

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台風17号が上陸

 昨日の9月3日は1日から南西諸島に接近して来ていた台風17号の影響で強い雨が断続的に降った。

 早朝の予報では九州南部に近づいたあとは急激に北へ針路を変え、九州西岸を北上するような進路であったが、昼前のニュースになるとそのまま北東に進み上陸の恐れが出てきた―と変わった。

 これはまずいと思ったが、気圧が985ヘクトパスカル、最大風速で25mなので、仮に上陸してもすぐに衰え始めるだろうから被害かれこれはないと踏んだ。夜中の1時頃まで起きて風は確かに強くはなってきたことを確認はしたが、雨戸を揺するほどではないので、すぐに寝入ってしまった。

 起きたのは何と7時半、雨戸を締め切ったせいで外の明かりが全く入らなかったためだ。でもおかげでぐっすり眠れて寝起きがよかった。

 すぐにウメの散歩。

 外に出るとすっかり晴れ上がっている。Cimg6257台風の余波など全く感じられない上天気だ。

 帰って来ると庭のセロシアの陰にモモが・・・、朝寝、いや何か考え事をしている。Cimg6256あんたら、遅すぎるのよね。こっちなんかもう一仕事して休憩よ。Cimg6253昨夜、台風対策で家の雨戸を全部締め切ったあと、何かそわそわして落ち着かない。玄関の方を行ったり来たりしているので「こら、外に出せるわけないだろ、台風だが!」と言い聞かせてもじっとして動かない。

 モモの視線の先にあるさっき玄関内に運び込んだ郵便受けの一番上をみると、カマキリがいて何かを両手に抱えている。それを見ていたのだった。

 何を抱え込んだかよく見ると、頭が蜂のようで黄色っぽかったので最初はススメバチかと思ったのだが、何とゴキブリではないか。カマキリさんご苦労さんと思わず言いたくなってしまった。

 まさかモモよ、お前あのゴキブリを食ったカマキリを食ったんじゃなかろうな。弱肉強食の世界じゃあるまいし・・・。

 

 ※このブログを書こうとしている矢先の9時半ごろ、関東地方で震度4の地震があったようだ。テレビ画面に出た情報によると、発生は9時19分、震源は鳥島近海でマグニチュードは6.9。おお!

 

 昨日のブログに載せたように、今度南海トラフ由来の大地震が起きるとすれば、伊豆と房総の沖あたりが震源になる確率が高い。これこそまさに前兆の始まりではないか?

 

 震央の深さが400キロと異常に深かったので、М6.9と強く、揺れの範囲が広かった割には破壊力が小さく、津波も発生していないようだが、これがもしもっと浅かったら津波の可能性は十分あっただろう。

 

 いずれにしても同じような海域でこれからもМ6.5からМ7レベルの地震が続き、しかもだんだん列島に近づいてくるようであれば、南海トラフ由来の大地震は間違いなく発生するはずである。この1、2か月が山場だろうか―。

 

 危機回避を十分に心掛けていて欲しい。もし実際に発生し、避難を余儀なくされるのであれば、ぜひ我が家はじめ当地方へ身を寄せて下され、空き学校とか空き家がいっぱいあるから。





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巨大地震の完璧な予兆?

 9月1日、防災の日の夜、NHKテレビでは昨日に引き続き大地震関連の番組を流した。今度のは『南海トラフ 見え始めた予兆』。

 昨日のが90年前の関東大震災を基軸にし、また次に関東大震災クラスが起こるとすれば房総半島の東側海域を震源とするものだろうーという内容であり、かなりショッキングなものだったが、今度のはもっと広範囲の南海トラフに関するものであった。Cimg6231_2 大地震の予兆はあるのかないのか。前兆現象らしきものは一般人からも寄せられたりしているが、その多くは単に珍しい現象を大地震と結び付けたもので信ずるに足らないが、今度のは説得力がありそうだ。Cimg6227 それは「スロークェイク」(緩やかな振動)という現象で、東大の地震学者によると巨大な本震のかなり前からこの小刻みな揺れはあるが、見た目ではわからず千倍に拡大してみてはっきりするという。Cimg6235_2 この微小な継続的な揺れは、大陸側プレートとその下に潜り込んで行く海側のフィリピンプレートとの間に起こる地滑りのごく小さなもので、この現象をこれまではCimg6237_2「エネルギーをためないための現象と思って」いた、つまり巨大な地滑りが生じないようにガス抜き的な小刻みな地滑りが起こっていたと考えていた。

 だが、実は東日本大震災の時にも本震の前にこのような小刻みの地滑り(スロークェイク)現象が見られ、ガス抜きにはならずあの巨大な地震が起きてしまった。Cimg6222そして今まさに南海トラフでもこのスロークェイク現象がみられるというのである。Cimg6243これはやはり科学的な眼で捉えられた「前兆現象」に他なるまい。

 別の観測者は南海トラフの滑り込み部分自身が東へ移動しているとも言っているそうだから、どう見ても次なる巨大地震は駿河湾から伊豆大島近辺、もしくは昨日の報道で最有力とされた房総半島東海域が震源となるに違いない。

 そのあたりでマグニチュード6.5とか7クラスの地震が数回発生したら間違いなく巨大地震につながるだろう。一刻も早い予知・予報体制がとられることを祈る。













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迫り来る第二次関東大震災

 今日は9月2日。実は昨日この情報を書こうとしたのだが、1日の夜中の2時頃に突然起きた雷雨でどうやら電話線か接続部分かにアクシデントがあったらしく、早朝の6時半過ぎにインターネットを使おうとしても全く繋がらなくなった。

 かかりつけのパソコン取扱店に依頼して来てもらったが、電話回線とパソコンの間にあるモデムに不具合が起きている可能性があるとしてその機種の販売者であるソフトバンクのサービスに連絡を入れてもらったところ、24時間後に回復するかどうかが分かるというのでインターネットは使えず、待っていた。

 するとほぼ24時間後の今日の11時半ごろになってやっとインターネット回線が通じた。それで、このブログを書き始めることが可能になった。まずは良かった。

 で、何を書くかというと、8月31日の夜9時だったか、NHKの番組『MEGAQUAKE:巨大地震』を見た感想である。「防災の日」を明日に控えてタイミングよく作られた番組だろうが、見ていて空恐ろしくなった。結論から言うと<房総半島の東側を震源とする巨大地震が間近に迫っている>という内容であった。

 番組ではまず実際に90年前の大正23年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の貴重な映像が流れた。これまでに見つかっていなかったフィルムがたくさん出てきたが、その惨状は2年半前の東北大震災と昭和20年3月10日の東京大空襲とが重ねあわされたような印象であった。

 特にひどかったのが「本所の被服廠跡地」広場であった。東京ドームの数倍の面積を持つこの広場に難を逃れてきた人々のうち、実に3万8千人が焼け死んだ。「火災旋風」という火炎放射型のつむじ風で吹き飛ばされた人もたくさんいたという。この大震災全体で亡くなった人が10万8千人というから、広い東京のあの一角だけで死者の3分の一が出たことになる。木造家屋がほとんどである地域に起こる大規模火災のすさまじさがよく分かる。

 揺れによる被害はむしろ東京よりより震源に近い神奈川県側に大きかったのだが、火災被害が全体の9割を占めたあの震災では過小評価されたのもやむを得ないだろう。

 ところで大正12年(1923)の関東大震災を未然に察知していた学者がいたそうである。Cimg6153東京帝国大学理学部助教授だった今村明恒という学者で、1923年を遡る18年前の1905年のことだったという。(以下の写真はすべて番組からのものである。)Cimg6154彼の予知手法は今もよく使われる大地震の間隔によるもので、再現録画の中の黒板に書かれた関東地方を襲った巨大地震の年代間隔から見て、もうそろそろ関東を襲う巨大地震があっておかしくないーと考えたのだ。確かに慶安大地震(同2年=1649)と元禄大地震(同16年=1703)との間隔はわずか54年、次の安政大地震(安政2年=1855)との間隔は168年。

 間隔に大きなばらつきはあるが、最短で54年であるからそれを当てはめると、安政2年からなら54年後の1909年頃に発生の可能性がある―と見たのである。Cimg6156その考えを基に今村博士が雑誌に「地震の損害を軽減するには・・・」という内容の論文を寄せた。Cimg6157ところが反響が大きく、当時のニュースメディアの格好の取材合戦の対象となってしまい、これに困ったのは、上司である地震学者・大森房吉博士であった。そこで大森は某雑誌に「弟子の説は浮説であるから惑わされないよう」という内容の一文を寄稿して鎮静化を図った。

 当時としては無理からぬことだったかもしれない。

 それでも地震は起こった。今村博士の発表18年後の1923年であった。安政大地震との間隔は68年。18年を長いと見るか短いと見るか人の感じ方によるが、地震学者的には「ごく短い」だろう。庶民としてはちょっと長い。だから関東大震災が起きた時に、「ああ、18年前に今村という学者が予言したとおりになったなあ」と想い起した一般人はほとんどいなかったに違いない。したがって今村の心配した「大地震災害を軽減する」方向には行っていなかったのである。

 現代は地震の研究調査も先端技術を使って大規模に行われているので格段の精度になって来た。とはいうもののとある場所でとある時間帯に発生しますーという予知までには至っていない。せいぜい揺れ始めてからすぐにテレビ画面に場所と大きさが出、津波のあるなしが報道されるくらいだ。

 それでも日夜、地震学者は研究に余念がない。

 このところ不気味なのが房総半島の東側だという。Cimg617990年前の関東大震災で主に震源だった箇所を積もって行くと、神奈川県の西にある箱根・小田原辺りからプレート間の摩擦によるひずみが解消され始めたという。その動きは東に向かって行ったが、どうやら房総半島でストップし、その東側はひずんだままだという。Cimg6195地殻変動図でも房総半島だけはほぼ全体が相対的に上昇しているのが分かる。これはもぐり込んで行こうとする海側からのフィリピン海プレートによる上昇圧によるひずみを解消していないことを意味するそうだ。Cimg6216海底観測による観測データ。これによると2013年現在、房総沖は他の領域を圧倒して上昇しているが、その高さは実に9メートルに達しているので、この部分のひずみの解消という地殻変動つまり大津波を伴う大地震はいつ起きてもおかしくないという。

 まさにクワバラ、クワバラだ。早いうちに避難しておくか、絶対安全な避難経路を確保して置いて欲しいものである。

 2020年に東京オリンピック開催が決まっても、それまでにひずみの解消が発生しない保証はない。確実にそれ以前に来ると思う。東京よ、オリンピックどころの騒ぎじゃない。早く分都を実行してくれ。皇居を京都に戻してくれ。これこそが全国民のためになる巨大国家プロジェクトではないか。





 








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