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岡田英弘著『倭国』を読む

 日本列島が弥生時代と言われる頃、朝鮮半島や中国大陸がどのような状態であり、またどのような交流があったのかを知ることは日本の歴史を考えるうえで非常に重要であり、少なくとも朝鮮半島の動向を考慮しなければ弥生時代の日本(倭国)の歴史の謎は解けない―これが自分の古代史以前(倭人・倭国)の歴史解明の基本的スタンスである。

 同時にまた日本側の文献として最も古くかつ詳細に記されている『古事記』『日本書紀』も、複数存在した古文献を編集してまとめる際に、大和王権の要求に沿った改変や削除・潤色は多々あるにせよ無下に否定すべきではない。極めて重要な文献である―これも自分流歴史解明の第二の基本的スタンスである。

 以上の観点から中国古代史や朝鮮古代史、それに記紀などを鋭意読み進めて大隅史談会会報『大隅』やホームページ『鴨着く島おおすみ』、ブログ『鴨着く島』に発表してきた。

 しかし朝鮮半島の紀元前から4世紀くらいまでの歴史についてはさほど史料は多くなく(ほとんどは中国側の文献による記述)、それなりに時間軸の筋道を掴むのは比較的容易であるが、中国史となると時間軸が長いうえに王朝の興廃や分裂・成立が数多あり、とても一筋縄では理解しがたい。

 そこで高名な学者の書いた解説書などが必須となってくる。今回参考にさせてもらったのは『倭国』という本で、著者は岡田英弘・東京外国語大学名誉教授。1977年に初版(中公新書)が出たが1993年の第22版を参照した。

 この本で特にありがたいのが最後に付録として付けられた「倭国史年表」である。これは中国大陸・朝鮮半島・日本列島と三項目に分けてあり、年代は紀元前473年に中国大陸の項「越が呉を滅ぼし、都を琅邪に移す」から、紀元後の724年の日本列島の項「元正天皇の譲位。聖武天皇(首皇太子)の即位」までを新書版で10ページにわたって一覧できるようになっている。

 さて、ここはブログなので、手早く「結語」を書いておく。著者が「結語」という項目を立てたわけではないが、著者の論考の結論部分―「倭国」がどのように終焉し、「日本」が始まったか―を抜書き的にまとめて記すことにする。(※漢数字はアラビア数字へ、旧字体は新字体に変え、若干の注記も施してある。)

<7世紀までの日本列島の実情は、倭人の集落と秦人、漢人、高句麗人、百済人、新羅人、加羅人など、雑多な系統の移民の集落が飛び飛びに散在する、文化のモザイクのような地帯で、倭国といっても純然たる国境を持つ国家ではなく、倭王があちこちに所有する直轄地というか私領の総和が倭国なのである。つまり倭王というものが先にあって、その支配下にある土地と人民が倭国なのである。倭国という国家(注:国境)があってそれを治めるものが倭王だったというわけではない。こういう状態のまま、日本列島の住民たちは、663年の白村江の敗戦を迎えたのであった。>・・・同書・195ページ

<白村江の戦いの意義は、今日では想像できないほど大きなものだった。第一に、これは国際関係のルールがすっかり変わったことの象徴である。3世紀末に中国の人口が10分の1に激減してから、長い長いあいだ中国は分裂状態が続き、周囲の諸民族に対して影響を及ぼすほどの政治力、軍事力を持たなかった。それが唐朝の初期の7世紀半ばには、中国の統一の回復と戦乱の終結のおかげで、人口は3世紀の水準にほぼ近い5千万人弱まで増加して、再び中国は周囲の諸民族に対して圧倒的な優位に立つことになった。>・・・同書・195~6ページ

<日本列島の住民にとっては、660年の百済の滅亡、663年の白村江の敗戦、668年の高句麗の滅亡、それに引き続く新羅の半島統一という、国際環境の急激な変化の衝撃は深刻であった。倭国が百済と結んで唐と新羅を敵に回し、しかも敗れたという事態は、日本列島が中国大陸・朝鮮半島から政治的に絶縁したことを意味した。当時の日本列島の住民にとって、事実上、中国と朝鮮だけが世界だったから、倭国は文字通り世界の孤児となってしまったのである。

 心理的な衝撃だけではない。経済上の問題はさらに大きかった。紀元前4世紀に燕人がはじめて朝鮮半島の南部の真番の地に達し、ここに拠点を築いてから千年のあいだ、日本列島の開発は、まったく半島経由で流れ込む中国の人口と物資と技術に頼り続けた。さらにこの千年の後半期には、倭人のほうからも積極的に半島に進出し、新しい文明を吸収してきた。それが今や唐朝のもとで生まれ変わった中国の巨大な実力と敵対関係に立つことになった・・・。(中略)

 南北朝の分裂と隋末の群雄割拠を克服した中国、その中国の支配をはねのけて、百済・高句麗の遺民を中央集権の王国に統合した新羅のように、日本列島の住民も、一つの国家、一つの民族、一つの文化に統合されなければまらない。これが北九州の大本営の天智天皇が直面した課題であった。>・・・同書・197~8ページ

 こうした大きなうねりの中で天武天皇時代に記紀の編纂が開始されるのであるが、著者は

<実は、白村江の敗戦のあとで天智天皇が実施した大規模な改革の内容は、『日本書紀』では年代を繰り上げて「孝徳天皇紀」に入れ、645年のいわゆる大化の改新の記事にしてしまっているのである。>・・・同書・198~9ページ

 とし、その理由を

<どうして『日本書紀』がそんなことをしたかというと、理由は、『日本書紀』は天武天皇が着手した歴史編集事業の成果だからである。天武天皇は壬申の乱で、兄の天智天皇の子の大友皇子を倒して政権を奪ったのである。だから天智天皇の業績をあまり持ち上げては、現政権に憚りがある。しかし一方、天武天皇の皇后の持統天皇、その腹に生まれた草壁皇太子の妃の元明天皇は、いずれも天智天皇の娘で、天智天皇の仕事をまったく黙殺するわけにもいかない。そこで天智天皇が孝徳天皇の皇太子となって、はじめて国政に発言権を持つようになった645年に『近江令』の内容を繰り上げてしまった。こうすれば、一つには天智天皇の改革が、孝徳天皇の手柄になって、その意義が薄まる。二つには、何も白村江の敗戦の結果、あわてて改革を実施したのではなく、その20年ほど前からすでにやっていたことだ、ということになって、プライドが傷つかずにすむ。そういう性質の歪曲である。>・・・同書・199~200ページ

 と記す。これは『日本書紀』の記述に見える改変の一例であると著者は言い、さらに倭国に変わって登場した「日本人としてのアイデンティティ」を創出しなければならないという当時の背景の下で、強引に、まず歴史の統合、次に言語の統一が行われたという。

 まず歴史の統合、すなわち国史の編修については、

<『日本書紀』の筋書きは、まったく日本列島を中心にして出来上がっている。天孫が天上から日向の高千穂に降臨するのは、皇室はこの日本列島に自生のもので、外国とは関係ないんだ、という主張である。これは白村江以後、九州が国防の第一線となって、未開拓の南九州を確保する必要上、皇室と隼人とを同祖、したがって同じ日本民族と主張するために作られた話で、きわめて起源が新しい。

 神武天皇に至っては、『日本書紀』の「天武天皇紀上」に明記されている通り、壬申の乱の最中、天武天皇側に加護を与える神霊として、はじめて人間界に出現したもので、それ以前には名前さえ知られていなかった。そして仲哀天皇・神功皇后は、白村江の敗戦が作り出した神々である。>・・・同書・201ページ

 と、断定している。 次の日本語の成立については、

<天智天皇の日本建国の当時、独自のアイデンティティを保つためには、中国語系の言語も採用できなければ、新羅と共通の要素の多い百済、任那系の言語も採用できなかった。残る選択は倭人の言語だが、倭人はこれまで都市生活と縁が薄く、したがって文字の使用にも習熟していなかった。新しい国語の創造を担当したのは、これまで倭国の政治、経済の実務にたずさわってきた華僑である。彼らの言語は朝鮮半島の土着民の中国語である。

 それが自分たちの言語を基礎として、単語を倭人の土語で置き換えて、日本語が作り出された。日本語が作り出された。日本語の統辞法が韓国語に似ていながら、語彙の上ではほとんどまったく共通なものがないのはこのためであり、また日本語に漢語が絶無に近いのもこれが原因である。日本語はこうして作られた、人工的な言語であった。倭人の言葉とは、おそらく非常に違っているのであろう。

 『万葉集』の歌人のなかで、確かにその歌の作者と認められる最古の人は舒明天皇で、天智・天武兄弟の父である。この人の時代から、多くの歌人が輩出するが、そのうちの大きな部分がいわゆる帰化人であることが知られている。これを従来は、外国人がいかに速やかに固有の日本文化に同化したかを示すものだと考えがちだったが、事実はその反対だったろう。すなわち固有の日本文化というものはなかった。日本の建国運動を推進した華僑たちこそが、新しい日本文化を作り出したのであった。すべては7世紀の国際環境の産物である。

 こうして倭国の時代は終わり、日本の時代が始まった。今から1300年前のことである。>…同書・204~5ページ

 以上のように著者は考えている。

 その骨子は 

① 『日本書紀』は、天武天皇時代に強く志向された列島内統一王権の正当性を主張するもので、統一王権は大陸および半島の関与なしに列島内で自生的に発展して生まれたものであることを正史として書き記したものに過ぎないので、改変や造作が多い。(だから、史書としては信用できない。)

 とくに天孫降臨に関しては、百済救援のために北部九州に遷都した際に、当時、王権(斉明朝)に組み込まれていなかった南九州人(隼人)を国防の一員として確保しようとし、そのために隼人の出自と天皇の出自を近いものとして描いたに過ぎず、まったくの造作である。

② 日本語が作出されたのも同じ頃で、基礎になったのは当時の土着倭人語であろうが、実務者として列島に帰化(土着化)していた朝鮮半島からの渡来商人(華僑)が、朝鮮半島で使われていた大陸由来の言葉を被せて作ったものである。朝鮮語とは統辞法(文法)は同じだが、単語が違い、また漢語は朝鮮半島で土着朝鮮語に置き換えられたので、当時の日本語に漢語がほとんどないのもそのためである。

 というものだ。

 ①に関して言うと、青字にした二段落の内容は今日の学説とだいたい同じである。南九州人と皇室の祖先は同じだとする記紀神話は、南九州人の反抗を鎮めるための造作である―というもので、戦前から歴史家・津田左右吉はー天孫の降りたのが日向だったのは、日向という地名が吉祥語だからであるーとして造作論を唱えてきたが、それを後押しするのがこの考えである。

 したがって当然緑字にあるように「神武天皇はそれまで知られておらず」まして、神武東征などはあり得ないーとなるわけだろうが、果たしてそうか。自分としてはあの説話のように華々しい統一王権樹立のための東征まではなかったにせよ、南九州からの移住・移民、その結果としての大和地方における南九州由来の王権の存在まで否定する必要はないと考えている。(緑字については「神武天皇の御陵に馬と兵器を奉納すれば大友皇子との戦いに勝つ」という託宣があったというもので、神武天皇の御陵に使いをやって奉納させたーとあり、御陵へはすんなりと奉納に行っている。著者は、神がかりによる託宣のことを誤解しているようだ。)

 一段落はおおむね賛成である。このブログの最初に書いたように古代以前の列島史を掴もうと思うと、『日本書紀』の列島内自生史観では掴み切れず、半島や大陸の歴史を並行的に捉えて行かないといけない。ただし、それがために記紀の記述をすべて葬り去る必要はなく、是々非々に参照し昧読しなければならないと思う。

 ②は著者特有というか、独断の見解を示しており、日本語の成立が大陸由来の半島華僑が列島に渡って来たのちに土着言語を基礎にして新たに共通語として作り上げたものだーというのであるが、一見すると我々の度肝を抜き、蒙を開かされる説である。

 しかし、もし中国大陸からの華僑なら、なぜ漢語の統辞法(文法)を捨ててしまったのかという疑問が起こる。文法はそのままにして単語だけを倭語にすれば、つまり折衷案にすれば華僑本人も、倭人も、ともにさして苦労することなく新しい言語になじんだのではないだろうか?

 その疑問に、著者は若干は注意を払っている。それは上で引用した中の赤字の部分で半島ではすでに「朝鮮半島の土着民の中国語」があり、それが共通語だったーというのである。

 半島には倭人でも中国人でもない半島土着民がいて、彼らが大陸から渡って来た華僑の中国語を学び、中国語を土着語化していた。その文法は倭人と同じ文法(膠着文法)だったーというわけだろうが、その際にもなぜ華僑という力のある勢力が彼らの文法を捨ててしまったのか、その理由が不明なままだ。

 漢語の文法の方が同じ文意を伝えるのに簡単明瞭なのに、である。

 古事記を撰修した太安万侶もその序文で「漢語を使えば簡略に表現できる。が、しかし倭語の真意が伝わらないので、わざわざ漢字の音だけを借りて倭語に当てはめたのでずいぶん単語が長ったらしくなっってしまった。古意を尊重したためであるから致し方ないこと」(要旨)と述べている。

 古事記は文章であるから漢語(漢文)が使われるのが、当時の主流であり、使わざるを得なかったのだが、言葉は漢語にはならなかった。漢語の方がより簡略に意思を疎通させられるのに取り入れられず、日本語はついに中国語に置き換えられなかった(朝鮮語も)。

 この点からして、「実務者としての華僑」が倭人の間で経済・政治・文化のすべてを取り仕切っていたのなら、話し言葉が漢語にならなかった理由は何だったのか、自分としては大いに疑問であり、著者に聞きたい所である。

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コメント

始皇帝でさえ話し言葉を統一できなかったし、そもそも漢語という藤一した話し言葉さえなかった時代ですよ。
あったのは漢字で綴った通信手段であって、音声言語ではなかったからです。

投稿: sey | 2014年9月18日 (木) 21時41分

seyさんへ。
コメントありがとうございます。
 甲骨文字から発展して「漢字」「漢文」にまで到達し、それによって論語やその他の書がまとめられたのが紀元前5、6世紀。その時代に大陸でどのような音声言語が使われていたかは不明ですが、それらの書によって音声言語そのものが、ちょうど仏教経典が返り点なしに棒読みされているように、日常的に使われ出したのではないか。
 つまりそれまでは倭語と同じように膠着言語だったものが、漢文的な言語に改変されて行ったのではないかーという気がします。音声言語から素直に文字表記に移行すれば、古事記で太安万侶が嘆いたように、「長ったらしくなる」ので、大陸ではその煩瑣を避けるために、表記としてはいわゆる漢文にしたが、その漢文の仏教経典的棒読みが一般的な音声言語(口語)化してしまった。これが中国語でしょう。
 それに対して日本列島および朝鮮半島では文字表記を必要としない「口語統治」が7世紀の後半まで続いたため口語における「漢文棒読み」化は行われず、音声(表音文字)としての漢字は取り入れたが、ついに膠着語としての倭語は残った―と考えます。
 でも7世紀に華僑が列島の支配階級になったのであれば、やはり中国語化は免れなかったのでは?

投稿: kamodoku | 2014年9月19日 (金) 00時16分

現代の中国にも異民族による膠着言語はあるそうですよ。
あくまでも漢文は書き言葉であって話し言葉ではなかったということですよね。しかも日本書紀は講義されなきゃわからない漢文で書かれており、読者対象は朝鮮半島うや中国大陸の知識人で国内の漢学者ではないでしょう。
たとえばコーランのアラビア語は書き言葉であって、話し言葉ではないのと同様だと思います。

投稿: sey | 2016年3月 8日 (火) 11時16分

たしかに日本書紀は外交上必要な文書として、先進国であり戦勝国だった唐への申し開き的な意向もあり、「日本は列島内で自生的に発展してきた王権国家である」と宣言した史書でもあると思うのです。『新唐書』には贈られた日本書紀から引用したと思われるアメノミナカヌシからニニギを経て神武東征に至り、それ以降の天皇名がズラリと書いてあることで分かります。
 中国語(漢語漢文)はもともとあった東アジア全体を覆う膠着語体系の言語に割り込み、それらを駆逐して今日がある――そう考えると、日本から朝鮮半島・モンゴル・トルコまでの膠着語の回廊とチベットを中心とする中国大陸南部の膠着語の残存が理解できる。
 中国語(漢語)は要するに「命令・執達のための文字言語」が基本になり、強力な皇帝独裁による中央集権化・領土の拡大ともに周辺一帯までをも漢語化したものでしょう。
 唐に敗れ、あわや占領併呑される瀬戸際まで行き、その後は競って先進的な唐文明を取り入れながら、膠着言語の日本語が捨て去られなかったのは、日本列島がそれまで弥生時代からほぼ1000年もの間、コメを中心とする強力な統一文化圏を形成しており、役人が命令せずともこれまでの口語で十分通用したからでしょう。もちろん朝鮮半島での支配層(唐文明化)ー被支配層(愚民化)の完全分離政策も大きかったでしょうが。
 朝鮮半島では唐と共同で百済・高句麗・倭国を駆逐した新羅がすぐに統一新羅として半島全体を支配し、こちらは日本列島と違って、度重なる中国王朝からの圧力を跳ね返したことで独立自尊の文化圏を維持したのだろうと思います。支配層は中国に従属して「小中華」を標榜しながら被支配層を徹底的に愚民(無学蒙昧)化したために、逆に漢語の浸透が阻まれたのだろうと考えられます。

投稿: kamodoku | 2016年3月 9日 (水) 11時00分

<訂正>下から十行目
「もちろん朝鮮半島での・・・完全分離政策」の次に「に似たような政策があったこと」を入れる。

投稿: kamodoku | 2016年3月 9日 (水) 11時07分

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