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岡田英弘『倭国』を読む(続)

 著者がこの書で、倭国が日本に変わったターニングポイントとして「白村江の敗戦」を挙げ、その甚大な影響を指摘したことを引用したが、まさに正鵠を射ていると思う。

 ただ、これはおそらく著者だけの用語かと思われるが、近代に南中国から南方の地域へ移住し、そこの経済の実権を握ったと言われているのが華僑だが、その用語を弥生時代以降の朝鮮半島及び日本列島の動向にも当てはめている。若干疑問に思う用語だが、「華僑」という用語を使うことでより一層読者の想像力を引き出すーという修辞法と考えればそれなりに納得はできる。

 その「華僑」だが、現在はほとんどが「華人」に置き換えられているので、若者が読んだ時にはかなりの違和感を抱くかもしれないが、こういうことも歴史を学ぶ際にはかえって重要なことではないかとも思う。

 さて、著者はどのような状況を指して「華僑」が朝鮮半島や日本列島に渡来したかについて、次のように想定し、指摘している。(カッコ内は引用者の注記である。)

<・・・この地方(注:楽浪郡・帯方郡)には前108~前82年の26年間、真番郡の15県が置かれていて、万をもって数えられる中国人が入植したのである。真番郡が廃止されたあとも、楽浪郡の南端の含資県から中国商人は絶えずこの地方に来ていたはずで、それが王莽(注:前漢と後漢の間に存在した新王朝の創始者)から後漢の初めへかけての混乱時代に、多数の中国人がこの地方に流れ込んで定住する因縁になったと思う。こうした華僑が入植地に築き上げた都市文明が、辰韓・弁辰24国になったのである。>・・・同書・98~9ページ

<さて、辰韓・弁辰の城郭都市の市民の中核をなす華僑は、もちろん商業と手工業を専門とし、朝鮮半島と日本列島の両方にまたがる商業網を握って繁栄していた。「東夷伝」は言う。「国には鉄が出るが、韓、濊、倭はみな従ってこれを取る。あらゆる市買にはみな鉄を用いることは、中国で銭を用いるがごとくであり、またこれを二郡にも供給する」。つまり鉄の地金が、国際貿易の決済に使われていたわけで、辰韓・弁辰の24都市は、その仲介者として機能していたのである。>・・・同書・99ページ

 朝鮮半島周辺に漢王朝の侵攻によって4郡(玄兎・臨邨・楽浪・真番)が置かれて支配下に入った時に大陸方面からの中国人が入ってきたことは間違いないが、二番目の引用のように東夷伝の解釈として、「華僑が商工業のすべてを掌握し、辰韓・弁辰24国を支配していた」と捉えきれるものか疑問が湧く。

 というのも24国の住民の多くは文身、つまり航海民特有の入れ墨を施していたのである。この民がおればこそ大陸から半島・日本列島への交易圏が確保されていたわけで、このことについては著者の論及は無い。それに中国商人たる華僑であれば決済には鉄の地金などという重いものに代えて中国で普通に使われている軽い「銭(銅銭)」をなぜ使わなかったのか、これも不審である。

 そしていよいよ日本列島にもそれらの華僑がやって来て経済の実権を握ったとする。

<そもそも前108年に前漢が洛東江の渓谷に真番郡を置いたのが、朝鮮海峡のかなたの日本列島の市場に独占を狙ったものであった。前82年に小白山脈の北に後退してからも、鳥嶺の南麓には霅陽鄣(トウヨウショウ)が置かれ、洛東江を下って日本列島に通ずる貿易ルートを守った。 (中略) それほどこのルートは経済上重要だったのであり、その線上に辰韓・弁辰の諸都市が成長したのであった。ということは、日本列島の倭人の諸国の経済の実権を握ったのは、辰韓・弁辰系の華僑だったことを意味する。>・・・同書・100ページ

 邪馬台国に関する倭人伝の記述の中に登場する「大倭」について、著者は次のように捉えている。

<・・・「国々には市があって有無を交易し、大倭をしてこれを監せしめる」と言っている。この「大倭」が重要なヒントである。市場監督が倭人であることをわざわざ断っているのは、市場に店を出しているのが倭人ではない、つまり華僑であることを雄弁に物語っている。朝鮮半島で見られたように、日本列島でも、商業経済と都市文明を持ち込んだのは中国人だった。その大多数は、おそらく辰韓・弁辰系の華僑であろう。

 前にも言ったとおり、黄巾の乱の余波で漢委奴国王の権威が失墜したあと、混乱に陥った倭人の諸国の間を調停して、鬼道に事える巫女・卑弥呼を名目上の盟主とするアムフィクチュオニア(注:隣保同盟)を作り上げたものは、諸国の市場を支配してたがいに連絡を取り合っている華僑の組織の力であったと考えなければ説明がつかない。ほかにそうした超政治的な力を持つものは考えられないからである。卑弥呼の即位は、中国皇帝の権威が消滅した時期に起こったことで、その点、倭人の自主的な政治的統一への第一歩であり、歴史的な意義が大きいが、それを可能にしたのは華僑であった。げに華僑こそは日本の建国者の先駆である。>・・・同書・104~5ページ

 ここまで華僑という弥生時代の外来勢力の大きさを極めつけられると付いていけないが、まず「大倭」の解釈で、大倭が倭人であることはいいとしても、その監督下に交易(商業経済)を営んでいるのはすべて華僑であるーとする根拠が分からない。華僑経済が列島を取り仕切っていたのであれば監督者も華僑が就任するはずであろう。

 監督者をわざわざ「大倭」(倭人)と断ったのは、その下で店を出しているのはすべて華僑だからだーとは論理の飛躍もいいところだ。(私見では、この大倭は「北部九州倭人国家同盟」のことで、勢力下に置いた邪馬台国連盟に対して市場監督(植民地時代の総督=倭語では「伊支馬(生目)」)を置いた、と考えている。)

 二番目の引用では、卑弥呼を祭り上げて隣保同盟の盟主にしたのは華僑の力であり、そのように華僑は日本建国の原動力となった―というのだが、ここでも疑問が湧くのは言葉の問題である。華僑がそれだけの力を持っていたのなら、なぜ半島及び列島人の言語を中国語にしなかったのであろうか?

 文書上はたしかに漢語(漢文)が採用されて、のちの日本人は実に江戸時代まで公文書を初め諸文書は漢文でしたためるようになったが、話し言葉は漢語導入以前のいわゆる膠着語のままである。この矛盾にどう答えるのか、著者は明確にしてはいない。

 やはり、弥生時代に華僑が半島や列島に渡来し、半島及び列島の経済やもろもろの実権を握り、国家の動向を左右した―と考えることに無理があるのではないか。もちろん半島に紀元前から相当数の中国人が渡来してきたのは史実であるし、その一部が列島に流れて来たのも史実である。

 だが、日本建国の原動力になったとは認めがたく、やはり土着倭人の力なくしてはあり得ない話だろう。卑弥呼の「鬼道」を信奉する倭人のある種の宗教的ファナテイズムの力を侮ってはいけないと思う。

 私見では、紀元後57年に倭の奴国王の朝貢や、その50年後の倭人の王・帥升の遣使などにより漢王朝の統一王権の姿などから様々に学んで、それを半島と」列島の倭人諸王権の離合集散の後に、次第次第に大きなうねりとなって古墳時代を迎えたのではないかと考えている。

 それにしても著者の中国史に関する該博な知識・論考には裨益されるところが多く、「華僑」論以外は、参考になること多々である。

 なお、卑弥呼の邪馬台国について、著者は畿内説である。

<・・・残念なことに、かんじんの邪馬台国の位置は、親魏倭王をめぐる中国の内部事情のおかげで、「東夷伝」の方向も里程も意図的に歪曲されているので、北九州の末廬、伊都、奴、不彌の諸国から、さらに海路を航行した先にあるとしか言えない。 (中略) ・・・『日本書紀』のなかで、もっとも古い層に属する伝承では、最初の倭国大王は河内を本拠としている(注:仁徳天皇のこと)。邪馬台国も、瀬戸内海の東端の、畿内のどこかと考えるのが穏当であろう。>・・・同書・105ページ

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