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唐仁古墳群の盟主「唐仁大塚」(肝属郡東串良町)

 鹿児島県下で最大の前方後円墳があるのが東串良町で、その名は通称「唐仁大塚」。正式名は「唐仁古墳群一号墳」である。

 この古墳については当ホームページの「史跡」案内のうち、東串良町の項に載せてあるので参照してもらいたいが、情報は微々たるものであった。しかし今度もっとくわしく書かれた本が手に入ったので概要を引用しておきたい。

 その本とは『南九州古代遺跡の考察』(諏訪昭千代・著 平成9年 南日本新聞開発センター刊)で、「まえがき」と「あとがき」によると1934年生まれの諏訪氏が退職後の仕事として、鹿児島県職員として文化財研究にかかわって来た数々の遺跡についての知見を纏めた労作である。

 氏の遺跡調査は遠くは沖ノ島(福岡県)や宮崎県のいくつかがあるが、主としてはもちろん鹿児島県内の遺跡で、成川遺跡・高橋貝塚・黒川洞穴遺跡・薩摩国分寺跡・上加世田遺跡など多種に及ぶ。大隅地区はやや少ないが、天子ヶ丘古墳(大崎町)などを手掛けている。

 当地の唐仁古墳群や塚崎古墳群などは実際に手掛けたわけではないが、文化財研究の一環として知見を持ち、この本に纏めて記載してある。

 氏の記述では成川遺跡などが自分としては興味津々であるが、ここでは大隅地区にしぼり、当地方に数ある前方後円墳の中でも最大の唐仁大塚(唐仁1号墳)についてだけ引用または概要を書くことにする。(引用箇所は適宜に改行を施した。またカッコは引用者が入れたものである。)

< 肝属川の左岸、志布志湾沿いの東串良新川西の内陸砂丘には円墳143基・前方後円墳6基の都合144基(まゝ)からなる唐仁古墳群が所在し、肝属川右岸の肝属郡高山町(現在は肝付町)塚崎古墳群と共に国の史跡指定になっている。唐仁古墳群は本県で最も数の多いことで知られているが、それ以上に大切なことは日本で古墳文化が発生し発展した南限に位置することである。

 

 その中の唐仁1号墳は、主軸185m・後円部高さ約10.9mの前方後円墳と云われている。それに次ぐのは100号墳(主軸約57m・後円部高さ約7m)、第3位は16号墳(主軸42m・後円部高さ約5.1m)、第4位は12号墳(主軸約16.5m・後円部高さ約3.3m)である。

 

 これらのうち1号墳は前方部が必ずしも明確ではないが、後円部は3段からなり墳丘は葺石で覆ってある。また、墳丘の各段に相当する位置には円筒埴輪が並列しているのが認められるので、それからすると本墳は円筒埴輪が墳丘を囲繞していることは確実であろう。

 

 墳丘頂部には須佐之男神の他3神を祀った大塚神社が鎮座している。その社殿を建てる時に墳丘を削平したことは間違いのないことであり、神殿と拝殿を結ぶ渡り廊下の下には主体の竪穴式石室の扁平の蓋石5枚が表出している。この蓋石は以前にコンクリートで密封したため、今日では内部を観ることは出来ない。また、拝殿の下には箱式石棺1基がこれまた表出している。墳丘は前方部と云われているところを除いて、幅約20mの浅い周濠を繞るように設けてある。 > (・・・同書215ページ)

 以上の第1号墳の外形の説明だけでは分かりにくいので、古墳の地形図を掲載しておく。これはどこかの資料から自分がコピーしたものだが、出典を記録しておかなかったので明示できない。好学の士のためにここに披露するのを許されたい。Cimg6259標高12.5mほどの後円部の頂上には大塚神社があり、拝殿と本殿を結ぶ渡り廊下(二つの建物の間のくびれ)がはっきりと分かる。その下に竪穴式石室の上を覆う蓋石が見えているのである。

 またこの図上の計測では、後円部の直径は78.5m、およそ80mというところである。周りにはかなり広い濠が巡っているのも明確であるが、左手に伸びたはっきりしない「前方部」の周囲にそれらしきものはない。しかも前方部は極めて低い。この辺りの標高は人家の立つ辺りを参考にすると3.2mほどなので、前方部の最高地点5.9m部分でさえ比高は2.7mとなる。

 これについては諏訪氏も「前方後円墳なのか?」と疑問を書いているところもあるが、一応通常の前方後円墳として論考を進めている。石室の内部については以下のようである。

< 1号墳はこれまで広く知られているところであり、外形及び内部主体の竪穴式石室の知見は既述(上の引用)のとりである。主体内部の状況については本県考古学の先達者の1人、山崎五十麿が昭和7年に石室に入り、第7図(省略)に示した貴重な記録を残してある。

 それによると石室は、長さ3.6m・幅約1.2m・深さ約0.85mで天井が割合に低い竪穴式石室である。石室の擁壁は割り石を整然と木口積みしたもののようで、本県では畿内地方の古墳時代前Ⅲ期頃まで盛行した古式古墳の築造技術を継承して造営したことが認められる数少ない古墳の一つである。

 石室内には舟形石棺が納めてある。この石棺は長さ約2.68m、中央部の幅約0.9m、身と蓋を合わせた高さは約0.87mである。先に触れたように石棺と石室の天井の間は約38㎝とかなり狭い。

 石棺は身・蓋ともに両端に縄掛突起がある。縄掛突起は径0.15mのものが身の南側北側の何れにも2個を設けてある。蓋の南側の縄掛突起は幅員0.64mのもの1個、北側の2個は径0.3mと0.27mである。

 舟形石棺は割竹形石棺についで畿内をはじめ各地の古墳時代前Ⅳ期頃までの古墳の遺体埋葬に多用された刳抜(くりぬき)石棺と云われているが、それを以って本1号墳の築造年代が古くなると見ることができないのは当然のことである。

 石室と石棺の北側の間には甲冑が納めてあった。その甲冑が鋲留・革綴の何れであるか横瀬古墳の場合と同様に必ずしも明らかでないものの本来挂甲は革綴じであるから、腐食すると殆ど原形をとどめないので、この副葬品の甲冑は示されている図(第7図=省略)から鋲留とされよう。

 畿内で甲を製作されるようになるのは、横瀬古墳の項でも触れたように西暦5世紀の第2・四半期の終末とされており、畿内地方の工人の手になった甲冑が当1号墳に埋納されるまでは多少の時間を必要とすることは改めて述べるまでもないことであろう。 > (・・・同書217ページ)

 上の引用の5段落目に筆者の1号墳築造年代への見解が一部披瀝されているが、古墳時代前期の竪穴式石室ならば普通は4世紀代からおそくとも5世紀半ばに比定されるのだが、筆者は当地方への畿内からの伝播には相当な年月がかかっているはずだから、5世紀半ば以前は考えられない―というスタンスを取っている。しかしここは疑問を感じる点である。

 そのことをもう一つの視点から裏付けようとしているのが、副葬品の「鋲留甲冑(短甲)」の制作年代にかかわる筆者の見解である(第7段落)。筆者はここでも畿内からの伝播の時間差を考慮して50年ほど遅らせ、最終的には

< ・・・当1号墳の築造年代は古墳時代前Ⅳ期の後半、つまり5世紀の第4・四半期の比定が可能であろう。 > (同書218ページ)

 と考えている。5世紀の第4・四半期とは西暦で言うと、475年から500年に当たるが、いくらなんでも新しすぎるのではないだろうか。ここはもう一つ疑問としておきたい。

 そして結論として以下のように述べている。

< 今日の鹿児島県曽於郡と肝属郡は古くに古代日向の国に属し、「諸の県」の南の「南諸県」と呼ばれた地域である。このことから筆者は唐仁1号墳について、

 ①従来の前方後円墳説は、前方後円墳と認めるに足る外形及び地形上の特徴を見出すことはできない。詳細な測量が行われていない今日、その結論は留保して今後に譲らざるを得ないものと考える。

 ②築造年代はこれまでの「古墳時代前Ⅳ期の5世紀後半」とする説に、「古墳時代前Ⅳ期、5世紀の第4・四半期」を加えることにしたい。

 ③築造に際しては西都原古墳群の男狭穂塚古墳を手本に地割りした可能性が想定される。

 ④被葬者はこれまで云われているように、「大隅(住)の直」の人名がある在地豪族の「大隅(住)直一族」の族長の先代を葬った可能性が極めて高い。

 と考える。 >

 ①については上記で触れたように、唐仁1号墳は前方後円墳ではない―とも考えてみたいが、前方部に対するきちんとした測量をし直さないと分からないと留保している。②については400年代末期に近いという結論で、これには疑問を感じる。

 興味深いのは③、④の論及で、特に③については同書218ページに「書陵部紀要36号から転載」として次の図を載せて論じている。Cimg6260左の典型的な前方後円墳が「女狭穂(めさほ)塚古墳」で墳長174mは九州で随一、右が「男狭穂(おさほ)塚古墳」で墳長219mは女狭穂塚より長いが、前方部に不審があるとして定型的な前方後円墳には入れられていない。

 しかしこの不審な形の塚とよく似ているのが唐仁1号墳なのである。筆者は「後円部の三段の段丘・明瞭でない前方部・前方部を囲繞しない周濠」などの酷似を挙げて、③のように結論付けたわけである。非常に示唆に富む見解であると思う。

 どちらも同じ旧日向国内部の古墳であるから、このような酷似は両者の間に政治的なつながりがあったことを想起させるに十分ではないだろうか。

 そして最後の④。筆者は唐仁1号墳の被葬者についても論及する。筆者は「大隅直」(おおすみのあたい)一族の先代(先祖)ではないかと考えている。大隅直は日本書紀の天武天皇紀・下の天武14年(685)6月20日の条に他の10氏とともに「忌寸」姓を与えられたとして登場する。いわゆる「八色の姓」の第4位の姓である。

 この時西暦685年であるから、筆者が比定する「唐仁1号墳の築造年代は475年から500年頃」が正しいとすれば、被葬者は忌寸姓を賜与されたこの大隅の豪族の8代くらい前の先祖であるということになろうか。

 あくまで筆者の述べる「築造者は大隅の豪族で大隅忌寸を賜姓された大隅直一族」が正しいとしてだが、築造したと考えられる被葬者の時代にはまだ「大隅国」も「大隅郡」も成立する前の事であるので、大隅姓は無く別の姓を名乗っていたと思われるのだが、その姓は何であっただろうか?

 我々はその点を考えなければならないし、また大隅地域から神武東征があったのが真実ならば、東征には参加せずに残された王妃「吾平津姫(あひらつひめ)」や皇子「岐須美美(きすみみ)」の後裔にも思いを致さなければなるまい。

 一方は大隅直(忌寸)から時代を遡上し、他方は神武東征後から時代を下らせるわけだが、どこかで交流点があるだろうか? 是非、見つけたいものである。

 

 

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