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「南海トラフ地震」で最大13万人の死者

 大阪ではショッキングなシュミレーションがまとめられた。

 それは南海トラフ地震による死者の数で、これまで政府の見解では約1万人程度とされていたのが、何と13倍の13万人にも及ぶというものだ。Cimg6898 NHK総合テレビ、10月30日夜のニュースから。

 異常に増えたのは、津波による死者の想定数で、大阪湾沿岸地帯の堤防の決壊によって内陸部に押し寄せる津波の被害をこれまでとは比べ物にならないくらい大きく見積もったことによる。Cimg6903 大阪市の心臓部とも言える淀川とその河口域の浸水被害は、国の想定の3倍以上と見積もったのである。東日本大震災の教訓を踏まえてのものだろう。Cimg6905 四国沖を震源とする大規模地震は巨大津波を発生させ、早ければ1時間足らずで紀淡海峡を抜けて大阪湾沿岸地帯に到達すると見ている。その間にどこまで逃げられるかが命にかかわってくるのだ。

 大規模地震はまた原発へのダメージも誘発する。最悪の場合、福島第一の4号炉のような炉心融解による甚大な被害をもたらす。日曜日の夕方6時からのKYTテレビではその問題に絡めて「核のゴミ」を取り上げていた。Cimg6867 チェルノブイリの原発事故は起きてもう20年以上経つが、いまだに炉心融解のあと原子炉内に残された核燃料を取り出せないでいる。結局、炉心を覆うコンクリート製の巨大な「石棺」が老朽化してきたので、さらにそれを覆う「アーチ」が建造されつつあるという。Cimg6865 総工費は実に2000億円。これがロシアにとってどのくらいの巨額なのかは分からないが、おそらくこの発電をしない(役に立たない)原発のためにこれまでも、これからも投下され続けるであろう資金は、通常に稼働していたチェルノブイリ原子力発電所が生み出した電気の販売額を遥かに超えた額に違いない。随分高くついたものである。

 ことは単なる「赤字」では済まないところに、原子力の怖さがある。

 こんな現状を憂えた小泉元首相が「原発稼働は止めて、新しいエネルギー開発に総力を結集すべき」というような発言をして注目されている。至極まっとうな意見だと思う。Cimg6877 核のゴミは数万年の半減期を要してもとの通常の非放射能原子に戻って行く。その数万年かかる間、放射能の影響のない方法で安全に保管しておかなくてはならない。

 そのような処分場が今までに完成されたことはなく、原子力発電を再開したらその間にも核のゴミはどんどん溜まって行くのだ、保管場所もなく・・・。だれが考えてもこんな危険な話はない。脱原発は人類の共通目標でなくてはなるまい。

 南海トラフ連動の駿河湾・中部トラフ地震が起きれば、多くの原子力発電所が被害を受けるはずである。政府にその時の覚悟はできているのだろうか。

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アンパンマンは「母親」の姿

 一昨日から今日のNHK夜7時半からの「クローズアップ現代」まで、漫画家でアンパンマンの生みの親やなせ・たかしの死を追悼する番組が多くのテレビ局で組まれていた。

 その中で必ず取り上げられるのが「弱いヒーロー」という特質で、人助けに自分の顔を食べさせて解決するという「自虐的」ヒーロー像はなぜ作られたのか―という点であった。

 理由で最も大きいのがやなせ・たかしの戦争体験で、「正義の戦争と言っても負けてしまった以上は、かれこれ言ってもしょうがない、飢えに苦しんでいる人をとにかく助けなくてはならない」と思ったのが原点ということであった。

 戦争体験をしたこともなければ、飢えに苦しんだこともない自分を含め、戦後生まれの多くの人間には遥かかなたの他国の出来事で関係ねー、と思われそうだが、実際に戦争体験をし、飢えに苛まされた経験のある人の言うことの前に、われわれ戦後世代は返す言葉もない。

 だが戦争による被害でも飢えの体験でもなく、今でも日常的に「自己犠牲なくしては成り立たない」役割を担った人々がいる。それは母親だ。

 母親はわが子のためには、たとえ火の中水の中、自己の犠牲もなんのその尽くしつづける存在である。自分の都合はさて置いて子どもを最優先する。まさにアンパンマンと同じだ。

 それだから、いつまでも子どもに慕われ、唄に歌われ続けている。社会に出て一人前になってからの「親孝行」というとその対象はほとんどが「母さん」だ。

 父親はそうはいかない、残念ながら・・・。子どものためには犠牲もいとわず子ども本位に考えるということはないからだ。やはり社会に出て仕事があるからだろう。

 父親が厳しく子どもに当たるのも、「社会に出たらそんな甘いことでは通用しないぞ」という戒めを担当しているのだ。だから子どもには煙たがれるが、仕方がないだろう。それが父親の大きな役割なのだから。

 だが、今日、母親も社会に出て働くことが多くなった。母親が父親化して来たと言ってもよい。子どもにとっては本来由々しき事態なのである。

 託児所が不足しているとか保育所が足りないーというような問題とは本質的に異なるのだが、社会はそこのところをちゃんと理解していない。つまり子どもの心を汲み取ろうとまではしていない。

 子どもはますます家庭内に居場所を失っていくか、あきらめて自堕落あるいは「テキトー」な人生を送らざるを得なくなるかもしれない。こういう子どもは増えることはあっても減ることはないだろう。

 子どもの大声で”それは違う”とは叫べない「声なき声を聴き」、嘆いているようには見えないが心の中では嘆いている「姿なきを見る」ことをしなければ、この国の未来は明るくない。

 出でよ、出でよ、出でよ!!! アンパンマンのような母ちゃん!!

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権現山に登る(肝付町波見)

 10月14日の大隅歴史ロマン探訪では、すぐ下の「神武天皇発航」伝承のある戸柱神社まで見て回ったが、権現山へは時間的都合というよりアクセスに無理があったのでカットしてしまった。

 権現山の山頂から下に広がる肝属川河口の低湿地帯の様子を眺めてもらい、かってはそこに展開したであろう大隅半島最大の河口港(ラグーン)を想像して欲しかったのだが、40人乗りの中型観光バスが通るには道が狭いので今回はコースから外した。

 今日は午前中に肝付町高山での所用があったので、権現山まで足を伸ばしてみた。(肝付町の東の外れにあるため、写す対象がほとんど逆光に位置しているので写りがはっきりしないが、了解を乞う。)Cimg6814 旧高山町の中心部と肝属川河口の町波見を結ぶ県道を行き、塚崎古墳群を過ぎて1キロ余りの波野小学校を左手に見てさらに1キロほどでガソリンスタンドがあり、そこを右折して行くと真正面に権現山が見える。Cimg6816 そのまま行くと荒瀬川に架かる「波見橋」を渡り、約150mで交差点に差しかかるからそこを右折。道はやや細くなって波見の集落に入って行く。Cimg6817 集落道を3~400m走ると、右手にちょっとした広場があり、その向かいの人家の間にさらに細くなった道が見えるから左折して登って行く。右手の電信柱の下に「権現山」への矢印の標識がある。Cimg6819 最初の人家を抜けるまでの道はかなり狭いが、25人乗りのマイクロバスなら十分に通行可であろう。途中、右手に荒瀬ダムの工事現場を垣間見ながら、約3キロで広い駐車場に着く。大型バスでも十分停められる広さだ。Cimg6820 山頂には「牟礼神社」が鎮座しており、毎年大晦日だったか元旦だったかに地元の小学生が麓から歩いて登り、参拝をするという行事がある、と下のガソリンスタンドで聞いた。鳥居の両脇には傘立てのような中に10本くらいの杖が挿してあったので、一本借りて登ることにした。Cimg6822 木漏れ日の中を歩くこと20分。階段が2ヵ所にあり、合計で約200段ほど登るが、さほどきつい登りではない。遊歩道と言った雰囲気の中、周囲の樹林はほぼ「マテバシイ」である。Cimg6825 最後の登りはやはり階段で、こちらはコンクリート製のしっかりした造りであった。以前に来た時は歩きにくい木造りのでこぼこした感じだったが、これは助かった。Cimg6826 階段を上りきると小さな赤い鳥居の向こうに祠が見える。「牟礼神社」である。

『高山郷土誌』によると、牟礼神社は祭神がニニギ尊・コノハナサクヤヒメ・ヒコホホデミ尊・トヨタマヒメ・ウガヤフキアエズ尊・タマヨリヒメで、いわゆる天孫三代が祀られているとある。

 ところが、祠を参拝しようと前の小さな石段に上がってみて驚いた。Cimg6828 祠の右手前に家々の表札のような大理石が横たわり、そこには「龍神」と刻まれていたのだ。

 天孫三代がいつ龍神に変わったのだろうか。

 石の祠の下段に刻まれた文字からは、この祠が建立されたのは昭和40年で、それまでは木造のお社があったのだが火災に遭って焼けたので、同じ年に有志がこの石造りのお社を奉納したということがわかるが、龍神の名札は真新しいので48年前の石の祠の建立とは全く関係がない。一体誰が、何のためにこれを置いたのだろうか。

 牟礼神社の「牟礼」という意味はおそらく「天降り(あもり)」の「降り(もり)」から来ており、天からここへ神々が降りてきたという由緒(伝承)を語るにふさわしく、また天降る(あもる)のは天孫のいわれでもあるので、まさにふさわしい神社名であると考えていたので、「龍神」はいただけない。Cimg6830 50坪ほどの神社の境内には磐座状の石組がいくつもあって独特の雰囲気を醸し出している。Cimg6834 山頂の見晴らしからの眺望。河口のすぐ北側には「柏原漁港」とその沖合に浮かぶ「志布志湾柏原国家石油備蓄基地」があり、向うに伸びる柏原海岸は弓なりに大崎町の「救仁の松原」につながり、さらに向うには志布志港が横たわっている。Cimg6833 少し西に目を転じると、肝属川の流れと広々とした肝属平野、そして遥か彼方に肝属川の源流地帯である高隈連山が霞んで見える。

 上代にあって、豊かな平野と豊かな海山が周囲を取り巻いていた様子を髣髴とさせる光景である。この豊かさがあふれるほど十分に蓄えられたためか、はたまたこの豊かさを奪う何かが起こったためか、この河口港からいわゆる「神武東征」船団が中央に向かって出航したのは史実とみて差し支えあるまい。

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「核兵器不使用共同声明」に参加

 日本政府がニュージーランドなどの主導する「核兵器不使用共同声明」にようやく賛同して参加した。

 これまで一貫して「安全保障上、問題があり、参加はできない」と言って声明には加わらない方針だったが、ここにきて一転して声明に参加することを表明した。

 これまでの日本の建前は、「日本はアメリカの核の傘の下にあって安全が保障されているので、核兵器を使用するしないはアメリカの一存にある以上、不使用と勝手に決めるわけには行かない」と、アメリカへの「配慮」を最優先してきた。

 ところが、肝心のそのアメリカのオバマ大統領はすでに、「核廃絶に向けて舵を切る」と宣言していた(2008年のプラハ宣言)のだった。

 翌々年からは、広島、長崎の追悼式典にアメリカ駐日大使などの参列を開始したのだから、オバマの大統領就任でガラッと風向きが変わっていたのである。

 それまでのアメリカは広島・長崎への核爆弾投下は「終戦を早め、日本上陸作戦をしていたら失われたであろう多くの人命を最小限にした」という見解の一点張りだった。

 それなら無辜の大衆が多数住んでいる広島や長崎のような県庁のある大都市を直撃せずに、呉や佐世保などの軍事施設を徹底的に破壊すればよかったのだが、そうしなかったのは、終戦後に米軍から派遣された軍医らの調査が被爆住民を手当てすることではなく、単に調査をするだけだった、つまり原爆投下が人体実験に近いものであった事実からも、上記のような見解が嘘だったことが判明する。

 そもそもアメリカが原爆を矢継ぎ早に落としたのは、スターリンとのあのヤルタ会議での密約(日ソ平和条約を廃棄してソ連が日本へ参戦することを認めること。その黒幕は英首相チャーチル)が完全履行されたら、英米の宿敵・共産主義ソ連の日本へのプレゼンスを許してしまうことになり、もし北海道にも侵攻するようなことがあれば終戦後の日本が共産化する可能性があり、それを絶対に避けるためだったのである。

 そこに「人体実験的な興味」を加味して原爆を落としたのだ。実に愚かなやり方ではないか。

 安全保障理事会の英米仏ソ中は揃って不参加だが、今回、日本がアメリカの「核の傘」などを超越して参加を表明したことは、安倍首相の「積極的平和主義」の一つの成果として大いに期待したい。世界が喜び評価しているはずである。

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秋の花・収穫の季節(鹿屋市池園町)

 朝6時過ぎのウメの散歩のあと、餌やりを済ませて玄関に戻るとき良い香りが鼻腔に漂った。ああ、金木犀だ、と件の木をよく見ると、あちこちの葉の陰に濃い黄色の花が鈴生りになっている。Cimg6813_3 木全体から見ると目立たない花だが、その代わり香りだけは天下一品だ。秋の訪れをしみじみと感じさせてくれる。

 野生ではホトトギスがこれに次ぐかもしれない。Cimg6809_2 このホトトギスは十数年前に錦江町田代で農業をしていた時に、山野に自生していたのを数株採取し、田代から根占へ、根占から鹿屋へと転居するたびに移し植えて来た物だ。

 半日陰の場所に植えているので草に埋もれずに生き延びている。今では10株ほどになっている。Cimg6808_2 ウメの小屋の前に咲いているのは西洋アサガオ。これは一昨年購入した苗から毎年自生えしている。今年の夏は後半になってようやく花を咲かせるようになったので、まだ旺盛に咲いている。Cimg6807_2 自生えのコスモス。例年種が落ちて勝手に生えてくる。しかし今年は夏が暑過ぎたせいか、立ち枯れ的に葉が煤けたようになって成長の止まってしまう株が多く、結局、これともう一株しか残らなかった。

 今年の干ばつに近い夏の間、毎夕、庭全体に水遣りをしたが、大株になったコスモスにまで水を掛けたのは初めてだったと思う。(6月10日頃の梅雨明けから8月5,6日までの約2ヵ月間、雨らしい雨が降らなかった。)

 朝食後、くつろいでいると、南側の畑の方からブルブル、バタバタと機械音が聞こえて来た。庭に出てみると、南に隣接する畑でカライモ(サツマイモ)の収穫が始まっていた。Cimg6799_3 3,4日前にカライモのツル切りを済ませてあり、むき出しになった黒いビニール(マルチ用のビニール)を一本一本の畝から回転する機械で巻き取って行く。若い作業者で、見る間にビニールを剥がして行く。Cimg6802 畑の向こう側から三人乗りの掘り取り機で一畝ごとに掘り取りながら、その場でカライモの両端を切り落としながら装着したネットにイモを放り込んで行く。機械の後ろには一人が付いて歩き、落穂拾いならぬ「落ちイモ拾い」をしていく。Cimg6804 2時間後には我が家との境界近くまで掘り進んだ。Cimg6805 3反(900坪)ほどの広さの畑。機械の無い時代は、今日作業している同じ5人で収穫したとしたら、たぶん丸二日を要しただろう。腰も痛くならないし、良き時代になった、金はかかるが・・・。

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伊豆大島10・16豪雨災害

 想定内か想定外か・・・。

 この判断が明暗を分けた伊豆大島の台風26号による大災害。

 昨日・一昨日とニュース番組は一日中「伊豆大島の土砂崩れ災害・死者不明者約60名」を取り上げていた。

 大島町の町長は17日の記者会見で、出張先で16日未明の豪雨は想像を超えたものだという報告を受けていたが、この時点で町民に避難勧告を出すことはかえって危険である―との考えで勧告も指示も発令しなかったことを認めた。Cimg6772 昨日の朝のニュース番組「スッキリ」から。

 一番上の「おととい」とは15日のことで、この日の夕方に気象庁は立て続けに大雨洪水警報と土砂災害警報情報を発表している。真夜中近くになって、さらに東京都に対して「特別警戒レベルの大雨」と追報。

 この段階で最低限、避難所をオープンして町民に避難を呼びかけるのが常識だろう。

 鹿児島のような台風常襲地帯では、暴風圏に入るという進路予報が出た台風なら、その強風圏に入った段階で避難所を設置し、住民に避難を呼びかけるのが普通だ、それも明るいうちに。上の画面で言うなら、最初の警報レベルくらいで早々と最寄りの避難所へ避難を始める人もいるくらいだ。そのくらい早目の対応をしている。

 ここがまず第一の想定外。つまり「行政の危機管理範囲では想定内と考えて当然とるべき行動」をとらなかったという意味での「想定外」だ。

 もう一つ遡ると、そもそも15日~16日に島根県で行われたという会合に町長と副町長がそろって参加する必要があったのか、台風がすぐそこに見えているのに・・・。どうしても参加が要請されていたのならば町長か副町長のどちらか1名が参加してもう一人は町に留まるべきだったろう。

 ここも我々の常識からいうと「想定外」だ。Cimg6793 18日夕方のKTS全国ネットのニュースから。キャスターが生放送で町長に問い質している。

 雨の降り方も想定外だったようだ。時間雨量が夜中の2時・3時頃に122ミリという、比較的雨の多い伊豆大島でも考えられない量のドカ雨が降ったわけで、たしかに町長の弁明の中で、「そんな状況では避難はかえって危険である」と判断し、「指示」はおろか「勧告」さえも出さずじまいだったのである。

 我々の常識からすると「想定外」が三つ重なって起きた人災という側面が強い今回の大規模災害であったと思う。

 最後に挙げた降雨だが、去年の夏に熊本地方と福岡県南部を襲った豪雨被害の際に、熊本地方気象台の「これまで経験したことのないレベルの雨の量です」という職員の言葉がきっかけになって生まれた「大雨特別警戒警報」は大島町には適用されなかったそうだが、仮に適用されたとしても、今回の行政の対応では対策が立てられず終わっただろう。

 何にしても災害の予測は未然の内に立て、それに伴って早い段階で手を打って行かなければならないことが明確になった今回の大災害。

 1986年には三原山の大噴火で、ひとりの犠牲者も出さずに「全島避難」という離れ業を演じている大島町にも、歳月の経過とともに油断が生まれたのだろうか。

 このところ「想定外」のことが起きつづけている。

 東日本大震災のマグニチュード9、0という大きさしかり。そのあおりで福島原発で起きた全電源停止によるメルトダウンとその後の後手後手の対応しかり。

 全原発が発電停止してしまっても全国的には電気不足にならなかったのも「想定外」だ。原子力発電推進派は「原発が止まったら、産業界に深刻な事態が起きる」と言っていたが、あれはどうなったのか?

 豪雨や竜巻も想定外の所で、想定外の規模で起こるようになった。つい最近の京都豪雨などもその例だろう。この先もっと「想定外」のことが次々に起きる気がする。早目に情報をキャッチし、早目の対応をする―これに如くはない、鹿児島のように。

 

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秋の空と夕焼け(鹿屋市池園町)

 夕方6時少し前、日課のウメの散歩に出ようとしたら西の空に「うろこ雲」がきれいに見えたので、デジカメを取りに戻りウメを散歩に連れ出した。Cimg6718 風はやや西風。それほど強くない。まだ残る青空に、夕日を浴びたうろこ雲が秋を感じさせる。Cimg6726 わが家から300㍍くらい東南に来てみると、北の高隅山系あたりから太い飛行機雲に似た雲がまっすぐ南へ伸びている。Cimg6728 見上げると、南北に伸びる雲と東西に伸びる雲(巻層雲)が共存している。Cimg6729 西の空の地平線近くの青空と、巻層雲の間の青空の色調は、微妙に違っている。Cimg6733 さらに時間が経つと、小ねぎのハウスの間に見える夕焼けはクライマックスに。Cimg6734 ウメの散歩そっちのけで、刻々と変わって行く夕焼けのグラデーションに酔いしれる。Cimg6736 真南にある横尾山系にも夕闇が迫る。

 本当に久しぶりの、夕焼けらしい夕焼けに出会えたのは幸いだった。大陸からの秋の冷気が忍び寄って来たのだろう。

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第1回歴史探訪会を開催(大隅史談会)

 所属している大隅史談会では近年で初めて、歴史探訪会を主催した。

 以前、といってももう20年近くになるが、大隅史談会はそれまで行っていた年間数度の研修会や現地視察などを止め、年一回の会誌『大隅』の発行のみに専念してきた。史談会の役員のほとんどが各市町の「文化財審議委員」に任命され、審議会が行う年二回の現地研修があるため、史談会として独自に行う必要はなくなった―というのが、その大きな理由であった。

 それはそれでいいのだが、会の活動が減少して来て困るのが文化財審議委員の活動などに無縁の一般会員で、郷土の歴史についてもっとよく知りたいとか、自分の先祖はどうだったのか、などの好奇心や探究心に応えられず、次第にその根幹事業の会誌の投稿者や読者さえ減って来てしまった。

 このままでは尻ピンになるのは目に見えている、というか、既に5年前から会誌発行の資金がままならない状況に陥っていたのであった。そこで、製本前の編集・原稿のワード化・写真の貼り付けなどを事務局で行い、印刷製本だけを印刷会社に依頼するだけにしたところ、大幅なコストダウンとなり、何とか赤字は免れることになった。

 さらにある方々からの寄付金などもあって、この2年で余剰さえ生まれたので、一般(読者)会員の上記のような期待に応えるべく、また新たな会員を獲得するべく、今回、探訪会を開催することにしたのである。

 来年度からはこういった行事と月例会を組み合わせ、会の運営を活発化しようと考えている。このブログの読者の中で関心をお持ちの方々の参加をお願いしたいと思っている。せめて読者(会誌購入者)になっていただければ幸いである。

 ※会誌『大隅』は毎年4月末頃の発行で、内容は大隅の歴史・伝承などの郷土史が中心だが、石造文化や神話・伝説、家族史(いわゆる自分史)、史跡・旧跡探訪など範囲は広く、ここ最近の5号の平均投稿者数は18、ページ数は190ページほどの体裁(B5版)で、一冊2000円(送料別=一冊80円)で販売している。

 ※読者会員は入会金は不要で、誌代と送料を以下の郵便振替口座(太字)に入金していただけば、確認次第(郵便局から事務局に入金通知が来る)、『大隅』各号を送付します。最新号は56号で、50号以降の在庫は十分ありますので、まずは問い合わせてください。各号の目次などはホームページ「鴨着く島おおすみ」に掲載しています。

   郵便振替口座   加入者  大隅史談会事務局

   郵便振替番号   02000-2-11027

   (住所)  鹿児島県鹿屋市池園町2245-5

   (問い合わせ)  ☎   0994-49-2360

     事務局  松下高明(会長兼務)   

 ※投稿者になるには入会してもらい、入会金が1000円必要。今のところ年会費はなく投稿すればその号を一冊進呈する。(来年度から年会費制にしようという論議があり、また月例会の新設を含めて、変わるかもしれない。)

 ・・・さて、10月14日の「大隅の歴史ロマン探訪」と銘打った探訪会は予想以上の盛況であった。参加者は史談会役員を含めて41名。遠くは指宿市から1名、姶良市から1名が2時間近くかけて加わってくれた。Cimg6678 北田公園の無料駐車場に集合した参加者は40人乗りの中型バスで(1名は自家用車)、まずは肝付町宮下(みやげ)にある「桜迫神社」へ。Cimg6679 後ろに見える赤い鳥居が桜迫神社。左手の電柱のさらに左に立つ石碑が「西洲宮址」。ここら一帯にウガヤフキアエズの命の宮処(みやこ)があったとされる。Cimg6684 続いて訪れたのが東串良町の「唐仁大塚」。正式には唐仁一号墳で、唐仁古墳群の盟主。全長180mは県下随一で、5世紀半ばの築造とされる。被葬者は不詳だが、その当時、大隅地域最大の豪族の墓であることは間違いない。ただ、唐仁古墳群には140基余りの古墳が確認されているが、群内に一基も地下式古墳が無く、大隅南部では 特長的な古墳群である。Cimg6685_2 円墳の上に建てられた神社の拝殿(向こう)と本殿(手前)の間をつなぐ渡り部分の柱の下が竪穴式石室で、苔むした蓋石が4枚むき出しになっている。ここが昭和9年に国指定の史跡になる前の7年に行われた調査で、この石室の中に鎧と刀などが副葬されていることは判明したが、元に戻されてしまい、再調査はされていない。Cimg6689 大崎町の横瀬にある「横瀬古墳」まで北上し、車の中からその巨大さ(墳長125m)を見たあと、柏原海岸の松林の中で昼食を摂る(東屋あり)。Cimg6693 昼食後は肝付町の肝属川河口近くにある「戸柱神社」に立ち寄り、肝属川を西にたどった塚崎台地にある「塚崎古墳群」を見学。写真は塚崎一号墳とその直上に生えた「塚崎の大楠」(県下では3番目の大きさという)。Cimg6695 一号墳の後に訪れたのは「塚崎11号墳」(全長56m)で、塚崎台地を横切る国道のすぐ北側に横たわっている。塚崎古墳群には前方後円墳5基のほか、円墳が38基、南九州特有の地下式横穴墓も13基確認されており、肝属川対岸の唐仁古墳群より、若干古い時代に形成されたようだ。Cimg6697 最後に訪れた吾平山上陵の2キロ弱手前の鶴峰の田んぼ地帯の真ん中にある「飴屋敷跡」。母親である海神の娘トヨタマヒメに去られたあと、妹のタマヨリヒメが赤ん坊のウガヤフキアエズ命を養育した場所という。乳が出ないので飴(米の胚芽で作ったようだ)を乳代わりにして育てたという。Cimg6701 最後は「吾平山上陵」。神武天皇の父・ウガヤフキアエズとタマヨリヒメの洞窟御陵。洞窟なのに「山上陵」という名称もおかしいが、一代前のホホデミが溝辺の「高屋山上陵」といって岡の上に、またもう一代前のニニギが薩摩川内市の新田神社の裏山の「可愛山陵(えのさんりょう)」に祀られているのとは全く違っているのが不思議だ。

 火山噴火による降灰多発期に営まれた墓ではないかとも考えられる、と解説したが・・・。Cimg6698 最後に山陵入口で記念写真。

 次回の「ロマン探訪」は、鹿屋市のあちこちにある「国司塚」「国司山」「国司城」など、国司にかかわる地名・伝承を探訪し、奈良時代の初期の大隅国成立事情などを考えて見たいと思っている。

 今のところ、探訪の期日は26年1月13日(成人の日)を予定している。

    

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分都と「還幸」

 一昨日は新潟県糸魚川市で10月としては観測史上最高気温の35.1℃を記録。その他の地域でも軒並みに30度以上の夏日となった。

 10月に入ってどこも異常な高温を記録している。太平洋高気圧の張り出しが依然強いのと、海水温が高いからのようだが、9月の彼岸前後にはぐっと気温が下がり、これで「夏日」とはおさらば、と思っていた地域が多いはずだ。

 それがこのありさまである。

 地球全体の異状というか揺れ戻しというか、何か異変を開始する前触れのように思われてならない。特に心配なのはやはり地殻の変動、つまり地震である。

 火山噴火も地殻変動の一部だが、マグマを吹き出すことで一応は収まる。収まると言っても溶岩流や火山灰に襲われれば、かなりの災害となり人命も失うわけだが、ある程度の前兆現象によって素人的にも予測は立つので、事前に逃げたり回避したりする行動をとる時間はある。(その逆の例が大正3年1月の桜島大噴火であった。住民が早くから噴火の予兆に気付いていたのに、測候所が「噴火はない」と言明したので、住民の避難が遅れ死者が多くなったのである。住民はのちに「・・・我らは科学を信用せず、自らを信ずべし・・・」という碑を建てている。)

 それに比べると地震の方は余地が少ない、というかほとんど無いに等しい。よく地震雲だとか、地磁気の乱れで地震の発生は予知できるというが、そういった雲や地磁気の現象が何分後、何時間後、あるいは何日後に発生する地震と具体的に結び付くのかについての統計はない。

 したがって余りにそのような現象に捉われて発信していると、「狼と少年」のような扱いを受けかねない。

 昔、中学生の頃だったが、塾に行っていた時の先生というのがこういったことをよく取り上げる人で、「関東大震災から70年後くらいには、富士山が大爆発して関東大震災クラスの震災が起こる」と言い、東京郊外の絶対安心な奥多摩に近い場所にもう一つ塾を作り、そこと東京の市街地とを行き来していた。奇門遁甲から派生した「気学」を信奉・研究していて、やたらに「運気を良くするにはこの方角に行ってみるとよい、ただし行くには時間帯というものがある」とか「寝る向きも大事だ」「一階建てを二階建てにしたらいけない」とか、よく言われたものだ。

 最後の「一階建てを二階建てにする」のを「御神楽(おかぐら)にする」という表現をしていたが、この「御神楽」でよかったか、あるいは「岡倉」か、いずれにしても一階建てに二階を建て継ぐのは工学的に見てよくないに決まっているので、間違ってはいないと思う。しかし他のは地震の予知と同じで、どの方角に行ったら宝くじが当たったとか、当たらなかったとか、交通事故に遭わなかった、遭ってしまったという幸不幸の発生に結び付くのかの法則は無い。せいぜい「イワシの頭も信心から」というような「幸福感」につながるくらいだろう。

 その先生が盛んに言っていた「富士山の噴火云々」が、最近取り上げられるようになってきた。ようやく時間がそこまで進んで来たというべきだろうか。確かにあれからもう50年近く経とうとしている。関東大震災(大正12年=1923)からちょうど90年、富士山の宝永の大噴火(宝永4年=1707)からだともう300年が経過している。

 2年前の東北大震災との関係も不気味である。現に東北大震災の直後には、富士宮かどこか富士山の山麓でかなりの揺れがあった。関係なしとは言えない。

 しかし富士山の噴火より怖いのは、何といっても地震である。房総沖、駿河湾、中南海トラフのいずれで起きても、首都圏は大規模な災害に見舞われるはずである。問題は時期ということになるが、自分の見るところ早ければ2020年のオリンピック以前だ。

 このオリンピックの開催による再開発・新開発ラッシュが始まろうとしているが、逆にこれを好機と捉え、まずメインとなる総合競技場関連はすべて臨海部ではなく郊外に建設して欲しいものだ。もちろん地震による津波や液状化現象を避けるためである。

 聞くところによると、近代五種競技を「武蔵野総合スポーツ公園?」とかいう場所に専用施設を作って開催するということだが、むしろこの施設をメイン競技場に格上げして整備すべきではないか。オリンピック後はそこを国際的競技や各種会議の拠点にすればよい。

 できればさらにそこには首都機能の一部を移し、「分都」の先駆けにしたらどうだろうか。たとえばスポーツ関連を担当する文部科学省、パラリンピックに関連する(?)厚生労働省などを移すのも一案だし、環境省も候補になるだろう。

 個々のことを言っても切りがないが、要するに霞が関中心の厖大な国家機関を分散すれば、過密で災害に脆い(ちょっとの大雨や雪で鉄道・バスが止まる交通マヒ、地下街の冠水)も少しは緩和するし、何といっても巨大災害である地震・津波による人命とインフラ被害を軽減できるはずである。

 しかしもっとも早く手を打ってほしいのが「皇居の移転」だ。東京維新政府成立以来、旧敵江戸幕府の本拠地・千代田城に、天皇が一君万民の「王政復古の象徴」として入城するという効果はもう過去のものとなった。また陸軍・海軍(武)の象徴であった明治帝国憲法下における「大元帥陛下」も役割を果たし終えた。

 京都は何と言っても1000年の歴代天皇の都であった。その名も「平安京」。京都市民にはかって「天皇はんを東京にお貸ししているんや」という気風があった。手ぐすね引いて待っていることだろう。

 京都御所は手狭で危険というが、そこは最先端のセキュリティ機能を取り入れればクリアーできると思う。宮内庁はもとより外務省なども京都に置いたらいい。各国の大使・公使も大喜びで京都に移住するだろう。

 東京から京都にお帰りになることを「還幸(かんこう)」と言うそうだが、この実現は世界的レベルの壮大なイベントになるはずで、「日本の国是とはまさにこれだ」という認識が国際社会に改めて印象付けられることだろう。

 これを潮に首都機能の分散から分都への動きも始まるといい。

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「うり坊」がごろごろ

 菜園の安納芋三株のうち一株を掘ってみた。「探り掘り」といって、どのくらいの大きさになっているか掘って確かめようという気持であった。

 全部で9個からなる親子イモ群を収穫。洗ってよく見ると何かに似ている。Cimg6654 長さ15センチ、太さ9センチという特大の物はイノシシの父さん。隣りの二回り小さく、スマートなのが母さん。

 その後ろに母親に甘えている横の二頭を除くと、五頭の「うり坊」(子供イノシシ)が整列しているように見える。2年前だったか、吾平町の冬の中岳(吾平富士)に登った時、山頂近くで「うり坊」の一列に出くわしたが、その時のことを思い出した。Cimg6653 ブヒ、ブヒッ、人間に見つかると危ないから俺のすぐ後ろの付いてくるんだ。離れてはいかんぞ!

 親父は沽券にかかわるから、鼻先を高く上げて敵を威嚇している。Cimg6655 「はーい」とうり坊たちが言ったかどうかは分からないが、でも、もう机上のイノシシだ。茹でるか焼くかの違いはあっても誰かさんの胃袋に収まるのだろう。ご苦労さん、安納芋。

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伊勢神宮で「遷御の儀」が行われる

 10月2日に伊勢の内宮で「遷御の儀」が行われた。Cimg6553 10月2日の夜7時のNHKニュースから。Cimg6554_2 式年遷宮は1300年前から、すなわち奈良時代初頭からというふうに言われている。伊勢神宮が創建されたのは少なくとも1300年前以前であることは、713年に編纂された古事記の「天孫降臨」の段に、次のように書かれているので 間違いない。

<・・・天降し給ひき。ここに(注:天照大神は)その招きし八尺の勾玉・鏡、また草薙の剣、また常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)、手力男神、天石門別神を副へ賜りて詔りたまひしく、「これの鏡は専らわが御魂として、わが前を拝するがごとく、斎き奉れ。次に思金神は前の事を取り持ちて政(まつりごと)せよ。」とのりたまひき。

 この二柱の神(鏡と思金神)は、さくくしろ五十鈴の宮に拝し祭る。>Cimg6534 伊勢神宮が別名で「五十鈴の宮」と呼ばれるのは、五十鈴川の畔に建つからであるが、しかしもっとも古い名称は「磯宮」であった。次に、『日本書紀』垂仁天皇の25年条を引用する。

<時に天照大神、倭姫命におしへて曰く「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国のうまし国なり。この国に居らむと欲す。」とのたまふ。故に、大神の教へのままに、その祠を伊勢国に立てたまふ。よりて斎宮を五十鈴川の川上に興す。これを磯宮といふ。すなわち天照大神のはじめて天より降りますところなり。>

 はじめ天照大神は崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリ姫)に掛かって20数年を過ごし、のちに垂仁天皇の皇女・倭姫にバトンタッチされ、倭姫は天照大神を鎮める佳き地を探し求めて、宇陀・近江・美濃と歩いたあげくに見出したのが伊勢国だった。これが確かなら垂仁天皇代はおよそ西暦300年の頃であるから、古事記の時代より400年も前に天照大神は伊勢に祀られたということになる。

 いずれにしても天照大神を祀る歴史は相当に古いし、式年遷宮も同じくらいに古いのかもしれない。20年にいっぺん何もかも作り直して祀り替えるのは、「常若(とこわか)」という観念からだそうだが、鹿児島では毎年正月になると「若う、おないやしたなあ(若くなりましたね)」と挨拶する伝統があるが、これと似ているのが面白い。Cimg6538 前日の10月1日には、新調なったすべての調度類を川原で清めるという儀式があった。男性神官に並んで女性の神官も相当数見えているが、これらの調度類の差配をする女性たちだろうか。Cimg6558 女性といえば、皇族からあの黒田清子さま(清子内親王)が、遷宮臨時祭主として参加されていた。正確に言えば「元皇族。元清子内親王だが、理屈は抜きに精進なさっていると思う。Cimg6550 午後8時からの儀式の行われる時間帯に、天皇皇后両陛下は東京の皇居から遥拝されるという。

 東京の皇居―とはきつい言葉だが、「朝敵の徳川幕府の根城を、新しい維新政府のトップである天皇が乗っ取った証拠」であって、長い文化的伝統のある皇室の本拠地にはふさわしくなく、やはり京都の御所がお似合いである。京都からなら伊勢も近く、天皇・皇后の出御もかなったであろうに・・・。次の式年遷宮の際には京都からお出でになる様子を拝見したいものである。

(追記)

 敗戦後はGHQの「神道指令」によって、戦時中の皇民化教育の総本山とも言える伊勢神宮は解体の危機に晒されたそうであるが、「伊勢神宮は宗教施設ではなく、周辺の大森林帯における付帯施設に過ぎない」というような、<宗教ではなく大自然を崇拝・信仰する日本人の心の拠り所説>を強調することで、かろうじて取り壊しを免れた―というような話も聞いている。

 確かに神宮周辺の空撮をみれば、それは一目瞭然だろう。

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じぇ、じぇ、じぇ!の事件簿(家の中)

 別室でパソコンの操作をしていると、リビングで「カサ、カサッ。パタパタ」という音が繰り返されている。何だろう、と思って行ってみると、Cimg6629 じぇ、じぇ、これは!。たぶん雀だ、と思ったのは正解だった。

 しばらく追い掛け回して捕まえられなかったのだろう、犯人はもう外に行ったらしく、くわえて出て行ったのか、と思っていると、同じ部屋の北側にあるキッチンの方でかすかに「パサ、パサッ」と音がするので近寄ってみたら、食器の水切りの中に隠れていた。

 手にしてから雀の無事を確認し、そのまま外に放してやろうと思ったが、夜も8時を回っていて真っ暗なので「鳥目」のはずの雀を放してもそこらにうずくまってしまったら、また、あの犯人に捕まると思い、パソコンのある別室に放してきっちり戸を閉めた。今晩はここに入れておいて、明日の朝、明るくなってから窓の外へ放すつもりだった。

 その作戦は良かったのだが、パソコンや趣味の三線などやっている間、部屋が明るいため飛び回るは飛び回るは、ちっともじっとしていないのには閉口した。Cimg6620 絵の額の上に乗ったはいいがUターン。Cimg6621 カレンダーの上部のわずかな金属を止まり木にしようとしたが、カレンダーも雀の重さでじっとしていない。Cimg6623 アルミの額の上は若干広いので、息をつき、それからまた部屋の端まで飛んでいく。Cimg6628 こんなことを20分も繰り返しただろうか、荒い息をし始め、さすがの雀にも疲労が見えて来たので、雀が隅っこの本の間に見えなくなったのを潮に、早々と電気を消して部屋をあとにした。

 今朝6時過ぎのウメの散歩をする前に、別室の窓を開け放しておいたが、散歩を20分ほどして帰ってみるともういなかった。羽毛のダウンの部分が多少減ったくらいで傷もなかったので、無事に帰還したであろう。

 それにしても、・・・犯人はこいつです。008 この間もネズミをくわえて来たが、そのネズミはもう息絶えていた。カヤネズミのような小さなもので、ネズミはいつもそのタイプしかくわえてこない。しかもたいていは死んでいる。

 それに比べると雀は生きたままくわえて家の中に入ってきてから、飛ばして遊ぶようだ。あたかも遊び道具と思っているようで、これまで死んでしまったことはないのが救いである。009 モモよ、お前はウメとだけ遊んで(というよりか、ちょっかいを出して)いればいい猫なんだよな。

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初秋の花粉症とばら園(鹿屋市浜田町)

 ここ一週間ばかり、くしゃみがよく出る。特に寝起きなどがひどく、今朝もウメを連れて散歩に出たら、道すがらくしゃみを連発した。

 初秋に決まって花粉を撒き散らす犯人はイネ科のススキ・チガヤ・エノコログサの類である。今朝は史談会の所用を済ませたあと、ばら園内を歩いてみようと単車で出かけたが、途中の道々で、犯人(容疑者)の面々を視認することだった。Cimg6602 車道と歩道のわずかな隙間にわんさかと生えたエノコログサ。別名、ねこじゃらし。小鳥のえさになりそうなほど大きな穂だ。Cimg6599 横山町まで来ると、畑の畦にそれらしき容疑者がびっしり。不審者どころか白昼堂々たるものだ。Cimg6595 ここもエノコログサ、そしてホトクイが我が物顔に群生。Cimg6605 牛の餌になりそうなチガヤの大群落。近くに行ってもマスクをしているので花粉の直撃は受けないし、今日は風がほとんどないためか、走っていてもくしゃみが出ることはなかった。

 かのやばら園は10月19日(土)から秋のばら祭りがあるが、まだ半月も前ということで閑散としていた。Cimg6587 一見して薔薇はどこにも咲いていないように見える。しかし、歩いてみると点々と「咲き忘れたように」咲いているのがある。Cimg6582 実は咲き忘れたのではなく、これから咲く秋のシーズンのさきがけの花である。Cimg6583_2

Cimg6585

Cimg6589

Cimg6591 この薔薇は香り系の花で実によい香りがした。

    【 かのやばら祭り2013秋 】

  ・期間   10月19日(土)~11月17日(日)

  ・開園時間 午前9時~午後5時

  ・入園料  大人600円 

   ※土日には各種イベントがある。

     開花状況など詳しくはHPで確認を。 

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天高く「芋」肥ゆる秋(鹿屋市池園町・下堀町)

 10月に入り、周辺のイモ畑ではあちこちで収穫の時期を迎えている。

 今朝も近くの郵便局に行く途中、県道沿いの畑で収穫の真っ最中に出くわした。戻ってからデジカメを首に掛けて畑に向かった。Cimg6509_2 ネット状の袋に満載のカライモ(サツマイモ)がもう三つも出来ていた。一袋に500キロ位は入っている。手前の黒ビニールは畝を覆うマルチ用で、雑草除けである。剥がしたあとの畝には雑草が見当たらない。このビニールは燃やされることなく再利用される。Cimg6511_5 50メートルはある長い畝の向こうに、二人乗りの掘り取り収穫機が見える。自走しながら上に乗った二人で掘り上から余分なツル切り、そして袋入れまでやってしまう優れものだ。Cimg6506_2 別の畑に行くと、ここでは4人乗りの大型の機械が動いていた。こっちは二畝を同時にやってしまうので、さっきの機械の2倍の能率性がある。実際にはスピードも速いので3倍くらいになるかもしれない。Cimg6518_2 収穫機の通ったあとに置かれる芋のぎっしり詰まった袋は、シャベルローダーという機械で持ち上げ、畑の端に並べられ、その日のうちにデンプン工場のトラックが引き取りに来る。Cimg6508_2 丸々と太った芋が、袋にぎっしりどころか溢れかえっている。

 種類は黄金千貫。デンプン用だが、食用にもなる。ただ、そのままふかしては余り甘くないうえ、モチモチ感が全くないので、主にてんぷらにしておやつに食べることが多い。通称「ガネ」。揚げた芋の左右からにょきにょきと出た姿が、蟹が手足を広げた姿に似ているのでそう呼んでいる。(ニンジンやジャコなどを加えると、ちょっとしたおかずになる。)

 我が家に帰ると、庭の隅の向こうから、機械音がする。Cimg6513_2 覗いてみると、ここでも掘り取りが始まっていた。一番最初の行程「ツル切り」をやっているところだ。ツル切り機を装着した耕運機を畦に沿って走らせていく。その後は黒マルチのビニールを剥がす。Cimg6514_2 畝が裸になったら、いよいよ「掘り取り機」を装着したトラクターで掘り上げて行く。土の中から面白いように芋が掘り上げられ、トラクターの後ろに転がり落ちる。

 ここの畑では芋をツルの付いたまま向こうの道路近くに運び、そこでツルを切りながら袋に入れて行くやり方である。相当に時間はかかりそうだ。でも小面積の農家はたいてい夫婦二人での作業だから、これはこれでいいわけだ。収穫の喜びは変わるまい。

 (追記)

 10月18日の夕方6時過ぎのKTS(鹿児島放送テレビ)のニュースで、黄金千貫の開発者・坂井健吉さん(茨城県在住・89歳)が鹿屋市を訪れ、イモ畑で感激の対面をしたという報道があった。氏は鹿児島市紫原にあった国の農業試験場でサツマイモの品種改良に取り組み、13年かけてこの黄金千貫を開発して品種登録したのがちょうど50年前だという。

 「50年も変わらず作られているとは、開発者(ブリーダー)冥利に尽きる。ありがたいことですね」と坂井さんは相好を崩してインタビューに応じていた。長い年月作り続けられているということは非常に良質だということで、これからも鹿児島の農業のひとつの要として重宝されていくことだろう。

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